政略、軍略、戦略と言う言葉は聞くが、経略という言葉は聞かない。政略や軍略というのは、あからさまにできるが、経済戦略というのは、あまり、大っぴらに語れない風潮がある。しかし、戦争や革命の陰には、経済的な問題が隠されているのが常である。また、国家間の抗争の種は、経済的な利権である場合が多い。
 イラク戦争の真の原因は、石油利権ではないのかと囁かれているのも歴然とした事実なのである。

 経済は、認識の問題である。現代、市場経済における認識は、取り引きによって為される。市場経済下では、取り引きの基準は、現金主義ではなく。実現主義、発生主義、取得原価主義に基づいている。
 つまり、現金の授受を基本にするのではなく。取り引きの実現、取り引きの発生と実際の取り引きに基づく事実を基として市場価値は形成されている。
 市場における経済価値は、取り引きの発生と実現を基としている。ところが財政は、現金主義の立場をとっている。現在財政赤字が問題になっているいるが、そこで問題とされる赤字は、市場経済の原則によって計算された赤字とは違うものなのである。その点を前提としないと財政赤字意味が正しく理解できない。
 財政は、この様に現金主義のみならず総額主義の原則、超過支出禁止の原則、量出制入の原則、会計年度独立の原則、単年度主義の原則と言うように市場経済の原理とは違う原理で動いているのである。

 政府とは、本来の投資機関の一つである。投資機関とは、何等かの事業に投資し、その配当を受けることによって成り立っている。
 国家が収益を上げる事の意義を理解しないと財政の働きは理解されない。
 その意味で、問題になっている政府系ファンドの働きはいろいろな示唆がある。つまり、国家の余剰資金の活用方法に対する考え方は、根本に国家に対する思想がなければ確立できないのである。それは、国家財政の問題でもある。
 税とは何か。財政を考える上で、税の意義、働き、目的を明らかにする事は、基本、前提である。
 第一に、税は国家収益なのか。それとも国民の国に対する投資(預金)と見なすべきか。現金主義的な立場からは、これらの問題を明らかにすることはできない。
 この様な税の働きを考える上でかつての公益事業、中でも国鉄の在り方は含蓄がある。
 国鉄の収益源は、国家における税収と同一に捉えられるか。それは、財政における資本は何かと言う問題も行き当たる。

 財政で最も重要なのは、国家の枠組みである。財政で最も重要なのは、国家構想である。それも、観念的、あるいは抽象的なものではなく。現実的で実際的な構想である。それが欠如していることが財政を深刻なものにしているのである。

 財政で問われるのは、国家とは何かである。つまり、国家観である。故に、財政の根本は思想である。

 財政とは、生活空間を設計し、構築することでもある。それは、国民生活の有り様を規定することから始まる。国民国家の目的の冒頭に、国民の福利と生命財産の保護が謳われるのが、その証である。

 かつて、田中角栄は、日本列島改造を唱えた。しかし、結果は、地価や物価の高騰を招き破綻した。それは、日本列島改造が多分に経済的事由に基づいていたからである。それでも、私には、ないよりはずっとましに思える。少なくとも、実際的な構想があれば財政のための公式的な指針になる。
 この国をどの様な国にするのか。その為には、どの様な施策が必要なのか、その根本に国家構想がなければならないからである。

 財政の問題を論じる時、近年は、常に、赤字問題でしかない。赤字を論じる場合でも、いかに赤字が多いか、あるいは、いかにして赤字をなくすかの問題が主であり、なぜ、赤字か生じるのか。財政赤字とは何かについて論じられることがあまりない。

 財政赤字が深刻だから財政再建は、喫緊の問題だと内外、政府、メディアが大騒ぎをしている。しかし、ではなぜ、財政赤字は問題なのかと改めて問い直すと、赤字だから悪いと言った類の解答しかない場合が多い。要するに解っていないのである。

 財政赤字の議論は、財政は、赤字だから悪いのであって、それ以上でも、それ以下でもない。しかし、本来は、財政の在り方である。健全な財政とはいかなる物なのかの問題なのである。その上で、財政赤字がどの様な影響をもたらすかが問題なのである。

