45,経済を動かす仕組み

1 はじめに



2013年4月に日本銀行が、「日銀ルール」を一時停止してから2年もたたない2015年2月1日現在で日本銀行の国債の保有残高は、271兆円、うち長期国債219兆円にのぼる。銀行券の発行残高が、89兆円であるから約3倍にあたる。
2013年4月決算で日本銀行の総資産が164兆円、国債残高が125兆円と国債が総資産に占める割合は、76%に及んでいる。
2014年9月末、国債を含めた国の借金は、1039兆円でうち国債残高は、868兆円。それに対して日銀の国債保有残高は、229兆円で22%である。
また、預貸率は、リーマンショック以降急激に下落し、2013年には、78%まで落ち込んでしまった。信用金庫にいたっては、2014年に50%を割り込み、それが常態化しつつある。
確かに、金利の上昇は見られないが、実質的に日本は、現在広い意味でクラウディングアウト状態にあると考えざるを得ない。ではなぜ金利の上昇が見られないのか。それは実物市場に資金が流れないからである。
資金需要がないのである。また、借りたくても借りられないという事情もある。

預貸率が低下すると、市中に貸し出しできなかった部分を国債で運用する事になる。その為に、預貸率の高い金融機関は、国債リスクが高くなる事になる。
高橋是清は、国債の日銀引き受けを道を拓いた。しかし、それが財政規律を失わせ、軍事という非生産的な投資が拡大する事によって悪性のインフレーションにならないように努めた。
高橋是清が国債の市中消化率が77%を切らないよう軍事予算を抑え込もうとしたが、結局、2.26事件で凶弾に倒れた。この様な歴史を鑑みても,財政問題は、将に、瀬戸際にあると言える。

名目GDPは、バブル崩壊後20年以上も500兆円前後を横ばいしている。

景気が回復したと言っても実体は、名目総所得は伸びていないのである。
非上場企業は、会計を公開する義務がなく、また、対銀行対策上利益を上げているように粧う傾向がある。これら非上場企業の実態は、行政の方がかえって把握している。
国税庁の調べによると現実は、2011年の対象257万社中、欠損企業は、186万社と欠損企業の比率が72%にのぼっている事に現れている。

国家財政の悪化、そして、大災害、バブル崩壊、金融危機に始まる長引く悪性のデフレ、格差の拡大、民族主義や独裁主義、覇権主義の台頭,テロの横行、地域紛争や国境紛争の顕在化、エネルギーの争奪戦、これらの出来事は、第二次世界大戦の前夜を思い出させる。
ただ第二次世界体制と違うのは、人類は、全人類を何百回も全滅させるだけの化学生物兵器や核兵器を保有していてその拡散に歯止めがきかなくなりつつあるという事である。
そして、環境破壊や温暖化問題は、待ったなしの対応を迫っているという事である。

新しい物は良くて古い物は駄目だという思い込みに囚われているのではないのか。
我々は、ヒット商品や新製品ばかりに目が向けられていないのではないのか。
雇用を支えているのは、成長産業だけではない。むしろ成熟産業こそ広い裾野を持っている。
コモディティと言われる、すなわち日常品、必需品、消耗品、耐久消費財、生鮮食品、住宅、小売業等の伝統的産業,成熟産業こそ雇用の底辺を支えているのである。
新興産業は、将来の保証がされているわけではない。それに対して伝統的産業は、安定した収益を創り出してきた実績があるのである。

経済は、成長だけが目的ではない。経済の主たる目的は分配にある。成長は、その為の局面に過ぎない。
今日の経済は、借金と費用で成り立っている。

市場経済は、安定した持続的な所得が保障されている事で成り立っている。
一定の収入が一定期間保証されているから借金が可能となる。
借金というのは負の資産、預金と見なす事が出来る。
裏返すと一定した収入が一定期間保証される事で預金が促される。
その預金が投資の前提となるのである。
預金も借金も投資も将来の収入を担保する事で成り立っているからである。
その前提は常雇いでもある。

市場経済は、商品経済でもある。
商品は、価格が維持される事で計画的な生産が可能となる。
価格が不安定になれば生産は抑制される。
価格は、所得と費用との均衡する所で定まる。
いずれにしても所得と価格の均衡が鍵を握っているのである。単純に安ければいいというのでは均衡は保てない。

全体的な所得の立て直しが根本となるのである。
先ず解決しなければならないのは悪性のデフレを克服する事である。
所得を健全化するためには、収益によるしかかない。健全で適正な収益力を取り戻す以外に経済を立て直す術はないのである。
その為には、土地の流動性を高め、資産価値を上げる事が前提となる。

その為には、先ず、前向きに投資を呼び戻す事である。
投資が抑制されるのは、投資を可能とする要件が満たされないからである。
前向きに投資を促進するためには、第一に,担保となる資産が必要となる。第二に、資産価値、特に、地価の相手委が前提となる。第三に、収益の見通しが立てられる市場環境である。投資は、投資した資金を回収できるような将来の収入が期待できる事が前提となる。投資した資金が回収できるような計画が立てられる事が先ず前提とされるからである。第四に、資産価値の上昇が見込める事である。

問題は、バブル崩壊以後、資産価値,特に,地価が下落し続けている事である。
この問題を解決しないかぎり、経済を好転する事は出来ない。
単純にインフレーションにすれば問題解決が出来るというのは短絡的すぎる。
投資を伴わないインフレーションは、所得の改善を伴わない物価上昇に終わる危険性がある。
物の値段だけが上がり所得が伴わない事になりかねない。

投資を促すためには、将来の収入の確保が前提となる。
その為には適正な価格の維持が不可欠なのである。

我々は、過去の全てが悪い、競争は善であり、規制は悪だと決めつけてはいないか。
競争も規制も手段であって道徳とは無縁である。
競争は不可欠な手段ではあるが絶対ではない。大切なの何をどの様に競う合うかであり、無原則な価格合戦を是としているわけではない。
大切なのは適正な価格であり、適正な価格が維持されるから適正な所得が維持されるのである。不毛な過当競争は市場を荒廃させるだけである。

太平洋戦争における日本の戦死者は、240万人、民間の死亡者、行方不明者は、37万人に昇ると言われている。(「概説日本経済史」三和良一著 東京大学出版会)
戦後、日本人は同じ過ちを繰り返さないと誓ったはずである。
国民、一人ひとりが冷静に、かつ、勇気を持って主張すべき時なのである。

2 経済を動かす仕組み



経済の仕組みの目的は、財の分配である。

お金の分配と物の分配がある。
分配は、最終的に人への分配に行き着く。
お金の分配せよ、物の分配にせよ何に基づいてどのような手段で分配するかが肝心なのである。

貨幣経済とは、お金の流れによって生産と消費を制御する仕組みによって成り立っている。

貨幣経済の仕組みを動かしているのは、お金である。
お金の動きは、収入と支出として現れる。
お金にも、物にも出し手と受け手が居る。
誰が出して、誰が受け取るのかそれによってお金や物の流る方向は決まる。
出す価値の値や量と受け取る価値の値や量の和は、等しい。即ち、等価である。
故に、個々の取引量の総和と全体の取引量の総和はゼロになる。
市場は、物と金、物と物、金と金、いずれにせよ何らかの対象の交換によって成り立っている。

交換を前提としてない取引は貸借と贈与である。
一般に贈与でも何らか形でお金の交換があった事を仮定することで経済行為と見なされる。

経済活動の核となるのは、収入である。

市場における収入の手段は、売買と貸借の二つの手段がある。
物の経済的手段は交換と貸借である。
交換とは、所有権の移転を言う。
人の収入は所得である。

金を人と物に市場において結びつける働きをするのが、所得と価格である。
所得は、貸借以外による収入を言う。
所得には、勤労所得と不労所得の二種類がある。

分配は最終的には人に帰結するから、収入と支出は、所得を基本にして調整される。

それでは、所得とは何か。
所得は、生産、分配、支出の三面を持つ。
生産は、付加価値を意味する。

生産は、生産手段により、分配は、人口により、支出は、消費による。

支出には、公的支出と金融的支出、経常的支出の三つがある。
公的支出と金融的支出は、長期的資金の資金源となり、ストックを形成する。
経常的支出は、可処分所得となって,フローを形成する。
金融的支出を構成するのは、貸借であり、経常的支出を構成するのは、売買である。

貸借は、資金の流れを制御し、売買は、損益の基礎を形成し、分配を実現する。
貸借は、長期的資金の流れを作り、売り買いは短期的資金の働きを発現する。

お金を動かす働きは、売り買い、貸し借りより生じる。
売り買い、貸し借りは、市場全体ではゼロ和に設定されている。

個々の経済主体を動かしているのは、収入と支出である。
この点は民間企業であろうが、家計であろうが、政府であろうが,国家であろうが本質は変わらない。
一つ違いがあるのは、政府はお金を想像することが出来るという点である。
故に、景気の動向は、所得の平均と分散が鍵を握っている。

但し、経済の実体は物にある。
経済の仕組み自体が生産財の分配を目的としているからである。
物の分配を実現する為にお金の分配がある。

自由経済における分配の手段には、市場的手段と、組織的手段がある。
市場的分配とは、市場を経由することで分配を実現する手段であり、組織的手段とは、組織的に分配を実現する手段である。
一般に、分配は、何らかの何らかの手段よってお金を手に入れてそのお金と生産財を市場で交換する事によって実現する。
つまり、お金の分配が先にあって、その後、お金と商品を市場で交換することによって生産財を分配するのである。
お金の分配は収入という形で現れる。収入には、資本所得と勤労所得がある。

市場は、取引を通じて分配を実現する場である。
市場で交換を実現するのは価格である。
市場は、競争を通じて適正な価格を実現する事が市場経済における役割である。
つまり、公正な競争が実現できる場を維持することが市場の働きを有効たらしめるのである。

独占禁止法の一番の目的は、市場が寡占、独占状態になるのを防ぐ事であるはずである。それは、競争の機能が働かなくなるからである。無規制な競争は、結局,寡占独占状態を招く。

産業の内部構造、特に損益構造を知るとが重要になる。

市場は価格を安くすることが目的ではない。
消費者だけの利益を追求することが市場の役割ではない。なぜならば、消費者は生産者、労働者でもあるのである。
個人は、生産者という働きと消費者という働きを併せ持ち、その均衡によって経済活動の均衡を保っているのである。
物という観点から見ると生産構造と消費構造を一体化する為の場が市場なのである。
その為に、収入と支出の働きは、経済主体において統一される。

支出は、収入の範囲内で行われる。
収入の手段は、収益的手段、負債的手段、資本的手段がある。
支出は、生産手段、金融手段、費用的手段がある。

景気を活性化する為には消費活動を活性化する必要がある。
消費は、景気を引っ張り原動力であると同時に経済のあり方の枠組みを作る。
大量生産型社会は生産に偏重しすぎる事によって経済体制を歪にしてしまう。

支出が収入を上回っている場合は、余剰の資金を持っている主体から資金を借りてこなければならなくなる。収入が支出を上回っている主体は、余剰資金を貯蓄しなければならない。そして、余剰資金と不足資金とは、相殺されないと経済の仕組みは資金不足に陥って機能不全状態に陥る。その仲介をし、調整する役割を果たしているのが金融機関である。
その点を理解していないと金融機関が機能不全に陥った時の対処を誤ることになる。

不足した資金は貯蓄から回されるが、不足部分と余剰部分は、全体ではゼロ和、即ち、等しくなる。不足したお金と余剰の金が等しく、尚且つ、貸し借りしたお金も等しいとすると、使われた金と使った金も等しいという事になる。また、不足したお金や余剰のお金の量と使ったお金と使われたお金の量も等しい、つまり、貸借と売買したお金の量も等しい事になる。


3 市場経済と期間損益主義



分配を実現する場が市場である。

市場の働きを実現するのは取引である。
取引は売り買い、貸し借りからなる。
市場全体の働きの総和をゼロに設定する為に、複式簿記では、個々の取引の量の総和がゼロに設定されている。
ゼロ和によって均衡は保っているのが期間損益である。

ゼロ和による均衡を前提としないのなら差が重要となる。
均衡を保つ為には、差を何らかの形で相殺する必要が生じる。
何らかの形で相殺しなければ歪みが拡大し,市場に構造を維持できなくなってしまうからである。
差を重視する考え方の典型は、利益である。
利益だけでは市場の均衡は保てなくなる。なぜならば、現金の動きと期間損益の動きは違うからである。実際に経済の仕組みを動かしているのはお金である。

貨幣経済を制御しようとした場合、重要となるのは均衡である。分配も均衡が重要である。
極端に一律にしてしまうと、お金は動かなくなる。しかし、格差が広がれば、社会は分裂する。一定の幅の中に差が収まるように調節するような仕組みでないと市場にお金が均質に回らなくなる。

市場経済の仕組みには、収束型と発散型がある。収束型にするためには、一定の周期で振動する事が前提となる。発散型は、個々の要素は一方向に進行する方であるがそのままでは拡散してしまう。故に、反対方向の動きをする要素に関連づけ、その差によって偏りを解消しないと全体を制御する事が出来なくなる。

