産業によって損益構造に違いがある


 従来は、景気を直接左右するのは損益だと思われてきた。それは、損益が所得と直結しているからである。

 儲けには、相場の変化や格差を利用して儲けるのと、労働と言った何等かの資源を活用して儲ける二つがある。

 利益は、収益から費用を差し引くことで導き出されるという考え方と、資産価値の変動からもたらされるという考え方の二通りがある。
 その違いは、資本主義の根本に関する問題である。利益は労働の成果によってもたらされると考えるのか。環境の変化によってもたらされるのか。
 経営活動と企業価値の区分を重視し、基本的には経営活動によって経営の実績を評価してきたからである。その考え方は、損益勘定と貸借勘定の分離に顕著に現れている。
 問題なのは、未実現利益の評価である。未実現利益は、あくまでも実現していない利益なのである。
 純粋の経営活動は、費用対効果の対比によって行われるべきであり、損益勘定の中でも本業と関係ない損益は、特別損益として区分し、更に、営業活動とは無縁な財務活動による損益ですら経常損益として、日本では、明確に分けて考えてきたのである。

 目的があって手段は成り立つ。手段があって目的があるわけではない。利益は、手段である。目的ではない。ならば、利益を上げる目的とは何か。それが重要なのである。つまり、利益と目的と利益を出す手段とを見極めることが、大切なのである。ところが、近年では、利益そのものが目的化し、利益さえ上げれば企業は良いという風潮に支配されている。それは、目的と手段とを履き違えているのである。

 企業業績を評価する時、期間損益とは何かが重要となる。期間損益とは何か。一定期間における経営活動の成果を意味するのであるが、なぜ、一定期間で経営活動の成果を明らかにしなければならないのかが重要なのである。

 期間損益の中には、貨幣性費用が含まれる反面、未実現利益や元本の返済が含まれていない。これが何を意味するのかである。

 損益を考える時、重要なのは、損益計算の意味を知る事である。現代企業の存亡は、利益に依存している。それなのに、利益そのものの意味は、疎かにされたままである。それは、利益の持つ意味や目的が明らかにされていないからである。

 損益構造は、産業によって違う、それが重要なことである。(表 E−3−5−0−1)また、経営規模によっても損益構造は変化する。経済政策や規制を実施する際は、その損益構造の違いによって景気の変動や政策、産業の働きにどの様な差が生じるかを明らかにする必要がある。
 中小企業の売上総利益率は、全業種平均が38.9%で、高い順に並べると不動産業の69.3%、飲食・宿泊業の65.0%、サービス業の64.5%、情報通信業61.4%、運輸業の41.1%、製造業35.7%、小売業33.8%、建設業24.9%、卸売業23.6%の順になる。
 売上高総利益が60%を超えているのは、不動産業、飲食・宿泊業、サービス業、情報通信業の四業種で、全業種平均を挟んで運送業と製造業があり、35%以下に小売業、建設業、卸売業がある。一番、総利益率が高い、不動産業の69.3%と一番低い、卸売り業の23.6%との間には、40%以上の開きがある。この開きは、産業構造に起因し、各々の産業活動の違いに重大な影響を与えている。

 日本の会計では、損益構造には、粗利益、営業損益、経常損益、特別損益、純利益の五段階がある。つまり、五層の構造を持っている。米国会計では、経常利益の項目がない。これは、日本の会計とアメリカの会計の基本的な認識の差から生じている。日本では、経常利益を重視して経営をするが、アメリカは、本業の利益とそうでない利益とが区分できればいいのである。

 収益構造は、見方を変えると損益分岐構造になる。損益分岐点というのは、固定費と変動費の合計と収益が交叉する点である。この事は、収益構造の基礎構造を示唆している。即ち、損益構造には、変動的な部分と固定的な部分があるという事である。そして、変動的な部分は、販売量に比例する物と生産量、操業度に比例するものとがある。また、固定的費用も投資や規模に比例する費用がある。

 損益分岐にも産業毎に構造、つまり、固定費と変動費が占める割合によって類型がある。そして、その構造によって産業には特性が生じる。
 産業には、固定費の比率の高い産業と低い産業とがある。その固定費も非貨幣性費用と人件費とがある。非貨幣性費用とは、主として減価償却費を指し、初期投資の高を示す。つまり、初期投資、固定資産に対する投資が大きい産業である。また、人件費率の高い産業は、労働集約的産業である。つまり、労働集約的産業と設備集約的産業は、形態は違うが類似した損益構造を持つこととなる。この様に、固定比率が高い産業は、損益分岐点を超えると急速に利益が向上してくる。それに対して変動比率の高い産業は、早い時期に一定の利益を上げるが、その後、利益の上昇速度は、緩やかなものとなる。
 固定比率の高い産業は、稼働率、操業率を高めるよう事が鍵を握る。その為に、収益率か回転率かのジレンマに陥りやすく。急速に収益が低下する危険性が高く、この型は、構造不況業種に多く見られる。