 つまり、財政赤字によって規律が失われることを問題としているのである。それならば、最初から規律が求められればいいが、常に、その点が曖昧にされている。だから、財政を立て直す為の計画を実行に移す段階になると、目先の問題に囚われて、いつの間にか、財政規律が忘れ去られてしまうのである。

 財政が破綻して何が悪いか。突き詰めてみると財政破綻で問題にされるのは、モラルハザードとインフレが問題とされる。

 重要なのは、財政の規律である。
 結局、財政赤字の問題を突き詰めていくとモラルハザードとインフレに行き着く。何れにしても、経済の規律が失われることを問題としているのである。それならば、最初から財政政策の目的規律が求められればいい。ところが、常に、その点が曖昧にされている。それは、財政の持つ本来の姿が見失われているのか、あるいは、最初から存在しないかなのである。
何にどう使われているかは、財政を考える上で核となる事柄である。

 モラルハザード、倫理観の問題を民間にのみ求める傾向がある。少なくとも、経営を破綻させれば、民間企業では、文句なく経営者は、少なくとも経営責任を問われる。悪くすると全財産を没収されたり、民事罰、刑事罰を受ける羽目になる。それに対して、公共事業を破産させても、財政を破綻させても、官僚や政治家は、同情される事はあっても、責任を問われることはない。下手をすると高額の退職金をもらい、次の仕事を紹介してもらえる。
 官僚や組合の人間の中には、利益を上げる必要はない。むしろ、利益を上げる事を考えてはならない。利益を上げる事を画策することは賤しいことだとすら公言する者までいる。これでは、公益事業者に、経済的道徳など持ちようがない。これはおかしな事である。公益事業は、公共の利益を追求するところである。彼等が利益を追求しないという事は、公共の利益が存在しないという事を意味する。つまり、公共事業の存在意義を自らが否定していることを意味する。
 もう一つ重要なことは、彼等の論理の中に、利益など追求しなくとも、利益を上げる事はできるという思想がある事である。それは、根本的に市場経済を否定していることであり、民間企業の人間を最初から見下している証拠なのである。だから、公営事業は、儲からない。民間企業は、儲かる。それで、民営化してしまえと言うのは、あまりにも短絡的な発想である。

 市場の規律を、財政は、どう保つかが経済政策、最大の問題である。では財政の規律とは何か。財政の規律を保つためには、どの様にすればいいのか。それを理解するために、財政の機能とは何か。また、現在、財政は、どの様な考え方の上に成り立っているかを明らかにしたい。

 財政は、第一に、単年度均衡主義である。第二に、現金主義である。第三に、予算主義である。予算主義は、言い換えると先決主義である。
 これらの財政に対する現在の原則が今日の財政問題の元凶である。
 特に、財政の原則と会計の基準との相違は、決定的な要因の一つである。

 現在の市場経済は、会計の文法、文脈によって成り立っている。それに対し、財政は、違う基準によって成り立っている。財政赤字の代表される。財政の問題点は、この会計の文脈と財政の基準の違いに原因している。

 財政問題、特に、財政赤字を問題にする場合、支出面からだけ考えても意味がない。かといって収入面から見るだけでも駄目である。収支両面から見る必要がある。さらに、財政の前提、計算手段や仕組みからも捉え直す必要がある。

 財政には、第一に、資本という概念がなく、経済主体の所有権と経営権が未分離だと言う事である。
 第二に、期間損益ではなく、期間収支である。故に、利益という概念がなく、残高が基準となる。基本は、一定期間における現金収入と現金支出の残高である。
 第三に、長期均衡ではなく、単年度均衡を基本としているという事である。その為に、減価償却という概念がない。また、財政には、費用の繰延という思想がもてない。
 第四に、複式簿記ではなく、単式簿記を基盤としている。単式簿記というのは、現金主義であることを意味している。現金主義というのは、現金取引を基礎とした思想である。現金取引は、取り引きの軌跡だけを示しているのであり、取り引きの内容、構造まで明らかにしているわけではない。つまり、現金によって明らかにされるのは、資金の動きである。資金の動きとは、その時点、時点で実現した貨幣価値の軌跡である。
 第五に、資産、負債、資本、収益、費用、資本の区分がない。基本的には、財政で重要なのは、現金残高だけである。

