現代の自由主義経済、市場主義経済、貨幣経済は、会計制度によって支えられている。資本主義体制は、会計制度と共に発展してきたと言っても過言ではない。それでありながら、現在の経済学は、会計的論理を一向に顧みようとしない。それ故に、有効な手立てが打てないのである。

 問題は、何のために、会計制度が機能しているかである。会計情報は、何を表し、何を表さなければならないのかが重要なのである。その辺のところがハッキリしない。
 会計情報は、企業の外形的状態を貨幣価値を用いて表現したものに過ぎない。企業の真実体や評価を表しているとはかぎらない。

 現行の会計制度の目的は、投資家に対する情報の開示と納税である。
 借金と税金があるから、情報を開示しなければならない。と言うよりも、損益が問題となったのである。現金主義ならば、収支が合っていれば問題なかったのである。
 この様に、会計情報は、経営者や投資家、また、債権者の都合でしかない。企業経営が果たすべき社会的責任という観点が欠如しているのである。つまり、企業の成績表でしかない。会計情報に社会性がないことが問題なのである。だから、会計情報が経済政策に役立たないのである。

 法に触れなければいいという発想では、法の本質は守られない。法以前のモラルが重要なのである。会計制度も同様である。日本人には、その根本が抜け落ちている。その為に、法学や会計学が訓詁学、修辞学的なものに堕している。会計や法に対する議論があまりにも条文の解釈に囚われすぎている。判定しなければならないのは、裁かなければならないのは、現実の出来事、事件なのである。条文にあるわけではない。条文を機械的に解釈すれば、現実の出来事や事件に当て嵌まるのならば、裁判などいらないのである。

 本質的問題は、自分達がどの様な国や社会を建設しようとしているかである。その様な国家観や社会観が欠落したところで、経済や政治を語っても無意味である。無意味どころか、語ること自体、マイナスになることすらある。

 先ず経済とは何かが重要なのである。経済体制の根本的な目的が何かを明らかにする必要があるのである。その上で会計に対して何を期待するのかが、重要なのである。
 働きと生活状態に応じて財を分配する仕組みが経済体制である。そう言う意味では、経済は、一つの全体であり、多くの要素が複合的に組合わさって構成されている。市場も貨幣も経済の一部に過ぎない。分配の機能には、市場だけにあるわけではない。市場や貨幣を絶対視している限り、現実の経済は、制御する事はできない。市場も貨幣も補助的な手段に過ぎない。
 故に、利益を上げる事自体が目的ではない。利益というのは、一つの基準にであり、警報である。その証拠に、事業体は、赤字でも、資金が続けば、存続することができる。

 会計が監視するだけで経営をリードできないこと。つまり、会計は、ルールとしての機能を果たし得ないのである。自分勝手に解釈したり、変更できるルールはない。では今の会計制度をそのまま、ルールとして適用して良いかというと、そうはいかない。それは、今の会計制度が、あまりに現実の経済とかけ離れているからである。それは、会計制度の目的と経済の目的が異質だからである。また、利益や収益に対する考え方も確立されていない。故に、収益や利益は、結果に過ぎない。現行の会計制度では、収益や利益は、目標や目的になり得ないのである。だから、会計情報が経済運営や政策にいかせないのである。

 現代の社会では、利益は搾取であるという認識が色濃くある。これは、何も、社会主義的な思想だけに限らずである。その反面で財政赤字を問題視する。その現れは、公益法人に対する考え方に顕著に現れている。公益だから利益をあげてはならない。それを突き詰めると利益を上げる必要がないという事になる。これでは、財政赤字に歯止めがかからない。赤字が収拾つかない規模にまでなると、今度は、何が何でも赤字は駄目だという事になる。
 確かに、過剰な利益、暴利を貪るのは、搾取である。しかし、適正な利益は、搾取ではない。むしろ、利益が上げられないことの方が問題なのである。
 利益、収益をあげてはならないといいながら、赤字も駄目だというのでは、やりようがない。利益の持つ意味を正確に認識する必要があるのである。

 利益は、労働と分配を前提としたところで成り立っている。そして、その均衡を需給関係に求めるのである。生産された財と、消費された財を市場の需給関係で調整することによって成り立っている。この場合、需給だけで市場を判断すると経済の実体を見失い、乖離することになる。

