12、経済を構成する要素


認識の三つの要素は、位置と運動と関係である。

先ず、明らかにしなければならないのは、経済とは何かである。
現在の多くの人は、経済と言う事の意味もわからずに、経済について語っている。
それが根本的な間違いなのである。

経済は、決して金勘定の事を言うのではない。
経済を語る時、儲かるか、否かが一義的に問題とされるのではない。
一義的に問題とされるのは、生きるか死ぬかの問題である。
そして、次に問題となるのは、如何に、人間として生きるかである。
その上で、貨幣的な事象が問題となるのである。
お金の問題が真っ先にあるわけではない。

貨幣というのは、相対的な事である。
何らかの実体があるわけではない。

百円と言っても百円という実体的な価値が存在するわけではない。

原価計算がその最たる事である。
原価は、会計の枠組みの中で作られた事なのである。
原価の計算方法は、一種類ではない。
原価計算の仕方は幾つもある。
そして、原価計算の仕方で利益も変わるのである。

一兆円だと言われても、一京円だと言われても非現実な事であって庶民には直接的な関わりはない事なのである。
そんな事は、一万畳の部屋にすんでいるとか部屋が千室ある豪邸に住むような荒唐無稽な事柄で、私にとっては、哀れに思えても羨ましいとは思わない。
何百億円なんてお金がなくても通常であれば生きていける。むろん、ハイパーインフレに襲われて一個のパンが何億もするようになったら話は別だが。
それこそ般若心経の世界手の出来事のような者である。
お金の遣り取りは、仮想現実の出来事であって、本来、金なんてなくても生きていけたはずなのである。自分達が息めた眼に必要な物を手に入れる事が本質なのである。
だからといって金の効用を否定しているわけではない。お金をなくしたらどんなに悲惨な状況になるかカンボジアの歴史が示している。

現代人は、金に囚われて金の本来の使い道を見失っている。金は道具に過ぎないのである。金はあらゆる価値を交換に特化しているのである。交換が必須でなければ金は必要でない。生きる為に必要な物を手に入れられればいいのである。金は交換手段にすぎないのである。そして、貨幣価値は、交換のための必要性から生じたのである。金は物と物、或いは、物と労働の仲立ちをしている媒体なのである。金が価値の実体を持っているのではなく金を通じて交換しようとしている対象に価値があるのである。
現代人は、金という交換手段に目が奪われて、金の背後にある交換という行為の本質を見失っているのである。金のために命を失ったら意味のない事である。人は金儲けのために生きているわけではない。
お金が機能しなくなったら、物の経済に立ち返ればいいのである。
経済学者は、ロビンソンクルーソーが好きだが、経済学的にどうこうという訳ではないが、現実に無人島で自給自足の生活が出来たら金など必要でなくなるのである。

働いて、報酬を得て、生活に必要な物を市場から手に入れ、家族を養う。それが人としての生きる道である。そのためにお金が必要なのである。金のために人は生かされているわけではない。

しかし、だからといってお金が卑しいわけではない。
お金に汚い人が卑しいのである。

根本にあるのは、如何に生きるかである。
経済学とは如何に生きるかを考える学問である。

経済の根本は、生きる為に必要な資源と、それを調達するための手段である。そのために働くのである。
どの様な生き方をするのか。又、社会は、人々にどの様な生き方を保証するのか。或いは強制するのか。
経済の根本には、社会の有り様が隠されている。
自由な生き方を保障するのか、それとも、全体主義的な生き方を強要するのか。それによって経済体制も変わってくる。
自由主義は、経済だけでも、政治体制だけでも実現できないのである。経済的自由は、政治的自由に不可分に結びついている。
自分達がどの様な経済体制、政治体制を選択するのか。それによって生活の土台は規制される。
そして、どの様な生き方をするのか。そのためにどの様な資源を必要とするのか。
先ずそれが肝心なのである。経済は根底は生き様なのである。
その上で、どの様にしてその資源を手に入れるかが問題となる。
労働を基礎とした社会では、働いて得た金で手に入れるのが原則である。
しかし、全ての物が金によって手に入れられるわけではない。
金によって手に入れられる物は金によって手に入れられる物に限定されているのである。
愛情や幸福、信念、寿命、若さ、時間、両親等は金銭では手に入れられない。

重要な事は、経済の本質は、働きに応じて生きていく足に必要な資源を配分する事だと言う事である。
お金はそのための手段である。
分配の手段には、経済的手段と、政治的手段と、暴力的手段がある。
経済的手段には、市場を通じて分配する市場的手段と組織を通じて分配する組織的手段がある。
話し合いや権力的手段を用いるのが政治的手段であり、軍事力や武力を用いるのが暴力的手段である。

経済的手段で解決できない場合は、政治的手段によって解決を図り。政治的手段で解決できない場合は、暴力的手段で解決を図る。
暴力的手段は、最終的手段なのである。

経済の自由化は、集権的体制を前提とする。自由な交易、統一的法や制度を前提とするからである。自由市場は、民主的体制を促す。自由市場は、経済的に自立した個人に依存するからである。経済的自立は、政治的自立の前提となる。

経済というのは、生きる為の活動である。
経済は、貨幣的事象ではない。
貨幣は、生きる為の活動に必要な二義的な手段である。
貨幣は、本来、一義的な手段ではない。
経済の一義的な手段は、生産、貯蔵、分配、消費、労働である。

