資本主義国が破綻する原因があるとしたら、共産主義ではないかと私は、思う。なにも、それは、共産主義による革命を意味するのではなく。皮肉な事に、共産主義的ドグマに国家機関が支配されている事によると、私は、思うのである。
 つまり、資本主義社会において唯一資本主義的原理が働かない世界、それが、国家、公共機関なのである。この共産主義的な世界が、拡大する事によって、資本主義体制は、内部から崩壊するのである。

 政治体制と経済体制が一対一に対応しているとは、限らない。また、複数のの経済体制が一つの政治体制の中に混在している場合がある。

 たとえば、現在の資本主義体制は、純粋な資本主義体制ではなく。不完全な資本主義体制である。つまり、資本主義体制内に資本主義とは違う原理が働いている場が存在するのである。
 資本主義内にあって資本主義原理とは全く違う原理が働いてる場の典型が、国家、公共機関である。
 国営事業や公共事業は、資本主義とは違う原理が働いている。まず第一に、国営事業や公共事業は、単年度均衡予算制度である。非営利事業であり、基本的に収益へ資本の蓄積は許されていない。当然、一部の例外を除いて、特定の企業に対する投資が許されない。また、営利、即ち、収益を前提とした会計学的原理とは、別個の非会計的原理で運営されている。そして、独占的事業である場合が多い。統制的事業運営が為される。不経済な事業を前提としている場合がある。これらは、資本主義というよりも社会主義的な原理である。ある意味で、国営事業、公共事業は、資本主義内の社会主義体制といえる。

 最終的には、世界中央銀行を創設して、通貨も統一すべきだと思います。その前に、さしあたり、中央銀行総裁会議を定期的に開くべきだと思います。

 資本主義体制下では、社会主義的国家財政は、破綻する運命にある。営利を追求する事を目的とできない。資本の蓄積が許されない。生産性や効率を評価基準や目的にすることができないため、組織の効率化が図れない。予算、計画に基づいた統制によって経営されている。自己の絶対評価でしか、自分の仕事を評価できない。事業は、独占的にする。倒産のような抑止機能、チェック機能が作用しない。これでは、国家財政は、構造的に破綻せざるをえないのである。

 国家、公共事業は、営利を目的としてはならないという事自体が、象徴している。資本主義体制下で営利を目的としていない事業体は、成り立たない。国家財政も公共事業も破綻すべきして破綻している。

 社会主義国を飛ぶ飛行機と自由主義国とを飛ぶ飛行機は、違う法則で飛んでいるわけではない。しかし、社会主義国で、かつて、真顔で議論したことがある。経済の世界では、同じ国の中でも違う原理で動いている場合がある。これでは、経済的整合性がとれるわけがない。

 国家機関は、自己評価しできないのが問題なのである。認識の基本は相対的なのであるから、評価は、相対的なものである事が基本である。ところが、国家機関は、比較対照するものがない。相互牽制機能が働かない。しかも、組織の成長は、組織の効率性に対するフィードバックによって制御される。このフィードバックの機能が働かないと組織は、成長の限界を認識できない。故に、一度自己増殖を始めた組織は、暴走し、機能以上に拡大する。限界を超えると組織は、著しく機能が低下する。

 だからといって全てを民営化すればいいと言うのは、暴論である。国家機能の中には、民営化できない、また、不適合な部分がある。

 売れなくても必要な物がある。売る人が金を払わなければならない物がある。売る必要がないが、必要な物がある。社会的な必要な労働がある。ゴミの処理など典型である。消防や警察もそうである。市場の論理だけでは片づけられない物があることを忘れてはならない。しかも、そういう物は、社会にとって不可欠な物なのである。

 なぜ、資本主義体制下において中枢機関が、資本主義的でないかというと、滑稽な事に、権力者、為政者が、資本主義的な倫理観に対し、否定的だからである。つまり、ここでも、経済蔑視の風潮が根強く残っているのである。