好例は、損益である。
費用の本質は支出であり、根本は、付加価値にある。故に、供給に源がある。収益の本質は収入であり、顧客の欲求にある。故に、需要に源を発する。この異質の要素を結びつける事によって生産と消費とを制御しようというのが、損益構造である。費用に基づけば、価格は、際限なく高くなり、収益に基づけば、価格は、際限なく低下する。その二つの働きが均衡する所に経済的価値を均衡させようというのが市場経済である。

つまり、元々、費用と収益は別々の力によって動いている。その費用と収益を結びつける事によって生産と消費を制御しようというのが損益構造である。

適正価格を決める有効な手段の一つが競争である。しかし、競争だけが適正価格を決めるための手段ではない。

税と公共投資、行政サービスは、対価、反対給付の関係で結びついていない。税と公共投資、行政サービスの間には直接的な対象関係、双方向の働きが成り立っていない。その為に、費用対効果の測定が出来ないのである。お金と物やサービスとの交換関係が成立しないからである。働きが行為と結びつかなければ、お金と物やサーピストの関係が成立しない。つまり、一方向の働きとしてしか認識されないのである。

お金の働きは、財産、借金、収入、支出として現れる。
お金の働きを測定する目的で、単位期間における物と人と金の関係を明らかにする為に、資産、負債、資本、収益、費用に分類し、損益を指標としたのが期間損益主義である。ここで注意しなければならないのは、期間損益主義によって経済全体の働きが捕捉しきれているわけではない。あくまでも,期間損益は、表面に現れた動きを表しているのに過ぎない。

費用の働きは、収益を基にして測られ、利益はその指標である。
投資家や金融機関は、利益の有無や収益との比率によって資金を供給するかどうかを判断するのである。利益は、絶対的な指標ではなく、相対的な指標である。
注意しなければならないのは、利益は、現金の流れとは直接結びついているわけではない。あくまでも、お金の働きを表した指標に過ぎないのである。

収益を中心にして経済主体の経済的効率を測定し,資金の供給を調節する事で経済活動を制御するように市場は、設定されているのである。

重大な点は、借入金の返済額が会計上は、何処にも計上されていないと言う点である。
借入金の返済は付加価値に影響しない。また、担保割れも表面には現れない。
借入金の市場に対する影響は潜在的な働きである。

費用的手段は、最終的には個人所得に還元される。
費用や負債というのは、嫌われ者で、何かというと経費削減が叫ばれ、経費削減と言えば何でも許されてしまう傾向があるが、実際は、費用こそ経済の土台になる事を忘れてはならない。費用とは、言い換えれば付加価値なのである。

収益や費用の働きが陽の働き(表に現れた働き)ならば、負債や資本の働きは、陰の働きである。なかなか表面に現れてこない。しかし、負債や資本は長期的資金の働きと深く関わっている。そして、長期的資金の働きこそ、景気の基礎となる働きなのである。なぜならば、長期的資金の働きは投資に関わっている。
借入金の元本の返済は、キャッシュフロー上は現れても、損益と必ずしも結びついて理解されているわけではない。
二つの要素の働きの和をゼロに設定する事で、相互の働きを関連づける事によって全体を制御しようとする思想が複式簿記である。故に、複式簿記上においては働きの総和は常にゼロになるように設定されている。
故に、キャッシュフローだけではお金の動きは認識できても相互の関係や働きを明らかにする事は出来ない。

長期資金の働きを知る為には、資金の流れと資本市場、実物市場との力関係を知る必要がある。

長期資金の流れには、負債、資本の側から資産の方に流れる流れと、逆方向、即ち、資産から負債、資本の側に流れる流れの二つがある。これは、調達側から運用側への流れと、運用側から調達側への流れ、金融側から市場側へ、市場側から金融側への流れをも意味している。

お金の流れる方向に影響を及ぼしているのは、資産と負債、資本の力関係である。
資産の力が強いと市場側に、負債の力が強いと回収側に資金を流す力が潜在的に働いている。
そして、この底辺に働く力は、収益で得た資金の流れの方向に働いている。

長期的資金の流れに影響を及ぼすのは、資産の実施的価値と名目的価値の差である。

もう一つ注意しなければならないのは、長期的資金の働きには、売買取引だけでなく、貸借取引も影響を及ぼしている。

不良債権というのは、実質的価値と名目的価値の差を意味する。
不良債権問題は、不良債務問題でもあるのである。不良債権問題の裏側には、不良債務問題が隠されている。不良債権を処理する場合は、不良債務も合わせて処理する技術が検討されなければならない。
特に、債務者主義をとる日本では、不良債権処理と言っても単純に債権を売ったからと言って債務が清算されるわけではない。
債務を何時、誰が、どの様に清算するかが明らかでない限り不良債権は処理されたとは言えないのである。
土地を売却したと言っても負債がなくなるわけではないのである。
仮に,多くの企業が一斉に不良債権を売却しようとしたら地価の下落に加速度をつけてしまう恐れすらある。

資産価値を決めているのは、一部の資産取引である。
不良債務は売買取引からのみ発生するわけではない。貸借取引からも不良債務は生じる。しかも、貸借取引から生じた不良債務の方が質が悪いのである。
土地の価値の働きは、売買価値だけでなく、担保価値が重要な働きをしている事を見落としてはならない。

高度成長からバブルが崩壊するまでの日本は、地価の右肩上がりを前提していた。それ故に、担保主義が有効だったのである。
資産価値の上昇は、担保価値に対して名目的価値を相対的に低下させ、負債の負担を軽減させる。
しかし、逆に資産価値が下降し始めるとこの働きが逆転し、担保不足、資金不足に陥る。
この様な状態で収益が低下すると途端に資金が回らなくなる。
それが失われた二十年と言われるバブル崩壊後の日本である。

注意しなければならないのが、非減価償却費,即ち、地価の変動による働きは、表に現れてこない。
地価や資産の上昇分を見込んで借金をし、その借入金を運転資金に回しながら操業するような事を、自転車操業というのである。この様な経営は、地価の上昇が破綻してしまうと破綻する。

資金の働きを制約しているのが税制である。
税は、利益、財産、収入、支出の働きに作用することによってお金の基本的な流れを誘導している。
即ち、税は、利益、財産、収入、支出のいずれにかを課税対象としウェイト付けする事で、お金の流れを制約する。

経済を動かす貨幣の仕組みは、貨幣を循環させて価値を膨らませる事で成り立っている。貨幣が循環しなくなると貨幣価値は萎んでしまうのである。
資産も、負債も、資本も,費用も、収益も実体があるわけではない。謂わば虚構である。


4 日本の現状について


日本の現状を考える前に、経済の仕組みをおさらいしてみよう。

経済の仕組みを動かしているのは、お金の流れである。

経済の仕組みは、お金を循環させる事で成り立っている。お金が回ることで、収益を上げ、格差の拡大を防いでいる。お金が循環しなくなると、経済の仕組みは維持できなくなる。
経済を実際に動かしている部品は、経済主体である。経済主体には、政府主体、民間主体、海外主体がある。
民間主体には、民間企業と家計とがある。民間企業は、生産を担い、家計は消費を担う。

市場は、お金を動かしているのは、取引である。取引は、ゼロ和を前提にして設定されている。故に、市場取引の全体は,ゼロ和である。経済主体間の取引もゼロ和である。
ゼロ和というのは、正の主体があれば負の主体もある事が前提となる。
取引は、売り買いと貸し借りの二つの働きによって構成されている。売りと買いは一体であり、違いは、視点の差から生じる。又、取引は、物とお金から成り立っている。
貸し借りには、お金の貸し借りと物の貸し借りがある。
売り買いは、物とお金の所有権の交換を意味する。
売り買いは、お金が配分されている事が前提となる。お金が不足している主体に、お金が余っている主体から借りる必要がある。故に、売買と貸借とは、均衡していなければならない。これは現金収支と資本収支がゼロ和である事を意味する。

経済主体は、所得を基礎にして支出を決める。
可処分所得の範囲内に納まる支出は、売買取引で可処分所得を超える支出は貸借によって行う。

貸借に基づく支出は、投資である。

所得は一律ではなく、取得の元となる要素によって差が生じる。
所得の性格には、一定な収入と不定な収入、一時的な収入がある。
又、収入源としては、労働に基づくものと資本に基づくものがある。

売買は、実物市場を形成し、貸借は資本市場を形成する。
現金収支と貸借が均衡しているという事は、現金収支と貸借とはゼロ和だという事である。

実物市場にお金が回らなくなると収益は、低下し、格差は広がる。
実物市場にお金が回らないと資本市場にお金が流れて資産価値を上昇させる。
即ち、収益の低下は、勤労所得や雇用を低下させ資本収益率を乗させることで格差を拡大する。

実物市場にお金が回らなければ総所得は、停滞する。総所得が停滞すれば、総生産も総支出も停滞する。

実物市場にお金が回らなくなったら、資本市場に滞留している余剰のお金を実物市場に回す必要がある。
かといって、資本市場から実物市場へお金を回す時は、よく注意しなければならない。なぜならば、急激なインフレーションを引き起こす怖れがあるからである。

実物市場に資金が出回るようにする場合、注意しなければならないのは、物価と金利の上昇である。時間価値が働き出すからである。

お金の流れの推進力は、時間価値である。
時間価値は、付加価値より生じる。
例えば、お金の貸借からは、金利が生じ、物の貸し借りからは賃料が生じる。
また、事業からは利益が生じる。
利益も時間価値の一種である。

金利は、将来の所得を担保することによって成り立っている。即ち、将来の取得が時間価値の源なのである。

お金は、使う事で効力を発揮する。お金は、ただ保存しているだけでは効力を発しない。つまり、陰の状態にある。
お金は、金融機関によって時間価値が付加される。付加されるお金の時間価値とは金利である。時間価値が付加されることでお金は、位置エネルギーが蓄積され、価値を増殖することが可能となる。

お金の流れの推進力は、個々の主体の利益に依るのではなく、現金収支と貸借の総和による幅である。

時間価値が付加されたお金は、資金化される。資金は、使用されないと金利分、借りた側に負荷がかかる。この付加がお金の流れの推進力となる。
故に、ゼロ金利は資金を滞留させる。

日本において、民間企業に現預金が過剰に集積されているのは、ゼロ金利である事が一因している。それと市場に溢れた資金が行き場を失っていることも一因である。

お金が不足している経済主体は、お金が余っている主体から借りてこないと経済活動を継続することが出来ない。その仲介をするのが金融機関の役割である。

問題は、何処を赤字にして、何処を黒字にするかであって,黒字がよくて、赤字が悪いという事ではない。


5 日本の所得は20年以上も停滞している



今の日本経済の最大の問題は、付加価値,即ち、時間価値がなくなりつつあるという事である。
付加価値とは何か。即ち、金利、人件費、地代、家賃、そして減価償却費である。付加価値は、長期資金の動きの基である。つまり、付加価値がなくなる事は、長期資金の働きを抑制する要因になる。
それが所得を停滞させる原因でもあるのである。

付加価値とは何か。付加価値は、借金や費用から生み出される。経営者や政治家は、付加価値を付けろ、付加価値を付けろと言いながら付加価値がきらいなようだ。だから何かと金利や人件費を削る事ばかりを奨励し、又、実行する。
借金や費用を目の敵にしていたら景気はよくならない事を肝に銘じるべきなのである。無理な借金や無駄な費用は減らすべきである。しかし、社会にとって必要不可欠な借金や費用まで削ったら、世の中は成り立たなくなるのである。
付加価値は、金利や人件費,生産設備、資本によって生み出される。資本主義が悪いのではなく。資本主義と言いながら、資本を否定する事が悪いのである。

日本の名目GDPは、90年代から、20年以上も500兆円前後で停滞している。
これは、20年以上、所得が変化していないと言う事を意味している。
所得に変化がないという事は、必然的に取り分の問題となる。

正味資産(国富)のピークは、1990年の3,532兆円で底は、2004年の2,957兆円でその差は、575兆円である。

分配から見た2011年度の名目国内総生産は、477兆円、雇用者報償が245兆円である。営業余剰、混合所得が88兆円、固定資本減耗が102兆円。生産、輸入品に課せられる税金が40兆円である。
雇用者報酬が家計へ、営業余剰、混合所得と固定資本減耗の和が企業へ、税金が政府へ分配されるとすると、家計、企業、政府に対する配分は、おおよそ、5対4対1になる。
1955年当時は、家計と企業の比率は逆で4対5対1だったのが、72年に家計と企業所得が等しくなり、74年には、ほぼ、現在と同じ比率になった。

