G−1 産業政策を構成する要素


 経済政策の目的とは、国民が快適な生活を送れる状況、環境を作り出し、維持することである。快適な生活とは、清潔で、安全、かつ、最低限の生活が保障されている状況である。その為には、快適な環境を作り出し、維持する仕組みや構造を構築するのが目的である。

 制度というのは、天然自然に出来上がったものではない。純粋に人工的な構造物である。経済制度も然りである。市場は、人為的なものであって天然自然になった物とはわけが違う。

 目的があって手段は成り立つ。手段があって目的があるわけではない。政策は、手段である。目的ではない。ならば、政策を実行する目的とは何か。それが重要なのである。それは国民生活を安定させ、更に、よりよくすることにある。

 借金と税金があるから、情報を開示しなければならない。と言うよりも、損益が問題となったのである。現金主義ならば、収支が合っていれば問題なかったのである。

 経済政策は、合目的的なものである。故に、現状をどの様に認識するか、経済政策は、何を、目的とし、何を、前提とするかによって違ってくる。
 経済政策を立案する上での前提要因には、制度的前提、原理的前提、物理的前提、環境的前提、主体などがある。
 制度的前提には、会計制度や為替制度、金融制度、貨幣制度、市場制度、法制度、経済体制、政治体制などがある。
 原理的前提には、会計公理や会計原則、複式簿記の原則、市場原則、取引原則などがある。
 物理的前提としては、人口、資源、気候、交通、インフラストラクチャーと言った前提がある。
 環境・状況的前提というのは、その時点時点における経済状況、物価水準、金利水準、所得水準、在庫水準等である。
 また、何を経済主体とするかである。それは、経済体制に関わる前提である。つまり、経済現象の背後にある経済主体の在り方である。具体的に言うと、国営にするか、民営にするかと言った問題である。また、それは、私的所有権の問題、生産手段の所有権の問題にも還元される。
 この様な経済の設定条件を左右するのは、経済に対する思想である。

 どの様な国に、どの様な社会にしたいのかが、明らかにされてはじめて経済政策は立てられる。どの様な経済状態や環境にしたいのかが、明確でなくて、どうして経済政策が立てられるであろうか。
 経済を分析する書物は沢山ある。しかし、なぜ、そこで分析し、明らかにされた原因が政策に反映できないのか。それは、分析した結果を経済の仕組みに当て嵌めようとしないからである。恐慌やバブル、インフレやデフレというものの発生する仕組みや構造を明らかにしても、対策や政策は、まったく別の視点から展開した理論によって立てられるために、折角、分析した結果が、実際の対策に結びつかないのである。それは、かつての医学が、診断と治療とを直接結び付けられなかったようにである。

 政策だけでは効果が上がらない、仕組みを変えないかぎり実効力は上がらない。しかし、仕組みを変えただけでも駄目である。キッカケとなる政策がなければならない。

 市場や経済上の現象の背後には、仕組みや構造が隠されている。政治介入によって直接的に作られた価格は、維持することはできない。市場や経済現象にある仕組みや構造をよく見極めた上で、複合的な対策を立てる必要がある。しかも、手抜かりなくである。政治的思惑が働くと思わぬ穴があくことがある。例えば、バブルの時、ノンバンクや、農林系金融機関に抜け穴があったために、後々、被害が拡大したようにである。

 現在の税制では、儲かっても借金の返済に充てられるわけではない。それは、減価償却の額が一方的に決められているからである。いくら、収入を増やしてもそれを借金の返済に充てることができないで、納税に振り向けなければならない仕組みになっている。反面、金融機関は、対前年との比較から企業業績を判断する。未上場企業は、担保による。そうなると、収入が増えた分、経費で落とせるものに振り向け、収益を平準化しようと言う動機が働く。つまり、税制と会計の在り方が、企業経営者の行動を規制しているのである。

 税というのは、出資金のような働きをさせることもできる。公共事業でもパフォーマンスさえ合えば、資金を回収することが可能なのである。その為には、公共投資にも市場の原理を導入すべきなのである。

