キャッシュ・フローが大流行である。どこへ行ってもキャッシュフロー、キャッシュフロー。「利益は、意見。現金は、事実」という言葉があるくらいである。極端な話し、キャッシュフローだけが経営実態を表しているとまで言う評論家がいるくらいである。しかし、資金の重要性は、何も今に始まったことではない。従来から、資金計画表や資金繰り表、資金運用表などは存在したのである。特に、資金繰り表は、実務上において重要な役割を果たしてきた。しかし、近年、特に、バブル崩壊後に、キャッシュフローの重要性が叫ばれるようになり、正式の決算書の中にも数えられるようになった。
 しかし、反面、キャッシュフローとは何か。なぜ今もキャッシュフローなのか。キャッシュフローの何が大切なのかについては、あまり明らかにされているとは思えない。大体において、キャッシュフローの概念に関してもどちらかと言えば外圧、外国から結われて渋々、導入したように思われても仕方がないような風潮がある。

 企業の死活を左右するのは資金である。特に、儲かっているはずの企業が突然死するような黒字倒産は、いろいろな問題を引き起こす。黒字倒産のメカニズムを明らかにすることが重要なのである。
 また、なぜ、利益を基礎として収支を後にするのかは、現金の収支は、企業の死活問題でありながら、必ずしも企業の実態を反映したものでないからである。故に、企業業績は、キャッシュフローをもって判断することは避けなければならない。なぜならば、キャッシュフローはあくまでも資金の動きを見るものであり、企業の評価は、期間損益をもってすべきだからである。資金の動きは、景気や物価の動きに対して多少の時間的なずれが生じるからである。
 インフレになると、資源の調達費が上昇するために、必然的にキャッシュフローが悪化し、資金が需要が旺盛になる。この様な場合は、融資を円滑に実行される様に計らい、資金需要に応えるような政策をとる必要がある。この様な状況下でキャッシュフローを基準にすれば、資金に不足しているところは全て不良貸付先になってしまう。
 金融の機能は、資金が余っているところから不足しているところへ融通することである。そこには、必然的にリスクがある。リスクがあるから利益があるのである。問題は、期間損益なのであり、経営実態とは、企業の通常の営業内容なのである。

 キャッシュフローで重要な鍵を握っているのが資金である。資金とは何か。資金と現金とは違うものなのか。現金主義とキャッシュフローとは違う概念なのか、その辺が問題である。キャッシュフローで言うところのキャッシュとは、現金、及び、現金同等物であり、現金と言うだけではない。現金と同等の働きをするものと言える。現金と同等の働きと言うところで重要なのは流動性という概念である。流動性というのは、額面的価値で即、交換が可能な物と言うことである。この様なキャッシュの概念がなぜ重要なのかという事を明らかにするためには、資金が現代産業でどの様な働きをしているかを知る必要がある。
 流動性を測る基準としては、貸借対照表における流動性がある。この場合の流動性資産という概念と現金同等物との概念は、少し違う。ただいずれも、現金化を前提とした概念であることには変わりない。

 流動性というのは、取引に関係する。取引とは交換である。交換によって市場に流れが生じる。この流れを促進するのが流動性というわけである。市場経済というのは、巨大な氷の上を流れる水の流れを想像すればいい。
 我々が、認識しているのは、その表面の流れである。しかし、経済全体は、その流れを作り出している氷の塊も含めた環境総体である。その全体像を把握しないと市場経済全体を理解することはできない。

 取引というのは、交換を意味する。市場価値は、取引を土台にして形成される。取引があって価値は定まる。つまり、交換されなければ価値が生じないのである。そして、交換は、流れを生み出す。つまり、貨幣価値、市場価値というのは、交換と流れがあって生み出される価値なのである。そして、交換と流れは、個体差によって裁定される。この個体差が、価格差となってはじめて市場経済、貨幣経済は成り立つ。 

 ちなみにこの論文に市場価値はない。つまり、この論文は、市場経済的に言えば無価値な物である。経済的には、役に立たない論文である。なぜならば、この論文からは取引関係が生じないからである。この様に取引関係が生じない行為は、市場経済的に無価値なのである。この事は、会計的に顕著である。即ち、取引関係がない行為を現行の会計は、経済行為として認識しないからである。ただし、盗難も災害の被害も会計上では、取引行為として認識する。そうしないと、盗難や災害の被害を経済行為として計上できないからである。市場経済では、取引行為が大前提なのであり、取引行為が存在しない現象は、最初から認識しないのである。