GDPは、総所得を意味する。総所得は総生産であり、総支出である。
総所得が伸び悩んでいるという事は、配分の変化が問題となる。
所得が伸びずに配分が変化することは、所得構造、格差の変化を意味するからである。
又、雇用構造や雇用のあり方にも変化が現れる。
1994年に、名目523兆円でピークとなって2012には、46兆円減少している。278兆円あった雇用者報酬が245兆円と33兆円減少し、営業余剰、混合所得が100兆円、固定資本減耗が103兆円、生産、輸入品に課せられる税か41兆円ある。注目すべきなのは、営業、混合所得が9兆円の減少しているのに対して固定資本減耗が2兆円の減少だという事である。家計部門は、35兆円と大幅な減少なのに対して民間企業は13兆円の減少であり、政府部門は、1兆円の減少とほぼ横ばいである。
固定資本減耗は、暦年で営業余剰、混合所得に対して50年代、60年代は、ほぼ三分の一程度で推移してきた。70年代後半から2分の1程度に上昇し、80年代に急速に上昇して90年代後半に逆転し、2000年代始めから後半まで営業余剰、混合所得が上回ったもののその後は、固定費減耗が営業余剰,混合所得を上回っている。これは、収益の中に占める償却費が占める割合が大きくなっている事を意味する。固定費減耗は、減価償却費に相当する。減価償却費は過去の投資の清算に使われる費用である。

支出から見ると1994年は、民間最終消費支出が274兆円。政府最終消費支出が73兆円、総資本形成が139兆円、財貨・サービスの純輸出が10兆円となっている。
2011年には、民間最終消費支出が、12兆円増えて284兆円。政府最終消費支出は、13兆円増えて96兆円と最終消費は官民両方増えているのに対し、総資本形成が42兆円と大幅に減少し96兆円、財貨・サービスの純輸出が,これも14兆円減って-4兆円となっている。純資産は、15兆円のプラスから6兆円のマイナスとなっている。

特筆すべきは、総資本形成の中で固定資本形成が139兆円から95兆円と44兆円減少している点である。
内訳は、住宅が民間で26兆円から13兆円に、13兆円減少し、企業設備で民間部分で71兆円から63兆円と8兆円減少している。企業設備は、公的な部分でも11兆円から5兆円と6兆円減少している。(2013年度国民経済計算名目)

GDPには三面等価の原則がある。
即ち、家計、非金融法人、一般政府、海外部門の所得の総和はゼロになるという原則である。
つまり、資金の不足している主体は、余剰資金を持っている主体から借りてこなければ、経済の仕組みは成り立たないのである。

所得が伸びないという事は、全体の総量が限られている事を意味する。つまり、一人ひとりの取り分を固定するか、限られた量を奪い合いするかの二つに一つである。もはや、ウィンウィンの関係は成り立たない。
競争社会ではなく、闘争社会になる。全ての人間が成功者になれるわけではない。
限られた、それもごく少数の選ばれた者だけが成功し、後は敗者に落ちていく。ひとりの人間の大成功は、他の人間の取り分を減らす事になる。また、成功者が獲得した取り分を子や孫に残そうとすれば、社会に階層が生じ、世襲的な階級社会になる。
いずれにしても格差が拡大し、新たな差別を生み出す一因となる。

過去において、分配の偏りによって生じた貧困や格差をインフレーションや戦争といった暴力的手段によって人類は解消してきた。しかし、戦争やインフレーションは経済の目的を逸脱した手段である事を忘れてはならない。戦争やインフレーションは、経済政策において失敗した事を意味するのである。

戦争は最も愚かな解決策である。

参考 「世界経済危機 日本の罪と罰」 野口悠紀雄著 ダイヤモンド社
    「金融政策の死」 野口悠紀雄著 ダイヤモンド社
    「期待バブル崩壊」 野口悠紀雄著 ダイヤモンド社
    「数字は武器になる」 野口悠紀雄著 新潮社


6 バブルの後遺症



バブル崩壊後20年近く総所得は変わっていない。と言うよりここ数年減少に転じつつある。それが日本経済を活性化できない最大の原因である。
総所得が変わらないという事は、全体の所得が変わらないという事であるから、誰かが所得を増やす事は、誰かの所得を減らすことになる。
人件費を上げ、物価を上昇させれば景気がよくなるという発想は短絡的である。総所得が得ないかぎり景気は改善されない。

個々人の所得を増やしても全体の所得が変わらなければ、単に格差を広げるだけに終わる。全体の所得を上げるためには、総生産をあげなければならない。総所得という利は、総生産と一体的関係である。部分的所得を増やしても全体の所得が変わらなければ総所得は増えずに偏りを生むだけである。

総生産をあげるのは、投資である。投資を促すのは、総資産である。資産価値,特に、地価が上昇に向かわないかぎり、投資は促進されない。いくら人的投資と言っても人的投資には実体が伴わない。個人の能力を実体化するというのは困難なのである。つまり、物の価値が裏付けとして上昇しないかぎり投資は促進されない。物の価値は物価だけを意味するのではない.大切なのは、生産手段としての価値である。

高齢者と言った弱者、中小企業といった生産性の低い人達の処にしわ寄せが行く事になる。
弱肉強食の時代なのである。競争社会ではない。競争社会ならたとえ他人より遅れたとしてもゴールに辿り着くことは可能であった。弱肉強食というのは食うか食われるか,生きるか死ぬかの問題なのである。弱者は強者の餌食になってしまう。

そして、格差社会になる。格差が広がる事で社会的な緊張関係が高まる危険性がある。
現実に企業を規模別の営業利益率で見ると企業格差は拡大する傾向にあり、資本金一千万未満の企業は、バブル崩壊後急速に業績を悪化させ、1998年以降は、赤字基調になっている。(図表6-1)

バブルの影響を検討するためには、バブルと言う現象をどの様に定義するかが鍵を握っていてる。その為には、日本のバブルが何に起因し、また、バブル起点としているのか
バブルの起点と見なされるのは、プラザ合意に始まる為替の変動、即ち、円高デフレである。

経済変動には何らかの節目が存在する。その節目で日本の経済に決定的な影響を与えてきた要因は、石油価格の動向と金利や為替の動向といったて金融の動向だといえる。

1985年9月にニューヨークののプラザホテルで開催されたG5でドル高是正の取り決めがされ、それから,急激な円高が始まる。プラザ合意の前年1984年には250円台だった為替がプラザ合意後1988年には、120円台にまで落ち込んだ。

その円高と円高対策が合わさって日本は地価と株価に代表される資産価値が急速に上昇する。所謂バブルである。
日経平均株価は1089年(平成元年)12月29日の大納会で、史上最高値38,957円44銭をつけ、その後下落へと転じる。
地価は、やや遅れて1991年に天井をついたと言われている。

85年92万社だった欠損企業が、89年に総量規制が出され100万社を超えたあたりから急激に増加し90年に110万社、91年には、122万社、92年には、139万社、93年には、149万社、94年には、156万社になった。

80年に2,864兆円だった国民総資産は,80年代にはいって急速に立ち上がり、90年に7,936兆円をつけるとそれから8,000兆円前後を横ばいしている。ただし、注意すべきなのは、金融資産残高が、90年に、4,456兆円、05年に6,050兆円上昇しているのに対して非金融資産が、90年に3,481兆円から05年2,453兆円とほぼ15年で1,000兆円以上減少している点である。
又、土地等を表す有形非生産資産は、90年に2,479兆円とピークを付けた後、09年に1,209兆円と2分の1になりながら下げ止まらない状態にある。

日本の六大都市の市街地の地価は、80年代に急速に上がり1990年3月にだされた不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑える総量規制と不動産業、建設業、ノンバンク(住専含む)に対する融資の実態報告を求める三業種規制によって1991年にピークを迎えた。

80年を基準にすると11年間で商業地では6倍以上にもなり、住宅地でも4倍弱も値上がりした。それが91年を境にして急速に値下がりをし2005年に平均で80年並みの水準で一旦底を打ったかに見えたが、2007年をピークにして又下がり始めた。逆にいえば、地価は、ピーク時から見て商業地では6分の1に下がったとも言えるのである。
日本の金融機関は、バブルの崩壊以前は、担保主義を前提とし、地価が右肩上がりの時は、償却資産以外の借入は、地価の含み益を担保として行われ、新規投資の多くも地価の含み資産を原資としていた。
それがバブル崩壊後は含み益が一転して含み損になり、その結果、担保不足に陥り、新規投資の足かせになっている。担保不足は不良資産を売却したとしても解消されず、担保不足に陥った不良債務は温存されたままなのである。この問題を解消しないかぎり、成長に転換することは出来ない。担保不足に陥った債務を解消する手段は、資産の高騰か、収益による返済しかないのである。不良債務の存在は、金利上昇の足かせにもなっている。

7 不良債権処理について



内閣府も平成13年度の年次経済財政報告でバブル崩壊後の93年3月以降も98年3月30兆円、01年、32.5兆円と10年もの間だ不良債権が増え続けている事を認めている。
その特徴として、多額の不良債権処理を続けているのに、新規の不良債権が増え続けている点。不良債権処理をするための費用が銀行の本業の収益を上回りその為に銀行収益が実質的に赤字を続けている点。不良債権が不動産、建設、小売りの三業種に集中している点の三点ををあげている。
ただ、不良債権処理が不良債権を創り出しているという点には触れていない。
そして金融機関の貸し出し姿勢に問題があったとしている。しかし、バブルを生み出し、又、はブルを潰した事による弊害には触れようともしていない。

債権と債務は、個別に処理されるべき事ではなく、一対として検討しなければならない。債権と債務は同時に処理されなければならない。
不良債権処理をする時、注意しなければならないのは、債権者主義的考え方を採用するか、債務主義的考え方を採用するかである。
日本は、債務者主義であるから不良債権を売却しても借金は残るのである。
債権者主義をとる欧米とは根本的に違う。
故にも不良債権だからと言ってただ売れば良いというのではない。債務処理を合わせて考えなければ、実体のない負債を残してしまうのである。

不良債務を考える場合、表面に現れた数値だけを見ていたのでは理解できない。表面に表れた数値は氷山の一角に過ぎないのである。資産価値を決めているのは、一部の資産取引である。
不良債務は売買取引からのみ発生するわけではない。貸借取引からも不良債務は生じる。しかも、貸借取引から生じた不良債務の方が質が悪いのである。
土地の価値の働きは、売買価値だけでなく、担保価値が重要な働きをしている事を見落としてはならないのである。

債権は、実質価値に基づき、債務は、名目的価値に基づいている。この点を不良債権を処理する際、留意しなければならない。実質的価値は経済変動によっているのに対して名目的価値というのは、経済の変動を受けない。土地や株を借金して購入した後、地価や株価が下落しても、高騰しても借金の額は変わらないのである。
不良債権を無理して処理をしても借金の額は変わらない。ただ、バブル崩壊後地価が下がり続けているから、放置していると含み損が拡大しているのに過ぎない。政策としたら、地価の下落に歯止めをかける事を優先すべきであって強引に売却させれば、地価の下落を促進する上、収益を悪化させ、借金の負担を重くするだけに終わる。
そんな事をしたら、市場の仕組みそのものを破壊してしまう事になる。
債権と債務を同時に処理する場合、気を付ける点は、何に何を合わせるかである。名目的価値を合わせる事は難しいから、併せるのは実質的価値だという事である。

国民経済計算の非金融法人の期末貸借対照勘定の土地勘定は1980年、178兆円だったのが84年頃から立ち上がり90年には634兆円でピークを迎えてその後は急落し05年には、ピーク時の半分以下の291兆円を記録した後、若干持ち直して今日にいたっている。それに対して負債勘定の借入金は、80年に227兆円だったのが土地勘定がピークを迎えたのよりも5年遅れて95年に589兆円で頂点に達し、しばらく高止まりした後、98年頃から下落し始め09年には、396兆円にまで下落した。
地価の動向は未だに不確かだな、それでもある程度落ち着いたと言えるのが2005年だとすると地価が落ち着くまで15年の歳月がかかったと言える。その間、民間の投資は抑制され続けてきた事になる。しかも、下落幅は、190兆円を超えている。

1991年の国民総資産残高は、7,163兆円。前年に比べて26兆円の増でピークを迎えた。
前々年の89年では、前年に比べて864兆円と最大の上げ幅を記録し、6,858兆円だった。そのうち、520兆円が土地・株式のキャピタルゲインである。91年のピークを過ぎると逆に大幅にキャピタルロス、減少に向かい。92年には、総資産で257兆円、土地・株式では、413兆円と実にGDP比、88%に及んでいる。

民間非金融法人の借入金は、1980年に194兆円だったのが1992年には、521兆円で頂点となり、2009年317兆円で一旦底をつき2013年現在で337兆円である。頂点から底をつくまで実に17年を要し、その間、民間企業は、借金の返済に追われた事になる。その額は、200兆円以上に及んでいる。

土地の担保価値の下落と不良債務の存在を暗示している。
所得が増えない原因は、企業が借入金の返済に追われ、又、金融機関は担保不足によって新規投資に対する融資が出来ない状況にある事が原因だと推測される。しかもまだまだ、不良債務の精算が終わっていない。
不良債務の原資は、固定資本減耗が充当されるが、1980年の35兆円から右肩上がりに上昇し、07年、08年と108兆円をピークに2009年若干下降した。ただ併せた見なければならないのは、営業余剰と混合所得との関係であるが80年に72兆円と固定資本減耗を37兆円上回っていた営業余剰と混合所得が97年に1兆円ばかり逆転し、08年には、営業余剰と混合所得が76兆円と固定資本減耗より32兆円下回った事である。
これだけ民間企業は、借入金の返済に追われた事になる。