 猫の目のように変わる政策が問題なのである。担保を重視したかと思えば、キャッシュフローが流行っているからといってキャッシュフローが良くなければ駄目だと言ってみたり、事業の将来性が問題だと行ったり、株の時価総額が大切だと行った具合に猫の目のように政策が変わると企業は対応しきれなくなる。政策は短期に変われるかもしれないが、経営は、短期的には急旋回できない。
 その好例が税効果に対する基準である。

 政策が猫の目のように変わると、特に、中小企業に与える影響は大きい。その為に、金融が、強引な貸付が横行したり、一転して貸し渋り、貸し剥がしに豹変したりする。しかも、金が余ったりいる時にかぎって強引な貸付を行い。金が不足すると貸し渋りや貸し剥がしが横行するのでは、中小企業はたまったものではない。重要なのは事業を見る目と、事業を評価する能力である。

 また、土木建設という特定の事業に公共事業が偏っているのが問題なのである。公共事業に必要なのは、国家百年の計である。根底は、国家構想である。国家は何世代もかけて構築するものなのである。

 先ず経済とは何かが重要なのである。経済体制の根本的な目的が何かを明らかにする必要があるのである。その上で会計に対して何を期待するのかが、重要なのである。
 働きと生活状態に応じて財を分配する仕組みが経済体制である。そう言う意味では、経済は、一つの全体であり、多くの要素が複合的に組合わさって構成されている。市場も貨幣も経済の一部に過ぎない。分配の機能には、市場だけにあるわけではない。市場や貨幣を絶対視している限り、現実の経済は、制御する事はできない。市場も貨幣も補助的な手段に過ぎない。

 仮に、財務情報をもって企業経営を評価するならば、財務情報が、経済政策に反映されるものでなければならない。 

 経済政策を構成する要素には、第一に、制度的な政策がある。第二、即時的・対処的政策がある。第三に、運用的政策がある。第四に、財政的政策がある。第五に金融的政策がある。これらを構造的に組み合わせて経済政策はとられる必要がある。

 世界は多様である。一元的に捉えて政策を一律に決定することは不可能である。単一的、画一的な政策は、行政を硬直化させるだけである。

 経済政策を構成する要素には、構想、状況認識、目的、対象、手段がある。

 経済政策を立案し、執行する際には、何に問題があるのか。どこに問題があるのかを見極める必要がある。
 生産力に問題があるのか。供給力に問題があるのか。消費に問題があるのか。物流に問題があるのか。交通に問題があるのか。通貨量に問題があるのか。ストックに問題があるのか。
 そして、その問題点が、経済全体にどの様な働き、作用を及ぼしているのかを明らかにする必要がある。その為には、その働きの前提、基盤となる経済構造を解明しておかなければならない。

 産業政策を決定する場合、損益分岐点と市場状況が重要な鍵を握る。損益分岐点に関して産業の類型は、第一に、高固定費、高変動費型、第二に、低固定費、高変動費型、第三に、高固定費、低変動費型、第四に、低固定費、低変動費型の四つである。
 損益分岐点による産業の類型は、産業の構造に影響を受けて成立する。産業の構造や働きを知る上では、固定費を構成する要素も重要になる。固定費を構成する要素にでは、減価償却費と人件費が大きい。減価償却とは、固定資産、償却資産を意味する。固定費を構成する要素によって、労働集約的産業か、資本集約的産業かに別れる。そして、労働集約的産業と資本集約的産業とでは、とるべき政策、施策に違いが生じる。
 そして、産業政策は、この産業の構造と市場の状況とを重ね合わせて判断すべきなのである。市場の状況とは、成長、拡大局面にある市場か、飽和点に達し、縮小局面に入った市場かによるのである。

