35、権力と金


戦後のマスメディアにはいかがわしい所がある。
そのいかがわしさは金と権力に纏わる部分、そして、猥褻な部分が最たるものだ。

金と権力に関して、何が、いかがわしいかと言えば、人は、皆、金と権力の亡者のごとく捉えている事である。それに、権力や金は、悪いものと決めつけている。
だから、資本主義社会の指導者達は悪党どもに過ぎなくなる。

特に、戦後の政治家や実業者は守銭奴が権力の亡者しかいない事になる。
それを写実的だという。
人のある一面特に醜い一面を捉えて、それを全人格的な問題にすり替えてしまう。
そして、それだけがあたかも真実であるかの如くかき立てる。
ここまで来ると単なる誹謗中傷である。

自由主義社会で権力者や成功者を誹謗中傷する者は、社会主義や共産主義利権力者の肩を持つ。その点を見ても彼等が何を言わんとしているかが解る。

確かに、権力や金には、人を狂わせる魔力がある。
しかし、だからといって最初から金や権力、権力と言うより力だけを目当てにしているわけではない。
力や金だけが目的なのでは、人はついてこないのである。
力や金を手に入れてこの世の中を自分の理想とする世界に変えてやろうという志や気概がなければ力や金を手に入れるだけの執念は生まれない。

金や力というのは、欲しいと思ったからと言っておいそれと手に入れられるものではないのである。
ただ、金や力を手に入れた後、初志、初心を忘れ力や金の魔力に囚われ堕落してしまう。
そういう者達が危険なのである。

力や金を手に入れる事は、悪い事ではない。
ただ、力や金を手に入れるのは手段に過ぎない。
手段である力や金を得る過程でいつの間にか、金や権力を得る事が目的化し、手段を選ばなくなり、初志は色褪せて、道徳的に堕落していく。そして、権力を主張にした時は、すっかり悪党になっている。そして、自分の地位や富を守るためにのみ力と金を使うようになるから問題なのである。

要は、力と金を手に入れて何をするかが大切なのである。
主は志にあって力と金はあくまでも従である。それが守れないから金や力は悪になる。悪の手先になるのである。
しかし、悪を倒すのも金と力である事を忘れてはならない。

金と力の持つ魔力を見極めなければ、正義は実現できないのである。
ただ金と力を忌み嫌っているだけでは、金と力を抑える事は出来ない。
金や力は、エネルギーや科学技術のような事である。
自動車だって包丁だって使い方次第で凶器にも利器にもなるのである。

権力や金は悪だと最初から決めつけ権力者や金持ちは悪党だとしていたら世の中は何も見えてこないし、改善の余地もなくなってしまうのである。

何事もオール・オア・ナッシンュグに決めつけることが問題なのである。
人が力や富を求めるのは志や目的があってである。その志や目的を失ったら残されるのは我欲だけである。
それが醜く、悪いのである。
権力や金が醜く、悪いのではない。
ただ権力や金には、人を醜く、悪く変えてしまう魔力がある事を忘れてはならない。
だから、権力や金に対して権力者は潔くあらなければならないのである。





       

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