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G−4 規制


 昨今、規制緩和が流行になり、何でもかんでも規制を緩和し、市場の原理まかせれば、うまくいくと言う考えが支配的になってきた。規制は悪であり、規制を全て撤廃し、自由競争に徹すれば、経済は、自然と均衡するという極端な考えまである。こうなると、規制緩和は、一種の信仰である。
 彼等の論法の基本は、規制を悪だとする考え方と、規制は、市場の原理、自由経済の原則、中でも、競争の原理に反するという点である。
 かなり強引な決め付け、前提がある。まず第一に、規制は、市場の原理に反するという前提である。第二は、市場の原理は、競争の原理だという前提である。第三は、競争の原理は、市場の自由な運動を保障すると言う前提である。故に、規制は、自由経済に反するという事になる。
 まず第一の前提、規制は、市場の原理に反するという命題である。その前提は、市場の原理は、競争の原理だと言う事である。しかし、肝心の市場とは何かという定義がこの命題には欠けている。第二に、市場とは何かという命題がなければ、市場の原理は競争の原理だという仮定を証明できない。市場の定義があって市場の働きが定義されるからである。競争を市場の原理とする根拠が稀薄なのである。第三に、なぜ、競争が市場の自由を保障するのかという根拠である。つまり、競争が自由を保証するのか、自由が競争を保障するのかが明らかではない。その前提となるのは、自由とは何かという定義である。自由と競争とを同一視するのは、乱暴である。

 まず第一に言えるのは、規制緩和と言うが、それは、規制を撤廃しろと言う意味なのか。それとも、規制を緩めろと言うのか、あるいは、規制を変更しろと言うのかである。それは、その前提となる規制の働きをどう評価するかにある。

 市場原理主義者は、競争のことしか頭にない。競争は、手段に過ぎない。原理でも、目的でもない。

 公正な競争とは何か。同一の競争条件が実現しなければ、公正な競争は、成立しない。好例が、人件費である。人件費というのは、費用の中でも大きな部分を占める。必然的に価格に決定的な影響を及ぼし、競争力を左右する要素である。
 人件費を構成する要因は、多様である。費用には、名目的なものと実質的ものがある。名目的というのは金額に現れた人件費である。価格に反映する人件費は名目的な部分である。それに対して、実質的な人件費というのは、人件費の持つ実際的な価値の総額を指して言う。名目人件費と実質的な人件費が一致するというのは稀である。なぜならば、人件費には、労働の対価という側面だけでなくいたような側面を持つからである。人件費は、第一に、労働に対する対価、つまり、コストである。第二に、人件費は、所得だと言う点である。つまり、人件費は、生活の糧である。第三に、労働に対する評価でもある。
 つまり、人件費は、一律の条件で決められているわけではない。産業の空洞化が叫ばれる背景に、人件費の問題が大きく影響していることは、衆知の事実である。人件費が安い地域で生産を行えばそれだけ費用を低く抑えることが可能なのである。しかし、人件費が安いという理由が、労働条件にあるとしたら、それは問題である。つまり、人件費が安いのではなく。労働条件が悪いところに生産拠点を移しているにすぎないからである。
 人件費を低く抑えるためには、一つは、労働条件の問題がある。もう一つは、費用の負担を企業が負うのか、公が負うのかの問題もある。例えば、医療保険や年金を国家が負担している場合と私企業に負担させている場合では、当然、名目的賃金は違ってくる。
 故に、競争条件を一律に扱うことは出来ないのである。一律に扱うことは、公害や貧困、劣悪の労働条件を輸出することにもなりかねないのである。
 経済的要因は、政治的な要因でもあり、社会的な要因でもあり、文化的な要因でもあり、制度的な要因でもあり、思想的要因でもある。
 公正な競争を実現する事は、公正な社会を実現する事でもあるのである。その前提を忘れて規制を緩和すれば、公正な競争が実現するどころか、不公正な競争によって良心的な条件に基づく業者が駆逐されることになりかねないのである。
 公正な競争力は、名目的だけではなく、実質的な面からも捉えないと実現しない。