 収益と費用との差に時間軸を加えたのが、損益分岐点である。つまり、期間損益を分析するためには、損益分岐点分析が有効である。また、損益分岐点は産業構造を現してもいる。
 損益分岐点に関して産業の類型は、第一に、高固定費、高変動費型、第二に、低固定費、高変動費型、第三に、高固定費、低変動費型、第四に、低固定費、低変動費型の四つである。ただし、第一と第二は、基本的に水準の違いであり、固定費率が高く変動費率が低いか、逆に、固定費率が低く、変動費率が高いか、それとも、固定費と変動費が同程度かの三つに分かれる。
 これらの比率は、産業の構造に影響を受ける。また、固定費を構成する要素も重要になる。固定費を構成する要素にでは、減価償却費と人件費が大きい。減価償却とは、固定資産、償却資産を意味する。
 固定費と変動費の比率は、産業や規模によって違いが生じる。その差は、産業政策に重大な影響を与える。

 固定費には、拘束固定費(コミテッド・コスト、Committed Cost)と管理可能固定費(マネジド・コスト、Managed Cost)がある。拘束固定費は、管理不能固定費とも言われ、例えば、減価償却費、固定資産税、保険と言った短期的な管理が困難な固定費である。それに対し、管理可能固定費というのは、運用によってはある程度削減することが可能な固定費を指して言う。
 この間の不可能な固定費と可能な固定費も産業によって差が生じる。

 固定費は、質的変化をする事がある。例えば、機械化によって人件費の部分が減価償却費に変わったりするような場合である。
 企業は、基本的に固定費の削減や固定費の変動費かという動機が働く様な仕組みになっている。固定費の変動費化というのは、固定費の流動化を意味している。それが、経済全体にプラスに作用するかどうかは、企業効率とは別問題である事を念頭に置いておく必要がある。
 確かに、固定費の変動費化は、決算書上においては、正しいが、景気の変動要因になることも事実である。つまり、人件費の変動費化は、雇用の流動化を招くことになるからである。為政者は、「合成の誤謬」を引き起こさないような配慮が必要とされる。

 事業を継続する意義は、利益にだけあるのではなく。社会からの要請の方が大きい。社会からの要請というのは、一つは、雇用である。今一つは、必要性である。つまり、労働と分配上の動機が強い。その上でいかに収益をあげられるようにするのか、それは企業努力もあるが、社会の協力も必要なのである。それをマスコミのようにただ、安ければいい。収益があげられないのは、無能なのだと、罵詈雑言浴びせかけるだけでは解決にはならない。

 産業政策は、この産業の構造と市場の状況とを重ね合わせて判断すべきなのである。市場の状況とは、成長、拡大局面にある市場か、飽和点に達し、縮小局面に入った市場かによるのである。
 カルテルは、単純に良いか、悪いかではなく。どの様な長所、欠点があるか。また、どの様な働きがあるかを見極めることである。産業の構造や市場の状況を勘案しながら判断すべき事なのである。

 経済の根本は格差なのである。それを忘れてはならない。差が生じるから、差があるから、経済は成り立つ。A−B=C、それが、経済の基本式である。商業というのは、ある意味で難しくない。A−B=C、これが+か−かで決まる。又は、残出入残で決まる。差が悪いという発想は、商売そのものを否定する事に繋がる。
 この差は、情報の非対称性による。格差を利用するというと何か、犯罪めいたことをマスメディアの人間は思うかもしれない。しかし、それは程度の問題である。適正な利鞘を稼ぐことは、正当な商売である。

 この差を認めない分野がある。それが、公共機関である。公共機関は、公共の利益を追求するのだそうである。だから、差があってはならないという。しかし、利益は差によって生じる。これは、公共の利益も同様である。
 差にもいろいろある。売値と仕入れの差。時間差。物価の差。経費の差。中でも売上と費用の差が重要なのである。その差を測るのが利益だと言って良い。そして、利益の妥当さは、経営の妥当さを意味し、収益と効果から、又は、残余財産から判断される。利益を認めないことは、経営実績を評価することを認めないことなのである。言い換えると、仕事の成果を測る客観的基準がないという事である。

 格差を認めなければ、経済は成立しない。しかし、極端な格差は、経済の崩壊を意味する。経済は、分配の仕組みであるが、極端な格差は、この分配の仕組みを機能させなくなるからである。それ故に、適正な利益とは何かが問題となるのである。

 利益とは何か。利益の持つ意味とは何か。利益の目的とは何か。利益は、なぜ必要なのか。利益は何によってもたらされるのか。目的があって手段は成り立つ。手段があって目的があるわけではない。経営にとって利益は、手段である。目的ではない。ならば、利益を上げる目的とは何か。それが重要なのである。つまり、経営本来の目的は、利益以外の所にある。利益は、その目的を達成するための目安に過ぎない。しかし、経営を存続する上で、欠くことのできない。目安である。人はパンのみのために生きるわけではない。しかし、生きていく上でパンは、不可欠なものである。人間は、生きる為にパンを必要としているのである。その点をしっかり心に留めておく必要がある。

 利益というのは、本来、清算価値を言う。会計制度上の、かつて、冒険商人達が一つの航海によって得た富を一航海毎に清算し、利益を分配したことに端を発すると言われている。それが、当座利益である。やがて、一航海毎に清算していた当座事業を清算せずに継続することによって期間損益計算の必要性が生じ、今日の利益概念が確立された。一航海毎に全てを清算、航海に使った船も売却する。その時の船の減価計算が、減価償却の基となる。
 当座企業から継続企業に変化することによって企業会計は成立した。そして、期間損益が、企業実績の基本となった。しかし、根本は、清算価値こそが利益の原形なのである。また、その為に、発生主義、実現主義、取得原価主義、減価償却の概念が確立されたのである。つまり、利益の基礎は、発生主義、実現主義、取得原価主義、減価償却主義にある。