重要な要点は、貨幣経済は数値的経済だという点である。
対象に単価を掛け合わせる事で価値を貨幣価値に統一した体制が貨幣経済である。
経済的価値は、貨幣価値に統一される事で定量的情報に還元される。
即ち、貨幣経済では、経済的価値は、貨幣によって数値として表現される事を前提としている。

会計というのは会計の枠組みの中で費用対効果を測定する。測定する過程で数値情報へと置き換える。
数値情報に置き換える過程では、経済的事象は数値的事象に変質するのである。
生産と消費と分配という事だけならば、十分に国民の欲求を満た巣だけの条件を満たしているのに、会計上や貨幣的には、財政が破綻したり、悪性のインフレーション、不況で苦しめられたりする。それは貨幣的現象だと言える。
貨幣化する事で経済現象が数値化されそれなりの利点はあるが、同時に、貨幣的現象に経済が振り回されるという事も起こる。
我々は、現実に起こっている事象の背後にある人的、物的事実を冷静に見た上で、貨幣の運用を見極める必要がある。
価格が問題なのか、商品が問題なのか、人の性向の問題なのその点を常に確認する必要がある。

貨幣経済を構成する要素は、人の要素、物の要素、金の要素に分解できる。
人は、人数、物は数量、金は価格によって数値化される。
貨幣価値は、人数と価格、数量と価格の積として表現できる。

人数の基礎は人口である。
経済変動は、時間の関数であり、分配によって引き起こされる。故に、経済で重要なのは差と比率である。

経済を構成する要素には人、物、金がある。人と物は、伝統的な要素である。それに対して金銭的要素は、歴史的な産物だと言える。つまり、人が長い期間かけて定着した要素、後天的、人為的要素である。

経済を考える時、経済を構成する要素や流れが重要になる。

貨幣経済を構成する貨幣的要素には収入、貯金、借金、支出の四つがある。
貨幣経済を構成する物的要素には生産、貯蔵、分配、消費の四つがある。
貨幣経済を構成する人的要素には、労働、所得、財産、生活の四つがある。
人は、貨幣経済下では、働いて、売って、買って、養うと言うのが原則なのである。
労働は、報酬となり、所得になる。生活は欲求を生み出す。生産手段は供給力を制約し、欲求は、需要を形成する。
貯蔵と在庫は、同じ働きをする。消費と廃棄と償却も同じ働きと見なすことが出来る。
物流や小売りは分配に置き換える事が出来る。

収入、生産、労働は相互に結びつき。支出、消費、生活も相互に結びついている。
収入と支出、生産と消費、労働と生活は非対称である。また、これらは時間的にも非対称である。
この非対称性を解消する手段は、貯金、借金、貯蔵、分配、報酬、欲求、時間である。
又、資金の流れによってこの非対称性は解消される。

これらの要素は、表裏の関係となってお互いに連結している。
物事には、表裏がある。生産と消費、需要と供給、労働と分配、収益と費用、投資と回収、調達と返済。これらの事象は表裏となって経済を動かしている。
例えば、生産量は、供給力となり。供給力は分配の元になる。消費量は、欲求を導き出し。欲求は、需要を喚起する。労働に基づいて報酬は支払われる。報酬は収入となる。収入は欲求に基づいて支出される。収入から支出を引いた余りは、貯金となる。貯金は貸し出され、貸し出された資金は借入金になる。投資した資金は計画的に回収される。投資の基本は、資金の調達と返済である。

所得と生産と収入は等しくなり、生活と消費と支出は等しくなる。
収入と借金の和は、支出と貯金の和と等しくなる。
生産と輸出入の和は、在庫と消費の和と等しくなる。

生産と消費、収入と支出、報酬と生活とを測る基準は必要性である。
必要性が過不足の基準となる。

粗利益や費用の中に占める人件費と減価償却費の割合が産業や市場にどの様な影響を与えるかそれが肝心なのである。
それは、経営主体に対して縦断的、市場に対して水平的、横断的に作用する。その双方の働きを明らかにする事が経済を安定させる鍵を握っている。

人の経済の基本は、生活である。生活は消費である。
故に、人の経済は消費である。
人の経済の基礎は、生活手段と生活費である。
生活費の中には、扶養家族の分も含まれる。
人の経済の基礎を構成するのは人口である。

経済の基礎となる物的要素は、生産手段と生産物に区分される。
経済の基礎となる人的要素は、所有と労働である。所有と労働は、権利と義務の根拠となる。
生産手段と生産物、所有と労働が経済の一義的要素を構成する。

生産手段と生活手段は、投資によって形成され、ストックを構成する。
生産物と生活費は、消費に結びついてフローを形成する。
生活は、生産物を消費する事で成り立っている。

生産手段が資本を形成する。
人的資本は、労働と私的所有権である。
物的資本は、土地、建物、機械、設備、そして、現金などである。
貨幣的資本は、元手である。

人の生産手段は労働である。故に人の生産性は労働によって決まる。
しかし、労働ができる期間は限られている。
勤労期間が人の経済を制約する。

物の経済の基本は、生産である。故に、物の経済の基礎は生産手段と生産物によっている。
生産手段とは、土地や労働力といった事を指す。生産物には、有形の物と無形な物がある。
生産物は、生産手段を組み合わせて製造される。生産手段には、物的な物と人的な事がある。