 現在の市場経済、貨幣経済は、総額主義でなく、純額主義、即ち、差額主義である。
 現在、資産価値の簿価は、取得価格であり、資産価値は、取得原価主義がとられている。取得価格が問題となるという事をみても、差額主義を証明している。差額主義というのは、取引を土台として成立する思想である。つまり、資本主義というのは、取引を土台として成立した思想である。取引の概念が確立されなければ、市場経済も貨幣経済も資本主義も成り立たなかったのである。

 産業革命の本質とは何か。それは、装置産業であり、設備投資にある。つまり、投資資金を予め用意することである。その為に、予め事業計画や予算を開示する必要がある。それを可能としたのが資本と金融である。資本と金融が成り立つのは、期間損益が確立されたからである。つまり、それによって事前説明が可能となったのである。会計の目的の根源は、基本的には、説明責任から派生している。

 自前の資金だけで事業を興していれば、自ずと事業規模には限界が生じる。鉄道や海運、電力、ガス、鉄鋼と言った巨額な資金を必要とする産業は、個人で資金を用意するのには限界がある。

 金融や資本という形で不特定多数の者から資金を調達することが可能となってはじめて、近代産業が勃興することが可能となったのである。それまで、巨大事業は、専ら、専制君主や封建領主によって行われてきた。
 ただ、専制君主や封建領主は、家産国家であり、家産国家では、資金の一方的な転移しか起こらない。
 金融や資本の技術が発達することによって今日の産業の礎が築かれたのである。

 運河や道路といった大規模事業は、君主や封建領主が行い。事業の費用は、税金によってまかなわれていた。税金であるから、基本的に、反対給付がなく、収益を計算も当てもせずに実施される。また、費用対効果(コストパフォーマンス)の結びつきがない。双方向の流れではなく。一方方向的な流れにしかならない。それ故に、財政というのは、経済の双方向の作用を生まないのである。その為に、需要と供給の調整という機能が財政からは生まれない。需要は需要、供給は供給でしかないのである。これが共産主義経済の破綻の一因でもある。
 家産国家の財政の破綻と近代国家の財政の破綻は、構造に違いがある。家産国家の財政の破綻は、一方方向的な財の転移にあるのに対し、近代国家の財政の破綻は、収支の均衡が崩れることによる。ただ、いずれも現金主義的な破綻である。

 近代産業は、マス、即ち、規模の効果をきかせることによって成り立っている。規模の効果は、集中の効果でもある。集中的に資金を投下し、大規模な装置、設備を設置し、それによって大量生産を可能としたのである。大量生産によって単位あたりのコストを軽減する事を可能とした。この事は、初期投資によって生産性に決定的な格差を生じさせ。それまでの家内制工業を駆逐したのである。しかし、大量生産は、大量消費を前提とする。それが今日の環境破壊を招いたのである。

 外部から借入や資本という形で資金を調達してくる以前は、全て、自前の資金で事業を行ってきた。その時の考え方は、現金主義に基づく。その時は、現金収支が最大の問題であったのである。
 現金主義というのは、総額主義に通じる。現金というのは、現金総額を問題とする。それに対し、純額主義というのは、差額を問題とするのである。
 総額主義は、財の絶対的価値を問題とし、純額主義は、財の交換価値を重視する。その為に、複式簿記というのは、加算主義である。
 五千万円という株券を持っているだけでは、価値が確定しない。株を売ってはじめて価値は確定する。しかし、株を五千万円で売れるという保証はない。ただ、五千万円という株券を持っていることで、資金を借り受ける権利が生じるのである。その五千万円という価値を創出するのが金融機関である。金融の機能は、信用の創出である。その機能を現在の金融機関が果たしているかというと疑問である。それは、金融が金融本来の働きを忘れてしまったからである。

 現金主義というのは、売ったら売っただけ収入になる。厳密に言えば、収支残高だけが問題なのである。だから、帳簿は、単式簿記のもので、現金出納帳が主となるのである。元手をどれだけ増やせるかが重要なのである。つまり、差額ではなく、手元資金の多寡を問題とする。その多寡に応じて、次ぎに何をするかを決める。ただ、この発想は、資本の概念にも受け継がれている。資本主義の発祥とされるイギリスやアメリカでは、元手、即ち、資本を重視する。それに対し、投資の概念を最初に導入した日本は、借入を重視する傾向がある。
 複式簿記的な考え方は、財と資金双方の流れを前提としている。それ故に、加算主義であり、複式なのである。
 現金主義的な考え方は、金を貯めてから、事業をはじめる。この時代の金貸し業というのは、消費者金融のように経常的資金の借入が主である。生産手段に投資をすると言った発想がない。故に、産業が興らない。
 現金主義から実現主義的、即ち、資本や借入と言った所謂(いわゆる)レバレッジによる資産の増大の技術が確立されて近代産業が成立するのである。

