41、組織は情報系である




組織は、情報系である。
この事を理解しているようで理解していない者が結構いる。

組織は、情報を共有する事によって成り立っている。
これが大前提である。
ところが最近、この点を理解していない者がいる。
物理的に、或いは、形式的に何らかの組織、例えば会社に入社しても上手に情報系にアクセスする事ができない者がいる。

組織的仕事には、必ず始まりがあって終わりがある。組織ではこの始まりと終わりを明確にする必要がある。
なぜなら、組織は、集団だからである。
関係する者達全員が始まりと終わりを認識していなければ共同作業が出来ないからである。

情報には流れがある。
組織的な情報の流れは経路に従って流れる。
発意、提案者が主旨目的を明らかにし、役割を決め、権限と責任を明らかにし、担当者が作業を洗い出し、責任者が分担を決め、責任者より期限を決めて作業指示を出す。

始まりというのは、何もハッキリしていないと言う事を前提としなければならない。
例えば、何かを調べなければならないという事は、解っていたとしても、何をどの様に調べたらいいのかも解らないのと言うのが前提なのである。況んや調べた結果などわかりようがない。だからどうするのかと聞かれた時、調べた結果を聴かれているわけではないという事は自明なのである。自明なはずなのだが、聞かれた方は勝手に結果を聞かれているという思い込んで反発したり、憶測や推測、思いつきで結論を出したりして怒られるのであるが、怒られている方は何を怒られているのかも見当がつかない。質問をしている人間が理不尽だと思い込んでしまう物もいる。
最初は、何かを感じたとか、思いついたとか、気がついたとか、小耳に挟んだとか、予感がすると言った程度に過ぎないのである。 しかも、十中八九は何でもない。
最初は、責任者は誰にして、担当を誰にするかぐらいしか決められないものなのである。
情報系という事は、ネットワークだという事である。
組織を構成するものは、ネットワークに繋がっていなければならない。
情報系の中にいない者は、組織の一員としては認識されない。
ネットワークを持たない集団は,単なる群れであって組織ではない。
この事は大前提である。
個人の仕事、非公式な仕事なら、ある程度できあがった所から話を起こす事もでき眼が、組織となるとそういうわけにはいかない。だから、構想段階から仕事として明確にしておく必要があるのである。
だから指示を出す、出してもらうと言う事が大切なのである。

指示や報告、確認は組織にとって不可欠な要点である。
ところが指示や報告を怠る,或いは軽視する者が後を絶たない。
情報に繋がらない者はただ居るに過ぎない。正式に組織の一員とは見なされない。
その点を心に銘記しておく必要がある。
逆に情報系を制する者は組織をも制する。

上司が聞きたいのは、出来事の前後の経過と処理である。
自分が言いたい事をただ伝えるのが報告なのではなく。
相手が何を望んでいるかを理解した上で相手が必要な情報を伝えると伴に、自分の仕事を確定するのが報告なのである。故に、報告は自分の為にするのが原則である。
報告は、報告で当て説明ではない。相手が判断を下すために必要な事柄を事実関係だけ述べるだけでいいのである。なるべく必要最小限度の情報に抑えるのが、重要なのである。
説明というのは、それ以外に自分の所管や見解、必要だと思われた場合、経過や事情、前提となる視点や条件、概要を、又、自分の推測を交えた私見を合わせて述べる事である。

情報伝達には、経路と範囲,期限がある。範囲には空間的範囲と項目的範囲がある。境界線を明確にする必要がある。

組織は、二進法である。

組織は情報系である。
情報系には、情報系特有の機能がある。
情報に特有な機能の代表的なのは、象徴や形式である。
象徴や形式が具現化された事が式典、礼儀、作法、旗等である。

組織は形によって動かされる。組織は言葉で動くわけではない。
言葉は道具に過ぎない。
組織は、形で動くのである。形は、象徴によって力を発揮する。
権威は権力の裏付けとなる。
権威は象徴、権力は力によって効力を発揮する。
組織にとって如何に形が重要なのかは、なかなか理解されない。
形式なんて無意味だからどうでもいいではないかと思われがちである。
しかし、組織は、言葉だけで動かされるものではない。
組織は、共通認識の下に共同で作業をする事を前提としている。
共通認識を形成するのが象徴であり、形象なのである。
そこに組織のとって形の働きがある。
旗や儀式は、組織を動かす信号、鍵なのである。

組織の動作は最初に設定されていなければならない。
組織の動作の初期設定は形式的に為される。
形式は、礼儀作法、規約に要約される。
形式そのものに意味はない。
形式に意味を持たせるのは、指導者、組織の運用者である。

神聖な場所や神聖な時、神聖な儀式、神聖な物、神聖な旗、神聖な象徴、神聖な行い、神聖な言葉、神聖な誓約、それらは組織にとって特別な働きをする。
偶像は、意味がない。偶像を否定はしないが、肯定もしない。失われる物は虚しいからである。
神聖な言葉は、象徴的な言葉であり、意味ある言葉とは限らない。
組織にとって大切なのは、忠誠と信仰である。

戦後の日本は、その形式と象徴を徹底的に否定された。
形式と象徴を内部から否定するように仕組まれたのである。

戦後育ち、太平洋戦争以後の世代は、本当に手続きや段取りがきらいである。
指示、命令は強制であり、封建主義の名残だと本気で学校の先生は信じ,教えているから始末が悪い。
兎に角どんな些細な事でも強制とか暴力は許されないと学校で教え込んでいる。
その報いは、自分達が受けているというのに、頑強に認めようとしない。
統制や規律は悪い事だと頭から教え込んでいる。
しかし、これは何も、自由主義とか共産主義に基づいているわけではない。
自由主義にも、共産主義にもこの様な考え方を是とするような根拠はない。
むろん極端な意見の持ち主はどの陣営なもいる。
しかし、集団や社会、組織を頭から否定するような思想は、自由主義にも、共産主義にもない。
大体、強制を否定する事は、法治主義の否定でもあるからである。
法治主義は、無法な強制は否定しているが、強制そのものを否定したら、法の効力は発揮できないから強制を否定するはずがない。
強制を否定するような思想があるとしたら無政府主義であり、隷属主義である。
又、無抵抗主義の一部である。無抵抗主義と言っても根本的に強制を否定しているわけではないからである。

自主性を重んじてとか、主体性云々といって規律や統制を否定する事は、欺瞞以外の何ものでもない。
なぜなら、規律や統制を否定する事は、自主性や主体性の否定をも意味しているからである。
規律も統制も自主性や主体性がなければ保てない事である。

共産主義国でなぜ書記長という役職の者が権力を掌握できたのか、又、国連で事務局長がなぜ実権を把握できるのか、それは情報系を抑えているからである。







       

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