資金は、収入と借金によって調達され、支出と貯金(貸出)によって放出される。
資金は、調達から放出の方向に流れる。

自由主義経済は、労働と私的所有権を基礎としている。
労働を基礎としているという点は、社会主義も共産主義も同じである。
基本原則は、働かざる者食うべからずである。
そして、労働に対する報酬はお金で支払われる。これが鉄則なのである。
問題となるのは、働かなくても贅沢な生活ができる人間やどんなに働いても生活できない人間がいる事である。
そして、不労所得は、生産手段の所有から発生する。
その事をどう捉えるかが、資本主義と社会主義、共産主義の根本的な違いとなるのである。
しかし、資本主義も、社会主義も共産主義も私的所有権には何らかの制約を設けるべきだと言う事に関しては一致している。

働いている者が生活できなくなる最大の原因は差別である。故に、いかにして差別をなくすかが問題となるのである。

貨幣は、物の価値や労働の価値を測るための手段である。その上で、生産物を人に分配する手段である。

貨幣の流れで基本となるのは、収入と支出である。
そして、前提は、収入と支出は対称的ではないという点である。
収入に対して支出が上回れば資金不足が生じ、収入が支出を上回れば余剰資金が生じる。
この過不足を補うのは、借金と貯金である。

貨幣的な要素から経済行為を見た場合、基本的に売買と貸借しかない。売りと買い、貸しと借りは、表裏を為す行為である。それ故に市場取引は均衡するのである。

収入と支出は売買と貸借によって対称化する。収入と支出の働きは、生産物と生産手段を売買、或いは、貸借する事で実現する。
収入と支出は、資金の出納を記録した事に過ぎない。現金収支だけでは、資金か流れた結果、残高しか認識できない。結果だけでは、資金の働きを計測する事ができない。そのために考え出されたのが期間損益であり、利益である。

まず利益は、期間損益によって成立した概念だと言う事である。
期間損益というのは、一定の期間を単位として経済活動を評価するという思想である。
単位期間というのは、任意に設定される。
始まりも終わりも任意に定められる。
期間も一年以内ならば任意に設定できる事になっている。
しかし、一年という制約と単位という性格上期間は任意と言っても一定の原則が出来る。
ただ、重要なのは、単位期間は、所与の事ではなく、任意に定められる事だという点である。
なぜ、単位期間を設定するのか。それは始まりと終わりを設定する必要があるからである。
物事には始まりと終わりがある。しかし、明確に始まりと終わりが認識されているとは限らない。曖昧に始まって曖昧なまま終わる事が多い。
物事の始まりと終わりを明確にするから結果が明らかになる。終わりが明らかにされれば結果も明らかにできる。終わりが曖昧では結果も曖昧になる。始まりが明らかでなければ、目的は明らかにできない。目的が明らかにできなければ結果を評価する事はできない。なぜならば、結果は目的によって測られるからである。
始まりと終わりを設定しないと働きを測る事ができない。できる事は、結果を明らかにするだけである。結果だけでは働きを測定する事はできない。
また、現金収支は、結果だけしかわからないのである。なぜなら、現金収支は、現金の出入り結果だけを記録した物だからである。故に、単位期間を設定し、その単位間での個々の勘定の運動と位置と関係から働きを割り出すのである。

期間損益主義では、収入と支出を単位期間に分解して、収益と費用を算出する。収益に対して費用に対応させて費用対効果を測定する。費用対効果は、資金の流れの働きに相当する。

国防、警察、消防を費用対効果で測定する事が難しい。
それ故に、公共事業が設定される。
公共事業は税金によって賄われる。

これが大前提である。

今の経済学の問題は、人生を語らない事にある。
男の一生と女の一生は、違う。
それは性差別に依るのではなく、事実の基づいているのである。
新旧老若男女には別がある。

経済について考える場合、先ず、人の経済から始めなければならない。

自分が住む家について考える時、家の大きさや部屋の数から考え始めるだろうか。
それとも家の値段から考えるだろうか。
どちらも異常な気がする。
それよりも、先ず自分がどんな家に住みたいか。どんな生き方をしたいかから考え始めるのが自然だろう。
自分がどんな家を欲しているのか。どんな家に住みたいのか。
それはどんな生き方をしたいのかが根本になければ描けない。
部屋数が沢山ある家が欲しいとか、なるべく高価な家を建てたいというのは、本末を転倒している。
違和感を感じる。
何よりもどんな家に住みたいと思っているのか。
人の経済というのは、人生観がなければ描けないのである。

人の経済の根本は生活にある。
生活とは、消費である。この点を理解しておく必要がある。

現代経済は生産に偏りすぎているように思える。
現代経済は大量生産方式に支えられている。即ち、生産の効率が第一義なのである。
と言うよりも、効率というと生産性しか思い浮かばないそれくらい、生産に傾きすぎているのである。
しかし、効率には、分配の効率や消費の効率もある。

消費から見た経済性というのは、「もったいない」と言う言葉が象徴するように、節約や倹約等を言う。
無駄をなくすというのは、省エネルギーやリサイクル等である。
そう言った消費面から見た経済性というのは、必ずしも廉価を意味するわけではない。