 会計が経営をリードできないのに、会計制度ありきという発想が危険なのである。本来、会計制度は、経営の実体を現すための手段、道具であるはずなのに、会計情報が目的化されてしまう。経営実態が問題にされずに、決算数値のみを問題とし企業の実態を判断してしまう。
 そもそも、財務情報が経営の実体なのか。経営の実体を財務情報は、表しただけのものなのか。
 会計制度に従えば、企業実体はわかるのか。一時的に数値が悪くなっても、それが嘘なのか。

 仮に、財務情報をもって企業経営を評価するならば、財務情報が、経済政策に反映されるものでなければならない。 
 
 経営者も、好き好んで利益を平準化したいわけではない。平準化しようとするには、理由がある。最大の動機は、資金調達上の問題である。
 例えて言えば、現在の税制では、儲かっても借金の返済に充てられるわけではない。それは、減価償却の額が一方的に決められているからである。いくら、収入を増やしてもそれを借金の返済に充てることができないで、納税に振り向けなければならない仕組みになっている。反面、金融機関は、対前年との比較から企業業績を判断する。未上場企業は、担保による。そうなると、収入が増えた分、経費で落とせるものに振り向け、収益を平準化しようと言う動機が働く。つまり、税制と会計の在り方が、企業経営者の行動を規制しているのである。

 近代思想の特徴の一つは、制度主義だということである。制度主義というのは、物事の判断の基準を倫理的な絶対的基準、不変的な基準によらず、要件や条件と言った相対的な基準によるという事である。つまり、善か悪かの判断は、神や真理と言った絶対的、普遍的存在や原理によるのではなく。合意や契約、仮定に基づいた手続によって導き出された法や法則によるという思想である。ただ、この場合、神や真理を前提としている場合が多く、倫理性を無視して善いと言っているわけではない。

 近代資本主義は、会計制度の上に立脚している。故に、会計制度の有り様によって経済の有り様も規制されるのである。ところが、経済学者は、会計の有り様、構造と経済の有り様を結び付けて考察しようとしない。

 資本主義では、負債と税が重要なの要素となっている。我々は、知らず知らずのうちに、会計的な価値観によって経済行動をするように強制されている。借金と税金があるから、情報を開示しなければならない。借金と税金が損益を基礎にして計算されるから、損益が問題となったのである。現金主義ならば、収支が合っていれば問題なかったのである。
 現金主義では、儲けと言えば現金収入を指していた。実現主義社会で儲けとは、利益である。収入ではない。税金も利益にかけられる。収入にかけられるわけではない。利益だから、借金をした方が有利に働く。だから、借金をするようになる。また、借金をしなければ商売ができなくなる。それが市場経済なのである。

 貸借対照表をバランスシートというように、経済は、均衡である。経済性と言ってもただ、生産性ばかりを追求すれば、均衡が崩れるのは必然的結果である。つまり、経済は、人的な側面、物的な側面、会計的側面があり、それぞれの働きが均衡することで成り立っているのである。

 損益上において、最大の費用は、人件費である。合理化して機械化すれば、人では省ける。ならば、どんどん合理化し、機関化すれば効率化、合理化が計れることになる。しかし、人手は一方において、雇用でもあることを忘れてはならない。どんどんと機械化を進めれば、どんどんと雇用の機会が失われるのである。そうなると、社会全体では、失業者が増える。
 かつて、スタンドの人員が多かったのは、沖縄である。沖縄には、さしたる産業がなかった。だから、スタンドは、ある意味で、雇用の受け口であった。しかし、不経済だと問題になり、人心の削減が計られた。しかし、考え方を変えるとスタンドは余剰人員を抱えることで、雇用を促進していたとも言えるのである。また、社会がそれを容認していたとも言える。経済性は、部分的に見ていたら計れない基準なのである。

