31、画一と多様




東京で飲むコーヒーも、ニューヨークで飲むコーヒーも、静岡で飲むコーヒーも同じというのは、進化というのだろうか。
経済が成長し、成熟化するのつれて物事は画一化されて言っている気がする。
住む家も、画一化され。
着る服だって、民族服が廃れ世界中同じファッションを追い求めている。
テレビが発達するとしゃべる言葉からも方言が消えていく。

美味いとか、不味いとか言う事ではない。選択の余地がなくなりつつあるのだ。
同じ物を求めて行列を作っている物である。
特別な物ではなく、特別な事を求めているのに過ぎない。
時間がたてば特別なものなどなくなってしまうのである。

気がつけば、時間も、生活も、仕事も、皆画一化され、無表情に死に向かって行進している人々の群れだけがとり残されている。

我々はどんな世界に住みたいと思っているのだろうか。
画一的に決められた家に住み。同じ服を着て、同じ物を同じだけ食べる。同一労働同一賃金。同じ事を同じように学び、同じ仕事を同じようにする。何事も平均点であれば良しとする。可もなく、不可もない人生。色のない街。色のない景色、そんな世界に住んで、平均的な生き方をしたいというのであろうか。
一番大切な事は、どんな世界に生きたいかである。
むろん、昔だって京都や江戸の町並みは画一的な部分がある。しかし、現代社会のように何の調和もなくただ同じ物ではなく、それなりの個性が許されていた。現代社会は、人として本来許される部分での多様性まで否定しているようにすら見える。

枠組みを予め作って嵌め込もうとしても、あそこは少し足らないし、あそこはだいぶはみ出ているという事になる。
では、枠組みは必要ないのかというとそうではない。
無理に枠組みに嵌め込もうとするから枠組みが邪魔になるのであって枠組みの意味を良く理解して使う場、それはそれで役に立つ。
現実というのは規格どおりにはいかないのである。

現実の世界は、画一的ではない。画一的でない世界を画一的にしようとするから最初から無理がある。
世の中は画一的でなく多様だから面白いのである。
人の顔は皆違う。皆違うからいいのである。
皆同じ顔をしていて同じ反応したら、面白くも何ともない。何ともないどころか怖い。
しかし、統制しようとする者は、画一化しようとする。その方が管理しやすいからである。
しかし、世界は管理する事を求めていやしない。

画一化しようとする力と画一化しえない現実がある。
人の一生は確かに限りがある。しかし、人生五十年と規格化できるわけではない。
それを働ける年齢は六十までと規格化してしまうのが現代人である。
画一化できない物を画一化しようとすれば、必然的に足りない部分や余る部分が出る。
しかし、人間の肉体を画一的に切ろうとしても土台無理なのである。
人の身長を一定の高さに決めてそれに合わせて手足を切ってしまえば人でなしになる。

人の好みなんて千差万別である。
ファッションセンスだって、運動神経だって同じではない。
何が美味しくて、何が嫌いか。好き嫌い、好物、趣味は親子だって違う。
体格だって、性格だっ皆違う。
皆、差がある事を前提としている。
それが平等である。
差があるのがハッキリしているのに、差がないとして皆を画一的に扱ったら不公平になるに決まっている。それは不平等だ。
暑がりな事が解っている人間に厚着をさせたり、寒がりなのが解ってるくせに薄着にさせたら、平等であるわけがない。
皆に同じ服を着せたからと言って平等が実現できるわけではない。もっと言えば平均的な服を作ってあてがえば平等が実現できるわけでもない。

差は違いである。
差を認めないという事は、違いを認めないという事である。それは平等とは違う。平等というのは、お互いの違いを認めた上に成り立つのである。
格差が悪いわけではない。格差の有り様が悪いのである。
自分の持つ力だけでは乗り越えられない格差、家柄とか、人種とか、性別とか、宗教とかそういう事で差別されるのは不当である。しかし、社会に何らかの格差が生じるのは、防ぎきれないし、それを力で均一にしようとしたら、それはそれで差別を生み出すのである。
だから一概に差が悪いと決めつけたら、真の平等を実兼する事は出来ない。

昔、日本の軍隊では、靴に自分の足を併せろ、服に自分の身体を合わせろと言ったという。服を着るのではなく、服に着られている事になる。だから、軍は、非人道的だと言われたのである。
人は人なのである。機械ではない。

