38、なぜ、会社は潰れるのか



多くの人は、会社は潰れるものだと思い込んでいる。それは、人間の死と同じように自明な事だと思い込んでいる。それでありながら、もう一方で企業は、継続を前提として成り立っているのも事実である。つまり、会社は存続する事を前提としており、潰す事は考えていない事になっている。

会社は潰れるとしていながらも、一般の人からすれば会社を潰すというのは犯罪に等しい行為なのかもしれない。
会社は存続するものであり、会社を潰すことは許されない。
だから、会社を潰した経営者は何らかの罰を受けるのは当然である。全財産は没収されるべきである。
しかし、会社が潰れるのは何も経営者だけが悪いと決まっているわけではない。
経営者一人の力ではどうにもならない不可抗力な働きがある場合が多いのも事実である。
経営は、単純に真面目にやっていれば、頭が良ければ上手くいくとは限らないし、多分に運や偶然に左右されている不文もある。悪党だって事業を成功させる者はいるのである。
問題はなぜ会社は潰れるのか、そのメカニズムである。
会社が潰れるには、潰れるなりの理由や原因があるのである。
その中には、不正行為も含まれているが、不可抗力な事象も又含まれているのである。

公共事業が失敗しても経営責任者は処罰されることは希である。多くの人は、慰労され、同情された上、退職金も受け取るのが常である。
それでいて、民間企業の経営者が経営に失敗すると厳しく糾弾される。
公共事業の経営責任者は、儲けを考えていない。公共事業は営利、即ち、利益を目的としていないと言う事を公言とし、尚且つ前提としている。だから、経営に失敗したとしても運が悪かった程度にしか思われない。だから、同僚から同情されるのがオチである。悪かったなどと言われるはずがない。

それは、民間企業は私利私欲に基づき、公共事業は、公共の福利に基づいているという錯覚に基づいている。言うなれば、これは差別である。公共事業は失敗しても許されるが、民間企業は失敗が許されないのである。
しかも、公共企業の多くは独占的であるのに対して、民間企業は、競争を前提としている。

なぜ、公益事業に許されて、私企業には許されない事があるのか。
そもそも、公益事業と私企業とでは、目的と働きが違うという前提に最初から立っている。
そして、公益事業と私企業は仕組みも違うのである。
公益事業は、労働と成果とが分離されている。それに対して、民間企業は、反対給付と対価によって労働と成果が直接的に結びつけられている。必然的に自分の仕事に対して責任が伴うのである。
要するに、労働の成果が私企業では、報酬や評価と直接結びついているのに対して、公益事業は、労働の成果と報酬や評価が直接的に結びついていない。これは決定的な違いである。
故に、公益事業では、組織内における公正な競争が機能していないのである。

そもそも公益事業は、営利と言う事を否定している。公益事業は、利潤を追求する必要がなく、利益を上げる必要がないのである。それでも、公益事業が成り立つのは、たとえ、欠損しても資金の供給がされるからである。これは財政も同じである。

ここで注意しなければならないのは、事業を継続する力は利益にあるのではなく。現金にあるという点である。赤字であっても、現金が供給され続ければ事業体は存続できるのである。事業体の存続を決めるのは利益ではなく現金である。
例えどれほど社会貢献をしていようと、また、社会にとって必要不可欠な事業であろうと、現金の供給が止まれば、社会的に抹殺されてしまう。清算されるのである。

公益事業と私企業の決定的差は、利益、利潤に対する考え方にある。公益事業は、利益は不必要、もっと極端に言えば必要悪だという認識である。それに対して、私企業は利益を上げなければ存続できない。ある意味で利益を目的化する程、重視している。

利益は、企業を継続するための決定的要件ではないが、決定に際して重要な指標である事には変わりない。つまり、損益の状態を見て資金を供給するかしないかが決まるからである。企業の存続の是非は、資金にある。

なぜ、企業は清算される必要があるのか。
清算されるか否かは、資金が供給されるか否かにかかっている。
資金の供給というのは、事業体側からすれば、資金の調達を意味する。
資金の調達は、第一に、収益的手段、第二に、負債的手段、第三に、資本的手段のいずれかの手段による。
収益的手段は、売上、即ち、正当な営業活動による資金調達の手段である。
第一に考えなければならないのが収益的手段であり、それを表す指標が利益なのである。
何らかの理由によって収益的手段だけでは資金不足が生じた時、負債的手段や、資本的手段を用いる必要が生じる。
最終的に事業体の存続を決めるのは資金である。資金の供給が断たれたら事業体は存続できなくなるのである。
利益は、資金を供給する貝中を決めるための決定的な指標である。故に、利益は重要なのである。

本来、企業は、企業が経済的合理性に反した違法な行為を起こした結果、企業が存続しえない状態に陥った時、企業は清算されるべきなのである。
単純に赤字だからと言う理由だけで資金の供給を止めるべきではない。
問題は赤字の原因である。
明らかにしなければならないのは、企業が必要なだけの収益を上げられなくなる理由である。

経営判断と善悪の判断は基本が違う。経営に失敗することは犯罪ではない。しかし、経営に失敗すれば、経営者は犯罪扱いである。それは社会的責任が重い、あるいは、それだけ報酬をもらっているという事であろうか。しかし、それだけでなく別の次元の価値観が働いているようにも思える。
しかし、ビジネスはビジネスで合って割り切って考えるべき点はビジネスライクに処理すべきなのである。