 なぜ、規制が必要なのか。
 我々は、全知全能の神の如き人間を前提とすることは出来ない。また、すべきでもない。
 権力は人間を狂わせる。と言うよりも、人間は、本質的に主体的な存在であり、善悪の判断は、主観的な範囲から抜け出せない存在だと言う事を前提とすべきなのである。
 自分が正しいと信じていることの全てが自分以外の人間にとって正しいと断定することは誰にも出来ない。
 だとしたら、人間の行動は抑制されなければならない。そして、権力による統制によることが不可能ならば、人間の行動を抑制するのが可能なのは、規制しかないのである。

 経済的場は、非道徳的場である。経済的場を支配している規範は、損得の基準である。損得は結果である。原因ではない。経費や製造原価のことを考えると、人件費が安いところならば、労働条件が劣悪であろうと生産拠点を移すのが経済的に合理的な判断である。そして、そうしなければ、経済戦争には勝ち残れない。生存できないのである。
 そして、市場原理主義者は、競争が全てであるから、この非道徳的な部分に目を瞑るのである。しかし、非道徳的な部分に目を瞑った瞬間、彼等は不道徳になるのである。
 経済的な場は、人間性まで制御できない。そのまま放置すれば、欲に駆られて自分すら抑制できなくなる。だからこそ、規制が必要なのである。つまり、規制は、道徳の一種でもある。
 婚姻制度が好例である。規制緩和主義者には、婚姻制度すらなくしてしまえという過激なものまでいる。それは、社会や組織の否定的な面だけに囚われている者である。それは、かえって妄想に囚われた奴隷に過ぎないのである。人を愛する事は、愛する事によってしがらみが生じる。自分勝手に生きることができなくなるかも知れない。だからといって人間関係その物まで否定するのは本末の転倒である。

 もう一つ重要な前提がある。経済、特に、市場は人工的構造物だと言う点である。
 人口の構造物である市場は、規制で成り立っていると言っても過言ではない。

 規制緩和主義者は、競争のことしか頭にない。何でもかんでも、自由競争に委ねればいいと主張する。しかし、競争は、手段に過ぎない。原理でも、目的でもない。

 しかも、経済的場は、非道徳的場である。経済的場を支配している規範は、損得の基準である。損得は結果である。原因ではない。その根本にあるのは、際限のない欲望である。
 仮に、経済的競争力だけのことを考えると、人件費は安ければ安いほど良い。人件費が安いところならば、労働条件が劣悪であろうと生産拠点を移すのが経済的に合理的な判断である。そして、そうしなければ、経済戦争には勝ち残れない。生存できないのである。だから、労働条件を規制する必要があるのである。
 環境などどうなっても良い。乱開発であろうがなかろうが、売れればいいのである。会計上、これを取り締まる法はない。だから規制が必要なのである。
 市場原理主義者は、競争が全てであるから、この非道徳的な部分に目を瞑ろうとするのである。しかし、非道徳的な部分に目を瞑った瞬間、彼等は不道徳になるのである。規制は、煩わしいものである。それは、道徳が自儘を許してくれないようにである。しかし、無法な状態と自由な状態とは違う。競争は、何も制約がないから成り立つのではない。制約があるから成り立つのである。競争とは何かを知らないから、競争と制約を二律背反的に捉えるのである。

 市場経済を前提とするならば、市場取引に参加するものが利益を得られるようにしなければならない。市場取引に参加するものが利益を得られるような市場の仕組み、環境を整備する必要がある。それが市場経済における経済政策の大前提である。

 経済的には、経営主体は、利潤を追求する事を目的としている。それなのに、経営主体が利潤を上げられないような仕組みを多くの為政者は、構築しようとしている。それは、経済行為を蔑視する倫理的傾向によっている。元々、経済的規範と倫理的規範は、次元を異としている。その点を前提としていなければ、社会構造は築けないのである。
 利潤が上げられないのには、利潤を上げられない理由、原因がある。その中で経営責任に帰す部分と経営責任に帰せない部分がある。その点を見極め、切り分けて対策を立てる必要がある。

