経済学は、医学にも通じる。東洋医学的な対処法では、抜本的な治癒には至らない。解剖学を土台とした近代医学的処方が必要なのである。デフレ、インフレと言った現象面ばかり見ても根本的原因は明らかにならない。デフレやインフレを引き起こしている構造や働きを明らかにした上で、対処していかなければ、治癒しないのである。

 また、医学の目的が、病気の発見と治癒であるように、経済学の目的は、経済の問題点の発見と対策である。近年、予防医学が発達してきたように、健全な経済を保つ事も重大な仕事の一つである。

 構造経済学で、まず、問題にしなければならないのは、産業の成り立ちや産業構造である。そして、産業の構造を解明するにあたって、会計構造を分析する必要がある。

 経済学は、実利、実用の学である。必要は、悪ではない。真理であり、現実である。実利だから、無駄を嫌う。だいたい、ケチである。だから嫌われる。正しいことを言う奴は、嫌われる。経済というのは、本来、単純明快、正直なのものである。あからさまなものなのである。だから、経済学は、人間の本性を裸にするところから始まる。医者の前で着飾っても仕方がない。人に見せられないところを見せるから、病気は、治癒する。飾ったところで仕方がない。人間の経済的動機は、私的な動機であり、欲と打算からなる。人は、自分の都合で動く。故に、経済は、経済人一人一人の都合を明らかにしない限り、理解できない。

 だいたい、なぜ、経済の現場にいる経営者達は、経済学を信じないのか。経済学に基づいて経営をしないのか。それは、経済学を科学としてではなく。予言書のようにしかとらえていないからだ。今の経済学には、真実がない。現実がない。だから、誠実ではない。実用性のない経済学など、それ自体自己目的化している。それでは、経済学本来の目的が失われてしまう。経済こそ、工学や医学以上に、実用の学なのである。経営者に役に立たない経済学なんて意味がない。学者の生活の糧として経済学はあるわけではない。

 経済に対する本質的な間違いは、前提を取り違えている事からきているのである。国家が利益を上げる事を罪悪であるようなことを主張する者がいる。特に、左翼的な知識人には多い。国家が利益を上げる事が悪ければ、企業が利益をあげるのも悪いという事になる。いや、むしろ公的機関である国家が利益をあげるのが悪ければ、私的機関である企業が、利益をあげるのは、犯罪であるという事になりかねない。現にそういう、論陣を張っている論者もいる。まあ、こういう人は、もともと、資本主義を、最初から否定しているのだろうけれど。
 しかし、国家も企業も利益をあげなければ何もできない。雇用を創出することも、環境対策をする事も、早い話、税金を納めることもできない。

 財政も税制ども、根本的に利益をあげたり、内部に留保することは悪だという価値観から出発している。しかも、経済学者の多くが、この点を、批判していない。これでは、財政も税制も資本主義下では負の働きしかしない。結果、財政は、破綻し、企業は倒産する。国家も企業も経済的に自立できないのである。財政が国家の基盤を税制が企業の基盤を掘り崩してしまっている。これを是正するのが、経済学本来の役割である。

 日本には、士農工商の価値観が、まだ、幅を利かせている。テレビの時代劇に出てくるのは、悪徳商人、だいたい善良な商人というのは、いないと思っている節がある。それをやっつけるのは、武士か農民、職人と言った庶民である。不思議なことだ。商人は、合法的、平和的手段で正当なり駅をあげていて、それに対し、正義の士というのは、暴力的で、非合法で、権力的な手段を講じている場合が多い。それでいて、作者は、反権力的、反権威的だと主張しているのである。
 不当に一部の商人が利権をあげるとしたら、それは、制度的、構造的欠陥により、経済構造に歪みや偏りが生じているのだ。その歪みや偏りを発見し、是正するのが経済学の役割である。
 京都の町屋が間口の狭い長屋形式になったのは、税制による。結果的には、京都の町作りの基準にはなったが、最初から意図したものではない。このように、経済政策というものは、人々の生活様式や人生観をも変えてしまう力がある。逆に言えば、生活様式や人生観から経済の歪みを見いだすこともできるのである。