 角を撓めて牛を殺すが如き、政策は愚かである。

 経済政策を立案するにあたり、競争は、善で、連合は、悪だと決め付けている者がいる。特に、市場原理主義者に至っては、一種の倫理的規範、絶対的規範のように思い込んでいるようにすら見える。そうなるともはや一種の信仰に近い。政策というのは、あくまでも相対的なものであり、状況や環境に合わせて柔軟に対応できなければならない。市場は、競合と連携の均衡の上に成立する。市場経済では、市場価格は、市場における競争、競合によって調整される。単純に、競争の原理と言う具合に、競争を原理化してしまい、一種の自然法則のように捉えると政策が硬直的になる。
 独占や過当競争を排し、協調と競合を促すのが市場に対する政策である。なぜ、独占や過当競争を排するのかと言えば、それは、独占や過当競争が市場の働きを弱め、市場を有効に機能させなくなるからである。
 市場原理主義者のように競争は正しく、独占は悪だというように決め付けるのではなく。市場の状態や状況に合わせて政策を選択すべきなのである。先ず重要なのは、我々が市場に何を期待し、どの様な状況をの良しとするかなのである。アクセルを踏めば、スピードがでるからと言って、アクセルは善で、ブレーキは悪だというような決めつけは、滑稽なほど、短絡的である。アクセルや、クラッチ、ブレーキは、状況に応じて使い分けるものなのである。

 カルテルは、単純に良いか、悪いかではなく。どの様な長所、欠点があるか。また、どの様な働きがあるかを見極めることである。産業の構造や市場の状況を勘案しながら判断すべき事なのである。

 市場を国家が、直接介入、支配することの方が、市場関係者によって協議、調停することよりも弊害が大きい。

 カルテルや独占は悪い事だという認識は、昔からあったわけではない。以前は、寄り合いや世話役のような人間がいて業界を仕切っていたのである。
 また、賄賂や収賄も同様である。中には、悪い事だと思っていない者もいる。かつては、便宜を計ってくれた人に礼をするのは、当然だと考えていた時代もある。
 むろん、買収は賄賂はいけないという認識は古くからあったが、政商という言葉があるように、政治家を利用して成功した者がいるのも事実なのである。賄賂は、いけないが、便宜を計ることは悪い事ではないと考えるものもいるのである。
 同様に、君主制や世襲も良くないことだという認識が生まれたのは、市民革命以降の問題である。いまだに、血統や家柄を重んじるものは少なくない。男女同権も然りである。
 カルテルが悪いというのも、独占が悪いというのも、もっと極端に言うと、人の物を盗んではいけないということも、所有という概念が確立されて以後のことである。思想なのである。思想なのである。
 経済体制の大元にあるのは、思想である。故に、経済政策を決するのも思想なのである。思想ならば、思想として扱うべきなのである。それをあたかも自然の法則のように決め付ける。だから、物事の本質が見えなくなる。科学的だとか、客観的とかいって問題の焦点をぼかしているのに過ぎない。
 問題は、思想信条の自由と言いながら、思想の中でも根本的なことを強制しているのである。そして、経済の根本にあるのは、国民一人一人を幸せにするためには、どうすればいいのかという思想なのである。

 コモディティと言われる伝統的産業は、雇用も産業の裾野も広い。コモディティ産業や伝統的産業の収益が悪化し、雇用を流動化させると景気に与える影響も少なくないのである。

 最近の災害には、人災という側面もある。環境破壊も、資源問題も、金融危機も、ある種の人災である。

 環境問題で派生する投資は負担で、技術革新から派生する投資は、ビジネスチャンスというのか。しかし、考えてみれば、環境を維持するための投資や費用の方が生活のためには役立っているのである。変化ばかりを追い求め、変化する事業に資金を供与することは投資でも、底辺で変わらずに我々の生活に役立っている事業に対して資金を供給することを負担だとすること自体投資の持つ意義が見失われている証拠なのである。 

 保護主義的な政策は、全て悪いと言い切れるであろうか。
 現代人が忘れつつあるのは、街とは何か、人々の生活空間とは何かである。大規模化し、生産性ばかりを追求した結果、生活感のない空間が生まれたとしたら、それは本末の転倒である。人間の生活空間を生み出すのが経済であって、生産性や効率性のみを追求するのが経済ではない。
 
