第一に、共産主義社会が、非会計的社会である事で、制度的に経済的価値を創出できない事にある。
 会計学は、近代経済社会共通の土台となる論理である。また、簿記は、実際的、実務的な技術である。この会計的基盤を否定する事は、近代経済の基盤を破壊することを意味する。会計というのは、何も、資本主義的な技術として限定すべきものではないのである。会計的な裏付けもなしに大規模な経済体制を制御する事は、不可能である。
 会計学、簿記は、経済における共通言語、科学的基礎である。科学的合理精神は、会計学の中に生きている。故に、科学的、合理的経済体制は、会計制度を導入しないかぎり、成立しない。

 第二に、計画、統制経済によって、経済の自立性が失われた事である。
 経済は、天候や環境に左右される要素が強く、もともと計画や統制に不向きである。そのうえ、需要と供給には、タイムラグが生じやすいうえ、個人の嗜好に左右される。しかも仮に、計画経済を軌道に載せるためには、全人民の欲求を予め、網羅的に予測しておく必要がある。しかし、もともと経済は、個人の私的領域に属するものであり、全人民の全ての必要性や欲求を網羅的に予知する事は不可能である。つまり、欲求には、個人差があるのである。
 
 また、計画は、既知の事には、威力を発揮しえても、未知のものには、無力である。開発や発明、改革、革新という分野には、全く、無能力だと言って過言ではない。それは、成長や発展という要素を阻害することになる。

 全知全能の神にしか、全人類の欲求を知る事も満たす事もできない。神を怖れぬ独裁者は、自らを神とせざるを得ない。人は、神にはなれない。神になれぬ人は、自らを神としたとたん破滅する。それが、神の意志だ。

 第三に、市場の機能が失われた事によって、需要と供給を調整する場を失った事である。
 市場における需要と供給が調整機能が機能しなくなった結果、富の分配構造が歪められ。そのうえ、個人の嗜好、欲求より、全体の利益が優先された。そのために、富の循環が円滑に行かなくなり、分配に偏りが生じた。結果、物資の貯蔵と物流も著しく停滞する。

 第四に、労働と分配とを切り離した結果、労働に対する意欲を奪い取った事である。
 その結果、疎外を生じさせ、自己喪失を招いたのである。分配は、労働に対する評価によって為されなければならない。労働に対する評価は、労働に対する対価によって現されるものでなければならない。
 対価を労働と結びつけなければ、労働に対する動機付けがされなくなる。
 平等と同等とは違う。平等主義を同等主義とはき違えて、全てを同じ者、同じ立場にしなければ、気がすまないと言う者が居るが、人間は、生まれながらにして違うのである。平等というのは、法の下の平等という言葉が示すように、その根源にある。結果にあるのではない。
 問題は、不当な差別である。家柄、性別、人種、民族、身分、思想信条と言ったものによって、その人間の働きが不当に評価された時、それを、不当な差別という。この様な差別を認めることは、経済の活力を損なう。故に、不当な差別は、排除されなければならない。しかし、それは、その人の依って立つところを保障しているのであり、成果、結果を保障しているのではない。

 共産主義は、平等を前面に押し出してくる。しかし、平等の背後に隠された欺瞞を見抜かないと、真の平等の意味は理解できない。

 全ての同等、同質の分配というのは不可能である。住む場所や生まれた場所によって境遇や待遇は、自ずと違ってくる。
 寒冷地に住む人間と温暖な地域に住む人間に同じ処遇、待遇はできない。同じ場所でも建物を建てるためには、資材も時間もかかる。結局、権力者の恣意に委ねられ。差別が生じる。しかも、基準が決められていないから、その分、差別が激しくなる。

 女性の社会進出、男女同権論も不可解だ。何も、女性の地位向上に反対しているわけではない。しかし、これまで女性が主に担ってきた家内労働の適正な評価なしに、男性が担ってきた職場に進出する事ばかり、奨励するのは、それは、女性蔑視の変形であり、女性の男性化、同化と同じ事である。家事や育児は、大変な重労働であると同時に、重要な仕事である。その事を抜きにハード面だけで女性を支援すれば、家内労働の荒廃を招く。家庭内労働が、荒廃した結果は、幼児や高齢者と言った社会的弱者が、とらされていくのである。

 差別の本質を見れば、平等の意味がわかる。認識の本質は、差別である。差別は、自己を社会に位置づけるために、必然的に生じた。つまり、差別の本質は、自己の社会に対する位置づけであり、自己に適切な位置を還元するものでなければならない。

 極端な平等主義者は、あたかも、競争原理が悪いように言うが、認識は、相対的なものであり、自己と比較対照しなければ、自己の社会における位置づけがされない。その最も効果的に手段が労働に対する評価、即ち、対価、報酬である。
 差別を求めながら、差別を否定する。この相反する働きのバランスによって、社会構造は保たれている。

 問題は、特権階級の成立である。しかし、特権階級は、封建主義や身分制度の中だけに存在するわけではない。共産主義のように表面的には、平等を繕っても、富の分配が特定の勢力に握られれば、結果的に特権階級は、生まれる。

 第五に私的所有権を否定した事による。
 私的所有権は、個人の経済的自立の基本をなすものである。私的所有権を極端に制限した場合、個人の経済的自立や労働に対する動機を著しく阻害する危険性がある。それは、経済の最小単位である個人の自立性を失わせる結果をもたらす。

 第六に集権的体制であり、相互牽制機能が働かなかった。
 認識は、基本的に相対的なものである。相対的な基準を持ちえなければ、自己認識ができない。自己認識ができなければ、構造は、自己を抑制、制御することが不可能である。結果、暴走する。

 独裁体制下や、封建体制下では、支配される側の論理、支配する側の論理が重要だった。しかし、民主主義体制下では、支配する側の論理でも、支配される側の論理でもない。逆に言えば、支配する側にも、支配される側にも立場を変えるとたってしまう。一方通行的な関係ではなく。双方向的な観点から人間関係をとらえなければならない。

 最後に、共産主義の失敗の原因に、神の否定をあげておこう。


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共産主義の失敗の原因

構造経済ってなあに