消費は、消費者の個性に合わせる。故に、多品種少量生産が根本となる。
高くとも良い品を長く使うというのが消費の効率性である。
愛着を持って長く使う、それが消費経済である。

料理で言えば美味しい物をその人その人の好みに合わせて、適量を提供する。それが、消費経済である。
安い物を、早く、大量に提供するというのではなく。重視するのは、その人その人に会った味である。

生産性から見たら費用は、削減すべき事に過ぎないが、分配という局面から見たら、費用は、不可欠な事である。つまり、費用対効果の問題であり、費用の効率は均衡から求めるべき事なのである。

生産性からばかり効率性を求めると結局、過剰生産、乱開発、過剰供給、環境破壊、過当競争、浪費等を招く。

生産性から見れば、量が重要だが、消費から見れば重視すべきなのは質なのである。
大量生産から多品種少量生産に、それが、消費から見た市場の成熟である。
量から質へ。質を高める事によって市場の荒廃やデフレーションを防ぐのである。

人の経済で最も重要とすべきなのは人生である。
一人ひとり、その人の生き様である。
そして、生きる過程で何が必要とされるかが、消費経済で最も重視すべき事なのである。

人の一生には、乳児期、幼児期、学童期、思春期、青年期、壮年期、中年期、老齢期がある。
そして、人は年齢に応じて能力が変化する。
しかも、それぞれの期間には、働ける期間と働けない期間、即ち、収入が見込める期間と見込めない期間がある。

つまり、人の一生で考えなければならないのは、世代間によって収支が違うと言う事である。
人の一生は、働ける期間という観点から見ると養育期間、教育期間、勤労期間(独身)、勤労期間(既婚)、老齢期間、介護期間に区分される。

そして、収入が支出を上回る世代もあれば、収入を支出が上回る世代もある。それをどの様に補うかに対する考え方が、その人の生き方を決める。蟻の生き方を取るか、キリギリスの生き方を選ぶかはその人その人の人生観によるのである。

又、収入も能力や実績に依るとは限らない。
仕事の実績とは関係のない所で所得が決まる事もある。
それが許容範囲に納まっているかいないかが、社会制度の正当性を判断する要素になる。
所得の偏りを矯正するために所得の再分配の仕組みが必要となる。

人の一生の中で収入の得られる期間は限られている。しかも支出と収入が必ずしも均衡しているわけではない。
お金を必要としていない時に多くの収入を得て、お金が必要な時に、お金がない、収入が不足すると言う事が常態なのである。

報酬は、自営業者を除いて、労働の対価として組織的に分配される。自営業者の報酬は、市場取引を通じて分配される。
つまり、収入を得るためには、基本的に働けると言う事が前提条件となる。
働きがないという事は、収入を得る権利がないという事になる。しかし、働きがないからといって支出がないわけではない。むしろ、働けない人の方が、支出が多いものなのである。この点を見落としたら経済の意味は理解できない。

故に、経済の問題の本質は、分配にあるのである。

収入と支出、人間の能力は時間的に非対称なのである。

働けない理由は幾つもある。しかも、その殆どが深刻な問題を孕んでいる。一つは、失業、働きたくとも、働く場所がないと言う事である。
その他に、病気、就労年齢に達していない。高齢で働けない。
逆に支出が多いのは、冠婚葬祭、教育、建築、病気、介護等である。根本に生病老死の問題がある。そして、支出が多い時は働けない時でもあるのである。そこに経済が隠されている。

生まれたばかりの頃は当たり前に自分の力では生きていけない。親の力に縋って生きていくしかない。親がいなければ、親に変わる人間を探さなければならない。思春期も自分一人では生きていけない。誰かに養ってもらう必要がある。青年時代、働き盛りの時期には支出が少なく。収入が集中している。中年になる収入も増えるが支出も増える。老齢期、介護期とお金のかかる時には、自力でお金を稼ぐ事が難しくなるのである。
この不均衡をどう是正するかが、経済の一番の課題なのである。この様に年齢による不均衡だけでなく、地域差や男女差などいろいろな要素に基づく不均衡、格差、不平等が存在する。この不均衡、格差、不平等をどの様に解消するかが、経済最大の課題なのである。

養育期間と教育期間は支出の時代である。そして、勤労期間がある。勤労期間は独身時代と既婚時代からなる。この期間が収入の時代である。そして老齢期介護期になると支出が収入を上回る。
故に、一生を通じて収入を安定させるためには、貯金と借金とを上手く組み合わせて収支を平準化する必要が出る。
そのために、定収が欠かせない要素となるのである。収入が一定していないと人生設計ができない。

現代の制度は安定した雇用による定収入の保証と定収入に裏付けられた借金によって支えられているのである。

一番お金がかかる、つまり、支出の多い養育期間、教育期間は無収入だと言う事である。
そして、働けなくなる老齢期も無収入に近くなるという点である。
この養育期間と、教育期間、そして、老齢期間を如何に生きていくか、暮らしていくかが人生にとって最も重要な課題だと言う事である。

この課題をかつては、血縁関係に基づく共同体が担っていた。働きがない時は家族が養っていたし、働けなくなれば家族が世話を焼いたのである。だから親孝行というような徳目を必要としたのである。世話が見られなければ間引きや姥捨てみたいな事もせざるをえなかった。
そのために、血縁関係を基礎とした共同体、即ち、家族が経済の最小単位を形成したのである。
現代は、個人と国家が担う事になる。基本的に世帯主の収入に依存し、生活が的なければ国家が保護する。