 外部から資金を調達するようになって課せられたのが、返済義務と説明責任、そして、付随的に納税義務が生じたのである。それは、全ての財に、貨幣価値が捕捉し得るようになったからである。

 この様な前提によって実現主義、発生主義による期間損益が確立した。そして、それは会計制度による裏付けがあってはじめて成り立っている。
 会計制度の目的は、故に、説明責任、返済義務、納税義務の三つの側面からなる。

 基本的には、営業キャッシュフローが収支の要である。ただ、中長期的に見ると投資資金の波があり、その波が、損益に影響を及ぼす。営業資金の流れと投資資金の流れを均衡させるのが財務資金である。
 営業上必要とされる財務資金と投資上必要とされる財務資金とは、明確に区分される必要があり、融資を受ける場合には、その使用目的が確認される。営業上必要とされる資金を運転資金という。
 投資資金の波は、創業時における初期投資資金、設備の更新時における更新資金、新規投資における資金投資などがある。設備投資には、経常的投資資金と新規設備投資がある。経常的投資資金は、既存設備の保守保全・メンテナンス資金が主たる仕様用途で、投資資金とするか、営業資金とするかは、状況や場合、条件によって違ってくる。
 営業上必要とされる財務資金は、通常運転資金という。運転資金には、経常運転資金、増加運転資金、長期運転資金、決算資金、賞与資金、季節資金などがある。
 投資資金には、建て替え資金、設備資金などがある。その他に、肩代わり資金、赤字資金などがある。(「事例に学ぶ貸出判断の勘所」吉田重雄著 財団法人 金融財政市場研究会 株式会社 きんざい)

 元本の返済は、費用としては認識されない。故に、損益上には現れてこない。貸借対照表上に現れると言っても直接的に返済実績として現れるわけではない。あくまでも借入金残高としてしか認識されない。また、減価償却費とも違う。しかし、元金の返済は、資金繰り、資金計画、キャッシュフローに重大な影響を及ぼす。故に、それが重大な問題を引き起こすのである。通常は、減価償却は、元本の返済よりはやい速度で行われる。しかし、減価償却というのは、任意の処理でもあるため、処理を遅らせて見せ掛け上の利益を計上しようとする。そうするとキャッシュフローが乱れるのである。
 その為に、資金繰り、資金計画と減価償却、財務キャッシュフロー、投資キャッシュフローが直接的に結びついて表示されるわけではないのである。故に、実務上、資金繰りや資金計画は、別途作成することになる。

 近年時価主義が台頭してきた。しかし、日本人の多くは、時価主義の真の意味を理解していない。バブル崩壊後に時価主義が話題になったために、時価主義があたかも不良債権の切り札様に思われているが、時価主義の問題点は、むしろ、未実現損益にある。つまり、実体のない損益をどうするのかの問題である。未実現損益は、実体のない損益であるが、資金調達の原資となる。それも、負の要素も含めてである。それ故に、その実体を把握していなければ現実の資金の流れが理解できないと言う理由によるのである。
 それなのに、取得原価主義は、客観性がなく。時価主義は、客観的だみたいなおかしな事を平気で言う。取得原価主義は、実際の取引を根拠とするために、客観性が保てるという理由で採用されたのである。ただ、それが時間的な変動を埋没させてしまうのが問題とされるのである。
 会計の数字にどこまで客観性を求めるか、何をもって客観性の基準とするかであり、解釈の仕方でいかようにもとれるというのにである。まあ、つまりは、会計数字に客観性なんてないと言ってもいい。

 未実現利益とは、いまだに実現していない利益である。つまり、仮想の利益である。いうなれば、未実現利益とは、いわば架空売上、架空利益である。つまり、未実現利益とは、取引実績のない資金的な実体のない収益である。未実現利益を利益に含めて課税するというのは、収入のない利益に対して課税することを意味する。
 大体、架空利益というのは、粉飾をする時に利用する操作である。それに課税するというのは、いかにも阿漕(あこぎ)な話である。