地価が下げ止まらない為に、担保不足が解消されず、民間企業は,返済したも返済しても資金不足に陥っている。
まるだお金が底なし沼に落ちたか、ブラックホールに吸い込まれているかのごとき状態なのである。
実体を名目に近づける以外に手立てはないのである。


8 所得が伸び悩んでいるのに、民間の金融資産は積み上がっている。



所得が伸び悩む中で民間の金融資産が積み上がっている。
2013年現在で家計の金融資産は、1,624兆円,非金融法人が996兆円ある。
非金融法人が99年に一旦、788兆円で頭を打ち、02年頃から上昇に転じてはいるが、横ばいしているのに対し、家計は、多少の波はあるものの基本的に上昇を続けてきた。その結果、90年に129兆円だった乖離が、98年には、607兆円に広がり、乖離幅は13年までほぼ変わっていない。

1998年から日本はゼロ金利政策がとられている。
ゼロ金利政策によって金利による正の付加価値が消失している.その為に、減価償却、人件費といった負の付加価値しか働かなくなっている。
それが所得が停滞している一因となっている。

預金は、金融機関から見ると借金である。この事を忘れてはならない。

ここでも三面等価の原則が成り立つ。
家計、非金融法人企業、一般政府、海外部門はお互いにお金を融通し合う事で成り立っている。
そのお金の融通をきかせるのが金融機関である。

国債残高は、2014年9月末には、1,039兆円を超える。

財政問題を一段と深刻にしているのは、金利を機能不全に陥らしている事である。
金利は時間価値である。金利が働かなくなる事は、資金の循環を妨げ、付加価値を消滅させてしまう。時間価値が働かなくなる事によって所得の伸びが止まるのである。

一般政府の主たる収入は、税収である。日本の平成26年度の一般会計の規模は、96兆円である。うち、新規国債発行額が、41兆円である。そして、12年度の税収は、50兆円。所得税が14兆円、消費税が15兆円、法人税が、10兆円である。そのうち23兆円が国債費、即ち、返済や利払いに当てられる費用が23兆円あるという事である。

この国の借金を埋めているのが、家計と企業の預金と海外からの借入である。
ここで注意しなければならないのは、家計と企業の預金というのは、先にも述べたように、金融機関にとっては借金である。

金融機関は、預かったお金を貸し出し、預金と貸出の金利差で利益を上げている。預金が多いというのは、借金が多いという事であり、預金も沢山あれば良いという事ではない。問題は、資金の運用なのである。効率よく預金を運用できなければ,金融機関にとって借金が積み上がるようなものなのである。

国民経済計算における民間金融機関の貸出/預金の比率は、80年代前半は、110%代だったのが,後半から立ち上がり、91年から92年にピークに達し、それから下降を始め、03年には、100%を割り込み、07年のリーマンショックを境に更に低下して13年には、78%落ち込んでいる。
信用金庫に至っては、2014年4月末に50%を割り込んでからは、50%割れが常態化しつつある。(日本金融通信社)預かった金、つまりは借金をした金の半分も運用されていない事を意味している。
東京商工リサーチの調査によると2014年、国内銀行114行の預金と貸出の差は、224兆円に達していると言われる。

これは資金が金融機関に滞留し、市場に出回っていない事を意味している。
これでは、所得が持ち上がらないのは無理のない事である。
所得は、通貨の流量と回転数に依るからである。

つまり、お金が市場から溢れて金融機関に滞留している状態なのである。しかも、溢れた資金が国債の購入に充てられている。
民間金融機関にお金が滞留しているからと言ってそれを実物市場に振り向けたら、国債の買い手がいなくり、長期金利が上昇する。それが財政赤字の一番の問題なのである。

現在、日本は、クラウディングアウト状態にあると言わざるを得ない。

貯蓄率と投資率は、正の相関関係があるというフェルドシュタイン・ホリカワの研究もある。(「人口経済学」 加藤久和著 日経文庫)ただいずれにしても固定資産形成は、08年には、-2兆円、09年には、-13兆円、貯蓄は、08年21兆円から09年には-2兆円へと急激に下落した事である。貯蓄は、次年度黒字を回復したが13年もに兆円のマイナスである。
貯蓄と投資がある程度相関関係がある事は見て取れる。問題なのは、総貯蓄が91年に85兆円でピークとなりそれから下降し続けている事である。そして、先にも述べたように09年にはマイナスにまで落ち込んだ事である。そして、それに連動するように91年に73兆円でピークを迎えた総固定資本形成(純)03年には、18兆円。有形固定資本形成は、09年には、-13兆円を記録した事である。

問題は、金融資産と負債とは、等価だという事である。
プラザ合意が為された1985年には2,000兆円だった有利子負債がバブルのピークには、4,000兆円に達し、一時、下がったものの2013年には4,000兆円代に戻っている事である。
バブルの頂点である1990年に2,450兆円に達した地価がバブル崩壊後1,120兆円、失われた地価と株価を合わせた2,000兆円余りが負債に置き換わったと言える。
失われた資金は、投資に向けられずに金融機関へと環流されている。
また、土地勘定と有利子負債の間にある3,000兆円近いギャップが新規投資を抑制しているのである。なぜならば、3,000兆円近いギャップというのは、担保不足を意味しているからである。この様な状態では金融機関は、貸したくても貸せない、企業は借りたくても借りられないという状態に陥ってしまう。投資や融資をしないというのではなく、出来ないのである。

不良債権と言っても土地と株式とでは、性格が違う。株式のように、流動性の高く使用価値のない債権は、売却し,清算して損を確定した方が新たな投資を呼び込む事が可能となる。
しかし、流動性が低く、利用価値のある不動産は、清算するよりも活用して収益力を高める事を考えた方が生産的なのである。債権と不動産の違いを無視して強引な不良債権の処理、それも、一括的に処理を仕様とすれば、地価の下落を招く事になる。景気の底を割ってしまうだけである。
売らなくても言い土地まで売らせても、新たな不良債権を作り、尚且つ、返済目処の立たない債務が残るだけなのである。
現在の日本の状況は、謂わばブラックホール現象に陥ったようなものである。地価の収縮が止まらずにあらゆる経済的価値を吸い込んでしまっている。
この様な状態に陥れば、個人事業者や中小企業と言った弱い者から淘汰される事になる。
それを競争力がないからと決めつけるのは無慈悲な事である。元来、個人事業や中小企業は、学歴とか資産を持たない弱者の最後の砦だったのである。その最後の砦が崩された事で、シャッター街が増え、街がゴーストタウン化しているのである。世の中は、強者だけのものではない。幸せは、勝者だけに許されているのではない。
経済の本来の目的は、全ての人々を豊かで幸せにすることなのである。

一般政府、金融機関、民間は,三竦みの状態にある。政府は、財政を発動し、公共投資を増やしたいが、公共都市を増やせば、財政が悪化する。金融機関は、民間に資金を回したいが、そうすると国債を購入する事が出来なくなり、また、民間の担保価値が毀損している。民間は、人件費を上げ、雇用を増やし、新規投資をしたいが、債務の圧力で融資が受けられない。また、公共投資も期待できない。

この様な状態でいくら金融緩和をしてもなかなか実効力は上がらない。資金が実物市場に回らないからである。
お金が逆回転をしているのである。それが所得の上昇の頭を抑えているのである。

資金効率を高め、所得を伸ばすためには、資金を実物市場に循環し、収益の向上を計る以外、手はないのである。
資金を市場に循環するというのは、過当競争を激化する事ではない。単純に資金を循環させても資金が効率よく働かなければ実効力はない。
収益の向上に結びつかなければ所得に反映されず。ただいたずらにお金や物が空転するだけになる。目指さなければならないのは適正価格を維持しながら、お金と物とがほどよく循環する状態なのである。

メディアの多くは、正義漢ぶって安売り業者を煽り立てるが、その結果は、一部の安売り業者のオーナーを潤わせ、ブラック企業を横行させただけである。長者番付の上位にブラック企業のオーナーだけが名を連ねるようで経済は活性化できない。

肝心な事は、適正な価格で公正な競争が出来る環境を作り出す事である。経済の目的は、生きる為の活動を支援する事である事を忘れてはならない。金儲けは手段であって、目的ではない。要は、金を如何に循環させるかなのである。

参考 「ネットの政府」 村藤 功著 同文館出版
    「人口経済学」 加藤久和著 日経文庫

9 マネー



お金は、量に制約があるから価値が保てるのである。お金が無尽蔵にあるとなったらお金の価値は失われてしまう。

貨幣価値は、制限があって発揮される。制限がなければ価値は確定できなくなる。
貨幣価値の総量は、制限によって範囲が特定される。
貨幣価値は、人工的観念の所産である。所与の存在物ではない。
貨幣価値は、物としての実体をもたない。
それを実体化したのが貨幣である。小判や銀貨のような実物貨幣は物としての実体をもっているが、紙幣のような表象貨幣は、物としての価値を持たない。
表象貨幣は、貸し借りによって制約される。
故に、貨幣価値の総量は、貸借によって特定される。
所得は、貨幣価値の総量に制約される。
所得の総量は、貨幣が流れる過程で拡大する。所得の拡大は、生産手段に稼働率に依っている。生産手段の拡大は生産手段に対する投資による。故に、最終消費者である家計や一般政府が所得の拡大の担い手ではない。所得の拡大の担い手は、非金融法人である。

民間、企業の設備投資が活性化しないと所得は拡大しない。
貨幣の流通量を増やすのは貸し借りだからである。
流通速度は消費,即ち、売買によって決まる。
所得を制約、拡大するのは、消費、即ち、生産財ではなく、生産、即ち、生産手段であるなぜなら、所得は、生産量に制約され、消費量に制約は受けないからである。

貨幣,つまり、お金は分配の手段だという事である。
分配は、生産から消費の過程で為される。
故に、実際の分配は、最終消費者でなく、中間過程にある。
即ち、お金が流れる過程で分配は実現されるのである。

中抜き、中抜きと言って安売りばかりを求め中間や過程を軽視するから分配が滞るようになるのである。分配の働きは最終消費にあるだけでなく、むしろ過程にあるのである。川が流れるように物と金の流れがあるから周辺部分は潤うのである。

お金が経済の仕組みを動かす原動力である。
お金の流れによっ、所得、生産、支出の働きの均衡はたもたれている。お金の流れる量や速度だけでなくお金が流れる方向にも注意しなければならない。お金の流れにも順逆があるのである。お金の流れの順逆はお金の流れる方向によって定まる。お金が実物市場の側に向かって流れるのが順で回収の側に流れるのが逆である。お金が純な方向に流れた場合、貸し借りや売り買いという働きが生じる。貸し借りによって市場の側にお金が流れると同量の債権と債務が生じる。逆方向に流れると債権と債務は清算されるのである。現在の日本で問題なのは、お金の流れが逆流している事である。

債権と債務の価値の不均衡が回収圧力となり、尚且つ、過当競争によって企業の収益力が低下した結果、本来実物市場に流れるべき資金が実物市場から排除されているのである。

その結果、今の日本は、お金が実物市場に流れずに逆流し、行き場を失ったお金が、金融市場に滞留している状態なのである。

日本銀行の国債の保有残高は、2015年2月1日現在で271兆円、うち長期国債219兆円。銀行券の発行残高は、89兆円である。国債残高が銀行券の発行残高を上回ったのは、2011年5月1日国債残高が80兆円で、銀行券の発行残高が79兆円である。長期国債残高も2012年8月に長期国債残高83兆円、銀行券発行残高81兆円と上回った。しかもそれが、4年足らず3倍にまで膨らんでいる。

日本銀行には、2001年(平成13年)3月の金融政策決定会合で決定された、「金融調節上の必要から行う国債買入れ」を通じて日本銀行が保有する長期国債の残高について銀行券発行残高を上限とするという銀行券ルールがある。この日銀ルールは、現在停止されている。

黒田総裁による新たな金融緩和策では「資産買い入れ基金」を廃止し、国債の買い入れの枠組みを一本化する。国債の大胆な買い増しも考慮し、銀行券ルールの「一時適用停止」方針を決めた。(2013年4月5日 日本経済新聞より)

国債残高は、2014年9月末には、1,039兆円を超える。財政赤字の目処が立たないまま、時間ばかりが過ぎていく。放置すれば、赤字の解消手段は、赤字の解消手段は、ハイパーインフレか,戦争、いずれにしても暴力的な手段を頼らざるを得なくなる。

冒頭に書いたように、お金は量が有限である事が前提となって成立している。お金を際限なく印刷できるとなったら忽ちお金の価値は失せてしまうのである。

現在の経済の仕組みは、お金が環流する事で成立している。つまりは、お金を如何に制御するかが、財政をはじめ経済の仕組みを制御する唯一の手段なのである。だからこそ、日銀ルールのようなお金の流れを制御するための規約が必要なのである。