 利益とは何かの基本的概念を考える上で、利益計算の仕方が重要な意味を持っている。利益計算の仕方には、二つの考え方がある。一つは、収益費用観であり、もう一つは、資産負債観である。
 第一の収益費用観は、損益法と言われ計算式は、収益総額−費用総額=当期純損益となり、変形すると費用総額+当期純損益となる。
 第二の資産負債観は、財産法と言われ計算式は、期末資本−期首資本=当期純損益となり、期末資産−期末負債=期末資本、期末資本−期末負債=期首資本+当期純損益となり、更に、期末資産=期末負債+期首資本+当期純損益となる。
 問題は、収益法で算出された利益と財産法で算出された利益がイコールではないという事である。(「現代会計入門」伊藤邦雄著 日本経済新聞出版社)
 収益法は、一定期間の経営活動の成果を基本として考えるが、財産法は、純資本の増減を基本にする。本来の清算価値という観点からすると財産法の考え方が筋となる。ただし、財産法に基づいて利益を計算する場合、資産価値をどう認識、測定するかが問題となる。つまり、取得原価主義に則るか、時価主義に則るかである。財産法の主旨からすると時価主義にたつべきであるが、時価主義に則った場合、財産法の中には、未実現損益が含まれる可能性があり、取引として実体のない、資金的な裏付けのない利益まで含まれてしまう危険性がある。ただ、不良債権や含み益から資金調達の是非が問われる今日、財産法の考え方が有力となってきた。
 この様に利益に対する考え方は一様ではない。どの考え方に則るかによって利益の額は、まったく違ったものになってしまう。
 何が利益の正当的な算出法なのか。それを明らかにするには、利益を出す目的を考える必要がある。

 利益の目的には、諸説がある。一つは、利益は、経済変動に伴うリスクのための蓄え。第二に、再投資のための内部蓄積。第三に、分配原資の計算と利害調整機能。第四に、経営の成果。情報提供機能。第五に、企業を継続するための与信効果を高めると言ったことである。

 損益上の利益の対極にあるのは、純資産上に現れる利益概念である。つまり、利益の相手勘定である。

 利益は、実務上、第一に剰余金、第二に、準備金、第三に、積立金、第四に、繰越金、内部留保と言ったところに区分され、純資産の部に記載される。つまり、この剰余金、準備金、積立金、繰越金という言葉の意味に実務上の利益の目的が隠されている。
 第一の剰余というのは、あまりとか、余分という意味以外に、剰余価値という意味がある。つまり、投資した以上の価値という意味である。第二の、準備金という意味は、何等かの事態に備えるための資金という意味である。何等かの自体というのは、配当や、欠損である。第三の積立金には、二つの意味があり、一つは、何等かの目的に沿って積み立てた資金という意味である。もう一つの意味は、特定の目的を持たない積立金である。ここで言う目的とは、設備更新や再投資などを意味する。第四の繰越金とは、何等かの理由で分配や配当を保留し、残余利益に対する権利を次期以降に繰り延べるという意味である。第五の、内部留保というのは、社外へ流失せずに内部に留めておく、貯蓄しておく資金という意味である。
 これらの意味は、先の目的をより実務化したものと言える。

 ただ、いずれにしても企業経営のための指針的な機能が考えられる。つまり、利益は、経営効率の目安である。と言うよりも、効果対費用の均衡である。そして、利益は、時間的価値でもある。

 何が利益の元なのかである。利益と費用とは、背反的な概念であるように考えられている。しかし、費用こそ、利益の元、資源なのである。コストは原資、利の元である。

資料

表 E−3−5−0−1

項目 売上高総利益 売上高営業利益率 売上高経常利益率 売上高当期純利益率
全業種 38.9 1.2 1.1 0.5
建設業 24.9 1.2 1.0 0.5
製造業 35.7 2.1 1.7 0.9
情報通信業 61.4 2.1 1.8 1.1
運輸業 41.1 1.0 1.1 0.5
卸売業 23.6 1.0 8.0 0.4
小売業 33.8 0.1 0.3 0.0
不動産業 69.3 7.7 4.4 2.7
飲食・宿泊業 65.0 0.2 0.2 -0.2
サービス業 64.5 1.4 1.4 0.7
「財務分析の基礎と実務(中小企業の財務指標の活用の手引き)17年度版」
宇田川荘二著 同友館

表 E−3−5−0−2

項目 総資本回転率(回) 固定資産回転率(回) 有形固定資産回転率(回) 固定長期適合率(%)
全業種 1.5 4.0 5.6 67.4
建設業 1.8 6.1 8.5 59.1
製造業 1.2 2.8 3.6 70.2
情報通信業 1.9 9.7 27.8 39.4
運輸業 1.5 3.2 3.9 79.9
卸売業 1.8 7.0 11.7 56.1
小売業 1.9 5.1 8.0 70.2
不動産業 0.2 0.3 0.3 84.3
飲食・宿泊業 1.7 2.5 3.6 101.6
サービス業 1.5 3.7 5.3 67.7
「財務分析の基礎と実務(中小企業利財務指標の活用の手引き)」宇田川荘二著 同友館 