 利益を上げること悪い事であろうか。公正な商行為で利潤を上げる事は、奨励されるべき事であっても、疎まれることではない。真っ当な商売によって利益が上げられなくなった時こそ、利益は上げる事が蔑まれるのである。それは、正直者が損をする仕組みだからである。後ろめたいことをしないと利益が上げられなくなっているからである。

 競争力は、競争条件に依拠している。競争条件は、収益構造に現れる。
 収益構造は、競争の前提条件が統一化されていることによって成立する。競争条件が違えば、競争は成り立たないのである。競争条件は、適用範囲を特定することによって統一化される。
 競争条件の適用範囲には、第一に、物理的、空間的範囲。第二に、人的範囲。第三に、金銭的範囲、時間的範囲がある。これは市場の場の範囲と重複している。

 プロスポーツが成立するのは、競争条件を適用する範囲を特定しているからである。

 収益構造を見て経営者が経営努力によって改善できない部分、例えば、技術格差や経営効率、生産性は、経営努力によって改善できる部分である。労働条件の違いや生活水準、物価の差による人件費の格差のような部分とか為替の違いなどは、経営努力だけでは改善できない。経営努力で改善が見込めない部分には、経済政策や規制が必要なのである。

 閉鎖された市場ならば、競争条件の均質化は、保たれる。しかし、現在の市場は、開放されている。どこからでも廉価で高品質の製品や資金が流れ込んでくる。、そうなると雇用や産業が危機に陥る。かといって閉鎖的な保護主義は、各国の報復を招いて、経済を根本から破綻させてしまう危険性がある。
 だからこそ、構造的に市場や産業を保護する必要があるのである。つまり、前提条件をどう統一するかが問題となるのである。

 規制には、法的、財政的手段、行政的手段、金融的手段、会計的手段がある。また、規制は、制度的構造によって保護されている。

 規制は、合目的的な仕組みである。個々の条文や規定を取り上げてその是非をとても意味がない。規制というのは、ある目的に基づいた全体があり、個々の条文や規定は、全体を構成する部分に過ぎないのである。
 また、規制の目的は、前提にある。前提は、現実の経済状態、情勢に依拠し、導き出される。つまり、前提となる経済の現状や状態をどう認識し、将来の経済情勢や状況をどう予測し、どの様な経済情勢にしたいのかによって規制は、設定されるべき決まりなのである。

 規制には、法的、財政的手段、行政的手段、金融的手段、会計的手段がある。また、規制は、制度的構造によって保護されている。

 公正な競争を維持するためには、時と場合、状況によっては、競争の抑制策も必要とされる。
 収益力は、価格政策が重要になる。競争は、価格に収斂するからである。それは、適正な価格であって経営主体が適正な利益を確保できなくなる水準の価格和佐しているわけではない。
 故に、規制を維持するためには、価格を公正な立場で監視する第三者機関の設置が必要とされる。

 規制というと、何かやってはいけないこと、制約条件のように受け止められるが、そうではなく。規制は、スポーツのルールのようなもので、市場や経済の一定条件に基づいて公正な取引を実現できるようにする仕組みや決まりを言うのである。
 故に、あくまでも合意の上に成り立っている。国家権力が市場を尊重するのは、市場取引の当事者間における取り決めが、市場の機能を円滑にする鍵を握っているからである。しかし、それは、市場を放置することを意味しているわけではない。
 市場の取引には決まりが必要なのである。その決まりを前提として市場取引は成り立っている。それは、スポーツがルールを前提として成り立っているようにである。

 規制の是非を問うのは、結果論である。何を目的とし、どの様な働きを期待して設定された規制かが肝心なのである。
 どんな規制にも良い反応と悪い反応があるものである。どちらの反応が決定的な作用を及ぼすかである。
 また、規制が、良い方に作用する部分と悪い方に作用する部分がある。良い方に作用する部分に対しどの様な施策をすべきか。悪い作用をする部分にどの様な対策を講じるかが問題なのである。
 一つの取引は、相反する二つの作用を発生させる。と言うよりも、一つの運動の働きを認識するためには、相反する二つの働きを想定する必要がある。つまり、位置も運動も関係も相反する二つの働きによって相対化され認識される。
 市場取引で言えば、売りと買い。需要と供給。貸しと借り。受取と支払。市場の水準で言えば高いと低い。関係で言えば引力と斥力。集中と分散である。運動を認識するための前提であり、経済的働きは特に認識によって発生する力、働きだからである。