 未実現利益は、含み益として作用する場合は、問題とされてこなかったが、含み損を持つようになると問題が表面化した。

 なぜ、未実現損益が俎上に上がってきたのかというと、未実現利益ではなく。未実現損失が問題となったからである。つまり、不良債権問題である。しかし、不良債権は、なぜ生じ、何が問題なのかは、いまだに、明らかにされていない。

 不良債権で問題となったのは、担保力の問題である。担保力が毀損されたことである。その為に、資金調達に支障が出たのである。担保力に余力がなくなったり、不足が生じたために、新規融資が受けられなくなったり、また、俗に言う貸し剥がしが起こったのである。ただ、本来、問題とされるのは、担保力の毀損が一時的なものなのか、それとも、恒久的なものなのかである。
 不良債権を深刻にしたのは、担保力を梃子にして借入を起こし、何倍にも価値を膨らましたことである。しかもそこで調達した資金を投機的取引に転用したことが問題を更に複雑にした。良い方に回転している内は、莫大な利益をもたらしていたが、バブル崩壊後、歯車が逆回転した結果、資産価値を超える負債が残ってしまったのである。

 株の含み益が、収益を補完するものとして作用する時は、株の持ち合いは問題とされなかった。バブル崩壊後、含み損が生じると株の持ち合いは、資産価値を不安定化させる要因として批判を受けた。それに伴い、株の持ち合い解消へと動いたのである。

 しかし、土地が高騰したのは、相続時、事業継承時に顕在化する土地の含み益、即ち、未実現利益に相続税として課税をしたからである。しかも、土地の高騰が、納税額を莫大なものにした。その為に、わざわざ、借金をして、土地の含み益を相殺したのである。ところが、土地は、流動性が低く、土地が下落した時に、速やかに現金化することが難しい。それに対し、借入金は、固定的なものであり、返済は、強制される。それが不良債権を深刻化したのである。

 資産の課税をする場合は、収支との関係に良く注意をする必要がある。また、単純に、資産家は、悪だというような勧善懲悪的な問題としてではなく。資産がどの様に活用されているのかを、より重視すべきなのである。

 バブル絶頂期、東京には、資産家の貧乏人が沢山いた。よく週刊誌に資産家が、結婚相手募集中なる記事があった。その多くは、見かけ上の資産家、資産価値は、バブルによって見かけ上資産価値は、上昇したが、先祖代々の土地とか、何等かの曰く因縁がある土地とか、売るに売れない理由がある上に、ただでさえ収入は少ない。更に、収入が少ないと言うのに、資産税や相続税が嵩んで収入が圧迫されているいる連中である。いわば、資産家の貧乏人である。この様に資産というのは、ただ所有するだけでは、役に立たないのである。売れば価値があっても、売れなければ意味がない。かえって負担が増すだけなのである。

 資本主義社会における資産には、収入を生む資産と、支出をもたらす資産とがある。収入をもたらす資産を経有することを考えなければならない。その違いをよく見極めないと重大な過ちを起こすことになる。

 投資資金と運転資金を調達する原資、裏付けとなるのが、資産の時価価値である。一定期間内における実質純資産の増減が真の損益だという発想である。それが純資産の時価であり、純資産の時価をもって資本とする思想がある。それが時価主義である。
 それ故に、一定期間における資産価値の差額をもって損益の基準とすべきだという考え方が台頭してきた。
 しかし、純資産の時価には、未実現利益が含まれ、しかも、時価は、絶え間なく変動している為、時価の設定の仕方で、恣意的な要素が損益に混入してしまい、利益計算の客観性が保てなくなる。
 利益そのものが取引によって実現するものであるから、取引のない利益は、資金的な裏付けもなく、また、実際の取引によって利益が確定するため、現実の利益は、実際の取引の条件によって左右される。
 何億という株を持っていたとしてもそれがその時の時価で売れるとは限らないのである。大量の株を一度に売れば、時価を引き下げることにもなる。故に、未実現利益は、簡単には、損益に反映できない。
 また、それを損益に、直接、反映させてしまうと、未実現利益に対する課税問題がおこる。未実現利益というのは、実際の取引を前提としていない。その為に、資金の流出入がない。資金の流入がないという事は、課税のための資金がないという事を意味する。故に、納税資金を捻出するために、借入を起こす必要が生じるのであるが、借入を起こす口実に妥当性がないのである。

 投資資金は、成長の段階に応じて創業時の初期投資資金、成長発展時の新規投資資金、設備を更新する際の更新投資などがあり、産業や企業の成長発展段階に応じて調達、支出される資金である。一般に創業者利益と言われるが、ただ、産業によっては、初期投資の規模に大きく影響を受ける部分があり、先発的、パイオニア的国家が必ずしも有利に作用するとは限らない。その為に、近年、知的所有権や既得権の重要性が重要な要素となってきた。