表 E−3−5−0−3

項目 変動費比率 固定費比率  限界利益率 損益分岐点売上高比率
全業種 72.1 25.3 27.9 90.8
建設業 75.1 23.1 24.9 92.8
製造業 68.3 28.4 31.7 89.7
情報通信業 48.0 48.7 52.0 93.7
運輸業 54.2 43.3 45.8 94.5
卸売業 83.9 14.4 16.1 89.2
小売業 74.0 24.7 26.0 95.0
不動産業 69.5 22.5 30.5 73.7
飲食・宿泊業 37.7 60.6 62.3 97.2
サービス業 58.7 38.1 41.3 92.2
変動費率=変動費/売上×100(%)固定費率=固定費/売上×100(%)
限界利益率=1−変動費/売上×100(%)
損益分岐点売上高比率=損益分岐点売上高/売上高×100(%)
「財務分析の基礎と実務(中小企業の財務指標の活用の手引き)17年度版」
宇田川荘二著 同友館 


 何が利益を生み出すのか。それも、利益を考える上で重要な要素の一つである。


 何が利益を生み出すのか。それも、利益を考える上で重要な要素の一つである。
 何が、利益を生み出すのかを考察する際、その産業がどの様な市場に依拠しているかが重要な要素になる。例えば、依拠する市場が内向きな市場であるか、外向きな市場であるかとか、成熟した市場であるか、否かといった事である。
 内向きの産業は、主として内需が重要であり、為替の変動も自国の通貨が高く振れると有利になる場合が多い。反対に、外向きの産業は、輸出が主であるから、自国の通貨が高くなると厳しくなる。むろん、外需型産業と言っても輸入品に依拠していなければ、影響は軽微になる。この様に、いろいろな要素や前提条件が相互に作用しながら、産業の盛衰を左右している。
 経済政策は、この様な要素や前提条件、状況を慎重に見極めた上で複合的、構造的になされなければならない。為替の変動を伴うような政策は、産業毎に有利、不利がハッキリとでることがあり、正反対の対策を産業毎に施行していかなければならない場合が多い。一律に政策を実行するのは、配慮を欠いた危険な姿勢である。
 産業に働く力のベクトルを合わせることが重要なのである。規制を緩和するといっても同じように、同じタイミングでやればいいとはかぎらない。規制緩和が是か否かという議論はおかしい。規制緩和することによって個々の産業にどの様な影響がでるかを予め見極めた上で、どの様な対策が必要かを検討すべきなのである。規制緩和も、規制の一つである。

 急速に円高が進行した際、円高不況と騒がれ、輸出産業が壊滅的な打撃を受け、産業の空洞化が問題となった。しかし、反面、高級輸入プランド産業のように、円高を追い風にして急成長した産業もあるのである。その時、金融機関や政府は、どの様な態度をとるべきなのか。本来ならば、窮地に陥った産業を保護すべきなのである。ところが、金融機関は、逆の行動をとった。
 窮地に陥った産業から資金を引き揚げ、急成長している産業へ資金をまわしたのである。また、政府もその金融の後押しをした。そして、その一部が投機や土地へと流れ、バブルを引き起こした。進化論を持ち出して、自然淘汰が自然の理だと学問の世界で主張するのは勝手だが、それを現実の世界に持ち込むのは危険な行為である。市場や経済で重要なのは均衡なのである。弱きを助け、強きを挫くのが経済の原則なのである。
 産業は、長期的な視野、展望に基づいて育成すべきなのである。それが本来の金融業の在り方である。金融行政も金融機関も目先の利ばかりを追って、長期的視野にかけている。短期的に変動する経済情勢に振り回され、猫の目のように政策を変えれば、為替が円高になれば輸出産業が壊滅し、円安に振れれば、輸入産業が壊滅してしまい。日本の産業は、荒廃してしまう。為政者には、高い見識が求められているのである。

 利益は、損益上、取引上だけで生み出されるわけではない。
 たとえば、家賃、キャピタルゲイン、金利のような資産(固定資産、流動資産、貨幣)が生み出す利益がある。為替の変動のような市場が生み出す利益がある。投機のようなリスクが生み出す利益がある。金利や裁定取引のような時間が生み出す利益がある。特許権、営業権のような権利が生み出す利益がある。その他に、情報が生み出す利益がある。また、計画や工程、予算、即ち、過程から生み出される利益がある。コストが生み出す利益がある。事業再編や流れ作業のように組織、仕組みが生み出す利益がある。会計や法と言った制度が生み出す利益がある。裁定取引のように空間(距離や環境)が生み出す利益がある。保守、点検、メンテナンス、作業が生み出す利益がある。
 見方を変えると費用は、利益の源泉である。利益は、収益に対する負の要素としてみる傾向があるが、費用こそ、利益の原資だとも言えるのである。
 ただ、言えることは、利益は、何等かの差によって生じると言う事である。つまり、差こそが利益の源泉なのである。

 本来ならば、経営の状態を判断しようとした時、収支、即ち、キャッシュフローの増減とその内容が問題となる。キャッシュフローがどの様な原因、理由で増減したかが問題なのである。ならばなぜ、収支によって経営成績を判断しないのか。あるいはできないのかであるが、経営収支というのは、あくまでも、資金の出納を意味するので、費用対効果を現した数字ではないのである。