 危険なのは、働きが、一つの方向に傾くことである。何よりも大切なのは、均衡であって、一つの方向への偏りは、全体の働きを制御できなくしてしまう。その典型がバブルという現象である。その様な偏りを防ぐことが規制の重要な働きなのである。

 故に、規制の大前提となるのは、国家経済に対する思想、構想なのである。どの様なゲーム、つまり、市場にするかである。そして、市場に何を求めるかである。

 例えば、規制を撤廃したお陰で、産業が効率化され、生産力が向上したとしても、雇用が悪化し、景気が後退したら、それを是とするか、非とするかは、微妙な問題である。経済は、一つの物差しだけで測れるものではないのである。

 規制の目的は、何か、それは、適正な価格を実現し、維持することにある。この適正な価格という概念が今日の経済政策には欠如している。何が適正な価格なのか。それが重要なのである。適正な価格と廉価とは違う。確かに、高すぎるのも問題だが、安すぎるのも問題なのである。
 価格というのは、市場の最終的な価値である。市場価値は、適正な価格によって維持される。故に、適正な価格の実現は、市場経済を維持されるための必要条件なのである。
 市場経済、自由経済は、経営主体の利潤の追求を前提してしなり立っている。それは、企業だけでなく、家計も、財政も、最終的には、利益を追求する動機によって成り立っていると言える。
 問題は、この利益という概念である。おかしな話だが、利益を前提としていながら、利益を罪悪視する思想が蔓延している。つまり、利益を追求することは間違いであり、悪であるという考え方である。それで、安売り業者を英雄視する。しかし、経済問題の根本には、不当な廉売が隠されている。
 適正な価格が維持されなければ、企業だけでなく、家計や財政も赤字になる。特に、公的機関には、公共事業は、赤字でも良いのだという間違った認識がある。経済を蔑視する風潮である。故に、経済は安定しなくなる。景気の悪化は、根本的に収益力の悪化なのである。
 もう一つ重要なのは、市場の働きによって市場経済の均衡は保たれている。市場の働きは、価格に収斂する。価格は、企業収益や所得、税に反映するのである。企業が収益を上げられなくなれば、家計も財政も所得を維持できなくなるのである。それを忘れたら経済機構は成り立たなくなる。利潤を追求する事は悪いことではない。収益をあげることは、経営主体の一つの目標なのである。その為には、適正な価格の実現こそ、経済政策の重要な目的なのである。

 自由というのは、無秩序な競争を意味するわけではない。大体、公正な競争など実現したためしはない。公正というならば、規制しなければならない。スポーツの世界で公正な競技が保証するのはルールである。つまり、規制である。選手の人数を特定していなければ、公正な競技は、保証されない。
 市場は、競争の場ではない。市場は、本質的に戦場なのである。敗者は、淘汰される運命にある。生存闘争の場なのであって、競争の場ではない。競争の場とするならば、規制しなければならない。
 何れにしても規制を前提としている。

 金融危機を引き起こした一因に投資銀行の収益の悪化がある。1975年に、アメリカで株式委託手数料が自由化された。ウォール街では、これを「メーデー」と読んでいる。それまで、高い固定手数料によって維持されていた収益が圧迫され、自己売買による収益の向上を計ったのである。(「実録 世界金融危機」日本経済新聞社編 日経ビジネス人文庫)
 経済的危機の背景には、企業の収益の悪化が隠されている場合が多い。それは、市場が成熟されるにつれて儲からなくなるからである。適正な価格を維持できなくなった産業はも衰退する。衰退する過程で、雇用などの社会問題を引き起こすのである。

