財政赤字が悪い、悪いと言うが、財政赤字で問題なのは、財政赤字の原因なのである。財政赤字は、単に赤字だという現象面だけ捉えているだけでは解明できない。
 なぜ、財政赤字は悪いのか。何が、財政赤字の問題なのか。それが重大なのである。そして、財政赤字の問題の根源には、時間の問題が隠されている。しかも、時間の問題は、財政赤字を解く重大な鍵を握っているのである。

 財政赤字とは何か。その点を理解しておく必要がある。企業経営上の赤字と財政赤字とでは本質が違う。企業経営上の赤字は、期間損益上の赤字を意味するのに対し、財政赤字は、収支上の赤字を意味する。
 例えば、企業経営でも収支上で言えば大赤字である企業は沢山ある。例えば、電力や鉄道のように初期投資が大きい企業は、収支的に見ると赤字である場合が多い。

 現在の財政の思想は、予算主義、均衡主義、単年度主義、現金主義である。それに対して会計制度は、決算主義、複式簿記、期間損益主義、実現主義である。どこが違うのかというと時間に対する考え方が違うのである。
 
 財政と会計制度を基盤として市場経済との違いは、財政と市場との連続性が保たれない原因となっている。その典型が財政赤字問題である。

 近代という持代は、経済的尺度の中に、時間の概念を持ち込んだことにその特徴がある。それに対し、財政と会計では、この時間に対する概念が統一されていないのである。故に、会計的に見て財政赤字の原因は明らかにされていない。つまり、会計を基準とする企業の赤字と財政赤字は全く異質なものである上に、財政赤字の原因は会計上は明確にされていない。と言うよりも会計上は明確にできないという事なのである。故に、会計的な処理ができないでいる。財政赤字最大の問題は、実は、その点にあるのである。

 財政赤字が問題とされる時、単純に借金が悪いという発想に基づいている場合がある。しかし、現代の貨幣経済は、借金によって成り立っていると言っても良い。

 現在の財政赤字の問題は、国債の問題に置き換えることができる。国債の問題は、紙幣の問題でもある。
 日本銀行では、紙幣、即ち、日本銀行券は、負債である。つまり、銀行券は、国債の一種、或いは、国債が変形した物とも言える。
 ちなみに、国債と金地金、現金は資産である。コインは、政府発行貨幣である。
 銀行券も現金になると資産となるのである。

 近代貨幣制度は、紙幣を基盤にして成り立っている。紙幣は、表象貨幣である。表象貨幣の源は、借金なのである。その証拠に日本銀行では、会計上は、銀行券を負債として扱っている。金地金は、資産である。同じ銀行券でも現金扱いされている物は、資産なのである。そして、コインは、政府発行貨幣なのである。

 実物貨幣と表象貨幣とでは本質が違う。実物貨幣は、貨幣その物が価値を持つが、表象貨幣は、貨幣価値を指し示す表象にすぎない。

 紙幣が象徴するように、現代の市場経済は、借金によって成り立っていると言っても良い。借金の技術が開発され、発達したことによって巨額の資金の運用が可能となり、鉄道や電力といった大規模産業が発達したと言える。

 現代会計は、投資資金の回収や費用を時間軸によって割り振ることにより時点時点の収支を最小に抑える技術を開発した。それが期間損益であり、償却という思想である。その過程で利益という概念は、創作されたのである。
 この利益という概念によって事業の成果を計測することが可能となったから鉄道のような巨額の投資を必要とした産業も成り立っているのである。

 また、利益の概念が確立することによって金融市場や資本市場が確立し、多額の資金の調達の道が開かれた。
 近代のような産業が成立したのは、貨幣経済、突き詰めて言うと、紙幣が確立された事が重大な契機になっている。そして、紙幣を基盤とした貨幣経済の成立によって金融市場でも資本市場でも不特定多数から小口の資金を集めることが可能となったのである。
 本来、税というのも同じ性格のものである。紙幣が確立される以前は、税は、特定の人間にしか課せられなかった。博く浅く税を課す技術というのは開発できなかったのである。