 なぜ、利益を上げては、ならないのか。なぜ、カルテルは、悪いのか。なぜ、規制を緩和しなければならないのか。なぜ、産業を保護してはならないのか。なぜ、計画的に、組織的に、産業を育成してはならないのか。

 経済に悪い影響を与えるからだと言う。では、悪い影響とは、何か。経済にどのような悪影響を及ぼすというのか。
 経済に与える影響というのに、絶対的なものはない。全て、相対的なものだ。つまり、経済政策に絶対的なものはなく、どういう前提、どういう条件、どういう状況によって発動されたかが、重要なのである。そして、その政策をいろいろな角度から検証していくのが経済学の使命なのである。

 馬鹿げた事だが、資本主義者達は、資本主義的価値観を信じていない。だから、資本主義的な価値観が確立されない。経済に関わる者は、絶えず後ろめたさを感じながら仕事をしている。

 経済的合理性と言っても、所詮、自己の利益の追求に他ならない。つまりは、損得勘定である。経済的合理性の本質は、欲であり、理性や良識ではない。故に、経済学は、数学的要素と心理学的要素を欠いては、成り立たないのである。

 経済学が対象とすべき経済人は、一流大学を出て、高等数学や経済学を使いこなし、理性的で良識的な人間ではない。それは、政治学を聖人のような人間を前提として考えるようなものだ。経済人は、打算と欲望で行動する者だ。経済は、打算と欲望の帰結。だから、放置してはならないし、法によって治めなければならないのである。そうしなければ、環境を破壊し、貴重な資源を食い尽くしてしまう。だから、自制心、理性、モラルが必要なのだ。そうしないと、人をだまし、欺き、罪を重ねてしまう。

 人間は、欲で動いている。理性で動いているわけではない。そもそも、経済学の間違いがそこにある。
 良くは、果たして悪いものであろうか。欲がなければ、人間は、生きられない。欲は、活力である。ガスも石油も原子力もそのままでは、危険物である。容器に入れ、装置や機械を使って、上手く活用した時、人の役に立つのである。

 欲望は、悪いと思っている。悪いと思っているから、悪い事にしか使えないのだ。

 問題が起こると極端な意見が横行する。規制が、障害になると、全ての規制を、撤廃して、市場の原理に委ねればいいと言った意見が、横行するかと思うと、市場が駄目だとなると、全てを国営化してしまえと言う具合である。しかし、肝心なのは、現象の背後にある構造であり、働きである。

 制度が、景気を良くしたり、悪くしたりしている。これは、紛れもない事実である。相続税制度が、土地の相場に影響を与える。交際費の扱いによって繁華街が、栄えたり衰退したりする。酒税のあり方で人々の嗜好が変わる。保険制度によって医者の治療法まで変わる。学校制度のあり方によっては、躾の仕方が違ってくる。時には、人生の目的だって変わる。会計制度が変われば、経営が変わる。社会保険や年金が変われば、老後の生き方まで違ってくる。雇用保険は、労働意欲に関係する。これが、真実である。これのことが経済に影響を与えないはずがない。それなのに、現行の経済学では、制度上の変化は、問題にしない。制度を変えても経済に影響はないと言い切る。そして、学問の対象とはしない。なぜ、あまりにも生々しいからか。そして、干からびた乾し肉みたいな物で医学的な処置を施そうとする。こうなると、ほとんど狂気である。
 我々は、経済の現実から目をそむけてはならない。現実を直視しなければ経済対策は、立てられないのである。我々は、未来に向けて、真実を明らかにしなければならない。それが構造経済学である。

 制度間の整合性がとれていない。そのために、経済構造に歪みや偏りができている。これを是正するためには、経済の目的を明らかにして、制度の整合性をとらなければならない。経済の目的とは、何か、人々の暮らしを豊かにして幸せにすることである。人々の暮らしを豊かにして幸せにする為に、全ても制度の整合性をとる。会計基準も含めて。本来税も、財政も目的は、一つなのである。全てが、人々の幸せに結びついた時、自ずと進むべき方向は定まる。そして、その進むべき道の先を照らし出すのが、経済学の役割なのである。
 

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