 ならば、期間損益を測る上で、費用対効果をどの様に認識するかが重要になる。問題は費用とは何かである。
 財の費用対効果を何で測るのか。それは、その財を生産するのに必要とした物の市場価値とそれを市場で交換した時の交換価値の差である。そして、その差額の一定期間の累計を集計したものが期間損益である。財を生産するのにかかった費用と財の効果とを一対一に還元できるのならば、集計することは難しくない。ところが、個々の財に還元できない費用が存在するのである。その典型が土地や設備である。

 例えば、駐車場や貸家のような事業を考えてみる。
 自前の土地に駐車場や貸家のような物を自前の資金で建てる場合、土地も建築費も全てを借入金でまかなう場合、土地を買う資金を、他人から調達、即ち、資本でまかなう場合とで、キャッシュフローにどの様な差が生じるか。特に、考え方の差や認識の差がどの様な形で現れるかが重要でなのある。

 この様な場合、問題になるのは、資産の相手勘定である。長期借入金か、資本か、そして、出資かである。元手・資金に対する認識の問題である。

 土地を購入した場合、その代金は、費用として計上されるわけではない。それに対し、設備のような償却資産を購入した場合は、減価償却費の範囲で、費用化される。

 現在のキャッシュフロー中心の観点から見ると自前の資金だけで経営していることが必ずしも評価されるわけではない。むしろ、M&Aのターゲットにされる危険性すらあるのである。

 そうなると、重要なのは、費用とは何かの定義である。その鍵を握っているのが、非貨幣性費用の持つ意味である。即ち、期間損益というのは、一定の期間に経営資源として費やされた物をその効果から差し引くことによってその期間の経営実績を評価、説明することを目的として計算された結果なのである。

 期間損益は、必ず黒字でなければ成り立たないと言う性格のものではない。期間損益は、一つの目安なのであり、絶対的な数字ではない。しかし、資金収支は、マイナスになってはならない。資金が廻らなくなったら、企業経営は、破綻してしまうからである。

 権力者は儲けなどと言う下賤な事を考えず。常に、民間、を見下し、監視することを役割としていると思い上がっている。大阪の組合幹部が、公共の仕事は、赤字で良いのだと言い放ったのがその証左である。

 役人のように、自分達の仕事は、不可欠な特別な仕事だから儲からなくてはならない。それに対し、民間の仕事は、どうでもいい仕事なんだから、儲からなければ、不必要、淘汰してしまえばいいのだなんて、なぜ言えるのであろう。

 損益というのは、費用対効果の目安である。儲けは、私欲によるものであり、税は、公益によるものだし、公的権力による強奪は許せても、私欲による儲けは許せないと言うのは、おかしな論法である。税も儲けも損益によって測られることにより、その効用が評価されるのである。収益が上がらなければ、税も儲けも評価されない。
 損益というのは、目安である。生きていく為の目安なのである。

 期間損益を確立する上で、貸借対照表上や損益計算書上に現れない重要な支出、資金の流失は、元本の返済資金である。この返済資金は、巨額なものであり、減価償却費や金利という重要な費用を決定付ける要因であり、資本政策の指針にもなる値でありながら、損益上にも、貸借対照表上にも明確には現れてこない。
 借入金限度額や借入金依存度を表す指標でもある。逆に言うと、だから、損益上にも貸借対照表にも表さないと言った方がいいのかもしれない。

 資産とは何かが問題となってくる。その場合の鍵を握っているのが、非貨幣性資産である。資産という言葉は、元々は、財産という言葉に相当していた。故に、貸借対照表の前身は、財産目録だとも言える。財産目録が、なぜ、貸借対照表に変化してきたのか。それは、財産と資産の違いにある。

 収益とは何かは、未実現利益の考え方で決まる。それは、期間損益の意義を明らかにすることでもある。

 営利事業、収益事業を金儲けだと錯覚している者がいる。そういう者に限って経済行為は、金儲けだから賤しいと思い込んでいる。利益というのは、収益と費用の関係から生じるものである。言い換えると、費用と効果の関係である。つまり、それが経済の本質でもある。もっと正確に言えば貨幣経済の本質である。

 又、会計における利益構造は、収益と費用という二次元的なものではなく。収益、費用、資産、負債、資本と言った五次元的なものである。そして、これらの要素は、時間の関数であるから、六次元的な構造といえる。この事が意味するのは、売上だけが利益を生み出す源泉ではないという事である。
 特に、資産、純資産に含まれている時間的価値が重要なのである。たとえば、償却という概念は、費用の時間的価値を資産に転化することであり。損益というフローを資産というストックに変換することによって成り立っている。
 又、借金、負債の概念も重要である。株取引を例にとれば、実株取引、ならば、例え損をしたからといって返済を迫られるわけではない。しかし、借金で株の代金を賄っていたり、信用取引だったりした場合、株が暴落すると返済を迫られたり、追い証を要求されることがある。
 負債には、梃子の原理、レバレッジ効果がある。つまり、元手を何倍かにふくらませる効果である。しかし、それはリスクも同様にふくらませていることを忘れてはならない。そして、通常、企業経営は、この梃子の原理を活用してなされている。この元手以上の部分こそ新たに創造され、附加された経済的価値なのである。
 借金があるから、大きく儲けることがある反面、同様に致命的な損をする可能性がある。しかも、借金は、自分の手持ち資産よりも大きな損失を与えることもあるのである。即ち、チャンスが大きいだけリスクも大きいのである。個人を例にとれば、自分の手持ち資産の範囲内ならば、例え、損をしても生活ができなくなるところまでは追い込まれない。ところが、資産を上回る借金をして、尚かつ、月々の返済額に収入が追いつかなくなれば。生活は、破綻し、財産の何もかも失うことになるであろう。これが会社であれば、倒産である。しかし、多くの企業は、借金で成り立っている。それは、収支の額が個人と比較にならないほど大きいからである。そこに、罠が潜んでいるのである。借金は、現代経済に欠かせない要素の一つであるが、経済や企業を破綻指せもする。その典型が、日本のバブルであり、サブ・プライム問題の本質なのである。

