経済には流れがある。経済の流れは、大きく見て、金の流れ、人の流れ、物の流れの三つがある。最近、この三つの流れに、情報の流れが、加わって、四つの流れがあると考えられている。経済の流れは、放置すると、奔流したり、滞留したり、淀んだりして、いろいろな災害を引き起こす。時には、大洪水となって、人々の生活を押し流してしまう。古来人は、水を制する者は、国を征すると言い。あらゆる努力を傾けて治水工事をしてきた。治水工事は、水の流れそのものに働きかけるのではなく、溝を穿ち、トンネルを掘って流れを制しようとした。ところが、現在の経済政策は、流れを追う傾向がある。流れを追えば流される、一方で、流れを制する事はできない。環境を整備することが肝要なのである。
経済は、枠組みがなければ偏る傾向がある。社会的価値よりも経済的価値が優先され、社会的必要性が無視されてしまう。都市問題や一局集中、その反面の過疎や無医村の問題は好例である。しかし、一定の枠組みを作ってそれに従えようとしても経済の力は、強く、うまくいかない。人間は、自然災害を克服するために、多くの治水、土木事業をしてきたというのに、人工的な構造物である経済は、野放しにしている。
産業には、それぞれ特性や特徴がある。それぞれの特性に応じて発展や成長が違ってくる。労働や産業の構造にも差が生じる。仕事によって価値観や必要な能力、技術、知識も変わる。
経済を語る時、心臓や肝臓の働きを一緒くたにしてしまっている事がままある。エネルギー産業とサービス業では、社会に対する働きも産業の形態も違う。一緒にして語れないのである。
市場に全てを任せ、神の見えざる手に委ねればいいと言うのは、自然は、予測不可能だから農業なんてやるだけ無駄だという論法に似ている。ところが、現在の経済状態は、農業や牧畜が発展する以前の野生に自生する果実を採取したり、狩猟に頼る生活状態である。
経済制度は、明確な目的を持って構築されるべきである。また、経済政策も明確な目的を持って施行すべきである。
経済環境と経済施策が執行されるまでにタイムラグが生じる。このタイムラグが、多くの経済政策の効果を失わせている。しかし、生き物である経済には、即時的な対応が、求められる場合が多い。このことを考えると、為政者は、経済の政策に対しある程度の裁量権を持つ必要がある。
経済は生き物である。構造経済は、鉱工業と言うより、農林水産業や牧畜業に近い。産業の育成は、どちらかというと、明確な設計図に基づいて生産するというより、生育具合や天候、環境を応じて育てていくという牧畜、農業に似ている。
だから、構造経済学的手法とは、直接、産業に働きかけるのではなく、法律や政策と言った手段で環境に、間接的に、働きかける事により、産業を育成してやり方である。
それを、無機質なものという前提に立ったり、放置すれば自然に安定するという前提に立てば重大な錯誤をしてしまう。
産業の育成政策や保護政策に否定的な意見も多いが、自分は、ケースバイケースだと思う。カルテルや規制が、良いか、悪いかは、一概に言えない。問題は、前提であり、目的である。
産業には、成長段階がある。置かれている状況がある。それに合わせて処方箋を決めるのである。人を殺そうと思って人を切るのか、人を治そうとして人を切るのか。ただ、人を切るという行為のみを問題にしたら、殺人鬼も医者も同類になってしまう。
マスコミは、金を儲けることを罪悪であるような言い方をする。だから、国家や公共事業は儲けてはいけないと言う。彼等は、企業が利益を上げるためにどれだけ苦労しているかを知らないのだ。利益を目的としない事業がどれほど楽か。もし、資本主義下で利益を上げなければ、事業は成り立たない。それは、国家であろうと、公共事業であろうと同じ、儲けなければ破産するのである。儲ける事を罪悪視するのならば、資本主義そのものを否定した方が早い。それが、国家財政の破綻の根っ子にある。
国家が、営利を追求してはならないと言う事自体がおかしいのだ。それは、国家が資本主義を否定している事を意味している。なぜ、国家や公共事業は、利益を追求してはならないのか。公共の利益という理由なのだろうが、公共の利益を計るのならば、だからこそ利益を追求すべきなのだ。