 経営者は、収益を一定化し、利益を平準化させたいと思うものである。上場会社では、常に、増収増益を求められ、一時期に、大きく増益をしても次の年の利益が少ないと経営責任を問われかねない。俗に言う、V字回復も、企業を再建するにあたり、どうせ、初年度は利益が見込めないのであるから、落とせる経費は、全て落として業績を悪化しておき、次の年に大きくリバウンドさせるという技法の結果に過ぎない。この様に、経営者も、好き好んで利益を平準化したいと考えているわけではなく。平準化することによって投資家の評価を高め、資金調達をしやすくする狙いがある。平準化しようとするには、理由があるのである。

 ただ利益を平準化したくても、なかなか思い通りにいかない。それは、経費は、硬直的であるのに対し、売上や仕入れは変動的であるからである。
 経費、中でも、人件費は、下方硬直的である。それに対し、収益は、経営環境や経済動向に併せて変動する。デフレや不景気は、収益を圧迫し、雇用環境を悪化させる。成熟期に入った産業、コモディティ産業は、必然的に、雇用を流動化させたいという動機が働く。
 コモディティと言われる伝統的産業は、雇用も産業の裾野も広い。コモディティ産業や伝統的産業の収益が悪化し、雇用を流動化させると景気に与える影響も少なくないのである。景気が悪くなれば、景気の下支えと失業対策が必要となる。
 人件費が下方硬直的というのは、人権を構成する要素に原因がある。つまり、人件費は、労働の対価という側面以外に生活費の原資という側面を持つからである。
 人件費のこの二面性は、経済政策に重大な影響を及ぼす。つまり、もう一面であり、人件費の社会性と所得の再分配という問題である。

 コモディティ産業で価格を一定に維持しようとすれば、かつてのダイヤモンドのようにシンジケートのような組織が必要となる。

 オイルショックを引き起こした元凶としてOPECの弊害ばかりを問題にするが、石油価格が異常に高騰すると、OPECに生産調整を依頼するのも事実である。しかも、いくら、OPECのようなカルテルが、価格を作っても、無理に人口的に作られた価格は維持しきれないのは、歴史が証明している。
 むしろ、裏や陰で、秘密協定のようなものを結ばれることの方が問題なのである。要は、分配の問題なのである。何等かの特権、利権、既得権が生じることが問題なのであり、組織的に調整することそのものを悪とするのは、間違いである。

 産業政策というのは、都市計画に似ている。
 先ずどの様な経済状態、産業にするのかの青写真、構想が前提となるのである。その構想が前提となる。スポーツならばどんなスポーツにするかの構想がなければならないようにである。

 経済政策を立案する上で、経済をいかに制御するかが鍵を握っている。その場合、統制ではなく。規律が重要なのである。そして、肝心なのは、経済の仕組みを上手く活用することなのである。

 経済は、人為的な空間に生起する現象であるから、経済制度や経済機関というのは、任意な設定条件に基づいている。市場や経済の仕組みは、所与の条件が与えられているわけではない。経済制度を設定した時の条件は、条件を設定する上での前提条件によって成り立っている。故に、経済政策の働きを理解するためには、この設定条件と前提条件を確認する必要がある。つまり、初期設定が重要になるのである。そして、合目的的である経済政策は、その目的が決定的要因となる。

 基幹産業は、国家が育成するものである。産業を保護育成するのは、国の仕事である。国際分業という考え方がある。しかし、国際分業というのは、結果論に過ぎない。根本にあるのは、国家としての在り方である。例えば、かつては、自動車も家電製品も特定の国に偏ることなく、それぞれの国がその国の国情にあった独自の製品を製造してきた。大量生産方式が定着することにより、廉価な商品が、津波、洪水のように押し寄せて個々の国の産業を押し流してしまった。だからといって市場を閉ざして良いというのではない。近代国家は、鎖国をしていた江戸時代のように一国だけで成り立っていける時代ではないのである。