 営利を目的とした企業にとって利益は、不可欠な要素の一つである。その利益を計算するための基礎が損益である。

 利益は、元々、仮想、創造されたものなのである。利益に金銭的実体も裏付けもない。なぜ、利益は仮想、創造されたのかと言えば、収支では、投資家や資本家に経営の実体を説明できないからである。事業には、資金が必要である。先ず事業を始めるにあたっては、投資資金が必要となり、事業を続けるにあたっては運転資金が必要である。その事業を事業家が個人的に賄うには限界がある。利益という概念が確立されたことによって継続的事業のために、資金が調達できるようになったのである。つまり、利益は、事業を継続するのに必要な資金を投資家から調達するために作り出された概念なのである。故に、徴税を目的に算出される所得と利益とは違う。目的が違うし、計算根拠が違うのである。ところが日本は確定決算主義をとっているために、目的の違う利益計算の基準と所得計算の基準を無理に結び付ける傾向がある。その為に、利益計算の目的が見失われ、ただ、方程式に当て嵌めているに過ぎない事例が多くある。それでは利益が経営の実情に合わなくなる。利益計算の目的は、投資家や債権者に経営の実体を正確に伝えることにあることを忘れてはならない。

 経営には、期間利益のみならず、持久力も必要とされる。それは元々経営が、継続を前提とし、単年度を基礎にして行われるものではないからである。継続を前提としていても、外部環境の変化や収支の不均衡によって単年度では、資金的な均衡が得られないからである。故に、資産の含みに蓄積された時間的価値を活用する必要があるのである。
 収入は、変動的であり、波があり、一定していない。それに対し、費用、コストの多くは、固定的であり、一定している。故に、収益を平準化すると同時に、急激な変動に備えて余剰収益を内部に蓄積する必要がある。また、損益は、長期的に均衡させるべき性質のものであり、期間損益は、本来、その前提の上に成り立っている。それは、元々、収益は、一つの事業の始点と終点をもって本来の計算期間とすべきだからである。それを一定の期間に区切って損益を計算するように無理矢理決めたのである。単年度だけで収支を計算するのには、最初から無理があるのである。だからこそ、減価償却が認められたのである。

 ところが税は、短期的な収支を基礎にして課税される。その為に、どうしても制度的に、損益を単年度で調整しなければならなくなっている。だからこそ、企業は利益を上げる必要があるのである。営利を求めるべきではないと言う方が矛盾している。
 利益は、金儲けではなく、収益と費用の関係なのである。そして、それは時間的関係でもあるのである。

 営利を目的とした企業が利益を目的とするのは当然である。その利益を上げる行為が悪いとされたら、企業活動は成立しなくなる。儲からない企業は淘汰されるべきなのである。
 ところが、世間では、利益を上げる行為そのものを非難する傾向がある。公の事業をするのだから、儲ける必要はない。むしろ、儲けを上げてはならない。それでは、公営事業や財政が赤字になるのは、必然的帰結である。赤字になってからさあどうしようと言っても遅いのである。

 これは、民間企業に対しても同じである。安売り合戦や不当廉売に対しては、寛容な癖に、利益を維持しようとする話し合いにや規制に対して厳しい。それが世の常である。
 しかし、適正な利益を上げることは悪い事ではない。競争を必要とするのは、技術革新が激しかったり、生産性や効率を高めようとする場合である。何が何でも競争が正しいというわけではない。特に成熟期に入った産業は、ただでさえ利益を上げる事自体が困難なのである。
 その為には、利益の源を明らかにしていく必要がある。それが損益計算である。

 利益をもたらすのは、何等かの格差である。その格差を生み出すのは、時間や空間的距離、貨幣的な差、あるいは、付加価値が生み出す差である。

 近代経済を決定付けたのは、時間の概念である。つまり、時間的価値が、経済的な価値に組み込まれたことである。
 また、損益は、必ずしも資金収入と資金支出に基づいて計算されるわけではない。損益は、基本は、収益と費用であり、この中には、未実現利益や非貨幣性費用なども含まれているのである。何によって収益と費用を確定するのかは、認識の問題である。故に、損益の中核的な問題は、認識の問題である。取引の実体をいつ、どの様にして認識するかが、損益をわかる鍵なのである。

 損益の問題で一番肝心なのは、認識の問題である。つまり、取引の実体が、いつ、どの様な形で、どこで成立したかをどう認識するかである。そこで重要なのは、認識の時間である。それを規定しているのが実現主義であり、発生主義である。また、それを特定する為には、取引の実体を理解することが前提となる。それが簿記会計の骨格を作り上げている。
 売上時点の認識、仕入れ時点の認識、費用の発生時点の認識などである。また、簿記会計上で言う取引と一般的に言われる取引には、若干のズレがある。会計上の取引とは、資産の増減、移動があれば取引として認識される。例えば、火災や盗難によってでも資産が消失すれば取引と認識される反面、例え、契約が締結されても実際に資産の動きがなければ取引とは認められない。この様な要件定義が経済の基本的論理である。