 キャッシュフローというのは、資金会計の一種である。今、なぜ、資金会計なのか。

 結局、経営を継続するために必要な物は資金だと言う事である。金の切れ目が縁の切れ目という言葉がある。黒字倒産という言葉が示すように、いくら、利益があったとしても資金が続かなければ、企業は倒産してしまう。逆に、赤字であったとしても、資金が供給されていれば企業は、存続できる。企業経営を続けていくためには、資金が必要なのである。故に、資金の流れがわかれば、企業経営の実体が明らかになるというわけである。従来の資金表は、どちらかと言えば、資金繰り実務のために必要な内部会計と言う性格がある。それ故に、資金の流れを表したキャッシュフロー計算書が考案され、近年、重要視されるに至ったのである。1999年には、上場会社は、法律的にも作成が義務づけられた。

 貨幣経済を実質的に動かしているのは、資金である。資本主義は、貨幣経済と市場経済を下地にして成り立っている。資本主義を成立させている資本主義の特徴、要素は、収益と資本である。収益の概念と資本の概念が資本主義を成立させた。ただ、資本主義を成り立たせているのは、収益と資本だが、実際に経済を動かしているのは、資金である。
 その証拠に、資本主義体制に開ける基本単位の企業は、赤字であろうが、不良債権であろうか、大事故や不祥事に見舞われようが、式が廻っている間は、倒産しないが、黒字であっても資金が廻らなくなれば倒産する。所謂(いわゆる)黒字倒産である。
 ある意味で、金が全てなのである。

 資金とは何か。資金とは、現金である。現金とは、貨幣そのものである。つまり、貨幣価値を直接的に表現した物であり、貨幣の特性を実体的に持った物である。貨幣とは、交換価値を表象した物である。つまり、表示された数値的価値によって市場で等価の財と交換できる権利を表象した物である。特徴としては、第一に、保存が効くと言う事である。第二に移動ができると言うことである。第三に、数値化できるという事である。第四に、交換ができる。第五に、均質で単位化できるという事である。第六に、何等かの機関、権力、権威によって価値が、法的に保証されているという事である。
 流動性という言葉が経営上よく使われるが、流動性というのは、現金化しやすい度合いによって決まる。過剰流動性とは、余剰の現金、現金同等物が大量にあることを意味する。

 注意しなければならないのは、資金というのは、貨幣そのものである。しかも、貨幣価値と貨幣は同一の物ではない。貨幣価値があっても貨幣があるとは限らないという事である。重要なのは資金である。いくら資産があったとしても、資金が調達できなくなれば、企業経営は、継続できない。重要なのは、必要な時に必要なと金、即ち、貨幣、あるいは貨幣と同等物の物がなければ存続することができなくなる。貨幣と同等物というのは、貨幣を表象している物であり、貨幣価値を持っている物を意味するのではない。それが流動性である。

 例えば、貨幣価値があっても売れない、株や不動産がある。大量の株は、一片に放出すれば、値を下げてしまう。つまり、手持ちでいる時の価値が取引をしたときの価値と同一だとは限らないのである。また、不動産の中には、工場の敷地や住居として現に使用している場合、売るわけにいかない。その様な場合、いくら貨幣価値があったとしても資金が手元にあるわけではない。この様な貨幣価値は、流動性が乏しいか、ないのである。すぐに換金化できない物を流動性が低いといい。流動性は、換金化できる速度で測られる。

 この様に流動性が低い資産は、そのままでは、資金として活用できないので、その資産の持つ貨幣価値を担保して借入を起こし、資金化する。それが負債である。その場合、資金には、金利がつく。

 ただし、負債が成立するためには、担保する価値を持つ資産が必要となる。その資産を手に入れるためには、元手が必要となる。それが資本である。そして、資本を表象するのが、本来の意味での資本財である。
 即ち、調達した資金を直接消費するのではなく、何等かの生産手段に投資し、それを運用して収益を得、あるいはまた、それを担保して資金を得る。それによって資産価値を増幅する。

 この様に、企業活動の直接的な資金として活用される資金を調達するのが直接金融と言い、資本市場を形成するのに対し、何等かの、資産を担保する事によって資金を調達するのを間接金融と言い、金融市場を形成する。