 制度上の問題は、違法行為でない限り、仕組みの問題であって、モラルの問題ではない。粉飾は違法であるから、法的な不道徳である。しかし、適法に処理されていれば、事実と違っていたり、誤解を招くことでも不道徳なことではない。第一、減価償却費の算出は、大多数が税法に則って行われる。仮に、商品の寿命が五年の機械でも税法で償却期間が十年と決められていたら、会計処理上は、十年が正しいことになる。制度とはそういうものである。つまり、何が事実かよりも法的にどの様に決められているかの方が、会計上は真実なのである。
 ただ、だからといって人間としての道徳や倫理を無視して良いというわけではない。その個人としても道徳観、人間性は大前提とされているのである。ところが、制度主義が深化するとこの個人の尊厳、人間性が脱落していく傾向が顕著となる。つまり、違法でなければ何をやっても善いという論理が横行するようになる。これは、制度主義の限界として認識しておく必要がある。個人の倫理観が信認できる、有効に機能している状態でのみ制度主義は、成立するのである。個人の倫理観に対する信認が失われれば、制度主義は、成り立たなくなる。その時、社会は、無法状態、無政府的状況が置かれるのである。

 税法によって利益は歪められる傾向がある。脱税は違法であるが、税をコストと考えれば、節税に努めるのは、必然である。それは、決して道徳的に責められる事ではない。しかし、そうなれば、税制の在り方に合わせた商売をするようになる。バブルを発生させた土地の高騰の裏には、高額な相続税の問題が潜んでいる。経済現象を見るとき、その根底にある会計制度や税制度を忘れてはならない。

 近代企業を成立させたのは、期間損益である。期間損益が確立されることによって継続企業が成立した。それまでの事業体は、当座取引を基本とした当座企業である。つまり、一度限り、一回限り、一事業を基本とした、もっと有り体に言えば、当時は、一航海を基礎とした事業体だったのである。
 経営は、本来単年度で均衡できるようにはできていない。それは、資金収支に端的に現れている。単年度では資金は均衡しない。例えば、創業期には、投資が先行して、資金の持ち出しになるのが通例である。成長期には、初期投資した資金を回収しながら、設備更新に備えて資金を貯めておく必要がある。故に、損益上では、費用対効果を参照して、単年度の収益、利益を計算するようにしている。しかし、それでも、期間損益にズレが生じることがある。それは、収益を左右するのは内部要因だけではないからである。故に、単年度、単年度で損益を計算する一方で、単年度で計算しきれない、時間的なズレを貸借上、即ち、資産と負債と資本(純資産)に含まれた時間的価値によって調整するのである。

 期間損益は、無理矢理単年度で損益の計算を成立させようとしている。それは、企業が当座的なものから継続的企業に変貌したからである。その為に、一定の利益を上がるように、損益上の仕組みを作った。それが、決算処理事項であり、典型的なのが、減価償却、繰延勘定、仮勘定などである。あくまでも、利益というのは仮のものである。資金的な裏付けがあるわけではない。ところが税は、単年度の収支を基礎にして課税される。恒久的な企業では、税を取り逸(はぐ)れるからである。その為に、どうしても制度的に、損益を単年度で調整しなければならなくなっている。しかも税は、資金的な支出が実際に発生する項目である。この点は、企業経営に重大な影響を及ぼすし、現実に及ぼしている。

 会計的現実は、損益と貸借の均衡、フローとストックのバランスの上に成り立っている。そして、損益と貸借、フローとストックは単年度では均衡しないのである。同様に、収支、キャッシュフローも単年度では均衡しない。この事を大前提としていないと、市場経済、貨幣経済の絡繰(からく)りは理解できない。

 我々は、会計上に現れる経営実績を唯一無二のもの、絶対的な数値であるように錯覚する時がある。しかし、会計上に表される数値は、相対的なものであり、前提とする条件によっていくらでも変わるのである。それは、何も粉飾をしているわけではないのである。元々会計というものはそう言う性格なのである。
 損益、貸借上に現れる数字は、認識の問題であり、貨幣的な実体があるわけではない。キャッシュフローも同様である。その点を誤解してはならない。

 企業の寿命三十年説というのがある。これも、資金の需要の周期と無縁ではない。つまり、資金収支は、一定ではなく。その企業の成長過程や外部環境によって違うと言う事である。そして、資金の循環過程が企業業績に重大な影響を与えており、フローとストックが均衡しなくなると企業は、継続できなくなるのである。この均衡は、長中期的な問題であり、単年度の中における資金循環にも現れる。