分配の手段には、市場によるものと組織によるものがある。
分配の手段は貨幣に依る事を貨幣経済では前提とされる。

家計は、労働による現金収入を基礎としている。
故に、資本主義社会は、勤労世代を基礎として社会制度は設計されている。

現代の家計では、世代別の収入と収支が真逆になる。つまり、支出が多い頃に収入がなく。支出が少なくてすむ時に収入が多い。
この様な収支を如何に平準化するかそれが一番問題なのである。

現代の経済の最小単位は個人である。つまり、個人主義を基礎としているのである。家族を最小単位とはしていない。
個人を最小単位にするという事は、共同体の機能を前提としないと言う事を意味する。
つまり、家族の役割や働きを制度的に除外している事を意味するのである。
この事は思想である。社会思想であり、国家思想である。
意識するしないは別にして国家の根底を形作る思想なのである。

経済の基本単位は、貨幣経済、市場経済が成立する以前は、何らかの組織、共同体だった。
中でも、血縁関係を基礎とした集団が基礎単位であった。
血縁関係の核となったのが家族という単位である。

分配の手段には、組織的な物と市場的なものがある。
家族の分配方式は組織的な序列に基づく。

家族は、個人に対して開かれているが、個人は自己完結している。
個人主義は自己完結型の経済である。
それに対して家族主義は開放的な経済である。

収入は家族単位に合算される。

収入が不足する者は、他の家族によって養われるのである。
一般に能力のピークは、二十代から、三十代にむかえ、四十代から五十代にかけて緩やかに下降し、六十を過ぎると急速に衰える。
収入が得られる期間は、勤労期間に限られる。特に、賃金労働者は、退職後は、勤労所得は、大きく減少するのが常である。
それに対して、支出は、幼児期に一旦上昇し、学齢期から青年期にかけて上昇し、勤労期の独身時に一旦下降し、結婚し、子供が生まれると上昇する。子供が成人すると減少するが、介護期にさしかかると又上昇する。
通常、結婚後に支出のピークがあるように見えるのは、扶養家族の支出が加算されるからである。
家族制度がしっかりとしていた時代は、歳をとったり、病気などで能力が衰え収入が得られなくなった場合、他の家族の収入で補う事が可能だった。
しかし、個人主義を基礎とした現代社会では家族の機能が著しく低下している。

貨幣という手段が浸透する事によって個としての経済単位が成立し、全体と個という関係が形成された。
個としての経済単位が確立されると家族を結びつけている関係は希薄となり、家族関係は崩壊する事になる。

近代民主主義が成立する以前、個人主義的思想が定着する以前は、家計だけでなく、私的企業も公的機関も共同体を基礎とした単位が主流だった。

民主主義というのは、制度や仕組みによって表現される、或いは、表現する思想なのである。

思想は言葉だけで表現される事ではない。態度や生き方で表現する事もある。服装で表現される場合もある。仕草で表現される事もある。
色や絵で表現される事もある。礼儀や作法といった形で表現される事もある。制度や法で表現される事もある。要するに広義で言う思想というのは、人の考えを何らかの形として表現した事なのである。

民主主義は制度や仕組みを通じて表現される思想であり、その手段の一つとして会計制度がある。
現在の市場経済、貨幣経済、そして、資本主義は会計制度によって表現されている思想である。
故に、資本主義を理解する為には会計的論理を理解する必要がある。

個人を家計という局面の経済における最小単位とするのは、思想である。
家計の最小単位を決める要素は、家計における収入と支出の主体を何処におくかにある。

個人を最小の経済単位とする以前は、家族だった。
家族も個人を単位とする以前は核家族を単位とし、それ以前は、大家族だった。
今は個人である。

経済は家族の歴史でもあるのである。

家族というのは血縁関係を土台とした共同体である。
家族は、物を主体とした時代では、生産拠点だった。そして、現金収入は補助的手段だったのである。
それが貨幣経済と市場経済が浸透し、物から金へと経済の主役が移っていくのに従って大家族から、核家族、それから個人へと変遷してきたのである。
そして、現在の消費の最小単位は個人である。

大家族は、物の経済の名残があった。現金収入は補助的手段だったのである。

経済主体は、生産主体と消費主体の区分される。
貨幣経済が確立される以前、物中心の時代では、生産主体と消費主体は未分化であった。
分業が進み貨幣経済が深化すると生産共同体と消費共同体が分離し、独立した。
孤児や寡婦は、いずれかの共同体が面倒を見た。
個人主義が浸透し、家族制度が機能しなくなると共同体的関係は希薄となる。
所得が個人に帰属するようになるからである。
それに伴って孤児や寡婦に対しては何らかの公的援助が必要とされるようになる。

個人主義的経済では、所得は個人に帰属する。所得が賃金で支払われることを原則とする社会では、自営業者や職人、自作農、漁師と言った個人事業者以外の者は、収入が途絶えることになる。退職後は原則としてそれまでの資産と蓄えを取り崩して生活をする事になる。家族それぞれの家計は独立しているため、不足分は何らかの形で公的支援、援助がなければ生活は成り立たなくなる。