民営化と言う形式では、商売人の論理を導入しなければならない。少なくとも、会計的論理を入れる必要がある。儲けは悪だ。営利は、追求してはならないと言う考えこそ、間違いなのである。
公共事業というのは、国民、社会に対するサービス業なのだ。サービス業によって収益をあげ、無税にしても良い。それこそ、公共の利益に合致している。公僕、国民、市民の下僕なのどという卑屈な考えを持つ必要はない。要は、経済的に自立すればいいのである。
逆に、市場の原理を当てはめてはならない分野もある。市場経済下では、需要があっても経済的に見合わなければ供給されない。教育や医療は、過疎地では、不経済である。そのために、なり手がいなくなる傾向がある。
あきらかに、大切であり、将来必要となることが解っている技術であっても、需要がなければ失われてしまう。それが、冷厳たる市場の論理である。
非常、救急、災害は、不経済だ。市場経済には、不適合である。市場の経済原則からすれば成り立たない。しかし、経済的に成り立たないからと言って切り捨ててはならないものがある事を忘れてはならない。放置すれば、国家全体が衰退してしまうのである。この様な問題は構造的に取り組むべき問題である。
個人差、個体差は、自明である。個人差を認めないと平等の意味がわからない。男と女は違う。男女同権というのは、男と女の差を前提にして考えるべきものであり、ただ、男と女を同等に扱えと言うのは、一歩間違うと、女性の男性化を意味してしまう。
家族というのは、経済を構成する基本的単位の一つであって、主に父親が担い手であった家庭外からの収入は、家族が生み出す価値の一部にすぎない。家族が創造する価値の中で家内で生み出される価値が相当部分を、占めている。
家庭外からもたらされる価値は、市場性のある価値であるために、市場経済下では、圧倒的な力を発揮する。男女差別の本質は、この家庭内の力関係によっているところが大きい。
人は、即物的に判断し、大義で行動する。経済は、典型である。だから、経済は嫌われる。
人は、自分の姿を、あからさまに、されるのが、嫌なようだ。特に、自分の素顔や欲望を見せつけられるのが、たまらなく嫌なようだ。経済は、飾れない、気取れない。人間のあさましい欲望が、あからさまになる。だから、経済はいやがられる。しかし、経済ほど人間らしいものはない。経済ほど、人間に忠実で正直なものはない。ある意味で誠実なのだ。
経済の本質は欲である。だから、経済は嫌われた。経済は、何も飾らず欲をむき出しにする。人間は、欲のかたまりのように見られる。だから嫌われる。
楽をしたければ、欲を絶てばいい。
食欲と性欲を絶てば、楽ができる。人間は、欲のために働かされ、欲のために向上する。欲があるから、悩み苦しむのだ、聖人は、そう考えた。でも、苦しみや悩みは、人間の本質ではないのか。そう考えた方が、精神的に楽になれるのではないのか。要は、欲を受け入れ、欲を手なずけ、欲を制御することだ。欲に負けるから破滅するのだ。欲を制御する技術が経済なのである。
欲望は、エネルギーです。エネルギーは、全ての活力の源。同時に、エネルギーは、危険物でもある。エネルギーがなければ現代の生活は成り立たない。人間は、火を使うことを覚えたから、今日の文明を築き上げることができた。しかし、火は、扱い方を間違えると全てを燃やし尽くす。エネルギーも制御することができれば便利だけれど、制御できなければ、全てを吹き飛ばしてしまう。エネルギーを制御するためには、機械装置が必要なの様に、欲望を制御するためには、道徳や法、組織が必要となる。経済は、欲望が生み出すもの。だから、経済を制御するためには、構造が必要なのです。
金儲けが悪いと言っている限り、商業道徳は、確立できない。結果的に、悪徳商人が、栄えるのである。欲が悪いのではない。それを、制御できない人間が、悪いのだ。自らの怠慢の責任を他に転化している限り、根本的な解決は見いだせない。
夢は、それを持ち続けた人間にだけ、実現する権利が与えられる。人類は、夢を持ち続けられるだろうか。
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