2.貨幣とは



 ギャンブルや投機は、ある意味で貨幣の働きの性格の本質をよく現しているのかもしれない。金が金を生む、マネーゲームというのは、実物経済とは、無縁なところにある。謂わば賭け事である。賭で儲けた金はあぶく銭と言って働いたという実感が得られない。生産的でないのである。
 お金は、それ自体からは何も生み出さない。非生産的な物である。お金は、何らかの実体、対象があって本来の機能を発揮する。「お金」は交換手段なのである。
 貨幣の働きが実体から乖離し、数値的な事象、特に、確率統計的な事象に特化してしまうとギャンブルや投機のような事象になってしまう。ギャンブルや投機の何処に問題があるのか、それは、ギャンブルや投機には、生活実態がないという事である。生活実態のないから中毒化する者が出てくる。

 経済の根本は生活である。生活感のない経済というのは、実体のない世界である。言い換えると色のない世界。魂のない世界である。
 魂のない肉体は、ただの骸に過ぎない。醜く朽ち果てていくしかないのである。

 貨幣価値というのは突き詰めてみれば、数値情報に過ぎない。
 お金に要求されているのは、働きであって価値ではない。この点を間違うと経済の本質を見失う。
 お金自体に価値があるわけではない。

 現在の一万円札を江戸時代に持っていっても印刷紙以上の価値は持たない。ただの紙切れである。江戸時代の小判や豆銀を現代に持ってくると金や銀としての価値に骨董的価値が付加されて評価される。ただ通貨としての価値はない。日本のお金を違う通貨圏の国に持っていっても特殊な場合を除いて一般の日常生活では通用しない。
 貨幣価値というのは、その時代、その地域において付加される事なのである。
 突き詰めると表象貨幣は、働きだけを切り離して個々の物に結びつけているといえる。貨幣経済では貨幣の働きが意味を持つのである。極端な話、貨幣が電子情報化され記号や信号に取って代わられ物としての実体も必要とされなくなれば、貨幣は単なる情報となる。

 経済の実体は生活にあって金儲けにあるわけではない。金によって貧困層が拡大し、お金の為に生活の成り立たない人々が増えているとしたら、それは本末を転倒している事なのである。昔は、お金がなくても生きていけたのである。

 お金は道具である。お金は手段である。お金は、交換手段である。この点を決して忘れてはならない。
 金儲けは手段になり得ても目的にはなり得ない。
 経済の目的は、生活を豊かにすること以外にないのである。

 貨幣は人間が作り出した事である。貨幣空間は虚構の世界である。
 人は、お金に踊らされているだけなのである。
 貨幣は、自然に成る物ではない。自然の状態では貨幣は、生まれないのである。貨幣空間では、何らかの人為的が働きがあって価値は生じる。人の力が加わらなければ貨幣価値は成立しないのである。
 貨幣価値は突き詰めて考えると数値情報に過ぎないのである。

 数値は作られた事である。自然界に数値という物があるわけではない。貨幣価値は数値で表された事である。故に貨幣価値で表される経済的価値も作られた事なのである。作られた事は、いくらでも作り替える事ができる。

 この事は大前提である。そして、この前提に立って経済について考えてみよう。

 現代人は、経済はお金の問題だと思い込んでいる。
 しかし、それは認識の問題である。
 我々は経済を貨幣的事象を通して認識している。逆に、貨幣を通じてしか経済的事象を認識できないとも言える。
 だからこの世の出来事は何事もお金だと言う事になってしまうのである。

 経営の目的は、金儲けにあると思い込んでいる人が結構いる。それも、会計士とか、税理士とか、銀行員とか、会計や金融を生業にしている人の中に大勢いる。
 しかし、金儲けは手段であって目的にはならない。金儲けを主目的にしたら、企業は成り立たなくなる。企業の目的は事業であって金儲けや利益を上げることではない。

 金儲けが目的だなんて錯覚するからモラルがなくなるのである。金儲けを目的だなんて言っている者は最初から道徳観が欠如している。詐欺師、ペテン師と代わらないのである。
 経営の目的は利益だなんて言っているから、事業から理想や夢、理念、道徳が失われるのである。考えても見れば解る医療法人や介護施設が金儲けだけを目的としたらどうなるか。それは悪徳でしかない。