 産業構造には、工場、工程、機械・設備、原材料と言った要素によって構成される物的構造、組織も人事制度、給与体系と言った人的構造、会計制度、原価といった貨幣的構造がある。
 また、産業を構成する要素には、市場、経営主体、消費者、国家などがある。
 これらの要素の最適な組み合わせを構築するのが、構造経済である。

 産業は、個々の経営主体、企業の集合によって成り立っている。企業は、貨幣的存在である。つまり、貨幣価値を基盤として成り立っている。今日の貨幣経済のリテラシーは、会計制度である。産業を構成する経営主体、企業は、会計上の利潤を追求する事によって成立している。会計上の利潤は、収益によって成り立っている。収益は、利益と費用の階層構造を成している。この階層構造が、基本的に産業構造を表している。
 費用構造は、産業構造の断層を表している。さらに、費用構造は、分配構造でもある。分配には、内的分配と外的分配があり、それぞれ、範囲と構造が重要になる。

 費用は、第一に、固定費と変動費。第二に、直接費と間接費。第三に、材料費(仕入れ)、労務費、一般管理費。第四に、売上原価、販売費・一般管理費、支払利息、税金、資本に分類される。
 第一の固定費と変動費は、経営活動の関連した構造を表し。損益分岐点構造を明らかにする。損益分岐は、企業だけではなく、産業にも当て嵌まる。
 第二の、直接費と間接費は、製品の製造や販売との関係の構造を表す。
 第三の、材料費と労務費と経費は、費用の形態、性格からの分類である。
 第四の、売上原価、販売費・一般管理費、支払利息、税金、資本コストは、分配構造を表している。即ち、売上原価は、仕入先への分配であり、販売費・一般管理費は、取引業者、従業員への分配、支払利息は、債務者への分配、税金は、国家や公的機関への分配、配当等、資本コストは、株主、投資家への分配を意味する。

 原理的前提を例にとると市場経済は、会計制度を基礎としている。会計制度は、会計原則や複式簿記を基盤としている。
 故に、複式簿記の原理を理解しないと現在の経済現象を理解することは出来ない。必然的に、対策も立てられない。

 簿記では、取引が基本になる。簿記上の取引は、一般に考えられている取引とは違う。何等かの形で、貨幣価値の移動が生じることを簿記上においては取引という。この様な貨幣価値の移動は、交換行為によって為される。つまり、取引とは、何等かの交換を伴う行為である。市場では、貨幣価値は、取引によって顕在化する。取引は、市場貨幣とを連結する役割を担っている。

 複式簿記は、市場取引、貨幣取引を前提として成り立っている。取引は、貨幣を介した交換行為である。つまり、市場経済、貨幣経済の基礎は認識の問題である。
 複式簿記の原則は、作用、反作用の原則である。つまり、一つの方向の取引には、同量の反対方向の取引が想定されると言う事である。
 一つの取引は、取引を成立させている場の内部おいて、常に、均衡している。一つ一つの取引によって実現される貨幣価値は、常に、イーブン、均等に均衡しているものとして収入と支出に仕訳される。つまり、収入と支出の貨幣価値は同量であり、その時点時点において収入と支出は相殺される。この様に貨幣価値を実現して、収入と支出を相殺する行為を決済という。
 複式簿記による計算の実際は、収入と支出に分類される。収入とは、獲得し実現した貨幣価値の原因であり、支出は、獲得し実現した貨幣価値の結果である。具体的には、貸方は、収入を意味し、現金の元となる債務や取引からなり、借方は、支出の結果を意味し、支出によって実現した財、あるいは債権と消費と現金の残高に区分され並記される。
 現金とは、実現された貨幣価値を指し示す物であり、現実には、貨幣に表示された数値が実現された貨幣価値を意味する。
 債権とは、将来の収入を保留した権利であり、貨幣的な部分と非貨幣的な部分がある。債務とは、将来の支払を留保した責務であり、これにも貨幣的な部分と非貨幣的な部分があり、非貨幣的な部分を資本という。
 作用と反作用の前提となる取引は、債権と債務、現金と言う価値を生じる。
 また、複式簿記は、基本的に加算主義、累積主義である。累積主義とは、全ての取引を加算、集計した上で、残存価値によって利益、即ち、成果を計る思想である。故に、複式簿記を基礎とする会計制度は、残高主義、即ち、差額主義である。
 この様な思想が近代市場経済や貨幣経済の基礎を構成する思想である。そして、これはあくまでも任意な思想であって自然の法則のような所与の原理ではない。

