人類は、未曾有の危機の中にいる。この危機は、かつて人類の経験したことのない危機であるばかりか、人類にとって、その存立基盤をも危うくするような危機である。そして、うすうす、人類は、人類の惨禍の根本は経済の問題だと気がついている。
 20世紀。我々は、夢と希望に満ちていたはずだ。今は、深い闇へ落ちていくように思えてならない。なぜなのか。
 20世紀は、資本主義と共産主義の時代である。20世紀末には、共産主義体制の多くは、崩壊し、資本主義体制が勝利を収めたような観がある。しかし、本当に資本主義体制は、勝利を収めたのであろうか。

 戦争、恐慌、人口増加、食糧問題、貧困、温暖化、環境問題、資源問題、自然災害、ゴミ問題、これらは、人類にとって深刻な問題に発展しつつある。しかも、解決の糸口すら見つかっていないのが実状である。

 資本主義体制でも共産主義体制でも解決することは不可能である。それは、資本主義にせよ、共産主義にせよ、体制の構造自体にこれらの問題を増長させる要素を含んでいるからである。

 現在の経済学に対し経済学に携わる人間以外が、関心を持たないのは、現代経済学が、俗ぽっくない、俗を嫌う、つまり、世間離れして、役に立たないからである。
 家庭の主婦にとって現代の経済学は、無縁である。経済学を学んだことで、家計のやりくりがうまくなったとか、老後の資金を捻出したという話は、とんと聞かない。
 なにも、家庭の主婦に限ったことではない。経営者でも、経済学を経営に生かしている人をあまり見受けられない。大体、経済予測は、当たらないのが通り相場になっている。経済学者は、自分の予測に責任を持たないでやっていける商売だと、皆、思い込んでいる。最近の天気予報官だって予報が当たらなければ食べていけない世の中だというのにである。
 しかし、本来の経済学は、世の中の役に立つものでなければならない。現在社会の混乱は、経済学が役に立たないことに起因していると言っても過言ではない。

 なぜ、経済学が、役に立たないのかというと、経済学者が、経済を経済という特殊な枠組みの中でしか捉えられないからである。経済は、元々人間学である。人間に対する洞察なく、経済的効用ばかりを問題にしていたら、経済の本質を理解することはできない。それこそ、木を見て森を見ないことになる。現代経済学の効用理論の限界がそこにある。
 例えば、大学への進学を効用論的に捉えたら、現実の進学の動きを理解することはできない。大学に進学する動機を知るには、効用論よりも心理学や哲学、人生観を調べた方がいい結果が得られることは明らかである。そこに効用論、現代経済学の限界がある。

 経済学は、人間学である。そして、家計は、人間の一生や生活を土台にしたものである。故に、その社会や時代の人生観、世界観、価値観に家計の構成は左右される。

 家計の構成比の変化は、家計にたいする思想的変化に影響される。例えば、資本主義体制が確立する以前は、質素、倹約、良い物を長く使う。場合によっては、何代にわたっても一つの物を大切に使っていく。お下がりやお古を使う(リサイクル)。勿体ないことはしない。物を粗末にしない。無駄使いをしない。食べ物を残さない。修理、修繕をして、安易に買い換えないと言った思想が中心であったが、それが、資本主義が浸透するにつれて、正反対の思想に変わってきた。
 例えば、使い捨てが当たり前になり、経済的であるとされるようになってきた。修理、修繕して使うよりも、新製品に買い換えた方が効率が良いという事になる。浪費は、美徳とされ、贅沢は、経済を活性化すると言って奨励されるようになってきた。大量生産、大量消費時代なのである。
 大量生産、大量消費時代以前は、経済的というのは、ある意味で、ケチの、不経済的というのは、ある意味で浪費の代名詞だった。それが今では、使い捨ての代名詞である。質素倹約は、資本主義体制では美徳ではないのである。物を大切にというのは、年寄りの戯言に過ぎないのである。勿体ないとか、食べ残したりすると神様の罰が当たるなんて言うのは、的はずれの迷信に過ぎないのである。そこから、飽食の時代が幕が開ける。そして、壮大な浪費が始まるのである。現代社会の病巣は、時代の価値観にあることに気がついていない。ライフスタイルを変えない限り、現代社会の問題は解決できない。