 この様に利益は、本来、合目的的に設定されるものである。利益は、天然の現象のような結果ではない。

 利益に求められのは、緊急時や不況の際に備えた蓄え、設備の更新や新規投資の時の資金、元手、元本の返済資金である。

 企業の重要な役割の一つに所得の平準化にある。所得の平準化とは、所得を定収入化する事である。収益には、波がある。その波に合わせると所得にも波が生じ、不安定なものになる。
 波のある収益を平準化するのも会計の重要な機能の一つである。この様な所得の平準化のためにも利益を確保することが重要な意味がある。利益をただ分配すればいいと言うのは、会計の考え方に反するのである。
 もう一つ重要なのは、個人の能力や環境と言った属性には個人差があり、その個人差を調整するのも経営主体の重要な機能の一つだと言う事である。労働と時間だけで全ての人権を画一化すると人間の個人差は無視されることになる。
 この点は財政にも言える。国民全体の所得の安定を計るのも財政の重要な役割の一つである。所得が一定すると借金の技術も発展する。景気の波を平準化することが財政には要求されるのである。
 これらの前提に立って財政の役割を見直すことも重要である。

 それに、財政が破綻すると大変だ、大変だと騒いでいるが、なぜ、財政が破綻すると問題なのかは、以外と明らかにされていない。大体、財政が破綻すると言う事はどの様なことなのかも明らかでない。つまり、財政赤字を放置すると、先ず、財政は、破綻するのかである。破綻した場合、どの様な弊害か生じるのかである。
 財政赤字の問題を突き詰めていくとモラルハザードとインフレに行き着く。つまり、経済の規律が失われることを問題としているのである。それならば、最初から財政政策の目的規律が求められればいい。ところが、常に、その点が曖昧にされている。

 民間ばかりにモラルハザードを問題にするのは片手落ちである。差別である。
 財政赤字の問題の核心には、官僚機関の堕落がある。つまり、官僚のモラルハザードである。しかし、官僚のモラルハザードの原因の主要な部分は、官僚機構の仕組みにある。

 多くの人は、財政の破綻の原因は、官僚の横暴さにあるように言う。しかし、私は逆だと思う。あまりにも、官僚は権限を与えられていない。予算が決められたら、その範囲でしか判断が下せない。その為に、官僚制度が硬直化しているのである。むしろ、大幅に官僚に権限を与え、その代わりに責任を明確にした方が財政は健全化できる。

 収益は内部牽制の働きもある。収益の働きがなければ、コストを抑制する要因がない。財政や公共事業の抑制が効かないのは、収益理念がないことも一因である。

 先決的な体制が維持できる前提は、全ての事象が予見できる事である。つまり、あらゆる生産と消費、収入と支出が予測可能で、予め設定できなければならない。

 現在の市場経済は、会計の文法、文脈によって成り立っている。それに対し、財政は、違う基準によって成り立っている。

 財政には、第一に、資本という概念がなく、経済主体の所有権と経営権が未分離だと言う事である。
 第二に、期間損益ではなく、期間収支である。故に、利益という概念がなく、残高が基準となる。基本は、一定期間における現金収入と現金支出の残高である。
 第三に、長期均衡ではなく、単年度均衡を基本としているという事である。その為に、減価償却という概念がない。また、財政には、費用の繰延という思想がもてない。
 第四に、複式簿記ではなく、単式簿記を基盤としている。単式簿記というのは、現金主義であることを意味している。現金主義というのは、現金取引を基礎とした思想である。現金取引は、取り引きの軌跡だけを示しているのであり、取り引きの内容、構造まで明らかにしているわけではない。つまり、現金によって明らかにされるのは、資金の動きである。資金の動きとは、その時点、時点で実現した貨幣価値の軌跡である。
 第五に、資産、負債、資本、収益、費用、資本の区分がない。基本的には、財政で重要なのは、現金残高だけである。
 
 財政と会計制度は、その基盤としているものが違う。財政と会計制度を基盤として市場経済との違いは、財政と市場との連続性が保たれない原因となっている。その為に、財政赤字を会計的に解析することが不可能なのである。

 会計上は、税収と国債は、同じ側に記載されるべき性格のものである。

 財政赤字を考える上で、重要な要素は、第一に、利益という思想が存在しないという点である。第二に、償却という概念もない。第三に、単年度、単年度で収支を均衡させる。収支が均衡しなければ、赤字となる。第四に、資本、即ち、利益の蓄積という概念もない。第五に、収益と費用の捉え方、認識の仕方が会計とは違う。費用対効果として認識されていない。第六に、資産という概念が存在しない。第七に、負債に対する認識の仕方が違う。国債は、元本の返済まで含まれて計上されるのに対して、企業会計では、元本の返済が計上されていないことも財政赤字を考える上で重要な要因である。
 これ程、基本的な考え方に違いがある場合、用語の統一や市場の連続性が保たれない。また、赤字の問題を企業の赤字と同次元で検討することもできない。