ただ便宜主義的にルールを外していくのでは、お金の働きが制御できなくなるのは、時間の問題である。

経済の仕組みは、お金が動かしている。つまり、現在生起している経済的事象の多くはお金に起因している。
お金の働きは、お金の流通量と回転数に規制される。つまり、実質的にどれくらいの量のお金が市場に出回っているかが、基本となる。

現在のお金、現金の主たる部分は、紙幣によって形成されている。紙幣とは本来、借用証書や預り書である。つまり、根本が負債なのである。その為に、紙幣には負債の性格がある。こくさいと同質な部分があるのである。
その証拠に銀行券は日銀において負債勘定である。
言うなれば、銀行券と国債は、融通手形のような性格を持つ。

この様な紙幣は、以前は、兌換紙幣として金の裏付けによって総量を規制していた。経済規模の拡大に従って金とといった有限な資源では自ずと限界があり、現在は、管理通貨制度に移行している。
金本位制度から離れたからと言って野放図に紙幣を発行して良いというわけではない。問題は、どこに境界線を引くかである。


10 デフレーションとは



日本は、失われて10年、或いは、20年、ゼネレーションと底なしのデフレーション状態にある。

経済状態を左右するのは、所得と物価、取引価格である。
所得は、人の要素であり、物価は、物、取引価格は、金の要素である。
所得は、収入。物は、生産。金は支出を表している。
又、物は、実質的価値を、金は、名目的価値を表している。
実質的価値は債権の本となり、名目的価値は債務を形成する。
これが、経済状態を考える上での前提となる。

所得が経済の規模を制約し、物が経済の実体を、金が、経済の枠組みを形成している。
デフレーションにせよ、インフレーションにせよ、人、物、金いずれかの要素,複数の要素が絡み合って引き起こされる。
そして、人、物、金の何が先導して引き起こしているかによって性格が変わる。

重要な事は、名目的価値というのは、取引によって確定するという点である。
インフレーションは、所得が増える事によってお金の流量が増え物価が上昇する場合と、物価が上昇し、お金が不足するために、所得が上昇するという場合がある。
物価の上昇によって実質的価値が名目的価値を上回る状態である。
後者の場合、債権者は、債権価値が上昇し、債務が軽減される。
債務者は、債務価値が確定し、返済がされれば損をするわけではない。
問題は、所得の上昇が物価の追いつかない場合や所得の上昇を期待できない人がいる場合である。

それに対して、デフレーションは、債権者にとっては債務の負担が重くなり、しかも収益が減少するので深刻な問題を引き起こす。所得も必然的に伸び悩む事となる。
デフレーションは極端な場合、ブラックホールのような状態にすらなる。現代の日本の現状は、市場の収縮が強く,ブラックホール化しているようにさえ見える。
先ずこの状態を脱する事が急務である。

GDPデフレーターは、1997年を境にして下降し2005年に100を切っている。
つまり、GDPデフレーターから見ると日本は、1997年からデフレーション状態になり2005年から定着化したと言える。
消費者物価指数では、2000年から下降に転じている。消費者物価指数は、消費と言う事に限定している事を考えると経済全体の経済状態を検討する上では、デフレーターが向いていると考える。

2005年を境にして、名目的GDPと実質的GDPは,逆転しており。
その乖離が年々広がり2013年には、47兆円にもなった。2014年には、乖離幅は若干縮まったが、それでも38兆円ある。

雇用者報酬の中の賃金・俸給は、1997年240兆円でピークに達し、以後一貫して下落して2009年に206兆円迄落ちて2012年まで206兆円代を推移した後、2013年現在、207兆円である。下方硬直的と言われてきた人件費もおおよそ35兆円、10年間で下落しているのである。

所得の安定が重要な要件になる。所得が拡大しない原因の一つが非正規雇用者の増大がある。将来に亘って安定した所得が保障される事で借金も支出もできるのである。将来の収入に不安があれば、人は、今の支出を抑制し、貯蓄をして将来の支出に備えるようになる。

国土交通省の建設投資見通しにおける民間の住宅建設投資も1995年に5兆円下落した後反発して28兆円でピークわつけた後下降し2009年13兆円まで下落した。
新設着工件数も1989年に165万戸を記録した後下降し、2009年には、26万戸減の78万戸で持ち直したと言っても80万戸台でしかなく、25年以降は、60万戸代が常態になるだろうと言われている。

所得が頭打ちな上に、物の需要も減退している。この様な状態の中でただ競争を煽ってもデフレーションを脱却する事は出来ない。量より質の時代に転換すべきなのである。

価値観が多様化し、情報が氾濫し、人々は、個性化しているというのに,生産の局面ばかりが未だに大量生産に囚われている。人々の嗜好や個性に合わせて生産品も多様化すべきなのである。ところが競争を激化し、安売りを奨励するような施策ばかりがとられている。
品質や安全性、デザインと言った価格以外で競争する所は沢山あるのに、ただ安ければいいという風潮に流されている。それがデフレーションを加速している原因である。

局面によっては、不況カルテルのような競争を抑制する施策も有効なのである。
規制を緩和するばかりが能ではない。
大体、規制のない競争は、生きるか死ぬかの闘争、抗争でしかない。野蛮な事である。
なぜ、利益を確保するための話し合いや提携が許されないのか。
それは利益は悪だ、搾取だという偏見に基づいている。

インフレーションもデフレーションも資本主義の宿痾の様に言われてきた。
しかし、経済の仕組みは人工的な機構である。
つまり、インフレーションもデフレーションも人工的な出来事なのである。その点を抜きに自然現象と同じように語るのは間違いである。
インフレーションもデフレーションも災害ではなく、自己なのである。謂わば欠陥自動車が起こした事故のような事なのである。しかも、その事故は多分に人々の思惑や欲望が絡んで起こっているのである。

公共投資だけでは、名目と実質のギャップは埋められない。
なぜならば、公共投資は、双方向の働きを持たない上に、生産手段としての働きが稀薄だからである。経済性が乏しい。
最終的には収益によって負債は、精算されなければならない。
その為には、過当競争を抑制する施策をとり、荒廃した市場を改善し、企業の適正な収益が上げられるような市場環境を創り出す必要がある。


11 人口構成と経済



2005年、日本の総人口は、12,777万人。前年に比べると2万人の減である。第二次世界大戦後始めて総人口が減少した。そして、これは人口の減少の始まりを意味する。2005年以降、人口は減り続ける事が予測されている。

我が国では、少子高齢化が、深刻な問題となっている。
しかし、人口の減少というのは、それ程悪い事ばかりなのであろうか。
一頃前は、逆に人口爆発が問題だとされた。その為に、中国では、一人っ子政策がとられた。
人口爆発が問題となったのは、戦争による人口の急激な減少があり、産めよ増やせよと言う政策がとられたからである。
この様に、人口問題というのは、その時その時の時代背景によって変わってきたのである。一概に、少子高齢化が悪いとか、人口爆発は問題だというような事ではない。
要するに、人口の増加にも減少にも問題があり、個々の状況にどう適合していくかの問題なのである。
状況の変化に合わせて社会のあり方を変えていかないと手遅れになり、問題が深刻化するのである。

人口の減少以上に年齢構成が問題なのである。相対的に高齢者の比率が上昇する。それによって労働の質に変化が生じるのである。それが高齢化問題である。

人口構成の問題は、世代に基づく階層、所得の平均と分散である。つまり、統計的な事象である。統計的に分析できる事が多い。

本来、人の問題が中心なのだから思想的な要素が強いはずである。
つまり、生き様の問題である。生病老死の問題なのである。
ところが、現代少子高齢化の対策には思想や哲学が欠如している。
ただ施設や制度を作る為のお金や年金の財源と言ったお金の言葉かのしか問題としていない。
家族の問題とか、倫理観の問題とか、社会のあり方と言った基本的な考え方に対する議論はいっこうにされていない。だから解決の糸口さえ見つからないでいる。
高齢化問題の根本には、人間如何に生きるかといって人生哲学が確立されている事が前提なのである。
ところが何処を探しても哲学がない。だから、何処まで行っても不毛なのである。
設備や制度をいくら整備しても年寄りが幸せになれるわけではない。立派な設備を作れば作るほど虚しく、又、いくら金を掛けても足らなくなるのである。仏作って魂を入れずである。
高齢化問題とは、晩年を如何に有意義に生きられるかの問題であってお金や設備は二の次の問題なのである。
老いて生かされる環境でなく、老いを生きる環境とはどの様に作り上げるかの問題なのである。
それは生き甲斐とは何か、自己実現とは何か、仕事とは何か、人間の尊厳とは何かに関わる問題なのである。
年寄りを邪物扱いし、ただ隔離し、介護の対象としてしか見ないのでは本末転倒であり、経済的負担が増すばかりになる。その点に対する理解が掛けている。政治家は年寄りが多いというのに。
若者だけが社会を構成しているわけではない。年寄りだって,否、老い先短いからこそ世の為人の為に役に立ちたいと思う高齢者は沢山いるのである。彼等の力を如何に引き出していくかが、本来の高齢者対策である。

94年に人口は、1990年に1億2400万人。2008年に1億2800万人とピークを迎えてそれから若干減ってはいる。しかし、まだまだ一人当たりの所得に大きな影響を与えるほどの変化ではない。
要するに、所得は,人口が変化していないのに20年間変わっていなのである。ただ高齢化が進み人口構成は大きく変わってきている。それが所得にどの様な影響を与えているかそれが問題なのである。

日本の経済で顕著に見られるのは、実質賃金の下落と雇用形態の変化である。
又、労働分配率は、収益が悪化を反映してバブル期よりも上昇している。
財政の問題点は、税と公共投資、行政サービスが対価、反対給付の関係で結びついていない事である。したがって、財政行為はゼロ和ではない。つまり、収入と支出の関係に対称性が成り立たない。その為に費用対効果の関係が設定されていないのである。

税制や年金制度は、対価と反対給付とが結びついた仕組みになっていない。だから、入金は入金、出金は出金、別々の機構で動いている。故に、費用対効果を測る事も、収益から費用を,費用から収益を相互に制御する事が出来ない。入金と出金を結びつける仕組みがないのである。
入金を計る論理と出金を決める論理とが結びついていないのである。
故に、一度不均衡になると是正する事が難しくなる。

所得の再配分は、補助的手段に過ぎない。所得の基本は、収益構造にある。
所得の再配分には、対価と反対給付の関係が成り立たないからである。
つまり、生産と消費が関連づけられていない。
又、所得の再配分を財政にのみ頼っていたら、人口構成の変化に対応しきれなくなるのは時間の問題である。

高齢化社会になった場合、働けなくなって年金や補助金の給付のみを受ける高齢者が増加する可能性が高い。
高齢者が保有する資産は、生産性が乏しい。
この様に問題にどう取り組むかが高齢社会においては不可避なことなのである。

少子高齢化によって勤労所得者が減少しているとなると生産性が低下すると同時に格差や偏りが生じる事になる。しかも、勤労所得者の取り分が少なくなれば、社会の成長力は落ちていく。

生き甲斐という観点からも高齢者が働ける環境を作り上げる事が肝心なのである。

よく高付加価値の仕事へ移行させる事で経済のさらなる発展を期待すべきだという議論がある。その背景には、単純肉体労働を蔑視する風潮が隠されている。
又、高齢者の切り捨てがある。高齢になってから、新しい仕事を見いだせという事自体が酷なのである。
しかし、本来、手に職を付けた者は、高齢になっても仕事が出来たものである。
匠と言われる職人の多くは、死ぬ直前までいい仕事ができたものである。
匠と言われる人々は高学歴に者ばかりではない。
むしろ愚直で不器用な生き方しかできない者が多い。
そういう者にも生きていく場を与えるのが,真の経済の仕組みである。
仕事を単に効率という量的な側面ばかりで見るから、質的な部分を見落とすのである。
生きていく為に必要なのは、むしろ質的な側面である。
それはお金だけでは測りきれない事である。

労働には、量だけではなく、質の問題がある。
古い仕事は衰退したなら、仕事にあぶれた人間は、新しい仕事に移せば良いというのは、労働の実体を知らない机上の空論である。仕事は,人生である。仕事というのは人生そのものなのである。この仕事は駄目だから、あっちの仕事へと短絡的に考える事は出来ない。
仕事には向き不向きがあるのである。全ての人を高付加価値の仕事へと考えるのは、学者の考えそうな事である。
熟練を必要とする仕事もあるが、それは逆に、熟練者を活かす仕事でなければならない事も意味する。
仕事とは、人生そのものであり、自己実現でもあるのである。
長い間修業をして身につけた技術を容易く捨てる事は出来ないのである。
また、そう言った熟練した技術を伝承する必要も姉のである。
何でもかんでも新しい仕事が優れていると決めつけるのは思い上がり以外の何ものでもない。
又、新しい技術にしても長い間の研究開発の末に実ものである。そう言った地道な努力や背景を見ないで、新しい高付加価値の仕事に転移すれば良いというのは、非現実的な事である。