また、孤児や専業主婦のように現金収入を得られない者は、現金収入のある他の家族に寄生することになる。それが男女差別を生み出す要因となるのである。
家内労働は、金銭に換算されない労働であるが、生産労働に匹敵する重要な役割を果たしている。家内労働を如何に評価するかが、鍵を握っているのである。

現金収入によって価値が測られる時代では、働けなくなる、即ち、所得を得られなくなると自己の存在意義を見失うことにもなる。それは深刻な疎外要因でもある。
専業主婦や高齢者が疎外感を持つ原因の一つでもある。
個人主義が行き過ぎるとひとは、所得にしか存在意義を見いだせなくなるのである。

貨幣経済が浸透し、貨幣制度を基礎とした経済体制が確立されると生産主体と消費主体は乖離され、個々独立する事になる。
それによって経済の基本が生産と消費から、収入と支出に取って代わられるのである。つまり、物中心の時代から金中心の時代へと移行するのである。それは、日本では、明治維新による体制の変換による。
特に、貨幣制度や税制度は決定的な働きをしている。

物中心の時代から、金中心の世界に移行すると生産と消費という関係から収入と支出という関係へと主体は移っていく。
収入と支出という関係は、それまで一体だった生産主体と消費主体を分離し、価値観を使用価値から交換価値へと変質させた。
この様な変化は、収入と支出を基礎とした社会を現出する事になる。

以前は世帯が中心で世帯毎に家計は一つだった。つまり、世帯毎の所得は合算されて一つの単位として見なされていた。
今は、所得が中心になってきた。

世帯を単位とする事と所得を単位とする事の差は、扶養家族の定義に違いが出る。
所得とは収入であるが、収入がない世代を誰が、どの様に扶養するかに違いが生じる。
世帯に単位をおいた場合、高齢になり所得が得られなくなった世代でも家族が面倒を見る事を原則とする事ができた。
ところが、所得単位になると所得を得られない世代、また、所得を得られたとしても生存可能な所得を得られない世代を誰が扶養するのかが問題となる。

経済は、人の生き様で決まる。
経済の下敷きにあるのは文化である。
だからこそ、経済に一番、影響を与えるのは、人々が何を信じているかである。
そして、人々の倫理観が経済の有り様を決めるのである。
その点を理解せずに経済を語っても、無意味である。

その意味で経済の基礎は消費にあるのである。
消費が生産を制約していくべきなのである。
そして、消費が生産を制約するために分配の仕組みが重要となる。
消費、分配、生産の均衡がとれた時、経済は、成熟するのである。

経済は、最終的に生きる為の活動、即ち、生活に至る。
日々の暮らしは、人の一生になる。
つまり、経済とは人生を語る事なのである。

経済の状態は利益によって測られる。
なぜ利益によって測られるのか。
一つは、費用対効果を計測して経済を安定させるためである。

経済主体には、経済の状態を安定させるはたらきがある。
経済主体が経済を安定させるのは、景気の波を整流させるからである。
この働きの仕組みを為政者が理解しておかないと資金の環流に偏りを生じさせ、経営主体はかえって景気の波を増幅してしまう怖れがある。

経済主体には、収入と支出の波を整流する働きがあるのである。
そのために、期間損益がある。そして、負債があるのである。
負債には資金の過不足を調節する働きがあるのである。

収入や収益というのは当てにならない。
第一に、生産物の中には計画的な生産が出来ない事があるからである。例えば、農作物や漁業は、天候や環境に左右される。第二に、需要の予測がつかないという点もある。第三に、為替や原材料の相場の変動が予測できないという事がある。
これらの点から収入や収益は不確かなのである。

生産と消費は非対称である。
農業や漁業は生産量が予測できない。工業は、生産量は生産手段に依存している為に、計画的に制御する事が可能である。しかし、技術革新は予測する事が出来ない。

この様に、不安定な収入を経営主体を介して定収入化させるのが経営主体である。
経営主体は、期間損益を導入する事で、資金の過不足を調節するのである。
そのために、利益という指標が重要な目安となるのである。

不安定な収入や収益に対して対して、支出や費用は、底堅い。それは、費用や支出の本質が人件費だからである。
例えば自動販売機から物を購入した時、人件費がかかっていないような錯覚をするが、自動販売機にもそれを製造するためには、人手がかかり、又、自動販売機で売っている商品にも人件費がかかっている。費用を突き詰めていくと大部分が人件費に至るのである。人件費以外は、地代、家賃、金利と言った付加価値である。この様な地代、家賃、金利も固定的な費用である。
人件費、即ち、所得は、生活を根拠としている。生活に根底は必需品である。必需品は、衣食住を核としている。衣食住の内、食に関わる部分が変動的なのである。
しかし、必需品と借金に関わる部分が硬直的なのである。そのために、可処分所得は限定的となり、人件費は下方硬直的とならざるを得ないのである。

収入と収益、費用と支出の性格を良く理解した上で利益の変化を見て、貸借のあり方を決めなければ経済は安定しないのである。
損益は、費用の性格に依るところが多い。
物的資源や手段を元とした費用と、人的資源や手段を元として費用、貨幣的資源や手段を元とした費用がある。
物的資源に基づく費用は変動費としての性格が強い。物的手段による費用は、減価償却費と非減価償却費からなる。
人的資源に基づく費用は、下方硬直的で市場競争に感受性が鈍い。また、物価の影響を受けやすい。
貨幣的資源に基づく、費用は金利をさし、名目的価値によるため、市場や物価の影響を受けにくい。又、元本の返済は、費用計上されない。