 創業期には、巨額な資金を必要とする。キャッシュフローで言うと、営業キャッシュフーフローも投資キャッシュフローもマイナスで、財務キャッシュフローだけがプラスという状態である。収支的には、資金の流出し、また、少ない原資をやり繰りしながら調達をしなければならない。そして、成長期にこの資金を回収しながら、次の設備更新の時のために、内部に留保、溜め込んでおく必要がある。営業キャッシュフローがプラスに転じ、投資キャッシュフローは、マイナスか若干プラス、又、財務キャッシュフローがマイナスと言った状態である。
 この様に、企業経営は、中長期に均衡させるべきものであって、単年度に均衡させるものではない。期間損益は、無理矢理それを単年度に還元しているのである。それを考慮に入れて企業業績は考える必要がある。利益の必要性も、企業業績が単年度で均衡しないからである。単に金を搾取(さくしゅ)しているわけではない。
 会計上に計上される利益は、一つの見解であって、何等かの貨幣的な裏付けがあるのではない。ただ、どれくらい儲かっているのか、業績や企業の実態はどうなっているのかを知るための指標に過ぎない。それは、企業が継続、ゴーイング・コンサーンを前提とし、成立させるための算段に過ぎないのである。

 その上で、企業を成り立たせているのは、キャッシュ、即ち、資金である事を考えてみよう。つまり、企業を実際に動かしている活力は、資金なのである。資金力は、流動性によって測られる。
 故に、換金のしやすさによって流動性は測られる。だから、最終的には、キャッシュ・フローが大切になってくる。

 経営には、期間利益のみならず、持久力も必要とされる。それは元々経営が、継続を前提とし、単年度を基礎にして行われるものではないからである。継続を前提としていても、外部環境の変化や収支の不均衡によって単年度では、資金的な均衡が得られないからである。故に、資産の含みに蓄積された時間的価値を活用する必要があるのである。
 収入は、変動的であり、波があり、一定していない。それに対し、費用、コストの多くは、固定的であり、一定している。故に、収益を平準化すると同時に、急激な変動に備えて余剰収益を内部に蓄積する必要がある。また、損益は、長期的に均衡させるべき性質のものであり、期間損益は、本来、その前提の上に成り立っている。それは、元々、収益は、一つの事業の始点と終点をもって本来の計算期間とすべきだからである。それを一定の期間に区切って損益を計算するように無理矢理決めたのである。単年度だけで収支を計算するのには、最初から無理があるのである。だからこそ、減価償却が認められたのである。

 資産、負債、資本は資本主義の本質を現している。又、資産、負債、資本の有り様こそ資本主義経済を左右し、景気の動きの要因となっている。この事を理解しないと資本主義体制下の経済の有り様は理解できない。

 会計の基幹となる思想は、取得原価主義、実現主義、発生主義である。それに近年、現金主義が復活し、重要な指標を提供するようになってきている。

 貨幣経済で実際に経済を動かしているのは、資金である。経営主体における資金は借入金と現金収入である。この借入金と現金収入の原資となるのが収益と資産価値である。この様な関係が現金主義、キャッシュフローの台頭を裏付けている。つまり、表面的な景気の変動を生み出すのは、貸借、損益の関係だが、実質的にそれを支配しているのは、現金の流れだという事である。

 現金主義は、現物主義でもある。つまり、現金の動きは、反対方向に何等かの財、現物の動きがあることを意味している。経済を理解するためには、この現物の流れをおさえておく必要があるのである。

 会計は、認識の問題である。そして、その認識の時点をどう規定するかが取得原価主義、実現主義、発生主義を規定するのである。それ故に、会計は認識の問題といえるのである。

 会計を解釈する上で重要な鍵を握っているのが、水準と方向性、量・率である。会計情報は、時間的情報である。つまり、時間の要素が重要な役割、機能を果たしている。会計を理解する上で、一定の時点の情報単独に見ても理解することはできない。また、会計情報は、相対的情報であるから、絶対的空間、絶対的基準に基づいた情報ではない。故に、水準を何処に置くかによって数値は変化するのである。