労働を考える時、密度も、重要な要素なのである。
料理ならば、味やサービス等が問題であり、商品ならばデザインや性能等が価格を決める重要な要素である。
ただ労働を量だけで測り、又、評価するのは野蛮な事である。
そう言った質的な面からも価格は決められるべきなのである。

労働の質は、経験、技術、知識、能力、専門性、継続性など多彩な要素が絡み合って決まる。
仕事に対する価値観も多様なのである。一律に時間かける単価で割りきれる事ではない。

自動車も新車ばかりが良いのではない、クラッシックカーにも、改造車にも、付加価値がある。人がそれぞれ好みや性格が違うように成熟した経済というのは、個性的で多様であるべきなのである。
お金の儲け方や生産ばかりでなく。お金の使い方や消費にも経済はあるのである。

経済問題を語る時、ヒット商品や技術革新といった事ばかりに脚光が当てられる傾向があるが、それは成長を前提にしか経済を考えられない証拠である。

市場を構成しているのは、成長の過程にある産業ばかりではない。成熟した産業もあるのである。
成長ばかりを前提として経済の仕組みをとらえていたら経済の安定は得られない。

経済を下支えしているのは、革新的、或いは、成長産業よりも伝統的産業、俗に、コモディティ産業と言われる産業である。
伝統的産業こそ、雇用を下支えしてきたのである。
世の中の大多数の人間は平凡なのである。
ごく限られた少数の天才やエリートばかりに照準を合わせた経済ほど非人間的な経済はない。
むしろ、社会の裾野を形成する凡人にこそ経済を活性化するための潜在的能力が秘められているのである。

人口構成の変化は、経済予測と違い、かなりの精度で事前に予測できる事である。
金銭が絡んだ経済問題の前提となる事は、不確定な要素が多いが、物や人の問題には,前提となる事の多くが確定的な事が含まれているからである。予測がつくことだから対策も立てやすいはずである。

高齢化問題で深刻なのは、生産的な業務に従事する人間を減らしてしまう事である。生産的な業務を担う人口が増えない中、所得の総量を増やそうとしたらより高い生産力が求められることになる。

しかも、生産的活動に関わらずに分配だけを受け取る者が増えれば、総生産は低下する。だからこそ、市場のあり方を根本的に見直すことが必要なのである。市場は神ではないし、競争は万能ではない。


12 財政破綻とは



財政破綻が今喫緊の問題として懸念されている。
しかし、財政が破綻すると言う事が何を意味し、どの様な事態が起こるかについて著している者は希である。兎に角、破綻する破綻すると空騒ぎしているだけでは何の意味もない。国民の不安をかき立てるだけである。大切なのは、財政が破綻したらどの様な事が予測されるのか。破綻を防ぐ方策はあるのか、破綻した場合どの様な対策をすべきなのかが、肝心なのである。

財政が破綻するというのは、政府が破綻する事を意味する。つまり、政府が、経済的に機能不全に陥る事を意味する。政府が経済的に機能不全となった場合、政府が果たしてきた役割が果たせなくなるという事と、政府で働いている者に対して、給与賃金が支払えなくなる事を意味している。政府の果たしている働きの多くの部分を占めている所得の再配分が出来なくなる事である。
その結果、諸々の経済的な影響が出る事が予測される。

財政が破綻すると言っても国家が破綻するわけではない。政府が経済的に全て、或いは、一部が機能不全に陥る事を意味する。又、財政が破綻したら、即、国債が紙切れになるというのとも違う。政府が予算を執行するために必要な資金を調達できなくなる事を意味しているのである。
それでも、国防、治安、防災の最低限の機能は、保持されなければならない。

財政がはたするとどの様な事が予測されるか。
第一に、金利の上昇。第二に、円安。第三に,物価の上昇。第四に、行政サービスの縮小、或いは、停止。第五に,公務員の人員削減と合理化。第六に、社会保障の見直し。第七に、第八に、増税、金融システムの機能不全、第九に、対外信用の失墜、第十に、交易の停滞等である。これらが段階的に起こる事が考えられる。

具体的には、最悪の場合、銀行の一斉一時休業や預金封鎖などが予測される。
物価上昇は、第一次体制以前のドイツのようなハイパーインフレーションは考えにくい。ただそれでも30%程度のインフレーションは覚悟しなければならないと思われる。

財政が破綻したら直ちに生活が成り立たなくなるとか、会社が倒産するというわけではない。ただ、金融機関はかなりのダメージを受ける事が予測される。

国債も紙切れになるというわけではない。
また、長期金利が上がったとしても政府が金利の上昇分全てを負担するわけではない。影響を受けるのは新規発行分だけである。深刻な影響を受けるのは、国債を保有している金融機関や投資家である。
政府が受ける影響は、国債の償還の延長や国債の入札不足などという事が起こる事を意味しているのである。
入札不足があった場合でも日銀が引き受ければ当座を凌ぐ事は可能である。だから、会社が倒産するというような事態とは異質な事だと思っている必要がある。
長期金利が上がった場合、深刻な打撃を受けるとしたら政府よりも国債を大量に持っている金融機関であり金融制度である。日銀は、金融制度が破綻したら困るから、長期金利が上がらないようにする為に国債を買い入れたり、長期金利を上がらないように誘導しようとする。その事によって日銀や政府のとれる施策の幅が狭くなる事が問題なのである。
一番危惧されるのは、長期金利上昇によって国債を多く保有している金融機関の財務内容が悪化し、機能不全に陥る事である。また、円安の進行、金利の上昇によって物価が上昇する事。国債の市中消化が難しくなり、日銀の国債引き受けが際限なくなる事で市中に出回る通貨が制御できなくなる事に依る物価の上昇である。
本格的なインフレーションは、投資が過熱しないかぎり、起こりにくい。現在投資が促進されないのは、資産価値が下げ止まっていないからであり、景気がよくならない原因であるが、反面、インフレーションを抑制する要因にもなっている。故に、物価上昇が、即、ハイパーインフレーションに結びつくと考えるのも早計である。

ギリシアと日本の決定的な違いは、通貨の発行権を政府が持っているか、否かである。ギリシアは通貨の発行権を持っていない。その為に国債の引き受け手がいなくなっても中央銀行が肩代わりをする事が出来ない。その点、日本は、違う。

多くの人は、財政が破綻する事ばかりを心配している。財政が破綻する事ばかりが深刻なのではない。むしろ、財政が破綻しなくとも、今日のような財政状態が続くと別の面でより深刻な事態が発生する。そして、その方が財政破綻よりも経済により深刻なダメージを与える場合がある。
その一つが、民間の投資が市場から排除されるクラウディングアウトであり、もう一つが、金利の働きが失われる事が原因となる付加価値の喪失である。いずれも、所得に関わる事だけに深刻なのである。

所得を拡大するためには、民間投資が不可欠である。しかし、預貸率を見ても解るように、預金が、国債の買い入れに占められて、その分、民間への貸付金に回らなくなれば,生産的投資が抑制され、資金効率が低下する。それは所得にとって足枷になる。しかも、民間投資が抑制されると公共投資が上乗せされ、財政が悪化するという悪循環に陥る。それが慢性的に総所得を抑制する働きとなるのである。

このまま国債が積み上がっていったら、金利の機能を発揮する事が出来なくなる恐れがある。金利の機能とは何か。それは付加価値である。付加価値とは、時間価値である。即ち、時間価値を喪失してしまう事である。それは、お金の循環を促進するエネルギーを失う事でもある。それが景気を長期低迷させる原因となるのである。また、政府や中央銀行がお金の循環を制御する手段を失う事にもなる。

更に言えば、問題は、財政規律である。

財政赤字を解消するためには、他の制度単位の経常収支を赤字にする必要がある。
現金収支は、残高を常に正の自然数にする事を前提としている。
現金収支は、経常収支と資本収支からなる。資本収支は、貸借収支を言う。
現金収支は、経常収支と貸借収支がゼロ和になるように設定されている。即ち、経常収支と貸借は、等しくなるように設定されているのである。つまり、経常収支が赤字になれば、同量の貸借収支が黒字になるように、逆に、経常収支が黒字になれば、貸借収支が赤字になるように設定さている。
それは信用貨幣は、貸借関係によって供給されるからである。なぜならば、信用貨幣の与信は、貸借関係によって成立しているからである。

これが前提である。
故に、所得の変動は、投資の動向によって決まるのである。
民間投資が不活性化した場合、公共投資によって民間投資の不足分を補わないと経済の均衡は保てなくなる。しかし、公共投資は、最終消費に関わる部分だから、持続性がない。民間投資を活発にする事しか、持続的な所得の安定性を維持する事は出来ない。

財政の経常収支と海外部門の経常収支を黒字にするためには、民間の経常収支を赤字にする必要がある。民間は、家計と非金融法人、金融機関,対家計民間非営利団体からなる。ただ民間の営利団体は、表面的に赤字にする事が出来ないため、期間損益上黒字にし、投資によって現金収支を赤字にする事にならざるをえない。

税は、民間の経常利益を強制的に公的部分に転移する行為であるが、この場合、民間の余剰の経営収益の範囲に限定されている上、原則的に税金によって民間の経常収支を赤字にする事は赦されない。そうなると民間企業の経営を圧迫し、投資意欲を減退させるだけで、所得の改善には結びつかない。

経常収支上の赤字というのは、支出が収入を上回っている状態を言う。そのままの状態では資金不足に陥り、財政を維持することが出来なくなる。故に、支出が収入を上回っている場合は、余剰の資金を持っている主体から資金を借りてこなければならなくなる。
逆に、収入が支出を上回っている主体は、余剰資金を貯蓄しなければならない。
そして、余剰資金と不足資金とは、相殺されないと経済の仕組みは資金不足に陥って機能不全状態に陥る。その様な状態に陥らないように、経済主体間を仲介をし、調整する役割を果たしているのが金融機関である。
財政は、金融機関と共同で,お金の流れを管理している。為政者が、この点を正確に理解していないと金融機関が機能不全に陥った時の対処を誤りひいては国家破産を起こす事に繋がる。

24年度一般関係歳入は、95兆円。公債金収入が44兆円、租税および印紙税が、41兆円、その他収入が9兆円。一般歳出、56兆円、地方交付金17兆円、国債費が22兆円という構成である。
歳入は、税金よりも借金による方が3兆円上回っている。
それに対して歳出は見た目上、95兆円のお金があったとしても56兆円が一般歳出で内26兆円は社会保障費で自由に使えないから、政府の裁量で使えるのは30兆円である。

家計でも同じだがいくら所得が上がったと言われても税金や社か保険料を引かれた手取りから住宅ローンと言った借金の返済を支払、義務教育だと学費などを引かれてしまえば、自分の自由になる金は雀の涙ほどになってしまう。これでは豊かさを実感できるかというとほど遠い。

見た目上(名目)は、95兆円の支出があるように見えても実際は、30兆円(実質)の支出しかない。

実際に投資や消費に向けられる部分がどれくらいあるのか。
家計で言えば、ローンの支払いなどを除いた可処分所得がどれくらいあるかが実際的な問題である。

しかも、借金のような名目的支出は、支出を下方硬直的にしてしまう。
借金が増えればそれだけ月々の返済が増えれば出費も硬直的になり、自由に使える金か少なくなる。自由になる金が確保できなければ、所得が増えても意味がない。いくら所得が増えても自由に使えるお金が増えなければ、市中に出回るお金も増えないのである。

公共投資によって景気を浮揚させ、税収を上げるという考え方にも限界がある。

家計投資も公共投資も消費的投資であって生産的、言い換えると拡大生産的投資ではないという事である。
消費が生産に環流されない仕組みになってしまったことである。つまり、生産から消費、消費から生産というダイナミックな環流が失われてしまう事の方が深刻なのである。

財政を健全化させるためにも総所得を改善する以外にないのである。


参考 「マネーの正体」吉田繁治 著 ビジネス社


13 我が国がとるべき施策とは


現代の日本経済の問題を箇条書きにすると次のようになる。

第一に、所得が伸び悩み、消費活動が活発化しないという点である。
第二に、地価の下落が下げ止まらない為に、資金が建設的な投資に向けられず景気の足を引っ張っているという点である。
第三に、高齢化が進み。人口構成に歪みが生じている点である。
第四に、財政赤字によって金融政策が機能不全に落ち居ている点である。
第五に、税制が時代の変化に適合していないという点である。
第六に,民間や金融機関に資金が滞留し、市場に資金が循環していないという点である。
第七に、付加価値が喪失して所得が改善されないという点である。
第八に、過当競争によって市場が荒廃し、規律が失われているという点である。

現代の日本で景気が浮揚しない原因は、総所得が伸びない事にある。

総所得を伸ばす為には、個人所得を増やす必要がある。
単に所得が増えればいいというのでもない。実質的に消費に寄与する所得が増えないと景気は活性化しない。大事なのは可処分所得である。
この点は、家計も財政も同じである。

