国防費は、国家財政上、重要な項目の一つである。
 戦後の日本人は、国防、即、軍隊、軍国主義と結び付けて短絡的に考えがちである。
 挙げ句、軍国主義、戦争という具合に考えて、国防費は戦争のための費用だと決め付けて考える。
 国防というのは、国家、並びに、国民を外敵や災難、災害から護ることである。国民国家では、国家権力だけでなく、国民が加わったことが味噌なのである。
 ちなみに、国家という概念も国民国家が成立したことで確立されたと言ってもいい。
 国家、国民を何から護る。国防の対象は外敵のみにあるわけではない。災害や事故も含まれるのである。この点を誤解してはいけない。国民の生命財産を外敵や災難、災害から護ることは国家最大の責務だと規定するから国防が問題となるのである。

 国防の目的は、平和にある。戦争にあるわけではない。国防に対する大前提が違うのである。

 現在日本の愚かさは、国防と言う事そのものまで否定してしまっていることである。国防という事を除いてしまったら、国家の存在意義まで失われてしまうことに気がついていない。
 日本人の言う自由というのは、家畜の自由に過ぎない。自らが自らの安全を守れずに、他者に自分の生命、財産の保護を求めれば、必然的に自分の生命、財産を自分の庇護者に委ねることを意味する。それは、社会的に自立をしていない未成年者のようなものであり、当然、国家としての権利と義務を放棄することである。
 国家として為すべき事を為せなければ、必然的に独立を保つことも許されなくなる。それは、隷属であり、自分から植民地化されることを望むようなものである。有名な評論家が、他国から侵略された時は、自分は逃げ出すと広言して憚らない。その様な者が、国家の政策を批判すること自体、それを許す社会自体、異常なのだと言う事を自覚すべきなのである。
 かといって自国の国益だけを優先し、他国の利益を顧みなければ、自国の独立を保つことは難しい。国際分業が進んだ今日、鎖国をして生存できるほど世界は生やさしい状況ではない。
 だからこそ、国家観が要求されるのである。国民は、何から、何を護るべきなのか。それが根本になければ、国防という事自体、絵に描いた餅である。

 国防で重要なことは、国民が公開の場でよく議論することである。戦前のように軍は神聖不可侵なものに奉られるのも問題だが、戦後のように、軍は、存在しないものとして無視することも問題である。神聖視することも、忌み事とするのも、国防という問題に触れられないと言う結果において同じ事なのである。

 日本人は、専守防衛を原則とするという。しかし、攻撃は、最大の防御なりと言う事もある。護るとはどういう意味なのか。それを明確に、あるいは、法的に定義することが要求される。

 何から、何を、護るのか、また、何から護るのかを明確にした上で、国防の範囲を画定することが基本である。

 例えば、国防の基本を生存権と言う者がいるが、何をもって生存というのか。それが明確でない場合が多い。例えば、食料や石油と言った生活必需品の確保をもって生存というのか。それとも、軍事行動に必要な物資の確保を指して生存権というのかである。また、生存に必要な境界線をどこに引くのかも重要なことである。

 防衛思想には、護るべき地域、範囲を囲い込むという思想がある。かつての都市の多くは、四面を壁で囲った城塞都市であった。また、万里の長城、フランスのマジノラインは、この囲い込むという思想の現れである。しかし、この思想は、その範囲によっては、莫大な費用がかかる上、その維持費も巨額になる。
 日本は、海に囲まれているために、海が自然の要害になっている。故に、海上防衛が重要な課題となる。

 つまり、国防というのは、一種のシステムである。単なる軍事的組織のみを指すわけではない。

 何から護るのか。それは、国家、国民の安全を脅かすもの全てからである。外敵は、もちろん、災害や疫病なども含まれる。つまり、国家、国民の存在を脅かすものから国家、国民を護ることを意味するのであるから、国防は、国家の存在意義そのものを指すのである。故に、国防は、権利であると伴に義務でもあるのである。

 国防費の根本は、国防思想である。そして、国防思想を実体化するのが国防予算である。高橋是清は、国防予算を削減したことが一因となって2.26事件の折に、陸軍の青年将校等によって暗殺されたとも言える。

 国家を防衛するための費用のために、国家が潰れるなどと言う馬鹿げたことが起きる。それは、国防理念が確立されていないからである。

 国防費用は、軍事費を指すだけではない。国防というのは、読んで字のごとく、国家、国民を外敵や災害から護ることを意味する。

 食糧や資源の確保も国防の一つなのである。つまり、国防の根本は、政治的問題だけではなく。経済的な問題も隠されているのである。
 そして、それは、地勢や位置といった総合的な仕組みからなるものである。国防体制は、国家構造、国家基盤の一部でもある。

 つまり、防御というのは、総合的な意味での防御を意味する。例えば、交通機関や道路、港湾、空港というのも国防的配慮を必要とされる。逆に、軍は、ただ軍事行動だけ限定される機関ではなく。防災や災害対策にも出動することが求められる。

 国民国家は、民衆と国家権力という二つの顔を持つ。その二つの側面をいかに調和させるかが、国防上最も重要な課題なのである。民衆という集合体と国家という組織、それらが上手く機能すると国民国家は絶大な力を発揮するが、それらが相反すると国家としての統制がとれなくなる。国民が烏合の衆となるとこれ程脆いものはない。

 誰も護ろうとしない国は、守れないのである。
 国家は、国民を護るが故に、存在意義がある。同様に、国民は、国家を護る義務がある。国を護るとは、自分の家族子孫、父母、子供、恋人、友人、即ち、愛する者を護ることと同義なのである。


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