 いずれにしても損益の概念を左右しているのは、時間の問題である。

 市場経済には、二つの時間の概念がある。一つが、時間そのものにかかる時間的価値であり、それが金利である。今一つが、一定期間の経過に伴って派生する成果である。それが、損益である。

 損益というのは、時間的価値である。つまり、交換価値に時間的な価値を附加することによって成立したのが、損益の概念である。
 時間的価値である損益には、時間の経過が重要な要素である。つまり、ある一定の期間を経過することによって発生する価値である。この様な価値には、収益と資本と金利がある。そして、収益や資本を獲得する過程で消費されたり、使用されたり、転移される物の貨幣的価値を合計したのが費用である。

 金利は、負債を構成し、配当は、資本を構成する。そして、負債と資本は、資金の調達源泉をあらわし、その時間的結果が資産として反対側に表示される。それが貸借構造である。

 時間というのは、変化の単位である。何を基準とするかによって時間の変化も微妙に違ってくる。

 損益上に現れる時間的価値は、金利と配当によって表現されるのである。金利というのは、負債にかかる時間的価値の変動であり、損益は、一定期間に獲得した価値の増減である。
 金利というのは、時間そのものにかかる価値の変動率を意味し、損益というのは、時間の経過にによって獲得する成果を指して言う。

 収益というのは、一定の期間の間に実現した売上である。つまり、一定の期間の間に獲得した物を貨幣換算した物である。収益は、貨幣経済下では、貨幣価値で表現される。収益は、フローである。

 費用とは、一定の期間の間に消費、あるいは所有権を移転した物を貨幣価値によって表現したものである。
 費用というのは、消費と使用、移転である。費用がフローを生み出す。フローとは、貨幣の流れと物の流れである。

 利益というのは、一定の期間の間の収益から費用を指し引いた後の成果物を貨幣換算した物である。利益は、フローの結果であるが、ストックに還元される場合がある。それが資本である。

 貸借対照表上に現れるストックとは、資金の源泉、価値の蓄積を意味する。それに対し、損益計算書上に現れるのは、貨幣の流れ、消費の経過である。
 フローとは、消費と移転、所有権の移転を意味している。つまり、フローというのは、その時点、時点の運動、動き、変化のことであり、変化や運動というのは、消費と移転を指しているのである。

 費用というのは、消費と使用、移転である。費用がフローを生み出す。フローとは、貨幣の流れと物の流れである。

 フローとは、流動性の問題であり、それは、貨幣の使用価値の問題である。貨幣の使用価値とは、貨幣の消費であり、交換価値の実行を意味する。交換価値を実行すれば、所有権の移転が生じる。故に、費用は、消費と移転の問題であり、それが価値の流動性を生み出す。

 費用構造は、仕入れ、製造原価と経費と人件費からなる。人件費とは、即ち、分配を意味する。故に、人件費が占める割合を労働分配率という。一般に、労働分配率というのは、付加価値に占める人件費を指して言うが、物販やサービス業の場合、付加価値を粗利益に置き換えてもいい。
 収益構造、特に、費用構造は、成果の貨幣価値に還元してものを配分、分配して表している。特に、労働の成果をどの様な比率で分配するかは、所得に還元される。故に、労働分配率の推移が重要となる。

 決算整理事項こそ、資本主義思想を体現したものである。利益という概念は、本来、一定の事業が終了した時点で損益を生産し、それを配分するものである。それが配当である。しかし、それを一事業の開始と終了という単位では、時間がかかりすぎるのとリスクや不確実な要素がありすぎるので、一定期間が経過した時点で一旦事業内容を清算することとした。そこから、決算の思想が生まれる。そして、事業の継続と期間損益という概念が確立し、資本の概念が形成される下地が整ったのである。それが、資本主義の思想の根本である。故に、決算整理事項は、資本主義を実体的に表している。

 この様に、一事業を一つの単位としていたのを期間損益にしたことで、派生したのが未実現利益と非貨幣性費用であり。この未実現利益と非貨幣性費用が確立したことで損益の概念が成立した。その意味で未実現利益と非貨幣性費用は、資本主義経済で重要な役割を果たすことになると同時にいろいろな問題も派生させる。

 利益は、意見。キャッシュは事実と言われる。 利益は生み出されるものである。利益を生み出す仕組みを作ることが重要なのである。利益を絶対視するのは危険である。利益は、経営の実体を計る一つの目安である。だからといって、キャッシュフローを重視して利益を軽視しろと言うのではない。逆に、公共事業のように利益を度外視したら経営は成り立たなくなる。それは明らかである。
 利益の持つ意味を正しく理解することによってはじめて企業の経営実態が明らかになるのである。