借金の返済は変わらないのに、可処分所得は減って、物価は上昇する。
しかも、増税や医療費等の負担が増加している。
消費税は可処分所得を圧縮する要因である事を見落としてはならない。

成長だけが経済にとって良いとは限らないが、それでも,20年以上も総所得が停滞しているという事態そのものが異常である。
少なくとも、量的拡大が望めなくても質的な拡大を計る必要がある。

総所得が健全な状態にならないと経済は健全さを取り戻せない。これが、経済政策を立てる際の前提である。
総所得というのは、付加価値を言う。企業会計では粗利益に相当する。付加価値を表しているのは、総所得以外に総生産、総支出がある。
付加価値を構成する要素は、金利、地代家賃、人件費、減価償却費、利益である。これらの要素が改善されないと総所得は健全化できない。家計は、所得から、法人は、利益から税金が支払われることになっている。
総所得が一定の場合は、結局は取り分の問題になる。つまり、人件費を上げても全体の量が変わらなければ、他の要素、金利か,減価償却費、地代家賃、利益のいずれかを削らなければならなくなる。その中で利益以外は、外生的な要因であるから,結局利益が圧迫される。
その現れが、法人の七割以上が赤字に陥り、税金を納めていない。
さらに、今はゼロ金利である。要するに、多くの法人は、金利と税金を納めないことで資金を繋いでいる状態なのである。この様な状況を改善しないかぎり、総所得の改善を期待することは出来ない。

個々の要素を無理矢理変えても総枠が変わらなければ配分を変えるだけになる。
大手企業の人件費を上げても費用が増大するだけに終われば、大手企業の人件費の枠、即ち、全体に占める割合が増えるだけで、他の要素、例えば、中小企業の人件費の割合を下げるか、利益を圧迫するかに終わる。
重要なのは、付加価値全体を質的、量的に変える事なのである。

所得の総量が変わらなければ朝三暮四にしか過ぎないのである。

総所得の総枠が改善されなければ、結局格差を広げるだけに終わる。
現実に大企業と中小企業の格差は広がり、個人事業や町工場は経営が成り立たない所まで追い込まれている。
個人商店は淘汰され、シャッター街が激増しているのである。

街という生活の場が枯れつつある。

消費者は生産によって所得を得る生産手段は、労働と資本である。
消費と生産手段が結びつかないかぎり所得は増えない。
特に、労働と消費が結びつかないと総所得は増えないのである。

消費だけを目的とした投資は、所得の改善には寄与しない。
所得は、生産手段に対する対価である。つまり、所得に直接関わるのは消費ではなく生産である。故に、所得を改善するためには生産手段に対する投資である。

投資した資金を回収し、再投資するという過程が資金を循環させる。投資、回収、再投資の回転の過程で付加価値は生み出されるのである。
支出は生産に結びつく事で資金の循環運動を起こす。生産に結びつかない消費は、一方向的な資金の流れしか作らない。
生産に結びつかなければ、付加価値は生ぜず所得は増えない。

所得の再分配は、所得の総量を増やすわけではない。
それが高齢者問題の根本にある。

家計投資の典型は、住宅である。
ローンで住宅を買っても、支出は増えても、所得が増えるわけではない。借金が出来ただけである。借金は、将来の所得を担保しているのである。
つまり、借金は将来の実質的所得を減らす働きがある。

公共投資や家計投資をいくら増やしてもそれが生産手段に結びついた投資でない限り、一時的に所得を改善することはできても持続的に所得を改善することにはならない。
家計も公共も最終消費を構成するのであって生産的ではない。又、金融は、お金の流通に関わっているのであって金融投資も生産手段に直接結びついているわけではない。

第一、付加価値は、投資に関連した要因である事を見落としてはならない。生産的投資に結びつかないかぎり、景気はよくならない。

生産的投資を担っているのは、民間なのである。
民間企業の投資が活発化しないかぎり総所得は改善されない。
その原因は、現在の市場経済の構図にある。
日本の中小企業は、土地を担保にして資金を金融機関から調達し、その資金で設備投資をして収益の中から投資した資金を回収してきた。その過程で、人件費,金利,償却費等の付加価値を生み出してきたのである。
故に、付加価値を量的にも質的にも改善するためには、民間投資を活性化する以外に打開策はないのである。そして、付加価値の総量を拡大するためには、民間の設備投資を増やす以外にない。
民間の設備投資を改善するためには、資産の流動性を高め、担保価値を上げるしかないのである。少なくとも地価の下落を止める必要がある。

14 資産の流動性を高め、資産価値を上げる事


バブル潰しも強引だったが、不良債権処理も強引だった。その割にその傷跡に対する処置はほったらかしである。
あたかも瀕死の重傷を負った者に全力疾走を課すような事をしている。
こんな事をしていたら日本経済の息の根を止めてしまう。

総所得を改善するために必要なのは、民間投資、特に、設備投資を活性化する事である。

日本の投資は、担保主義をとられてきた。担保となるのは土地である。その意味では土地本位制度と言えなくもない。そして、担保主義は、地価が右肩上がりに上昇する事を前提として成り立っている。
その前提がなりたたなくなっている。この点を指摘する事は今ではタブーになっている。土地の流動性を高め,資産価値を上昇させる事が解決策だからである。その為には、ある意味で規制を強化し、無原則な競争を抑制する事だからである。
つまり、バブルを起こし、規制をある意味で強化する事である。そうしなければ本格的な所得の改善は見られない。
しかし、それは、バブルを否定し、規制緩和を促進せよという現代の風潮に対しては真逆の事を意味する。ただ、やるべき事と真逆の事をしているから、景気はよくならないとも言える。
なにせ、地価は、15年以上下がり続け、少し上昇し始めるとミニバブルだとよってたかって下げてきたのであるから・・・。
大体、地価も株価も4年程度で底を打ち、それから上昇に向かっているという変な錯覚がある。少なくとも地価は、15年以上下がり続けているのである。こうなると金融機関も民間企業も地価が右肩下がりを前提に行動するようになる。当たり前に投資は抑制されるし、投資をしてもすぐに債権は不良化してしまう。

だから、持ち家が減少して、貸家が増えるのである。

地価がピーク時より6分に1に下落し、有利子負債と地価との乖離が3000兆円に達している状態では、新規の設備投資を期待する事は出来ない。

今の日本は、バブルがトラウマのようになっている。
地価が上昇し始めるとバブルの再来だとマスコミは騒ぎ出す。
今の日本のマスコミの悪い所はただ時流に乗って民心を煽り立てる所にある。
バブルの頃は株や土地の投機に浮かれ、財テクをしない経営者は無能であるように罵った。
バブルが崩壊するとなぜ本業を忘れ目先の利益を追ったのかと責める。
バブル潰しの時は、日銀の三重野総裁を「平成の鬼平」と持ち上げ、バブル崩壊後は素知らぬ顔をして日銀を批判する。
規制緩和と言えば、何でもかんでも規制緩和。競争が良いと言えば競争は原理だとまで言い出す。
反対意見など言おうものなら容赦はしない。それでいて言論の自由もへったくりもありはしない。
もっと冷静に事態を観察する必要がある。それが健全な批判精神である。

資産価値を流動化し、資産価値を上げないかぎり、投資の拡大は望めず。総所得を健全化する事は期待できないのである。


15 収益を改善する事



問題は総所得が増えずに滞留している事である。
総所得もただ増えれば良いというわけではない。横ばいでも質が伴えばいいのである。問題は内容である。

総所得を変動させる因子は、所得、生産、支出である。これらの三つの因子は、どれかの因子に原因が特定されているわけではなく、相互の働きによっている。
重要なのは、所得、生産、支出の働きの均衡がとれている事である。

経済を動かしているのはお金の流れである。
このお金の流れが、所得、生産、支出の働きの均衡をとっている。
お金の流れにも順逆がある。お金が実物市場の側に向かって流れるのが順で回収の側に流れるのが逆である。
今、問題なのは、お金の流れが逆流している事である。

総所得を向上させるためには、お金の流れる方向を順方向に変える事である。

問題を解く鍵は所得の健全化にある。所得の健全化を図らないで帳尻ばかりを合わせようとする政策をとるかぎり、経済は、安定しない。

成長のみを前提とした経済政策は改めるべき時が来た。成長だけが全てではない。成熟した市場では、成長に依存しなくても生活の質を向上させる事は可能であるし、また、可能としなければならない。
又、為替の変動の影響も同一に扱う事は出来ない。
市場を一律にとらえるのではなく。産業の置かれた状況や成長段階に合わせてきめ細やかな政策をとるべきなのである。
問題は、成長の量ではなく、質である。健全な成長が歪んでしまったために、全体の所得が伸び悩んでいるのである。

全体の所得が伸びなかったり、縮小してしまうのは、個々の産業の問題と言うより我が国全体の構造的問題が隠されている。
バブルの発生と崩壊によって、経済構造が歪んでしまい、時間価値が喪失しまった事に一因があるのである。
時間価値がなくなれば、お金を循環する為の推進力を失う。

貨幣が循環しなくなれば、格差が広がり、市場そのものを維持する事が難しくなる。

貨幣経済を制御しようとした場合、重要となるのは均衡である。分配も均衡が重要である。
極端に一律にしてしまうと、お金は動かなくなる。しかし、格差が広がれば、社会は分裂する。一定の幅の中に差が収まるように調節するような仕組みでないと市場にお金が均質に回らなくなる。

問題の背後には、実物的価値と名目的価値の乖離が隠されている。
実物的価値とは物に基づく価値であり、名目的価値とはお金による価値である。

著名な経済学者が物作りの経済から、金融を中心とした経済の仕組みにへ移行すべきだというような発言をしていた。しかし、それは錯覚である。
経済の実体は、人と物にある。お金は、所詮、お金である。人間が創り出した虚構に過ぎない。
お金の重要性は、お金の本質を前提としなければ理解できない。
お金は、経済を動かすための重要な手段である。お金を否定したら現代の経済の仕組みは成り立たない。
しかし、お金は手段であって目的ではない。
経済の根本は、如何に、人類にとって有益な資源を創造し、それを公平かつ円滑に分配するかにある。

物作りを否定したら経済は成り立たなくなる。

これまでれ歴代の政権は、利益を上げる事は悪い事として企業の収益を削ぐ政策をとってきた。それは、社会主義、あるいは、全体主義的な思想に基づき、企業は、資本家の手先、或いは道具だという偏見があったからである。企業を悪者にしてきた。
しかし、民間企業は、市場経済の要である。むろん、企業と市場の民主化や情報の開示、透明化は必要である。しかし、企業そのものを否定するのは自由経済を否定する事でもある。重要なのは、適正な価格、適正な利益である。適正な価格、適正な利潤は、投資した資金を回収し、かつ、適正な人件費を確保維持する事である。
まず、企業や市場,利益は、悪だという思想を改める必要がある。

競争が全てだと競争に過剰に期待するのも、競争は、悪だと競争を否定するのも極端である。大体、競争と規制緩和とは同じ次元の問題ではない。
規制のない競争はないし、規制は必ずしも競争を否定しているわけではない。
ただ、公正な競争を阻害する規制があるという事である。それは、規制のあり方の問題であって規制を否定する事ではない。
故に、規制緩和という意味が理解できない。規制緩和というのは、その前提が問題なのであり、前提を無視して規制緩和を論じる事自体矛盾している。最近の論者の中には、規制緩和ありき的な論者が多すぎる。中には、闇雲に規制は悪だと決めつけている識者もいるから始末が悪い。

過去の歴史は、酷い過当競争、乱売合戦があり、共倒れを防ぐために不当な提携や合同、そして、最終的には独占、寡占に陥る事を示している。それを防ぐ意味で独占禁止法が定められた。
独占禁止法の精神は、市場の規律にある。しかし、市場原理主義者は競争を絶対視する事で市場の規律を破壊しようとしている。
無法な競争はないのである。規制があるからこそ、公正な競争は成り立っている。
問題は、規制のありようであり、規制を否定する事ではない。
ルールのないスポーツはないのである。
ルールを否定する事は、法を否定する事でもある。
つまり、市場原理主義者というのは経済的無政府主義者である。

競争が悪いというのではない。無法な競争が悪いのである。
無法な競争は、残忍な闘争に競争を変質させる。
それは、市場を修羅場、戦場に変える事である。
無法な市場で生き残れる者はいない。
なぜ、民主主義者が話し合いを否定するのか。

自由主義経済にとって競争は重要な働きである。
だからこそ、ルールが重要なのである。
ルールのない競争は、闘争でしかない。
規制がなくなればルールのないスポーツのように市場の規律は保てないのである。

大切なのは何を、何処で,どの様に、競うかである。
価格競争だけが競争なのではない。
品質やサービス,技術で競う事も競争である。
無法な競争は、最終的には、価格競争に収斂する。価格競争は、個性や多様性を奪い。商品を均一化、単一化させてしまう。