 財政赤字を考える上で、重要な要素は、第一に、利益という思想が存在しないという点である。第二に、償却という概念もない。第三に、単年度、単年度で収支を均衡させる。収支が均衡しなければ、赤字となる。第四に、資本、即ち、利益の蓄積という概念もない。第五に、収益と費用の捉え方、認識の仕方が会計とは違う。費用対効果として認識されていない。第六に、資産という概念が存在しない。第七に、負債に対する認識の仕方が違う。国債は、元本の返済まで含まれて計上されるのに対して、企業会計では、元本の返済が計上されていないことも財政赤字を考える上で重要な要因である。
 これ程、基本的な考え方に違いがある場合、用語の統一や市場の連続性が保たれない。また、赤字の問題を企業の赤字と同次元で検討することもできない。

 財政と会計制度を基盤として市場経済との違いは、財政と市場との連続性が保たれない原因となっている。その典型が財政赤字問題である。
 利益は、一つの情報である。現金というのは、現実である。利益は、期間損益という概念の上に成り立っている情報なのである。
 期間損益が成立した前提は、巨額の投資資金を長期間に繰り延べることによって一定期間の利益を確立しようと言う思想である。期間損益の目的は、投資によって生じる費用の時間的な不均衡を是正することにある。その延長線上に償却という思想がある。

 また、財政赤字問題では、財政赤字の背景も重要となる。そして、財政の背景となる仕組み、構造を明らかにするためには、複式簿記に基礎を置いた会計制度に依る必要があるのである。

 民間企業と財政とは、経済的価値の基準が違うのである。故に、赤字と一口に言っても赤字の持つ意味が違うのである。

 家計が赤字だと言っても大地主や資産家の家計と所得だけで生計を立てている家計とでは赤字の意味が違う。
 財政と、家計とは、基本的に同じ現金主義を採っている。故に、赤字の意味は、家計の赤字に近い。その意味で財政赤字と言ってもその背後にある財産が解らなければ一概に是非を決め付けることができないのである。

 むろん、赤字だと言っても財産や蓄えが豊富にあれば、収支が合わなければいつか蓄えを食い潰してしまう。しかし、だからといって、今、すぐに破綻するというわけではない。また、赤字が一時的なものなのか。長期均衡を前提としたものなのかを明らかにしなければ、その是非を論じる事自体、無意味である。

 相続税対策のために、年収の何十倍もの借金を故意にする者すらいるのである。
 故に、単純に赤字だから悪いと決め付けることはできない。どの様な背景で、また、どの様な基準において赤字なのかを検証しないと赤字の意味は理解されない。
 赤字だからどうなのか。赤字のどこが悪くて、赤字だとどうなるのかを明らかにしないで、赤字だから悪いでは、説得力に欠けるのである。

 予算主義というのは、先決主義である。つまり、予算主義とは、予め必要な費用を予算として確定しておいてその上で執行することである。つまり、先に決定があり、後は決められた事を決められた範囲内で執行するという思想である。

 先決的な体制が維持できる前提は、全ての事象が予見できる事である。つまり、あらゆる生産と消費、収入と支出が予測可能で、予め設定できなければならない。
 この思想も民間企業では、全く逆である。全てのことを予見するのは不可能であるから、結果に対して責任を負わされるというのが民間企業の思想である。それが会計の思想でもある。

 財政は、市場経済、期間損益の埒外におかれている。その為に、市場経済の原則と違う原則によって動かされることがあり、それが、市場経済の利益と反する結果を招くことがある。

 それにしてもなんと無駄遣いが多いのか。社会保険庁の問題一つとっても公務員の責任感、道義心は、どうなっているのかと疑いたくなる。つまり、公務員は、財政の意味や役割を本当に理解しているのかと言いたくなる。問題は、単に財政赤字の問題にとどまらない。財政赤字は、結果であって、原因ではないのである。
 公務員というのは、元々、道徳観の欠片もない人間しか採用されてこなかったのであろうか。そんな事はない。特に、高級官僚に就職する者の多くは、高い理想や志を持っていたはずである。また、日本の今日の繁栄を導いたのは、日本の高級官僚だと言う事が定説になっていた時代もあるのである。
 だとしたら何が公務員達のモラルをかくも喪失させてしまったのであろうか。
 それは、一つは目的意識である。国家が明確な構想を持てなければ、国家目的を実現しようとして働く者達は、自分達の判断の方向性を見失う。判断の方向性は、倫理観の拠り所であり、根拠である。重要なのは、国家が具体的な構想を持ち得ないような状況なのである。