個々の損益ばかり見て、全体の動きを見失えば、経済の安定化を計る事は出来ない。
金融本来の働きは、資金が余っている所から資金の不足している所に資金を回す事なのである。
利益ばかりを追求すると、市場の偏りを増幅してしまい経済を制御する事ができなくなる。

経済学は人生を語る事である。
経済制度というのは、生産した物を人々に分配する仕組みなのである。その際、貨幣経済では、分配の手段として用いられるのが貨幣だと言う事である。

貨幣経済では、経済は、貨幣的現象として現れる。

物の経済は、投資として現れる。
投資の基本は、生産手段と生産物の関係である。
投資の物の要素は、減価償却費として現れる。
投資の人の要素は、収益と費用、人件費として現れる。
投資の貨幣的要素は、収入と支出という形で現れる。収入は、売上と借入金、支出は、元本の返済と金利と経費して現れる。

初期投資は自己資金と借入資金によって賄われる。
借入金は、返済金として負債勘定から減額されていく、一方で金利は費用計上される。
対極にあるのは、土地や建物、機械、設備と言った資産への支出である。
そして、物、即ち、資産の中の償却資産、減価償却費として費用計上されて減額され。非償却資産は、そのまま据え置かれ、売却する際に収益と費用に仕分けられる。
また、単位期間の費用対効果は、損益として計上される。売上は収益として、人件費は、費用として計上される。
収益と費用の差は利益として計上され長期借入金の原資は、利益と減価償却費から当てられる。
更に、原材料費は費用として計上され、一部は在庫として資産計上される。
税は、収益から費用を差し引いた部分に対して課税される。
ここで問題となるのは、収入と収益、支出と費用は一致していないという点である。
収入は、借入金と自己資金、そして、収益の和である。支出は、借入金の返済額と費用の和である。自己資金は、元金である。費用の中には、減価償却費や評価勘定、繰り延べ勘定が含まれる。ただ、現金収支に大きく関わるのは償却費である。

投資は、産業構造の基盤を形成する。

損益構造は産業構造を制約し、産業構造は、損益構造を変質させる。
産業の性格を決めるのは、損益構造であり、損益分岐点である。
コスト構造の違いが産業を性格付ける。
コストに人件費の占める割合や償却費に占める割合が産業の性格を左右する。

軽工業のように人件費が占める割合の大きい産業は、所得が低い国や地域に有利に働く。
経済が成長し、人件費も上昇する。
そのために、経済が成熟するに連れて徐々に軽工業は、競争力を失う。
反面、資本の蓄積も進むので重工業へと移行してせざるを得なくなる。
それに従って人件費の占める割合も低下する。
この様に、市場環境の変化は、産業構造、損益構造の変化を伴うのである。

収益は、利益と費用の和である。
費用は、固定費と変動費の和である。
収益は、販売数量と単価の積である。
利益は、市場の伸縮を緩和させる役割がある。

初期投資は、固定費を形成する。
固定費は、初期投資によって定まるのである。

大量生産方式は、市場の拡大を促す。

市場の拡大は人件費の上昇を招く。
市場の拡大は、所得の上昇を必要とするからである。

反面、市場の拡大は、損益構造、産業構造の平準化をも促す。
市場の拡大は、所得の平準化も進める。
人件費が相対的な高い地域や国に対して所得の下げ圧力として働き。
人件費の相対的に低い地域や国に対しては所得の上昇圧力として働く。
市場の拡大は、費用を横断的に平準化する働きがある。
そして、費用が平準化されるに従って収益も平準化される事になるのである。

家内工業のような労働集約型でなく、資本集約型産業である近代工業は、損益分岐点に基づいて投資を行う。

投資の規模と価格の設定は、販売計画に基づく。販売計画は、需要予測に基づく。
しかし、正確な需要予測は難しい。消費者は気紛れなのである。
規模の経済によって一定期間利益を上げ続ける為には、正確な販売計画とそれに基づく資金計画が必要とされる。
売上が予測つかなければ、投資計画が立てられない。
売上は、単価と数量の積である。単価も数量も一定ではなく変動する。
又、費用も一定ではない。
生産も農産物のように天候に左右される産物があったり、事故や災害、政治に左右される原材料もある。
利益を上げるためには、一定量の売上を必要とする。
ところが、収益予想は難しく、固定費は必ず出て行く。それ故に損益には一定の幅を持たせる必要があるのである。
自由競争に委ねると損益分岐点は上昇し、利益が失われる。

市場の拡大は、国境を越える。

市場の拡大は、所得の上昇を招き、所得の上昇は、費用の上昇を招く。
費用が上昇すれば利益が圧迫され、負債が増加される。
市場競争は、収益を圧迫して費用に下方圧力となる。

経済の実質的な問題は、生産と消費である。つまり、必要な物を必要なだけ生産し、それを公平に分配して消費する。その過程で分配手段として貨幣が用いられるのである。

所得と費用は裏腹の関係にある。取得は収入、費用は収益に結びついているからである。
支出があるから、収入があり、収入があるから支出がある。ある人の収入はその人以外の誰かの支出なのであり、ある人の支出は、その人以外の誰かの収入となる。