 一見消費が誘導している経済に資本主義は見えるが、実際は、生産が消費を促している体制なのである。

 資本主義体制が成熟化する過程で、生産性や生産の効率性が尊ばれるようになってきた。資本主義以前は、効率化と言えば、消費の効率化を意味してきたが、資本主義体制下での効率化と言えば、生産の効率化をさすようになってきたのである。つまり、消費中心の価値観から生産中心の価値観へと変化してきたのである。

 この様な思想的変化は、物の効用を変えてきた。つまり、使い捨てや浪費に適合した商品だけが生き残ってきたのである。無駄遣いが奨励される時代、大量消費の時代の始まりである。この様な時代から見れば、前時代は、恐ろしく不経済、非効率な時代に見える。

 構造経済というのは、省エネ型経済でもある。つまり、本来の経済構造は、消費が生産を律する体制でなければならないのである。そして、そのような社会構造、経済構造を計画的に構築していこうというのが、構造経済学である。

 統制経済は、経済の自律性を奪うが故に、上手く機能しなくなることが明らかになった。しかし、市場経済も、市場を制御する事ができなくなり、経済の暴走を招く事も明らかになってきた。現在の世界の混乱の根底には、経済体制への不信感が隠されている。 
 一人の偉大な指導者に導かれる世界、少数の選ばれた人達に指導される社会、血による支配の時代、それらは、終焉しようとしている。法や制度に支配される世界へと時代は、移りつつあるのだ。
 法や制度に守られる以前の時代では、支配する側の人間と支配される側の人間とが明確に分けられていた。その支配関係は、あからさまで、暴力的だった。だから、民衆には、自分達の敵が、何であるか明らかに見えたのである。現代は、目に見えない敵、漠然とした不安、出口の見えない問題と対決しなければならない。
 自由は、法や制度によってもたらされた。現代的な自由を実現した者達は、その事を自覚していた。自由を実現するために不可欠であった法や制度をすら否定する者がいる。自由を実現してみると、法や制度も窮屈だと思い始めた人間達が居るからだ。ならば、法や制度に代わるものは、何か。それは、人間のモラルである。
 いつの時代でも、支配される者達は、人間としての扱いも受けてこなかった。つまり、人間として認めるか認めないか、それが支配するか、支配されるかの基準だったのである。
 人間らしさとは何か。それは、文化である。文化の根本は、モラルである。人間らしく扱われないという事は、モラルや礼儀作法の埒外に置かれる事である。人間にとって最後のよりどころは、モラルなのである。
 現代人は、そのモラルをも、窮屈だと否定してしまおうとしている。その先に残されているのは、無限の闇だ。なぜ、人は、今、モラルすら否定しようとしているのか。それは、人間らしさをも、否定しさろうとしているから。底知れぬ人間不信の果てに。
 人間不信が、人々に浸透しようとしている間に、新たな支配が、始まろうとしている。目に見える支配から、目に見えない支配へと変わりつつある。目に見えない支配とは、経済的支配である。我々は、もう、この悪循環から抜け出さなければならない。
 現代人は、国家権力そのものを悪だと決めつけている傾向がある。確かに、モラルなき、統制なき国家権力は、暴虐である。しかし、国家権力の働かなければ、秩序も治安も保てない。秩序も治安もない社会は、闇だ。
 金儲けも悪い事のように言われてきた。商人と詐欺師は紙一重のようにさえ言われた。経済のなかでも商業はさらに低く見られる。経済学者の中にさえ金儲けは、卑しい行為だと思っている者がいるしまつだ。聖なる世界に、軍人は、入り込めても、商売人は、入り込む余地すらない。士農工商だ。しかし、世の中を動かしているのは、経済である。世の中をよくするも、悪くするも経済しだい。
 理想主義者の多くは、金儲けを蔑視する。しかし、経済的な裏付けのない夢は、幻にすぎない。泡のようなものだ。実現のしようがない。
 金は、汚い物ではない。大切な物だ。まず、その認識を持つ必要がある。先祖代々、古来からの認識を改める必要がある。
 世俗的権力の否定。経済や商業の否定。それが、今日的問題をまともに議論する事をも妨げている。いつまでも、子供じみた反権力、反権威を唱えていればいいわけではない。結局、自分達が、権力を握り、国の運命を担っていかなければならなくなる。その時、何でも反対、反対と駄々をこねるような姿勢は、自分の責任ある行動を阻害するだけだ。