 土地のような財は、放置すると時間的価値は反映されない。時間的価値とは、債権からすると金利であり、物価から見ると時価である。つまり、簿価で評価されてる限り、土地は、時間的変動の影響を受けない、表示されない。また、建物のような償却資産は、減価する。

 資本は、収益に比例し、負債は、借入元本に比例すると言う性格を持つ。それが、資本市場と金融市場の性格を規定している。
 つまり、金利は、企業の収益に関係なくかかる費用であり、資本・配当は、収益に連動して派生する費用である。金利は、企業業績に関係がなく金利に対して一定の比率で派生する費用であり、いずれは返済しなければならない費用であるから、起業家としては、業績の悪化したときにかなりの負担となる費用である。逆に資本は、業績が悪化した時は、負担を軽減してくれる費用であるから、企業経営者は、資本に依存した経営を心懸けるようになる。資本に依存した経営というのは、自己資本利益率(ROE)を重視した経営である。その為には、収益を上げて株価を維持することを努めるようになる。それが株主資本主義、資本市場中心主義といえる。

 資本は、収益、即ち、一定期間における成果に連動し、負債は、金利、即ち、一定期間の時間的価値に連動している。

 それが単年度単年度の事業収益を重視した経営を生む原因となり、長期的展望や長期的投資を軽視した経営を生み出す原因となっている。所謂(いわゆる)株主資本主義である。単年度の収益の極大を目的とした経営である。

 しかし、企業というのは、本来継続を前提とし、長期的な均衡を目的とした組織、機関、事業体である。短期的な収益を上げるためには、資本市場で高い評価を受けて株価をつり上げた方が手っ取り早くなる。俗に言うマネーゲームである。こうなると実業が疎かになる。極端な話、GEのように、実業、現業部分を切り離して投資や金融に特化した方が見かけ上の利益は上げられる。しかし、それでは、実物経済は、衰退してしまうのである。

 資金の調達は、ストックに依り、資金の運用は、フローによる。ストックが資金の源なのである。
 相場が時価総額を引き上げる。フローがストックの価値を増幅し、ストックがフローの資金調達を拡大する。相場そのものの取引はゼロサムである。

 ストック、即ち、資金の調達原資を構成する価値は、相場(不動産相場)や資本市場である。不動産相場や資本市場は、社会資本を変動するエネルギーがある。これらは、時間的が蓄積される財である。同時に、取引相場が見かけ上の価値を生み出す財である。名目的資産価値は、負債の担保となって、あたらして貨幣価値の原資となる。
 これが実需と投機の問題を引き起こすのである。

 企業家の目的は、一見、利益の追求に見られているが、内実は、資金調達である。そして、資金を調達せんが為に、利益の理念が生まれたのである。
 利益は、収益から費用を差し引くことによって得られる。つまり、収益も費用も資金の動きに必ずしも結びつけられているわけではない。資金と結びつけられているのは、収入と支出である。

 営業キャッシュフローの急激な増減が財務キャッシュフローを左右する。
 キャッシュフローを検討する場合、家計に置き換えるとよくわかる。例えば、営業キャッシュフローというのは、収支に相当する。営業キャッシュフローというのは、家計で言えば、失業による所得の減少とか、病気、災害による急な出費などである。病気による失業は、収入の減少と急な出費が嵩むので二重に大変なのである。また、特に、定年退職のように収支構造やライフステージの急速の変化は、家計に重要な影響を及ぼす。
 投資キャッシュフローは、教育費や家の新築、出産、結婚と言った不定期で高額な出費による収支である。これらの出費に対しては、計画的な資金の運用が要求される。その為に、定収入というのは、決定的な要素となり、次の財務キャッシュフローを左右する。
 預金や貯金、家のローンなどの収支が財務キャッシュフローである。投資キャッシュフローでも述べたように、銀行から借入をおこす場合は、定収入という事が条件となる。つまり、経営では、営業キャッシュフローが安定していることが重要な要件となる。所得が安定していれば、ローンのような長期的借入も可能となる。
 これを見ても解るように、家計というのは、単純に単年度の所得だけで判断されているわけではない。それまでに蓄積された財産を基にして計算されるべきものである。
 会計上の利益は、本来、清算価値なのである。つまり、事業を生産すると仮定してその時の純資産残高が利益だと言える。本来、利益は、単年度の損益だけから判断できるものではない。それが貸借を重視した、財産目録を重視した考え方である。その場合の資産とは、時価であり、取得金額ではない。
 家計で言えば、一年間の収支が赤字だからといって直ぐに生活ができなくなるわけではない。つまり、生活が継続できなくなるわけではない。とりあえず資金があれば生活はできる。むろん、いつまでも、収入がなければ問題であるが、むしろ問題は蓄えである。
 ところが、企業経営は、単年度の損益の均衡だけを問題にする傾向がある。もともと、収支というのは、単年度に均衡しないと考えられたからこそ、期間損益が考案されたのにである。