 経営主体の大前提は、継続である。なぜならば、経営主体の中心的機能は、事業と、並びに、雇用であるからである。経営主体が潰れると、特に、その経営主体が産業や地域経済、企業手段の中核に位置しているとその影響、被害は甚大なものになる。
 今日の金融機関や投資家は、会計的な利益のみを見て、事業やその経営主体が果たしている役割を評価しようとはしない。赤字や資金不足に落ちいている企業に対する対策を考える上で、本来、検討しなければならないのは、欠損や資金不足の原因である。その上で、その企業が果たしている役割と将来性である。そして、当該経営主体が、市場において正常に機能させることのできる環境、状況を構築し、維持する事が肝心なのである。つまり、どの様な市場状況が好ましいかの問題なのである。
 それが投資家や金融機関の政策は、姿勢は、ただ、収益が悪い、生産性が低いという理由だけで、資金の回収を優先する。それ故に、事業の内容よりも担保や会計情報だけで判断している。
 事業には、外部要因と内部要因があり、外部要因の多くは、不可抗力の要因である。内部要因によるものならば、経営努力によって改善できるが、外部要因が原因の場合、一企業の力だけでは解決できないことが多い。それから先は、政治の問題である。構造不況業種は、構造的問題であり、内政問題である。重要なのは、日本にとってその産業を保護・育成する必要があるか否かであって、他国の思惑や競争力ではない。その典型が、食糧問題であり、国防問題である。警察や軍隊を民営化し、外資の傘下に入れてしまえと言うのはいかにも乱暴な話である。

 人事を尽くして天命を待つという言葉がある。ここで言う、人事というのは、内部要因である。天命とは外部要因、即ち、不可抗力な要因を指す。為替の変動とか、石油価格の高騰のような自分達の力だけ手は解決しようのない事柄は、天命、即ち、環境や状況の変化に合わせる、即ち、受動的になる。それに対し、経費の削減や生産性の向上と言った自分達の力で解決のつくことに、全力を尽くす。その上で、自分達の力ではどうにもならない市場環境は、時間が解決するのを待つという姿勢が、人事を尽くして天命を待つと言う事なのである。

 今の金融機関は、結果だけ見て、過程を見ようとしない。苦心惨憺して成果を上げたとして、一番助けて欲しい苦心している時に、冷たくあしらわれ、良い成果が出たら掌をかえしたようにお追従を言う。晴れた日に傘を貸し、雨になると取り上げるなどと陰口をたたかれるのである。本来は、逆である。金融には、リスクが伴う。そのリスクをいかに管理するかが、金融の仕事であり、それを測る基準の一つとして利益がある。利益は手段であり目的ではない。目的は、事業の継承である。

 当該企業が社会的に必要であり、また、どう見ても真っ当で効率的な仕事をしているのに、存続できないとしたら、問題は、企業が存続できないような環境にある。要は、ただ利益を上げられないから悪いというのではなく。利益が上がらない原因である。競争や赤字は結果である。問題は、原因が不可抗力なものか否かなのであり、外的要因ならば、その外的要因を取り除く以外にないのである。そして、適正な利益を上げられる環境や仕組みを整えるべきだというのが構造経済学の基本的考え方、認識である。

 何のために、誰のために経済はあるのか。それを忘れてしまったから、経済の最終的な目的が見えなくなってしまったのである。経営主体は人の為にあるのか、事業・仕事の為にあるか、それとも、金の為なのか。国のためにあるのか。職場は、人を生かす場、人が生きる場なのか。仕事をする場なのか。金を儲けるための場なのか。
 それが重要なのである。これは、企業を存続させる意味でもあり、利益の帰すところを意味するのである。
 現代では、職場は、金を儲けるだけの場になっている。仕事をする場としての価値が薄れている。人が生きる場ではなくなりつつある。金を儲ける場だから、仕事に対する使命感や夢も、責任感、道義心なんて不必要である。人間的な繋がりは、余計なことである。儲からなくなれば、潰すか、売ってしまえばいい。後は、野となれ、山となれである。知ったことではない。
 多くの人は、経済性というのは、無駄を廃するものと思いこんでいる。無駄をなくせば、利益が上がると教え込まれている。ところが、無理、無駄、ムラをなくし、合理化すればするほど、効率化すればするほど、利益が薄くなり、最後にはなくなってしまう。実際、経済性とは、ある意味で無駄なところにこそあるのではないだろうか。
 利益というのは余りなのである。利益の本質は、ゆとり、遊び、余裕、つまりは余りの部分にある。だから、経済は、文化だと言える。余りの部分を省いてしまえば、利益はなくなるのが道理なのである。少し、余すそれが利益なのである。
 不合理、非生産的、非効率、不条理なところにこそ、経済性が潜んでいる。その一見無駄なところを、上手く温存していくのが経済の仕組みなのである。そう言う意味では、現代人は、経済という意味を理解していないのである。

 経済の真の目的は、人間らしい生き方を実現するところにある。ゆとりある生活の実現である。経済の目的は幸福の実現なのである。人間らしい生き方は、ゆとりのないところからは生まれない。目を血走らせてギラギラと金儲けを追い求める姿からは、とうていゆとりなど生まれはしない。利益などもたらされないのである。本当の利益は、人々のゆとりから生まれる。だからこそ、利益は、人々を豊かにすることができる。利益というのは、金銭的な利益だけを指すのではないのである。むしろ、利益とは、ゆとりでもあるのである。


参考
「現代会計入門」伊藤邦雄著 日本経済新聞出版社
「財務分析の基礎と実務(中小企業財務指針活用の手引き)」宇田川 荘二著 同友館


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