 多くの人は、財政の破綻の原因は、官僚の横暴さにあるように言う。しかし、私は逆だと思う。あまりにも、官僚は権限を与えられていない。予算が決められたら、その範囲でしか判断が下せない。その為に、官僚制度が硬直化しているのである。むしろ、大幅に官僚に権限を与え、その代わりに責任を明確にした方が財政は健全化できる。

 :権限も責任も不明確だから公務員は、ただひたすらに予算を消化することに専念している。その予算が何に使われ、どの様な役割をするのか、また、予算を消化しきってしまうことが国家財政にどの様な影響を与えるかなんて一切斟酌せずにである。

 国家財政は、巨額である。それは、一個の産業を命運を左右するほどの規模である。産業の命運を左右するほどなのであるから、一企業の命運などものの数ではない。それは、神の手や市場の原理によって決まるのではない。
 規模が大きければ大きいほど、財政に携わる者の倫理観が問われるのである。そして、その根本にある思想、国家観が重要になるのである。

 一旦、組織や機構が出来上がるとその組織や機構を守ろうとする力が働くようになる。特に、その組織や機構に生活の基盤を置いている人間は、その組織を守ることを自己目的化する。それは、官僚や軍人は、官僚組織や軍隊の存続を自己目的化し、それが時には、国家の目的に反する場合が生じる。

 また、民間や市場経済と違う価値観によって支配される事は、官僚の価値観が、市場経済や貨幣経済、民間よりも自分達を一段高く位置付ける考え方を醸成する一因ともなる。それは、官業の民間に対する差別意識をも生み出す原因となる。

 重要なのは、財政の働き、機能である。その働きや機能が無視され、あるいは、その一部、例えば、景気浮揚とか、雇用対策と言った働きだけに限定的に捉えられ、その為だけの対策が執行されてしまうことにある。財政赤字も同様である。ただ、財政赤字という結果、現象を捉えてどうすればいいのかと狼狽(うろた)えているのである。しかも、その論拠が家計の赤字と同じ次元でしかとらえていない場合が多い。

 財政の機能の第一は社会資本の充実。第二に、所得の再分配。第三に景気対策、第四に、通貨の管理。第五に、行政費用である。

 財政は、収入と支出を結び付けて考える必要がある。

 国家収入には、第一に、税収。第二に、借入。第三に、事業収入。第四に、資産運用益。第五に、通貨発行益がある。

 財政が悪化すると言うが財政が悪化することでどの様な問題が生じるか、今一つハッキリしていない。借金は悪いと言うが、国家の借金と家計の借金、企業の借金を同列に扱えるのかという問題もある。また、国債も外貨建てか、円建てかによっても違ってくる。
 財政が悪化することの弊害として考えられている問題点は、第一にハイパーインフレ。第二に、モラルハザード。第三に、財政の硬直化。第五に、貨幣価値の信認の喪失である。しかし、なぜ、財政が悪化するとハイパーインフレになるのか、その仕組みが判然としていない。財政の硬直化と言うが、財政の硬直化は、国家の可処分所得と支出、そして、通貨の量との関係から捉えるべき問題である。

 財政の資金源は、何かそれは税金と借金(国債)と国家事業収益である。それから、国家資産の運用益である。日本は、世界一の債権国だと言われている。それでありながら、資産を上手く活用しているという話はあまり聞いたことがない。また、財政投融資先も一種の伏魔殿化している。国家収入には、他に、シニョレッジ、通貨発行益がある。通貨発行益というのは、馬鹿にならない利益である。
 財政が問題とされるとき、この資金源はよく議論される。しかし、その反面に、資金の使途については、無関心である場合が多い。

 財政の資金源の第一は、税金である。税制度とは何か。税金とは、小口の資金を全ての国民から広く徴収する仕組みである。税というのは、国民が拠出した資金だと言う事である。それは、国民の権利の源、根拠でもある。それ故に、納税は、義務なのである。