経済という数学は、多様性を前提として成立している。そして、それこそが数学の原点、本来あるべき姿なのである。

学校では、教室を作り、その教室に子供達を振り分ける。教室は、一律にはならないのである。足らない教室もあれば多すぎる教室も出てくる。それが現実である。
成績の良い子が集まり教室もあれば、できの悪い子が集まる教室もある。
教室に合わせて子供達を規格化する事は不可能であるし、何の意味もない。

権力者は、何でもかんでも、個々の単位毎に画一化し、規格化しようと試みる。
しかし、現実は多様なのである。
自由と平等、それは多様と画一を象徴している。

自由か平等か二者択一の問題ではない。自由と平等をどう折り合いを付けていくかの問題である。

成熟すればする程、物みな画一化されているように思える。
しかし、成熟というのは、本来、多様化を意味しているように思える。
画一化が進めば進む程、逆に、多様化に対する目に見えない欲求が高まっているように思える。

インターネットの発達は、画一化の隙間を縫って多様化を推し進めていると言われている。
しかし、現実の世界の表面には現れてこない。
静かに、深く潜行しているようである。

ロングテール、ニッチと言うけれど、人々はやっぱ定型化された社会の中で呻吟している。
肝心なのは目に見える世界で画一化が進んでいる事なのである。

ただ、これだけは忘れてはならない。
現実の世界は、多様だと言う事である。
それが物理学的世界との決定的な違いである。

人は皆違うのである。姿形も追い求めている物も、性格も誰一人同じ者はいない。
一人一人は皆違うのに、集団になると個性が消えて画一的になる。
画一的になると平均がものを言うようになる。

かつて、共産主義国では、人民服と言う画一的な服を着せられた。
彼等にとって個性は邪魔などころか、悪なのである。
それが、差別や格差からの解放だという。
しかし、今の資本主義だって五十歩百歩、人を画一化している事に大差ない。

人々は平均値によって規制され、群衆の中に埋没していく。

平均の持つ意味というのはこういうことなのか。
しかし、忘れては何ない。人は皆違うのである。
それを差別というのではない。生まれつきである。
だとしたら、神は、不平等なのか。差別を認めているというのか。
そうじゃない、そうじゃあない。
人皆違うからこそ平等なのである。平等に違うのである。
美人だけが幸せになる資格を持って生まれたわけではない。
誰だって平等に幸せになる権利はあるのである。

全体が拡大し、数の量が多くなる。数が多くなると均一化、画一化が進み、平均が問題となる。
それは数の集合の中心が重要となるからである。
集まるとただの塊となり個性が殺されてしまうのである。そして、平均値によって画一的な性格に統一されてしまう。
群衆は、普段は、平均的なのである。
しかし、画一化された群衆は時として暴走する。
それがバブルを引き起こし、株の大暴落も引き起こす。

画一化された群衆は、戦争や革命への熱狂を生み出し、世界や体制を破壊する程のエネルギーを生み出す。
逆に熱気を奪い取るのも画一化である。

確かに、インターネットは多様性を生み出す。しかし、インターネットの土台は画一化されていく。
市場は、独占され画一化されていく。
それはエントロピーの増加のようなことであり、市場から熱気を奪い取っていく。
市場は冷え冷えに冷えていくのである。平均的になっていくのである。

改めて、平均とは何かと問うと、解っているようで解っていない。

普通一般に平均というのは均一なことを前提している。しかし、実際には、均一な事というのは希である。通常は、何らかの差があるのが普通である。

数によって計られる物の性質は均一ではない。
加重平均は、均一でない対象の性格を併せて考えられた平均である。

経済成長は、一方において画一が進むのと同時に多様性も進む。

現代社会は、画一的な方向に向かっているのか。それとも多様的な社会に向かうべきなのか。
我々は、何を求めているのか。
何処へ行こうとしているのか。
最大の問題は、それを見失っていることに相違ない。

我々は何を求めているのか。
生活や人生に。
それを明らかにしないままに経済がどうのこうのと、がなり立てた処で意味がない。
何を経済に求めているかが解らないのだから。

我々は、東京で飲むコーヒーも、静岡でのみコーヒーも、ニューヨークで飲むコーヒーも同じ品質である事を求めているのだろうか。

かつて、「不揃いのリンゴ達」というドラマがあったが、人は不揃いなのである。
不揃いな事を均一な事と決めつけてしまう事に最初から無理がある。

人それぞれには、人それぞれの生き方がある。人それぞれには、人それぞれの好みがある。
人それぞれの思いや生き方を無理矢理一つにしてしまうのは、残酷な事である。
人それぞれの生き方を無視したら全ての人が幸せにはなれないのである。






       

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