 簿記は、取引と貨幣価値の実現を認識した時点が重要になる。

 簿記には、一定の周期がある。一定というのは、会計期間を一つの単位とする周期であり、任意に設定されるものである。現在の会計期間は、一年を最長とする。会計期間を基準にして会計期間を超えるものを長期といい。会計期間に収まるもの短期に区分する。

 複式簿記を形成する要素の基本的構造は、内にあって、固くて、基になる部分と外にあって、柔軟、変動的で、附加された部分の二つの部分から構成されている。例えば、負債は、金利と元本、資本は、資本と配当、収益は、費用と利益と言うようにである。また、費用は、短期的に分析すると同様に内にあって固くて基になる部分と外にあって変動的な部分に区分される。
 内にあるとは。内に所属することを意味し、外にあるとは、外に所属することを意味する。固いというのは、一定という意味でもあり、変動というのは、可変的という意味でもある。
 この一定と可変的という構造が経済に重大な働きをしている。

 付加される価値というのは、時間的な価値であり、尚かつ、外部にあって附加される価値である。付加される価値を生み出す要素は内部にあってもそれを実現するのは、外部に表出された時点である。
 附加される価値は、時間的価値である。時間的価値が減少すると附加される価値は失われる。

 バブルとは、何か。現象的に見ると第一に、価値の急激な膨張。第二に、実体経済からの乖離。第三に、フローとストックの乖離である。
 バブルを引き起こす要因として考えられるのは、第一に、過剰流動性。第二に、金利、特に、政策金利である。

 バブルを引き起こしたのも破裂させたのも政策金利が一因である。
(「相場ローテーションを読んでお金を増やそう」岡崎良介著 日本経済新聞出版社)

 金融機関は、資金を集めてそれを運用することが基本的な機能である。つまり、金融機関は、絶えず附加された価値を産み続けなければならない宿命にあるのである。そうなると資金量は、金融機関の実力を必ずしも現しているわけではない。資金量は、資金が効率よく活用されている時は、成長や収益に寄与するが、資金の運用先が見つからなくなり、効率が低下するとかえって負担となる。
 金を預かっているだけでは、金融機関は成立しない。預金というのは、金融機関の借金、負債なのである。この点を忘れると現在の市場経済は理解できない。
 つまり、金融機関は、常に、効率的な運用先を捜すか、作り出さなければ存続できないのである。手っ取り早く運用先を見つけだすとしたらそれは自前の市場である金融市場である。しかし、それは、蛸が自分の足を食べているようなものであり、実体に乏しい取引なのである。

 負債、資本、収益は、収入の原因であり、資産や費用は、支出された結果である。収入は、外から取り込んだ現金の原因であり、債務を形成する。資質は、内から出された現金の結果であり債権を構成する。

 資本は、第一に元手という意味がある。第二に、純資産、第三に株価の時価総額という捉え方がある。

 保護主義的な政策は、間違っているというような意見がみられる。しかし、その場合、何が何でも保護は悪いと言っているような者も見受けられる。しかし、問題は、何から、何を保護するかであって、消費者保護や金融制度の保護まで保護主義的だと断罪するのは行きすぎである。
 ただ言えることは、保護すべきなのは、市場であって、特定の企業だったり、産業ではないという事である。