 だから、国民は、何に対して、どの様に税を負担し、また、その税がどの様に使われるかについて権利と義務を有するのである。当然、知る権利、知らせる義務も生じる。

 財政赤字や景気対策が問題とされる時、財政の使途や目的が問題とされていない。いうなれば財政は、使途不明金である。使途が不明なのであるから、当然、資金と使途とは関連付けられて議論されたりはしない。しかし、本来重大なのは、資金の使途なのである。
 家計でも企業経営でも金儲けだけの話がされてその使途が何も問題にされないと言うことはない。なぜ、ならば家計が赤字になるのは、収入が少なくなることよりも無駄遣いによる場合が多いからである。むろん収入が減るのは、決定的な要素であることには変わりがないがである。収入と支出は、常に、均衡させるように調整されなければならないのである。
 ところがこの原則が財政においては通用しない。景気浮揚策のためならば、どんな支出も許されるという傾向がある。この事は、財政の在り方の根本を見失わせる原因となっている。

 財政を破綻させる原因の一つに軍事がある。古来、国債の発行は、軍事費の調達による場合が多い。軍事費の根幹にあるべきなのは、国防思想である。この国防思想の骨組みが確立されていないが故に、軍事費に歯止めがかからなくなるのである。
 特に、軍人は、軍事費を経済と結び付けられることを嫌う。しかし、軍事は、経済を考える上で欠かせない項目なのである。

 軍事費に相当する要素に社会福祉費がある。社会福祉費は、国民生活の基盤を為す思想に基づく。国民生活で、何を、どの様に守るべきなのか。また、社会格差をどう是正し、所得の均衡をどう保つのか、所得の再分配に関わる問題なのである。

 景気浮揚策にせよ、軍事費にせよ、社会福祉費にせよ、財政に聖域を設けるべきではない。財政の目的の本質は、国民の福利にある。つまり国家理念の問題なのである。つまり、高度に思想的な問題である。財政を抑制しうるのは、国家理念であり、国民の意志である。

 財政の問題は、即ち、経済の問題であり、経済体制の問題でもある。物理学的な法則についての話ではない。財政は、自然現象とは違うのである。国家的な意志が問われる問題なのである。

 財政を景気対策の道具にすべきではない。財政は、経済の僕ではない。むしろ財政は、国家経済そのものである。国家は、経済を制御し、市場を調整するための機関である。国家が、その目的を最初から放棄すれば、経済は、制御不能な状態に落ちるのは火を見るより明らかである。市場に財政が振り回されるのは、犬が、自分の尻尾に振り回されるようなものである。
 財政の根本は、国家観であり、国家構想である。つまり、どの様な国にするのかに対する根本思想である。その原点は憲法になければならない。つまり、憲法を実現するための原資が財政なのである。

 景気対策は、あくまでも、対症療法的な施策である。それは、根本の構想があってはじめて成り立つものである。

 景気対策と称して作らなくてもいいダムや堤防を作り、環境破壊や乱開発を招くのは、国家的犯罪だと言っても過言ではない。

 また、根本理念を欠いた財政は、利権化しやすく、腐敗しやすい。国家に対する理想があってはじめて財政は規律を保てるのである。根本理念なくして、構想なくして、財政は成り立たない。財政は、規律をなくして必ず破綻する。

 公共事業は、景気浮揚策の道具にすべきではない。しかし、公共事業には、資金的にも時間的にも本来ゆとりがある。公共事業こそ、巨額の資金と長期の時間を必要としている。単年度、単年度で事業を捉えようとすれば、事業として均衡するのは難しい。事業を長期にわたって継続し、新規を均衡させる必要がある。だからこそ、景気浮揚策にも有効な手段なのである。
 事業計画に沿って原則に従えば多くの選択肢が生じる。景気対策は、資金が巨額な上、長期間、人手を必要とする公共事業だからこそ、調整することができるのである。

 経済の問題は、最終的には、金、即ち、貨幣価値に還元されるが、本質は金の問題ではない。経済の問題は、誰が、何を、どの様に負担するかでの問題であって、それに必要な資金をどうするかの問題なのである。
 高齢者や未成年者、病人を誰が、どの様に世話をするかの問題があって、それを具現化するのが財政である。
 例えば、年金の問題の根本は、誰が、高齢者の面倒を見るかであり、その為に、どの様な仕組み、年金制度が適切かの問題なのである。最初に、年金制度ありきではない。
 財政の問題は、経済の問題である。それは、自分の国をどの様な国にするのかの問題なのである。



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