 会計の働きは、基本的に作用反作用の関係にある。この働きが、会計制度の基本的構造を形作る。一つの情報は、表裏をなすに事項によって認識されることを意味する。それが、貸しと借り、貸借である。また、この認識の作用反作用を生み出す前提が、受託と委託の関係である。つまり、経営と資本が分離し、受託、委託関係が生じることも一因となってこの貸借関係は、成立したのである。この受託、委託関係は、資本と経営の分離も同時に促した。また、この表裏の関係は、経営主体間との関係も決定付けている。内部に反映された取引関係は、裏の取引関係として外部に結びつけられる。この内と外との関係によって経営主体は、内と外とが関係付けられる。良い例が、売掛金と買掛金、受取手形と支払手形、借入金と貸付金という関係である。

 そして、この作用反作用は、複式簿記を生み出したのである。
 なぜ、会計は、複式簿記、複式記入(ダブル エントリー)を基礎とするのか。それは、商取引が、交換を基本とするからである。交換関係は、取引の認識に相手表裏の意味を生み出す。それが複式簿記の本質である。
 この複式簿記の作用反作用の関係による貸借、損益、キャッシュフローの動きが、景気と言った経済の運動を引き起こす要因となっている。

 複式簿記は、基本的に加算主義、積み上げ主義である。この事は、資本主義の論理に重大な影響を与えている。

 会計には、管理会計と制度会計がある。更に、制度会計には、財務会計と税務会計がある。管理会計というのは、内部会計とも言い。経営主体内部の関係者に必要な会計情報を提供する仕組みを言うのに対し、制度会計とは、外部会計とも言い。経営主体外部の関係者に必要な会計情報を提供する仕組みである。しかし、ここで重要なのは、内部の関係者に提供される情報と外部の関係者に提供する情報が違うと言う事である。そして、制度会計は、投資家や債権者を対象とした会計を財務会計と言い、徴税者を対象とした会計を税務会計という。
 同じ情報を元にして、違う対象にそれぞれの必要性に応じて情報を提供する仕組みが会計制度なのである。この目的、対象に応じて必要な情報を提供するというのが会計の本領なのである。

 会計制度は構造的な体系である。構造というのは、幾つかの要素と属性によって構成されている。要素には、働きと位置と関係がある。

 会計の要素は、資産、負債、資本、収益、費用の五つである。この五つの要素の水準、方向性、量、比率が重要な鍵を握っていることを見落としてはならない。
 また、資産や負債は、流動性という基準が重要である。流動性とは、資金化がしやすいか、しにくいかが基準である。
 経済の周期、波動に影響を与えているのは、在庫の回転周期、設備投資の回転周期である。ただ、経済に直接影響を与えるのは、資金である。

 会計の構造は、第一に、貸借構造がある。第二に、損益構造がある。第三に、資金構造がある。貸借構造は、第一に、資産構造があり、第二に、負債構造、第三に資本構造がある。損益構造は、第一に、収益構造があり、第二に、費用構造がある。資金構造には、第一に、第一に営業キャッシュフロー構造があり、第二に、投資キャッシュフロー構造があり、第三に財務キャッシュフロー構造がある。
 そして、会計の実務の根底を成しているのが複式簿記である。

 損益計算書、貸借対照表、キャッシュフロー計算書はこの構造をよく表している。会計は、基本的に資産、負債、資本、収益と費用の一つの要素から成り立っている。そして、それぞれの位置付けと比率が重要な鍵を握っているのである。資産は貸借対照表の貸方(総資産の部)に、負債と資本は、借方(総資本の部)に位置付けられ、収益と費用は、損益計算書に配置される。そして、この位置関係と相互の働きによって取引が表現されるのである。

 資金の調達は、ストックに依り、資金の運用は、フローによる。ストックが資金の源なのである。
 相場が時価総額を引き上げる。フローがストックの価値を増幅し、ストックがフローの資金調達を拡大する。相場そのものの取引はゼロサムである。

 貸借対照表上に現れるストックとは、資金の源泉、価値の蓄積を意味する。それに対し、損益計算書上に現れるのは、貨幣の流れ、消費の経過である。
 フローとは、消費と移転、所有権の移転を意味している。つまり、フローというのは、その時点、時点の運動、動き、変化のことであり、変化や運動というのは、消費と移転を指しているのである。