 経済は、人的な場、物的な場、貨幣的な場の三つの場からなる。それぞれの場は、それぞれ独立した場を形成している。そして、人の動きや、物の動き、貨幣の動きによって結び付けられている。人も、物も、貨幣も、三つの場から受ける働きによって運動が規制されるのである。故に、経済現象にも、人的現象、物的現象、貨幣的現象がある。主として経済現象と我々が称するのは、貨幣的座標軸に写像され現象は事象を指して言う場合が多い。

 つまり、経済的な現象には、人的現象、物的現象、貨幣的現象がある。
 そして、経済的空間は、市場と経済主体からなる。市場は、場であり、経済主体は、要素である。経済は、部分(個)としての要素と全体(集合)の二つからなる。

 市場は一様でも一つでもない。市場というのは、複数の場の集合体である。市場は、市場全体を構成する個々の市場の位置付けや働き、関係を理解して組み立てられなけれはせ成らない。また、個々の市場は、市場を構成する要素や取引の形態、成熟度、開放度によってもその特性に違いが生じる。しかし、その違いは、人為的に生じるものであることを忘れてはならない。それは機械の性能のようなものである。

 市場というのは、人的な場である。人為的な場というのは、人工的に作られた空間に、人工的に作られた働きや力が作用している場だと言う事である。市場は、天然自然にある空間とは違う。それは、スポーツのフィールドのように人間によって作られ人口の空間なのである。

 経済制度や経済機関というのは、任意な設定条件に基づく。所与の条件が与えられているわけではない。設定条件は、条件を設定するための前提条件によって成り立っている。故に、経済の歴史的変化を理解するためには、この設定条件と前提条件を確認する必要がある。つまり、初期設定が重要になるのである。

 人的市場、物的市場、貨幣的市場を構成する要素は、各々、違う。必然的に場の働き各々違ってくる。人的な場を構成する要素は労働と分配であり、物的場を構成する要素は、生産と消費である。貨幣的市場を構成する要素は、債権と債務、貨幣の働きである。

 消化器系や呼吸器系、循環器系が同じ機構で動いていないようにである。故に、経済政策は、個々の市場の状態に合わせて対処すべき事柄である。経済政策は、一律に立てられるべきではない。

 人為的空間である市場には、人為的な範囲がある。人為汽笛な範囲は、法や要素が影響を及ぼす範囲を指している。国家は、国法の及ぼす範囲であり、必ずしも物理的空間に拘束されているとは限らない。つまり、それは観念的な空間であり、契約に基づく空間である。
 即ち、人為的空間は、有限な空間である。また、人為的な場も有限な空間である。これが物理学的空間との決定的な違いである。

 国家間には、制度的な歪みがある。典型的なのは、税制や会計制度、金融制度である。この国家間の歪みの是正は、経済政策上、重要な条件である。

 また、経済を現象は、情報によって引き起こされる。経済にとって情報は、重要な要因である。

 人的な場である市場は、人口の手が加えられなければ、無秩序な空間である。つまり、自然の空間、ジャングルと変わりがない。支配するのは、個々人の力、暴力による力関係である。また、人工的な空間である市場も、ただ、規則を定めただけ、放置し続けるならば、一定の水準に均衡してしまう。

 故に、市場を制御するのは、市場の仕組みである。市場の仕組みは、制度や規制、罰則、報償という観念的な仕組みを言う。

 経済政策とは、この市場を制御する仕組みを使って伝達され、発動される。行政府は、市場の仕組みを使って経済を制御するのである。

 市場原理主義者の者には、(よく彼等を市場至上主義者という言い方をするが、市場の機能、働きを正しく理解していないので市場市場主義者というのには、語弊がある。)規制を全て撤廃しろと言った乱暴な考え方をする者がいるが、それは、市場そのものを正しく理解していない者である。彼等が市場を重視しているというのは、とんでもない誤解であり、彼等こそ、市場を軽視しているか、無視しているのである。