 また、財政赤字問題では、財政赤字の背景も重要となる。そして、財政の背景となる仕組み、構造を明らかにするためには、複式簿記に基礎を置いた会計制度に依る必要があるのである。

 最初に述べたように、財政赤字の問題は、国債の問題に置き換えることもできる。つまり、国債、国の借金をどうしたらいいのかの問題である。

 国債は、資産にも、負債にも、資本にも捉えることができる。つまり。認識の問題である。そして、認識の仕方で国債の性格は変化する。その点が重要なのである。

 国債は税に置き換えられて歴史もある。これらの事例は、財政赤字を考える上で多くの示唆に富んでいる。

 民間企業と財政とは、経済的価値の基準が違うのである。故に、赤字と一口に言っても赤字の持つ意味が違うのである。

 家計が赤字だと言っても大地主や資産家の家計と所得だけで生計を立てている家計とでは赤字の意味が違う。

 赤字だと言っても財産や蓄えが豊富にあれば、収支が合わなければいつか蓄えを食い潰してしまうと言うだけで、すぐに破綻するというわけではない。

 相続税対策のために、年収の何十倍もの借金を故意にする者すらいるのである。
 永久国債というのは、国債の資本化である。

 公債を返せなくなった時、どうするのかというと。一つは、返さなくていいいものに置き換えるという手段をとると言うことである。第二に、貨幣価値を下げる。第三に、借金そのものの価値を下げる。第四に、債務不履行である。第五に、凍結してしまう事である。第六に、体制を根本から変えてしまう事である。
 六番目の手段はかなり乱暴な話である。しかし、過去の歴史において往々に取られた手段であるという事も忘れてはならない。
 第一の返さなくていい物に置き換えると言った場合、返さなくていい物とは何かであるが、それは、第一は、紙幣、証券である。第二は、資本である。つまり、株ですある。第三に、税である。第四に資産である。第五に、負債、借金の付け替えである。第六に、預金、貯金に替えてしまう事である。
 実は、この六つは、資本主義経済の黎明期に行われた事なんである。そして、これらの策によってバブル現象を引き起こしている。つまり、これらの手段は、副作用としてバブル現象を引き起こす危険性があることを前提として薨ずる必要があることを意味している。バブルというのは、資産インフレである。ただ、資産インフレーションだけでなく、フローインフレーションを引き起こすことも考えられる。先のような政策は、インフレーションを引き起こす危険性を常に孕んでいるという事である。
 借金を構成する要素は、第一に、元本。つまり、借金そのものの本体である。第二に、金利。これは、時間経過から生じる価値。第三に時間。第四に貸し手。第五に借り手。そして、第六に担保。第七に、返済方法である。借金を解決する手段はこの七つの要素の中に隠されていまある。
 公債の歴史というのは、ただ返却すればいいと言うのではなくて、返せなくなったらどうするのかと言うところからはじまっているんである。それが、議会を生み、戦争や革命を引き起こしている。

 つまり、公債というのは、返さなければならないと思い込んでいると行き詰まる。返せないならば、返せないことを前提として、手段を考えるしかないのです。ただ、返せないんだからと開き直るのではなくて、返せなくなった原因もしっかりと把握しておく必要がある。

 その上で、不良債権を長期国債、永遠国債で買い取る。同時に、資本化すると言うような手段をとる事も検討すべきである。 

 財政赤字の問題を論じる時、財政赤字という事象に囚われてその背後にある経済的機能を見落としがちである。財政赤字が問題となるのは、財政赤字ではなくて、財政赤字によって経済が受ける悪影響である。肝心の問題は経済なのである。
 そして、その根底は貨幣の働きである。
 貨幣の効用は、労働と分配を仲介することにある。その貨幣の働きが重要なのであり、その貨幣の働きを最大限に発揮させる仕組みを構築すべきにのである。その上で、財政赤字にどの様な弊害があり、どうすればその弊害を取り除けるかを検討することなのである。


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