 ストック、即ち、資金の調達原資を構成する価値は、相場(不動産相場)や資本市場である。不動産相場や資本市場は、社会資本を変動するエネルギーがある。これらは、時間的が蓄積される財である。同時に、取引相場が見かけ上の価値を生み出す財である。名目的資産価値は、負債の担保となって、あたらして貨幣価値の原資となる。
 これが実需と投機の問題を引き起こすのである。

 資産を時間的に見ると第一に、時間的価値が減価する資産と第二に、時間的価値が何等かの相場や物価と連動している資産。第三に、時間的価値が金利と連動している資産。第四に、時間的価値が働かない資産がある。
 減価する資産の代表的なものは、費用性資産で負債と連動している。

 負債は、元本と金利からなり、元本は、貨幣の額面価値であり、変動しない。つまり、固定している。性格は、現預金と同じである。

 債務は、資産に転換される。会計学的に言うと、総資本から総資産に変換される。その過程で損益が生じる。損益の過程は、労働と分配、財の生産と資源の消費と言う行為を生み出す。その過程で貨幣価値の創出と環流が起こるのである。債務は、所得と生産の源泉である。債務が財を生み出すのである。残、出、入、残が一つの工程である。

 費用というのは、消費と使用、移転である。費用がフローを生み出す。フローとは、貨幣の流れと物の流れである。

 会計制度の意義も目的も考えずに時価会計が取得原価がと議論している。無意味なことである。会計制度の意義や目的は、経済的な効果から考えられるべきなのである。なぜならば、現代の経済は、会計制度を下敷きにして成り立っているからである。

 三つの制度、即ち、証券取引法、商法、税法が日本の会計制度の骨格を成立させている。ただ、この三つの制度は、目的も対象も違う。目的も対象も違うのに、確定決算主義によって無理矢理むすびつけているのである。それが、現在の経済に甚大な影響を与えている。
 ただし、これらの制度でも原始データ、生データ、原データは代わらない。だからこそ、その目的と対象を明らかにして実体的に切り離すことは可能なのである。

 情報を開示し自由放任、市場のなすがままにまかせれば、万事うまくいくというのは、楽観的すぎて浅はかである。投資目的だけで、経営内容、情報を開示する事を求めれば、その目的によって事実が歪められる。
 また、会計情報が投資目的や徴税目的だけに利用されている限り、会計制度の機能も限定的なものになる。すくなくとも管理、経営情報とは乖離したものになる。

 税務会計が経済に与える影響は、確定決算主義の日本においては大きい。
 また、税効果会計が、金融再編において、直接的な影響力を与えたのは、厳然たる事実である。

 会計制度も国際化の波に洗われている。
 会計制度は、国際的に統一していこうという機運がある。しかし、会計制度が統一されるという事の意味や影響を、政治や経済に携わる者は、正しく認識をしておく必要がある。
 日本人は、会計制度の統一を安易に考えすぎる。会計制度の統一というのが表面的な問題だが、実際には、国家思想の様なより根源的な問題にて移設しているのである。
 もともと、欧米法には、二つの流れがある。一つは、大陸法と言って、独仏を中心とした成文法であり、今一つは、判例を重んじるコモンロー、判例法である。この流れは、会計制度にも言える。そして、判例法的世界と、成文法的世界の問題は、世界観、国家観の根本的な違いでもある。その点を正しく認識しておかないと国家観と国法との整合性がとれれなくなる。
 法を考える上で、法を成り立たせているものは何かを見極めることは重要であるその成り立たせているものに対する解釈が、成文法と判例法の違いとなって現れる。法があって罪が生じるのか。罪があって法が生じるのか。罰するために法はあるのか。真実を明らかにし、人を裁くことが法の目的なのか。法に照らして罰を確定するのが法の目的なのか。
 会計制度の統一というのは、ルールの統一であり、ルールの改廃、変更を意味する。それは、必ず国際経済に圧倒的な力を発揮する事は明らかである。日本がオリンピックで苦杯を受ける原因のことの一つにルールの改定があることを忘れてはならない。会計制度の統一に際しては、何等かの発言権を留保することが肝心なのである。

参考文献
「会計の時代だ」友岡 賛著 ちくま新書


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