 よく衰退産業から成長産業へ移行させればいいと言うが、そう簡単な話ではない。第一に、人間の問題がある。一つの産業で生きてきた人間が蓄積してきた技術や知識は、おいそれと他の産業に転用できるものではない。結局、熟練者ほど、それまでの人生その物を否定されることになる。経済は、人間によって成り立っていることを忘れてはならない。また、人間のためにあることも忘れてはならない。
 経済の根本は、競争力だけにあるわけではないのである。
 産業が衰退する原因は、適正な収益をあげられなくなることである。適正な収益をあげられないのは、適正な価格を維持できないからである。

 市場至上主義者達のお陰で規制は、すっかり悪役にされてしまった観がある。何か障害が生じると何もかも規制に結び付けられ、あたかも、規制があるからうまくいかないと言われてしまう。規制が悪いという、結論ありきの様相を呈している。その為に、規制を制約条件と考える様な風潮があるのは遺憾なことである。規制は、必ずしも制約条件のようなものを指すのではない。規制は、いわば、スポーツのルールの如きものである。

 適正な価格の基準は、その価格の中に含まれている要素によって決まる。価格に含まれる要素は、密度である。即ち、質と量を掛け合わせた値である。量だけが問題ではない。品質も重要な基準である。故に、安ければいいと言う考え方は成り立たないのである。量に全ての価値を収斂すれば、質的な部分が削り取られてしまう。利益を生み出すのは質的部分である。質的部分が削り取られてしまうと利益は失われる。

 規制の対象には、市場に、企業、消費、、環境がある。
 価格を構成する質的な部分には、品質、安全、環境などが含まれている。品質、安全、、環境の維持は、規制の中でも重要な部分を占めている。逆に言えば、過当競争によって収益が維持できなくなれば、品質や安全、環境、それに、技術という面が、価格に反映されなくなる。その結果、品質、安全、環境、技術が犠牲になる。そして、これらの知識や技術は、失われてしまうと簡単には復旧させることが出来ないのである。

 また、価格を占める重要な要素が附加価値である。中でも、人件費である。人件費は、家計にとっては所得である。故に、適正な価格を維持するためには、適正な人件費を前提してする必要がある。それ故に規制が必要なのである。

 大前提は、経済や市場をどの様な状態にしたいのか。また、どの様な状態を維持したいのか。また、経済や市場の役割、機能をどの様に捉えるのかである。
 その上で、経済や市場の現状をどの様に認識し、どの様な、現状をどの様にしようとしているのかである。
 経済や市場をどの様にしたいのかも解らずに、やれ規制がどうのこうのと言ってもはじまらない。競争の原理と言うが、競争にどの様な働きを求めているのか。それすらも明らかにしないで、ただ、競争を煽るのは、無責任の極みである。
 その前提の上に、長期的、中期的には、経済や市場の目的や仕組みをどの様にするのか。また、短期的には、どの様に経済や市場を運用するのかによって経済政策は決定される。そして、何を公式なものとして認めるのか、あるいは、否定するのかである。
 例えば、いろいろな協定や提携を一概に悪いと決めるのではなく。市場や経済状況を前提として設定するべきなのである。その好例が不況カルテルの是非である。先ずどの様な状況、環境にするのかによってどの様に規制すべきかが決まるのである。

 翻って言えば、規制は、合目的的な規則であって、現状を追認するようなものであってはならない。つまり、根本的な考え、思想があって規制は成立するのである。

 規制には、場に対する規制、仕組みに対する規制、主体の行為、行動に対する規制がある。規制は、位置と運動と関係にたいして働く。

 プロスポーツを例にとると規制は、スポーツのルールのようなものである。
 プロスポーツを構成する規制には、第一に、ルールの制定、改廃、変更、運用に対する規制がある。第二に、場、フィールドに対する規制がある。第三に、プレイヤーに対する規制がある。第四に、チームに対する規制がある。第五に、ワークに対する規制がある。第六に、評価、判定に対する規制がある。第七に、罰則に対する規制がある。更に、補足的な規制がある。補足的な規制とは、第一に、マネージメント、即ち、管理、運営に対する規制である。第二に、審判に対する規制である。第三に消費者、観客に対する規制である。この様に、規制とは、ルールそのものだともいえる。