 では、純粋の資本主義体制を作ったらうまくいくか。難しいというか。微妙な問題だ。結論から言うと、うまく機能しないと思われる。重要な事は、単年度均衡予算制度を廃止し、資本主義原理を国家財政や公共機関にも働くようにすることである。特に、財政は、機動的に発動する必要があると、同時に、長期間をかけて均衡させるべき性格のものである。資本主義体制下では、財政は、適時、機動的に発動しないと有効に機能しない。
 また、競争原理の導入も不可欠である。

 もう一つ資本主義経済が、破綻する原因を考えると、資本主義経済が内包している問題、特に、市場の暴走が考えられる。

 市場を絶対視するのは、危険である。

 経済の目的や機能からすると、市場経済や貨幣経済が果たす機能は、経済に求められている機能の一部にすぎない。

 市場経済では、経済的価値は、市場によって決められる。故に、市場性のない労働は、経済的な価値を持たない。市場性のない労働の典型が、家内労働、即ち、家事や育児、老人介護である。

 もともと、家族が、子育てや親の面倒を見るというのは、経済単位の一つの単位であった。それが、家族が経済の最小単位とされた所以である。これらを社会分業に取り込もうとしたら、まず、家内労働を適正に評価する必要がある。ところが、経済的な価値を確立できていないうちに、家内労働の価値を否定してしまった結果、家族が崩壊の危機に瀕している。その結果、家内労働が果たしてきた働きが失われ、犯罪の増加や家庭崩壊が社会問題化してきているのである。現代的な問題を解決するためには、家庭内労働を適正に再評価し、家族を再構築する事が先決である。

 以上のことを鑑みると市場経済や貨幣経済を絶対視することは危険なことである事が解る。

 そして、もう一つ考えなければならないのは、資本主義の根幹にある財産制度である。

 私的所有権の問題は、経済体制の根本に関わる問題である。
 経済体制を決定付ける重大な要因は、財産制度として、国有財産制、社有財産制、私有財産制のいずれの体制を敷くかである。私的所有権に基づく制度というのは、財産制度の基礎を私有財産制に置いていることを意味する。

 国有財産制とは何か。基本的には、財産の所有権は、国家に帰属するとする制度である。
では、社有財産制とは何か。その前に社とは何か。社とは、社会である。つまり、社会主義制度の社である。社有というのは、社会主義制度の根本である。
 
 社有財産制というのは、資産、財産の所有権が、共同体、コミニティ、結社、団体、機関に帰属するという制度である。
 身近で言えば、社有財産である。会社も社会である。社宅、保養所、学校や病院、私的警察や軍隊をも持つ企業がある。こうなると、企業も一種の小国家である。また、軍隊や教会、病院、組合や政党、クラブ、ボランティア団体、農協、消費者組合、それから、一家一族、村や町、都市、今はなくなったが、藩や組、荘園なども社会である。このような組織に財産の所有権が帰属する制度が社有財産制度である。

 ただ、問題なのは、資産、財産と所有権の定義と範囲の問題である。定義と範囲によっては、実質的な意味が違ってくる。

 今日の資本主義においては、これらの財産制度が混在している。故に、純粋の資本主義体制とは言えない。そして、財産制度は、富の再分配に深く関わっている。

 さらに、富の再分配の問題は、階級分離と貧困の問題深く関わっている。貧富の格差、所得格差が、一定の限界、レベルを越えると富が富を呼ぶ、資産が、資産を増やすという具合に、富が一方向に流れるようになり、分配の機構が破綻する。そうなると、富が一部の富裕層に独占されるようになり、偏りが生じる事によって階級が派生する。この様な、階級的格差を、制度的に保障すると、階級制度が成立するのである。階級制度が、長い間継続すると身分制度に変質する。
 この様な階級制度や身分制度が派生する危険性を資本主義体制は、常に、孕んでいる。日本の民主化や資本主義化の鍵を握ったのが農地改革や財閥解体であったように、階級や身分の派生は、資本主義経済を変質させ、民主主義を根底から破壊してしまう。 
 どのような形であれ、階級制度や身分制度は、民主主義の根幹を揺るがす問題である。我々は、修復のしようのない格差が生じた時、階級や身分の存在を認識すべきである。故に、この様な偏りが生じないように、国家は、富の再分配機構を作って調整をしている。その最も重要な仕組みが、税制度である。


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