 経済の円滑に機能しないとしたら、規制そのものが悪いのではなく。規制の在り方が、状況や環境に不適合なのである。

 硬直的な規制や偏った規制が問題なのである。規制が良いか、悪いかのが問題ではなく。適正な規制であったか、否かが問題なのである。その場合、規制の目的が基準となる。

 規制は、市場の自由な働きを阻害しているというが、では、自由な市場とは何かと言うことである。

 自由な動きを阻害する規制は不適合だと言う事は出来ても、規制が自由を阻害しているというのは、間違った認識である。
 規制は、規則であって、阻害ではない。
 それは、法が罪を作るのだから、法がなければ罪が生じない。だから、法をなくせと言うのに相当する。確かに、法によって罪は定められる。しかし、法を否定してしまったら、自由主義社会は成り立たないのは、自明な事である。
 規制が経済を作る。それは、事実である。だから、規制をなくせと言うのは論外である。問題は、規制の在り方なのである。
 また、自由が全てではない。仕組みとは、自由を抑制することによって成り立っている部分もある。問題の焦点は、経済の目的であり、規制がその目的に適合しているかなのである。

 つまり、経済政策は、常に合目的的な方策であり、その目的が妥当であるか、否かが、最初の問題なのである。

 行政府は、規制によって市場や産業を間接的に制御してきた。規制は、規則であって制約とは違う。

 規制緩和も規制の内である。重要なのは、規制の質である。

 個々の要素の動きを触発するのは、情報と規範である。

 経済的現象は、時間の関数である。経済現象は、経済の表層に現れてくる動的な現象と深層にある静的存在によって引き起こされる。例えば金利は、元本と時間の関数である。また、償却資産の価値も資産価値と償却費とによって計算される。
 経済政策は、この動的(流動的)部分と静的(固定的)部分に対するどう働きかけによって為される。そして、その手段は、経済の仕組みが、どう動的な部分や静的な部分に作用するかによって決まる。

 企業の社会的使命の一つに事業継承がある。事業を継続する意義は、利益にだけあるのではなく。社会からの要請の方が大きい。なぜ、事業を継続することが社会的使命なのかを考えてみればわかる。事業を継続する意義というのは、社会がそれを欲しているからである。その様な社会からの要請は、一つは、雇用である。もう一つは、社会的必要性である。
 それは、企業の果たす役割の中で労働と分配が重要な機能を果たしている証左である。雇用を維持した上でいかに収益をあげられるようにするのか、それは企業努力もあるが、社会の協力も必要なのである。それをマスコミのようにただ、安ければいいと安売り業者を一方で煽り。収益があげられないのは、無能なのだと、罵詈雑言浴びせかける。それでは何の解決にもならない。

 格差も、食糧問題も、エネルギー問題も突き詰めてみると、分配の問題に至る。

 現代社会は、経済を生産という側面からしか見ないが、経済には、生産経済だけでなく、消費経済もある事を忘れてはならない。消費という側面からも経済を捉えないと経済の実相は見えてこない。むしろ、消費から先経済を認識した方が、経済政策は立てやすいのである。なぜならば、消費は必要性を生産性は可能性を基礎としているからである。何が必要なのかが先にあり、それに対して何が可能なのかを考えた方が、社会の要請は理解しやすいからである。

 消費労働、即ち、非生産的労働が失われた世界である。それ故に、生産的な労働以外がまったく評価されない。しかし、経済は、非生産的な労働や市場が半分を占めていなければ均衡しない。

 家庭内労働が否定されたことで、半分の労働の場が消失した。

 産業政策とは、個々の産業をどの様に位置付け。どの様にしたいかを見極め。現状がどうなっているのか、どの様な状態かを明らかにした上で、複合的に対策を立てていく事が肝要なのである。
 何が、なぜ、自分達の望む状況を阻んでいるのかが問題なのである。それがわかれば対策の七分は経ったようなものである。

 大量の浪費、格差、厳しい競争、教育や育児に劣悪な環境、戦争や内乱、この様な社会状態や経済状況を我々は追い求めているのであろうか。
 幸せとは何か。幸せの追求である。その根本に経済政策があることを忘れてはならない。





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