幾つかの市場が集合して全体の市場を構成しており、市場は一律ではない。部分を構成する市場は、各々固有の特性や段階がある。成長檀家にある市場もあれば成熟段階にある市場もある。それを一律に規制緩和をしろというのは乱暴でもあり、無謀でもある。
競争を促す市場もあれば、競争を抑制すべき市場のある。各々の市場の置かれた状況によって施策は変わってくる。施策は相対的であり、絶対的施策などないのである。

食事は味や雰囲気も大切なのである。
限られた所得の範囲でより豊かな消費をしようとすれば、人それぞれの個性が出る。
現代社会はお金の儲け方ばかりを重視してお金の使い方を軽視している。
だから、経済から均衡が失われつつあるのである。

競争は、スポーツのあり方から学べば良い。
特に、プロスポーツは,多くの示唆を持っている。
プロスポーツの世界には、第一に、野球やサッカー利用なチームスポーツ。第二に、テニスのような相対スポーツ。第三に、ゴルフのように単独スポーツの三つの型がある。
各々それぞれに,基本となる固有の法がある。

自由経済と言うが何を自由というのかが曖昧である。
それで何も規制がない事を自由だと手っ取り早く決めつけている。
そして、平然と無法を許しているのである。
スポーツ選手を見ていると自由にフィールドを駆け巡っているように見える。
しかし、スポーツ選手が何ものにも囚われずに自由に振る舞うためには、ルールに従う必要がある。
その上で、厳しい鍛錬をしなければ自由なプレーは出来ない。
しかも練習を怠れば忽ち不自由になる。
自由というのは、厳しい事なのである。
自由主義経済もしかり、自由は切磋琢磨しなければ実現しないのである。
だから競争が必要なのである。
競争は無法だから実現するのではない。
規制があるから安心して競い合う事が出来るのである。
無法な争い戦争に発展する。
その果てにあるのは独裁と全体主義である。
市場は戦場ではない。競技場である。
命の遣り取りをする修羅場ではないのである。
だからこそ平和が保てるのである。
そして、自由市場にあって人々は平等になれるのである。

現代の経済は、結果しか求めていないように思う。しかし、経済というのは,人間関係を土台とした仕組みなのである。つまり、お金の流れが物の流れを作り、お金や物が流れる過程で必要な物資、資源を分配する仕組みなのである。お金というのは、その結果として表面に現れた事象でしかない。
大切なのは、過程である。結果だけを求めたら、過程がなくなってしまうのである。そこには人と人との繋がりもない。ただ物を生産しただけでは、生産された物は人々の間に行き渡らないのである。いくらお金を儲けても使い道がなければ何の価値もないのと同じように、経済下に過程をとってしまったら何も残らないのである。経済で大切なのは結果ではなく。過程なのである。

16 国民経済計算書



国民経済計算書は、複式簿記を土台とした近代会計を基礎として一国の経済状態を計算した計算書である。

故に、基本的に全体を、ゼロ和とする事を原則として設定されている。
即ち、全体は、ゼロ和になるように設定されているため、全体だけを見ても実体は理解できない。総和はゼロに設定されているからである。
故に、問題とされるのは、個々の部分の関係と全体との調和である。

運動は、回転運動を前提とし、周期の幅と偏りによって市場は動かされているのである。
一定の幅と偏りを保たないと市場全体が傾き場合によっては転倒してしまう。かといって一定の幅と偏りがなければ、市場はお金が回らなくなり、停止してしまう。

部分的に見れば黒字が増えれば,赤字も増える。
金を儲けた者は、金が余り、金を使った者は、金が不足する関係にある。かといって全員が使わなくなれば、お金が回らなくなる仕組みになっているのである。
お金の過不足が生じるのは、仕組み上の問題であり、個々の部分が悪いからではない。

個々の部分は、最終的には、フローとストックに分類される。フローは、お金と財の運動と働きを表し、ストックは、お金と財の状態と関係を表している。
収益と費用の量と資産と負債の量は必ずしも一致していない。その差は、時間価値によって生じる。
時間価値は損益と資本となる。損益は、必ずしも利益だとは限らない。損を出す場合もある。ただ、資本は、正の値である事を原則としている。
最終的には資本の比率によって資金と財とを測定し、収入と支出の均衡を測り、投資の妥当性を判断するのである。

会計は、長期的資金と短期資金の流れ働きが財の生産と分配にどの程度、貢献しているかを測る事が目的である。

その為には、幾つかの勘定を一組にし、その一組を他の一組と対応させる事で勘定の働きを測定し、また、勘定と勘定との関係も考慮に入れながら全体の働きを判定するのである。
その働きの基本は、貸し借りと決済と調整である。
何と何を組にして何の組と何の組を対応させるかが問題なのである。
好例が、収益と費用の対応関係が費用対効果を現し、また、資産と負債の対応関係が債権と債務の残高関係を表す。貯蓄と投資の関係は、長期資金のバランスを表している。

国民経済計算書の視点から会計を見直してみると市場経済の有り様が透けて見えてくる。

会計の勘定を国民経済計算書の勘定に置き換えてみると例えば、源泉は、貸方に、使途は借方に、相当し、総付加価値は、粗利益に相当する。
売上に相当するのは産出である。仕入れが中間生産物であり、費用となるのが所得の分配と使用勘定になる。減価償却費に相当するのが固定費減耗。営業利益は、営業余剰。固定資産は固定資本。投資が固定資本形成,国富が資本である。

この様な表現がどこから生じるのか、それは近代市場経済の特質を考える上で重要な意義を持っている。
つまり、企業会計が個々の部分を構成する制度単位の経済状態を表しているのに対し、国民経済計算書が全体の経済状態を統合し計算書だからである。

なぜ、個々の部分では売上に相当するのが産出となるのか。それは、個々の部分では売り上げた結果となる事が,全体で見ると社会的に産み出された物と見なされるからである。また、費用となる部分は、分配と使用勘定となるのは、費用の働きをよく示している。
費用こそ、分配の手段なのである。

企業会計が利益の産出を目的としているのに対し、国民経済計算書は、総生産と総所得、総支出の計測を一つの目的としている。この事が持つ意味を考えると市場経済が本来なのを目的としているかが解る。

国民経済計算書では、制度単位を非金融法人、金融機関、一般政府、家計、および対家計非営利団体の五つに設定している。
最終消費者は、家計と一般政府,対家計非営利団体の三つで非金融法人と金融機関は、最終消費先とは見なされていない。

経済の働きを分配にあるとしたら、総付加価値、可処分所得、中でも雇用者所得、そして、最終家計所得の流れが根幹となる。
この様な流れに沿って税のあり方を考える事も重要である。
つまり、税にどの様な効用を求め、又、お金の流れに税制がとのような影響を及ぼすのかを正しく認識していないと市場を適切に制御する事が出来なくなる。

民間企業の収支には、金融機関の収支も含まれる。貸借の業務に携わる金融機関の特殊性であり、他の制度単位とは、表裏の関係にある。つまり、金融機関は、他の制度単位と鏡対称の関係にある。金融機関は他の制度単位に対し表裏の関係にありながら、収支、損益は、民間企業に含んで考えないと調和がとれないのである。
アメリカでは全産業の総利益に占める金融界の割合が、1980年代初頭の10%から、昨年には40%にまで拡大したと言われる。

もう一つの特徴として国民経済計算書は、全体がゼロ和に設定されている点にある。ゼロ和で市場は均衡しているのである。
ゼロ和は、三面等価と相まって国民経済の枠組みを規定している。
この事はゼロ和という事と深い関わりがある。
国民経済計算書においては、等価と言う事が重要になる。

等価という意味には、二つある。一つは同じ行為を違う視点で認識した場合である。もう一つは、計算上同じ値になるという事である。例えば、前者は売りと買い、貸しと借り、収入と支出である。後者は、総生産、総支出、総所得や経常収支と資本収支等である。
どちらにしても等価というのは、ゼロ和が関係している。前者は、主体の違いによって同じ行為が違う事のように認識されている事に依るからどの様に統合するが問題となる。後者は、計算上ゼロ和になるように設定されているという事である。

何と何が等価になるかを明らかにする事で、個々の要素間の関係や全体との関わりが明らかになる。それは何らかの問題が生じた時その原因を解明し、対策を講じるための鍵となる。逆に、何と何が等しいか、又、なぜ等しいかを知らなければ、原因を明らかにしたり、対策を立てる事は出来ない。

参考 「新しいSNA」中村洋一 著 財団法人 日本統計協会
    「国民経済計算入門」武野秀樹著 有斐閣


17 終わりに



バブル潰しも強引だったが、不良債権処理も強引だった。その割にその傷跡に対する処置はほったらかしである。
あたかも瀕死の重傷を負った者に全力疾走を課すような事をしている。こんな事をしていたら日本経済の息の根を止めてしまう。

巷間、政治とお金の問題が騒がれている。政治とお金の問題は何も我が国に限った事ではない。中国でも政治とお金の問題は深刻である。政争の具にもなっている。
政治とお金の問題が大切な事ではないとは言わないが、しかし、財政が逼迫している今日、もっと重要な事が山積しているのではないのかと言いたくなる。政治が、結局、政治家個人の金の問題、道徳の問題としてしか語られない、現代の政局にこそより深刻な問題が隠されている。

経済というのは生きる為の活動であり、現実である。その意味では、底辺に流れているのは、政治や経済の変動である。
特に歴史的な出来事をプロットしてみると政治と経済の直接的な関わりが見えてくる。

財政や経済政策は、一つ間違うと貧困や戦争の原因となる。そして、日本だけでなく、世界は、経済が危機的状態にあり、それが原因で争いが絶えない。
表面に現れる争いの原因は経済的原因なのである。だからこそ容易に解決策が見いだせない。それは経済の混本的な構造や仕組みに問題が隠されているからである。

問題の核心は制限にある。そこに思想がある。誰も無制限に何でも許されることを自由だとは思わないだろう。誰もが同一に扱われることを平等とも言わない。

イスラム教と言論の自由の問題が深刻化している。多くの人が神聖視をしている対象を自分は関係ないからと言って愚弄したり、侮蔑していいかというと人各々立場の違いによって意見が分かれている。
ただ、一方的にこれが自由だと相手に押しつけることは、傲慢である。民主主義にも、社会的正義にも反する。自由にせよ、平等にせよ、元来、社会的な概念なのである。

大体、最初から自由と無法というのは違うことである。
自由も平等も権利を意味している。権利というのは恣意的である事を前提としている。

見ず知らずの人間が自分の土地にいきなり入ってきて暴力的に所有権を主張しても,あなたは、相手の言い分を認めないであろう。それを自由だと言われたなら、何を馬鹿なことを言うのだと言う事である。自由というのは、無法を許すわけではない。

制限された空間に、利害の違う複数の人間が生きているという前提なのであろう。人間というのを拡大すれば生きとし生ける者という解釈も成り立つ。いずれにしても自分一人の都合や主張だけを押し通すことは出来ない。そこに社会と如何に折り合いを付けるかが問題となるのである。相手の意志や権利を認めないかぎり自由というのは成り立たない。土地も資源も有限である事が前提である事が前提である。
奪いたいと思えば奪い、殺したいと思えば殺すと言う事を自由だとするのは重大な錯誤である。そんな事は、誰もいない世界ならいいのかもしけないが、その様な世界は何処にもないし、あったとしても生存することは不可能である。人間は社会的な生き物なのである。

限られた空間の中でそれぞれが自分の主張や権利を振りかざせば争いになる。最後には暴力沙汰になる。だから法が必要となる。人と人との関係に法が介在する事になる。それが法治国家である。

法は権力によって守られる。
権力はある種の暴力装置なのである。
だから国も監視される必要があるのである。いろいろな制度や仕組みによって国家の暴力、法の暴力を制約する必要があるのである。それが法の手続きである。

法は手続きによる思想だと言われる由縁である。

年寄りも赤ん坊も若者も同じように働けというのは、平等とは言わない。
人は、皆、違うのである。それは平等という概念の大前提となる。違う人を前提とし,唯一の全体を成立させるためには、唯一なる超越的存在を前提とせざるを得ない。
だから、平等という思想が成り立つ前提として唯一の神を受け入れる必要があった。平等というのは多分に一神教的思想である。

しかし、一度、自由、平等の概念が成立すると宗教的教条は,手続きによって超越される。
何をどの程度制約するかは思想上の問題である。だから、自由も平等も制度では要件定義されるべき事なのである。

超越的働きとして法が成立するからである。

問題は、制約であり、制約の範囲である。社会の生産財を制約しているのが通貨である。故に、通貨の量は何らかの制約を受ける必要があるのである。

人を幸せに出来ないような経済の仕組みはどこか狂っているのである。経済は、人を幸せに、豊かにする事が目的なのであるからである。

数字から察するに、神は、分かち合い、譲り合うか、奪い合い、争い合うしかない。分かち合い、譲り合うか、奪い合い、争い合うかは、人が自分達で選ぶしかない,その結果に対しては自らが責任を負えと言われてる気がする。

神に栄光あれ。




       

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