 往々にして変革期にありがち事だが、前時代的だと、前時代のものを全て否定してしまう態度も問題だ。事の正否善悪に、新旧、老若、男女の別はない。懐古主義的に古い伝統や観衆に囚われるのも問題だが、それ以上に、古いと言って、全てを、否定してしまったら、何も残らない。特に、モラルの根本は、普遍的なものだ。新しい時代の新しいモラルが、定まらないのに、古いからと言って人間の根本当たることまで否定してしまったら、無秩序しか残らないことを肝に銘じるべきだ。
 軍事的支配から、政治的支配へ、そして、政治的支配から経済的支配へと支配形態は変わってきている。軍事力から、政治力へ。そして、政治力から経済力へ。それに付随して、技術力や生産力が向上してきた。自由と豊かさ。我々が、多くの血であがなってきた代償が、自由と豊かさだった。人類は、いとも簡単にそれを手放そうとしている。際限のない欲望のために。
 経済の改革が不調に終われば、軍事的世界へ逆戻りするだけだ。現に、その兆候が現れて始めている。我々は、武力、暴力からの支配から脱却しようとしてきたはずだ。
 近代経済は、会計学的世界である。会計学的世界は、簿記的社会である。会計学的社会が確立されていない。特に、公的な機関は、前近代的な社会である。民間だから、営利追求社会だから会計が必要なのではない。会計は、近代経済の基礎となる制度だから会計制度は必要なのである。
 民営化は、万能薬のように言う手合いがいる。民営化するだけが能ではない。民営化よりも会計と言う共通のルールに従うことの方が先決である。
 何でもかんでも民営化すれば、問題は解決できると言った短絡的な捉え方ではなく、その背後にある制度的、構造的、欠陥や不備を明らかにして、それに対処していく必要がある。熱が出たら、熱を下げればいいと言うのではなく。熱の出た原因をまず明らかにする必要がある。そのためには、肉体の構造、仕組みを解明しなければならない。つまり、経済をよくするためには、市場や産業の構造を明らかにする必要があるのだ。
 なぜ、働くのか。それは、幸せになるためだ。なぜ、学ぶのか。それは、幸せになるためだ。働くために、働いてるわけではない。まなぶために学んでいるわけではない。自分が、幸せになる事を、なぜ、望んではいけない。なぜ、求めてはいけないのか。人は、もっと幸せになるために、どん欲になるべきだ。そして、その根本に経済の問題がある。モラルの問題がある。
 幸せになるためには、金は必要である。人を騙して、稼いだ金は、問題だが、汗水垂らして稼いだ金は、まっとうな金、尊い金である。経済の本質は、人々を幸せにすることだ。経済が、その目的を達成できなくなった時、政治は破綻する。政治的破綻は、経済的破綻を招くが、経済的破綻は、即、政治的破綻なのだ。今の政治体制の破綻は、そこにある。
結局、経済に始まって経済で終わっているのである。
 拝金主義になれて言うのではない。制度の問題なのだ。構造の問題なのだ。そして、その上でも魂、モラルの問題なのである。我々は、次世代、子孫に責任がある。金銭の問題を大上段に取り上げろと言っても、金の亡者になれと言っているのではない。つねに、問題をすり替えようとする輩が居る。気をつけろ。
 資本主義経済で問題なのは、経済的倫理観の欠如である。経済を蔑視し続けたから、経済的倫理観すら確立されていない。そして、最も、経済的倫理観が欠如しているのは、経済を蔑視してきた世界である。経済を蔑視してきた人間に、経済をよくすることなどできない。
 今の社会は、病んでいる。呪術的なやり方や精神論的なあり方は、もちろん、前近代的な対処療法でも、現代社会の病は治らない。我々は、現実を直視すべきだ。
 資本主義経済にも、社会主義経済にも構造的な欠陥があるとしか思えない。それでありながら、現象的な面ばかりを追って、対処療法的な政策を採り続けても、抜本的な解決には、結びつかない。結局、病状を悪化させるだけである。
二十一世紀は、経済の時代である。だから、今、構造経済なのである。

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今、なぜ、経済の構造化なのか

構造経済ってなあに