所得の上昇は、費用の上昇を意味する。そして、費用を削減することは、所得を削減することなのである。支出に対して所得が不足したら誰からか借りなければななくなる。現金残高は常に正でなければならないからである。所得の上昇と貸し借りの均衡が保たれなくなれば、経済の均衡は破綻する。
経済の均衡を保っているのは偏りなのである。均衡と偏り、これが経済を動かしている原動力である。偏りを生み出し、制御するのが経済の仕組みである。経済を動かし制御するためには、偏りを人為的に創り出し、それを人為的に制御する必要があるのである。
そこで重要となるのは弛緩が生み出す歪みや差である。

費用には、内部から上昇圧力が働き、収益には市場から下方圧力がかかる。利益は、収益と費用の均衡を図る指標である。それ故に利益は大切なのである。

なぜ景気が良くならないのか、それは利益を上げられないからである。ではなぜ利益が上げられないのか。それは利益を上げられない構造になってしまうからである。

その国の経済状態を見るためには、所得や生産の総量、増減を見ているだけでは理解した事はならない。経済の実体を理解する為には、所得の平均と分散が重要になる。つまり、偏りが問題なのである。

貨幣、即ち、資金を調達する手段が所得であり、所得の平均と分散は、生産と消費に反映されるのである。
所得の分布に偏りがあると消費に偏りが生じるのである。
消費に偏りが生じると生産に反映にし経済構造が歪んでしまうのである。
更に、経済状態は、所得と物価が反映される。

生産性は、本来必要性から生じるべき事である。生産手段や生産力から導き出される事ではない。ところが必要性以前に生産手段や生産力が問題となる。

生産は、生産手段に制約される。
生産は、所得に制約される。
消費は、生活に制約される。
生活は、所得に制約される。
市場を構成する物的要素は有限である。
生産力は、有限であり、生産手段によって制約を受ける。
生産物は、生産資源、生産手段の双方によって制約をうける。
これらが前提である。

生活水準の上昇は、所得に反映され、人件費の上昇を招く。
生活水準は市場の規模を制約する。
生活水準に上昇は、費用の増加を招き、市場の拡大を促す。
市場の拡大を抑制すれば所得は抑制される。

インフレーションやデフレーションは、所得によって引き起こされる。所得の拡大と縮小がデフレーションの原因となるのである。
インフレーションやデフレーションといった経済現象は、人の要素から見ると所得の調達手段と運用手段の問題であり。物の要素から見ると生産手段と生産量、需給の問題である。貨幣の問題からすると資金の供給手段と回収手段、流通量の問題である。
貨幣経済を定着させるためには、通貨が社会に満遍なく行き渡っている必要がある。その過程で所得は拡大するが所得の拡大に対して生産物の供給が追いつかないとインフレーションが起こる。デフレーションはもう少し複雑な過程をたどる。ただ物が過剰に供給されれば、直ちに物価が下落するとは限らない。物が過剰と言うだけでなく、いろいろな要素が複雑に作用する事で、デフレーションは引き起こされる。
デフレーションでは、負の勘定、即ち、負債、収益、名目勘定の働きが重要となる。市場が成熟し、物不足が解消されると今度は、物と貨幣が過剰に流通するようになる。その状態で過当競争を放置すると利益は喪失し、企業収益が圧迫されて、所得が減少する方向に向かう。所得が減少すると所得を対象とした税収も落ち込む。これらが生産手段を抑制する。これらが相乗的に作用して経済が冷え込むのである。
又、一旦、市場が収縮し始めると負の勘定、即ち、名目的勘定の働きが、実質的勘定の働きより強くなり、物価に対して下方圧力を強める。つまり、収益が上がっても回収圧力が強くて市場への通貨の供給を抑制し、所得を圧迫する。それがデフレーションを更に昂進するのである。

飽和状態の市場で無原則な競争を放置すれば利益は失われるのである。
産業保護政策を悪役として見る傾向があるが、産業保護政策の何処がどうして悪いのかを明確にせずに、ただ、産業保護政策を攻撃するのは、感情論に過ぎない。

市場が過飽和な状態で利益を奪う事象には、過当競争、不当廉売、規模の経済、資本力等ある。

経済の自由化は、集権的体制を前提とする。自由な交易、統一的法や制度を前提とするからである。自由市場は、民主的体制を促す。

経済の根本は分配の機構にある。

格差の拡大は、この分配の仕組みを歪ませ、極端な偏りを生み出すのである。
分配の仕組みの変更は、貧富の格差となり、人が生存するために最低限必要な資源さえ一部で割り込むようになる。
貧困の問題は、差にあるのではなく。他者に対して冷淡になる事である。
余剰の資源を持つ者は、困窮する者を助けようと言う感情を持つ。
それは、弱者を保護しようとする目的が共同体には内在しているからである。
しかし、貨幣経済が浸透すると物事を金銭的に割り切ろうとする傾向が強くなり、何事も金銭問題として処理しようとする。
その結果、社会的弱者に対して冷淡になり、分配という機能が働かなくなるのである。
そして、格差の拡大は、社会を分裂させる一因となるのである。

格差が拡大することによって通常の経済的手段が正常に働かなくなると経済的手段に政治的手段が取って代わり、政治的手段が効かなくなると暴力的手段に訴えることとなる。

平和の根底は、経済によって保たれているのである。



       

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