 スポーツは、ルールによって成り立っている。ルールがあるから自由なプレーが楽しめるのである。ルールがないのは、スポーツではなく、格闘に過ぎない。つまり、規制は、自由を保障するものであっても阻害するものではない。阻害する規制があったとしたら、その規制が不適合なだけなのである。

 また、規制には、第一に、長期、固定的、基盤となる規制と第二に、短期、流動的、運用的、相対的規制の二つがある。
 更に、規制には、全体に作用する規制と部分に作用する規制がある。

 規制の手段には、数量規制、規模の規制、参入規制、自己資本規制などがある。

 現在の市場経済、資本主義経済は、会計制度を基盤として成り立っている。いうなれば、資本主義は会計主義とも言える。市場の規制は、商法、証券取締法、税法などによって成り立っているが、何れも、会計制度を基礎としている。故に、実質的には、会計制度に依拠していると考えても良い。そして、会計規制というのは、会計のルール、基準を指して言う。会計基準の変更は、規制の変更を意味すると考えるべきなのである。実際、景気の変動の引き金を会計基準の変更が引くことが多くある。
 現代の資本主義は、企業収益に依拠しているのであるから、最終的には、会計の基準に結び付けられて考えられなければならない。経済は、実務である。実務に結びつかない経済施策というのは、実効力を持たない。
 会計基準の変更が、景気に甚大な影響を与えてきた。特に有名なのは、BISによる銀行の自己資本規制である。
 ところが、会計基準の変更と経済政策とを結び付けて考えることが少ない。会計基準の安易な変更は、厳に戒めなければならない。
 また、経済を論じる時は、会計に対する考え方や知識を下敷きにする必要がある。ところが現在の経済政策に関わる者の多くが、会計の基礎知識すら持っていないのというのが実情である。経済にとって数学と会計は必須の技術である。
 なぜ、会計基準の変更が、景気に影響を与えるのかというと、会計基準は、利益を算出するルールだからである。景気の動向は、企業の収益力に左右される。その是非は別にして、時価会計、自己資本規制、税効果を見ても解るように利益を算出するルールである。つまり、会計の規制が企業の収益を実質的に左右している。
 そして、時価会計も、自己資本規制も、税効果も一種の思想である。キャッシュフローというのも思想である。中でも特に、重要なのは、償却という思想である。

 規制は、免許、登録といつた許認可権に結びつくことによって効力を発揮する。故に、許認可権は、権力である。

 会計制度の例が典型であるが、規制というのは、一つの体系である。制約条件は、その一部に過ぎない。個々の制約条件をあげて、規制の是非を論じても意味がない。規制は、全体と部分との整合性の上に成り立っている。全体の目的と考え方に基づいて、部分は設計され、その是非を問われるのである。
 規制というのは、ルールであって、制約条件や罰則のみを指しているわけではない。規制の目的と機能こそと割れるべきなのである。

 規制を否定する者の中には、反権力主義者がいる。反権力主義者どころか、反国家主義者や、無政府主義者がいる。しかし、権力を否定したら市場や社会の規律は保てなくなる。無法の状態の中で、どうやって経済を成り立たせるというのであろうか。

 規制を考える場合、個々の規制をとってその是非を問うても意味がないことである。規制は、それを成り立たせている背景、基盤がある。それが規制の働きや性格を規定しているのである。
 また、規制を阻害要因として景気に対する負荷のように捉えるのも間違いである。
 本来規制は、市場や経済の規律を保つ目的で作られるものである。規制を攻撃する者は、何等かの理由でその規制によって不利益を蒙る者である。問題は、その正当性である。その正当性は、その規制の目的から照らし合わせて考えられるべきものなのである。

 規制は国力を反映する。故に、当事国以外の国が規制の緩和や何等かの変更を求めている場合、何等かの国家間の思惑が働いていることを考慮する必要がある。有り体に言えば、規制は、内政問題なのである。他国がとやかく言う問題ではないはずである。
 

産業政策