 営業キャッシュフローを決定付けるのは、なんと言っても事業内容である。事業内容は、コストパフォーマンスで決まる。事業内容は、事業の効果、成果に対し、それに費やした資金、費用の多寡の妥当性、当否で測られる。一定期間のコンストパフォーマンスを測定するのが損益である。それ故に、損益計算が重要視されるのである。

 ただ、現実的な問題として、事業の成否を金銭だけで予め測ることは、不可能である。金をかけたからと言って成功するとは限らない。
 その証拠が、公営事業である。公営事業というのは、最初から経営という思想を軽視というか、馬鹿にしている。金儲けは賤しい仕事だというのである。その癖、幹部は金に汚い。要するに、経営責任をとる気が、最初からないのである。収益という基準も収支という基準もない。つまり、利益は上げてはならないのである。民間企業は、努力して利益を上げている。公営事業の人間は、努力して利益を上げるのは、愚か者の仕事だと言っているようなものである。自分達は、公益の仕事をしているのだから、下々が考えるような収益や収支など囚われる必要はない。むしろ、囚われるべきではないと考えている。当然、財政は赤字となる。赤字でも国益に従事する仕事をしているのだから、高額の報酬を得るのが当然だと思っている。それが彼等のモラルなのである。
 国家が巨額の資金をつぎ込んでもその事業が成功するという保証はない。それが事業なのである。

 収益は、実現主義に、費用は、発生主義によって認識される。つまり、収益は、実現した時点で、費用は、発生した時点で捉えるという思想である。これは、そのまま、資本主義の基本的思想となっている。逆に言うと、収入があった時点では、収益が実現していない、あるいは、既に収益が実現している場合があることを意味する。また、資金が消費された、支出された時点では、費用が発生していない、又は、発生してしまった事があることを意味する。
 収益には、収入が伴い、費用には支出が伴う。ところが収益が実現されたと、費用が発生したと認識されるのと実際に収益や支出が発生するときが必ずしも一致していないのである。
 また、固定資産は、取得原価によって認識されるのが現代の会計の原則である。なぜならば、取引原価を客観的に表しているのが取得原価であり、故に、取得原価は、歴史的原価ともいわれる。

 フリーキャッシュフローの範囲内で投資活動をすべきだという考え方がある。しかし、フリーキャッシュフローというのは、営業キャッシュフローから、投資キャッシュフローを引いたものであり、営業が稼ぎ出した資金から投資にかかる資金を引いた余剰資金を意味する。つまり、フリーキャッシュフローの活用と言っても追加の投資資金を意味するのであり、投資の内容が問題とされていない。故に、フリーキャッシュフローの範囲内で投資をすべきだという考え方は根本的に間違っている。投資資金には、波があり、その投資資金の額が財務資金に影響するからである。また、経常的投資資金を営業資金に含めるのか、それとも投資資金に含めるのかによっても違ってくるからである。営業キャッシュフローを構成する要素の中に、減価償却費と利益が含まれるが、減価償却に対する考え方の相違によって利益の数字が変化するからである。フリーキャッシュフローを一概に確定できないからである。むしろ、投資資金は、投資の内容が重要なのであり、また、投資の波は、産業によって違ってくるから、一概にフリーキャッシュフローだけを見て判断できるものではない。フリーキャッシュフローは、目安に過ぎない。
 むしろ、投資資金の波を計算し、それと見合った長期的営業キャッシュフローを均衡させる形で、財務キャッシュフローを考えるべきなのである。

 資金会計と収益会計が発生する原因は、通貨の流れと取引の実態、財の流れのズレによってである。

 資金の収支だけに依存していると巨額な資金を必要としている事業では、一定の期間を基準とした場合、資金の収入と支出との間に不均衡が生じる。特に、初年度の収支に莫大な不均衡が生じる。と言うよりも支出が過剰となり、資金の不足が生じる。不足した資金を調達するにしても多額の持ち出しをしている状態を説明しただけで、これを放置しているとしたら資金の調達が困難になる。そこで、費用を平準化する必要が生じた。それが減価償却である。つまり、費用を償却する期間で平準化することによって費用を分割するのである。むろんこの様な手法は、償却期間と償却の方法によって利益に差が生じる。つまり、実際の収支に基づいた経営ではなく。会計手法とのかねあいによって経営の巧拙が測られるのである。それが資本主義の特徴でもある。