 貨幣経済で重要なのは価値の抽出と数値化、即ち、象徴化である。価値は、抽出され、数値化されて貨幣価値に転じる。
 価値を抽出する過程で、価値は抽象化され数値化される。問題は、その過程で価値が元の対象の本質から乖離してしまう事がある事である。価値を抽出する過程で財の持つ属性が削ぎ落とされ、単なる数値でしかなくなる。
 社員数というと、人は、名前とか、性格とか、生き方とか、信条といった事が削ぎ落とされ、一という数値でしかなくなる。しかし、実際には、一人ひとりに名前があり、性格があり、人生がある。
 土地も本来の価値、その土地の持つ属性が削ぎ落とされ、地価という価値でしか評価されなくなる。しかし、土地の価値は、その土地の利用価値で決まる物なのである。
 例えば、海に近い土地とか、よく肥えた土地とか、思いでのある土地とか、由緒正しい土地だとか、歴史のある土地とかである。土地は利用目的によって様々な形を持っている。

 経済は、認識の仕方によって違った様相を見せる。
 我々は、表面に表れた数値の背後にある実体や本質を見抜かなければ、ならない。
 経済本来の目的や価値を見失えば表面に現れた数値、貨幣価値に振り回される事となるからである。

 豊かさも、貧しさも、お金が原因だと思い込み、お金が全てだ思い込んでいる人が多くいる。
 お金さえあれば何でもできる、何でもかえると信じ込んでいるのである。
 しかし、お金は手段に過ぎない。お金は総てではないのである。
 それ以前に、お金を使う人、一人ひとりの人生がある。
 自分があるのである。

 豊かさは貨幣価値だけで表す事はできない。富裕層を金持ちと表現するように、貧富の格差を貨幣価値だけで捉えようとする傾向がある。しかし、実際は、所有権の問題であって資産や資源をどれくらい所有しているかによって実体は表されるのである。
 不動産が好例である。地価の下落によって一見、地主は、多くの損失を出したように思われがちであるが、実際の所有している土地の広さに変わりがない場合が多い。むしろ、地価の下落によって資産を増やしている地主もいるのである。
 ただ、そこで問題となるのは、名目的な価値によって左右される事柄なのである。名目的価値というのは貨幣価値であり、貨幣性資産や負債、税のように名目的な価値によって謀られる勘定が実質的価値と乖離する事から生じる事が問題となるのである。

 厳密に言えば豊かさの絶対的基準などない。豊かさも貧しさも、主観的、認識の問題なのである。

 経済とは生活である。
 経済とは生きる事である。

 経済は、生きる為の活動である。だから、蟻や犬、猫にも経済はある。それこそ草木にも経済はある。経済とは、ごく身近な物事なのである。

 どうしたら充実した人生が送れるか、どうしたら、皆を幸せにできるか、どうやって家族を健やかに養っていくことができるか、そんな事を語り合うことが経済について話し合うことなのである。
 金儲けはあくまでも手段に過ぎない。その点を間違うと経済の本質を見間違うことになる。

 経済は、人生である。
 故に、経済を考える事は、人生を考える事である。
 経済学は、人の一生を考える学問である。
 経済学は、金儲けの術を学ぶ事が本旨なのではない。
 経済学を学ぶ事は、人生、即ち、生き様や生き方を学ぶ事である。

 たとえて言えば、老後の生活に関して、介護制度や介護設備を整えることを考えるのが経済学の目的ではない。
 老いた後、如何に生きるかを考えるのが経済である。
 介護を学ぶ事は、老いを学ぶ事である。
 そして、老後の生活を如何に精神的にも肉体的にも物質的にも豊かに暮らせるようにするかを考える事が経済学の目的である。
 介護制度や介護設備を如何に整えても、老後の生活が精神的にも肉体的にも貧しいものであれば、経済的には失敗なのである。
 生まれて、成長し、家庭を持って、年をとり、そして死んでいく。それが経済の道筋である。
 生病老死。
 その過程が経済を成り立たせている。
 如何に、人間らしく心豊かに人生を送れるかを考えるのが経済学である。

 それは、お金の儲け方だけでなく、お金の使い方、使い道を学ぶ事でもある。
 一般に、経済学というとお金の儲け方ばかりを研究する傾向があるが、お金の使い方を学ぶ事も経済を学ぶ事なのである。

 貨幣は、突き詰めると数値情報である。貨幣経済は虚構である。
 人は貨幣情報に踊らされているのである。




       

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