財政の問題は、結局、利益と言う事を認めず、その結果、労働と成果が直接的に結びつかずに、経済を制御する仕組みが機能しない事にある。

自由経済の本質は、働きに応じて通貨を分配し、生活に必要な財を市場から通貨によって調達することで公正な分配を実現する体制である。自由経済を成立させる為には、効率的な生産体制と効率的な市場が前提となる。
経済運動の基本は、回転運動であり、振動だと言う事を忘れてはならない。
振動を前提としないと一定の状態が累積することになる。
赤字国は、赤字を累積し、黒字国は黒字を一方向的に累積することを前提としなければならなくなる。
もし均衡を前提とするならば、経済の状態を赤字と黒字の間を緩やかに振動するように設定すべきなのである。

経済の均衡を考える場合、利益が赤字であるかどうかではなく、
利益の水準、利益の平均値の推移、平均値からの距離が問題となるのである。
利益が何処を基準にしてどれくらいの振幅で振動しているかが重要となる。

つまり、分散と平均が重要なのである。中でも、正規分布と中心極限定理が鍵を握ってくるのである。

利益と金利は時間価値を形成する。故に、金利と利益とは密接に影響を及ぼしている。

無原則な競争を放置すれば、利益はなくなってしまう。

利益は、収益と費用の差である。

収益は単価の集積である。

市場では、商品を測る基準は価格にしかない。
無規定、無原則な競争を放置すれば、価格競争に収斂してしまう。

価格は、費用対効果によって決められるべき処であるが、実際は需給に左右される。
つまり、費用と収益を決める要因は別々にある。
その為に、収益と費用は、放置すれば均衡する方向に向かう。

費用の本質は付加価値である。
費用は分配の実体を意味している。

それに対して収益は、消費者の必要性と欲求に基づいている。
いくら費用を掛けても消費者が必要性を認めず、欲求がなければ収益を維持することは出来ない。

競争は、経済活動を促進するための手段である。
現代の経済学では、競争を絶対的な原理としている。
しかし、競争は、手段であって相対的な事である。絶対化できる事ではない。

世間知らずの学者は、競争力がなくなった作業は清算して、競争力のある産業へ移行させれば良いなどと簡単に言うが、そんなに簡単に右から左へと産業構造を変換するわけには行かないのである。一つの技術や知識を蓄積し、或いは人材を育成するために費やした費用や時間は、簡単には取り戻せない。
大体、世の中に必要とされる仕事なのに収益が維持できなくなるのには、それなりの理由がある。その原因を明らかにし、本当に必要とされなくなったのか、或いは、競争力を失った心の原因は何かを調べもせずに、単に、競争力がなくなったのだから清算してしまえと言うのは、野蛮な話である。
競争力だけが全てではないのである。

競争を否定するわけではない。ただ、競争は全てではない。
何処をどの様に競うかが、重要なのである。
何でもかんでも、無原則に争わせることを競争というのではない。
競争は、ルール、規制があってはじめて成り立っていることを忘れるべきではない。
規制のない争いは、競争ではなく闘争である。

スポーツは、点を取り合う。即ち、加点主義なのである。
現実の社会における経済活動は、自然数を土台にしている事を表している。
これは、経済にも言える。今日の経済は加点主義なのである。

自由経済の本質は、働きに応じて通貨を分配し、生活に必要な財を市場から通貨によって調達することで公正な分配を実現する体制である。自由経済を成立させる為には、効率的な生産体制と効率的な市場が前提とな

自由経済を形成させるためには、前提が必要となる。
最初の設定によって市場経済の働きや状態は制約される。
経済の常態として均衡を前提とするか、均衡を前提としないかを先ず定める必要がある。均衡を前提としたら、負、即ち、赤字になる事を怖れてはならない。
一方向の運動のみを是としたら、運動は、直線的なものになるからである。正の事象が累積すれば、他方で負の事象が累積する。

重要なのは、資金の環流が経済の仕組みを動かしているという事である。
故に、資金が余っている所からいかにして資金が不足している箇所に資金を環流させるかが鍵になる。

経常収支と資本収支の関係、構造を解明することである。

市場経済では、先に資金を分配し、その後、市場から資源を調達してくると言う順番となる。

資金が欠乏した地域には、容易に資金の環流が起こらない。
なぜならば、資金源となる生産手段が毀損している場合が多いからである。
その為に、資金を集めるための資源がない。この様な状態に陥ると資源は、流出する一方になっしまい資金の環流が起こらなくなる。

この様な地域には、生産性を伴う資金を環流させる施策をとる必要がある。
生産性を伴う資金というのは、実物市場に対する投資である。
資金を環流させる手段には、投資、貸与、贈与などがある。問題は生産性を伴う資金の環流が必要なのであるから、基本的には実物投資が最も効果的である。

生産性を伴う資金の流れとは、付加価値を生み出す資源、生産手段に結びつく資金の流れを言う。

多くの経営者は、資金供給が断たれるのを怖れて利益を操作することになる。
赤字が悪いのではない。赤字になる背景や前提状況、構造、状況が問題なのである。
短絡的に赤字だからと言って資金を断つ事こそ犯罪行為である。
その結果、決算書が汚くなるのである。
会社経営の依って多くの人が生活の糧を得ている事を忘れてはならない。

事業体は、事業だけを目的としているのではなく、生活共同体の性格を持っているのである。

なぜ、企業は清算されるのか。それは、企業が経済的な合理性や必要性を失うからである。
しかし、それを犯罪として懲罰の対象にしたら冒険的な事業者はいなくなる。
問題は、経済的合理性なのである。

民間企業は、経済的合理性が失われたり既得権益が大きくなって所得に極端な偏りが生じたり、企業が私物化され不正行為があると清算されてしまう。清算されるから、企業には相互牽制され、自浄作用が働くのである。




       

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