 経営者には、ジレンマがある。つまり、一方において利益を上げながら、一方において資金を調達しなければならない。資金の供給者である投資家や債権者は、利益を重視する。しかし、利益は、投資家や債権者から資金を調達するために、創作された概念であり、必ずしも、収支を反映したものではない。むしろ損益と収支との間には、タイムラグ、時間差が生じるのが一般的である。

 資本主義経済は、資本と負債によって成り立っている。つまり、借金によって成り立っている。現在の資本主義経済は、金融によって成り立っている。金融とは、即ち、借金である。金融が発達する以前ならば、現金収入があれば何とか生活ができた。それ以前、貨幣経済や市場経済が発達する以前は、基本的に物々交換、自給自足体制である。あくまでも貨幣は、補助的手段に過ぎなかった。それ故に、現金出納が明らかになれば良かったのである。
 資本主義は、資本と言う概念が確立されると同時に、負債という概念も確立された。この資本と負債の概念が近代資本主義を成立させたのである。そして、資本と負債によって資金を外部から調達するために、期間損益という概念が構築された。期間損益が確立さけたのは、非貨幣性費用や、非貨幣性資産と言う概念が成立したからである。
 この期間損益という概念が確立されることで、巨額の資金調達が可能となった。それが、鉄道や鉄鋼、電力と言った装置産業を生み出したのである。しかし、この事によって損益概念は、現金の流れからは、乖離することになったのである。つまり、利益という概念は、直接的には、現金に結びついていない。
 利益は、元々、仮想、創造されたものなのである。利益に金銭的実体も裏付けもない。なぜ、利益は仮想、創造されたのかと言えば、収支では、投資家や資本家に経営の実体を説明できないからである。事業には、資金が必要である。先ず事業を始めるにあたっては、投資資金が必要となり、事業を続けるにあたっては運転資金が必要である。その事業を事業家が個人的に賄うには限界がある。利益という概念が確立されたことによって継続的事業のために、資金が調達できるようになったのである。つまり、利益は、事業を継続するのに必要な資金を投資家から調達するために作り出された概念なのである。
 投資家や債権者から資金を調達するために、利益概念は、創作された。投資家は、利益を重視するから、上場会社は、増収増益を要求される。未上場会社の中小企業は、赤字を出すと融資が受けられない。利益を出そうとすれば、非貨幣性資産や非貨幣性費用を操作することである。しかし、それらは、貨幣的実体を持たない。つまり、現金の収入には結びつかない、未実現利益なのである。

 この様に背反的なことが事業経営には、多くある。そして、経営者はジレンマに悩むのである。

 とにかく、現在のように借金をしなければ事業が継続できないような経済体制下では、資金が続かなくなれば経営を持続することはできない。黒字であっても、赤字であっても借入金の返済や納税と言った資金の流出が常時、発生するからである。また、収支の差が利益を生み出しているからでもある。その為に、手持ちの流動資産を常時、用意し、計画的な資金を運用する必要がある。それ故に、キャッシュフローが重視されるようになったのである。

 キャッシュフローで問題なのは、資本取引、即ち、株取引が、実体的取引から乖離してしまっている事である。資本というのは、本来事業資金の調達を目的としたものである。金融は、それ自体では、実体を持たない。実業と結びつくことによってはじめて実体を持つのである。ところが、時価総額による株式交換のようなM&Aの出現によって、資本が取引の道具にされ、実業とかけ離れたところで取り引きされるようになった。そして、過剰流動性によって投機資金が資本市場に流れ込み、実体経済を攪乱したことである。

 資金が動かす経済体制であるから、資金の動きを制御する必要がある。この資金の動きを制度的に制御しようとする思想が構造経済である。

 貨幣経済は、貨幣が作り出す見かけ上の価値が特として乱脈な動きをする。この見かけ上の動きを封じながら実業の世界を実現する事が肝心なのである。それが構造経済である。

 キャッシュフローは、この様に重要な指標である。しかし、企業実績は、基本的に損益と貸借をもって判断すべき事である。それは、キャッシュフローは、あくまでも企業の原動力であり、資金の過不足は、企業の死命を制するものではあるが、企業の実績は、期間損益であり、資金の源泉である貸借によるからである。ただ、それが絶対ではないことだけは忘れてはならない。
 

資金構造

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