コストとは何か。費用とは何か。それは必要な財なのである。費用は、不必要な物ではない。
 我々は、費用というとすぐに出金を思い浮かべる。だから、費用というと、収益に対してマイナス、負担のように感じる。しかし、費用があるから利益があると考えなければいけない。つまり、費用というのは、文字通り必要な物なのである。生産をする上で、経営をしていく上で必要な物、それが費用である。ただその費用が必要以上にかかると経営は赤字になるのである。逆に言うと、必要な費用が払えないで赤字になるとしたら、それは、どこか仕組みが悪いのか、やり方が悪いのである。

 近代の市場経済の成立において、費用という概念の確立は重要な意義があった。近代経済が確立される以前、以後では、費用という概念は著しく変化した。費用概念は、近代にいたって確立されたと言っても良い。費用という概念が確立される以前の経済と以後の経済は明らかに違う。そして、費用概念の確立によって、今日の市場経済や貨幣経済は成り立っているのである。故に、費用の持つ意味が理解できなければ、近代経済は理解することができない。また、費用という概念は、近代を成立させた思想の一つでもある。
 つまり、近代的費用という概念は、期間損益計算が確立された以後、成立したのであり、それ以前にはなかった。つまり、近代的費用概念は、期間損益を計算する上での必要性から生み出された概念なのである。この点が重要である。

 経済を考える場合、費用とは何かは、重要なことである。
 費用の構造は、単純に見えて、実際は、いろいろな要素が複雑に組合わさって構成されている。しかも、一つ一つの要素が、現在の経済の在り方に深く関わり合っている。また、費用は、利益は、費用によって成り立っている概念であるが、必ずしも費用によって利益が決まるわけではない。
 実務的に見ると費用とは何かは、見解が別れるところである。その好例が税である。交際費など、その典型である。販売会社は、交際費は必要経費だと思っている。しかし、徴税側は、費用だと認識していない。所謂(いわゆる)、見解、認識の違いである。納税時期を迎えると新聞紙上にこの見解の違い、認識の違いが紙面を賑わすこととなる。つまり、費用は。認識の違いによって変わってくるのである。税金そのものを費用と見るか、利益処分と見るかも見解の問題なのである。
 また、費用は会計的概念だと言う事である。翻って言えば、費用は、会計によって創られた概念だと言える。会計上の課目として認識されない財は、費用として見なされない。つまり、費用は、近代会計の成立によって確立された極めて近代的な概念なのである。
 貨幣的に表現できない物や会計上の課目に規定されていない物は、費用にはならない。例えば空気や重力である。重力をいくらエネルギー源として使ってもそれは費用としてみなされない。

 最初から儲からないと思うことに投資する者はいない。投資するからには、初めは儲かると思っているのである。しかし、儲かるか儲からないかは、はじめてみないとわからない。そこにリスクがある。資本主義は、そのリスクをだけが負うのかによって成り立っている。そのリスクの根源は、費用にある。リスクを予測して、そのリスクに見合う費用を投資する。つまり、費用とは、予測の問題でもある。現実の投資額でもある。故に、その費用に見合い収益がなければ事業は成り立たなくなる。費用を無視していいと考えているのは、公共事業や財政である。だから、公共事業や財政は、収支が立たない。損をしてもお構いなしである。財政の根本問題は、そこにある。つまり、儲からなくてもいいと考えていることである。問題は費用なのである。何に、どれくらいの資源、資金、労力を費やしてもいいかの問題なのである。ところが、財政や収益の時に問題にするのは、結果だけである。だから、問題の解決ができない。何に、どれくらい費やしていいのかは、必要性の問題なのである。その手段として、市場があり、貨幣があるのである。
 費用を無視しては、市場経済は、成り立たないのである。

 通常、多くの人は、費用というと、何等かの資金的実体を持っているように思い込んでいる。しかし、費用は、貨幣的に表現は、されるが必ずしも資金的な裏付けがあるとはかぎらない。例えば、費用は、時間的関数として現される場合がある。つまり、この様な資金の流失が過去にあったとか、この様な資金価値が企業を経営する上において発生したと言った場合である。
 この事が意味するのは、費用の中には、非貨幣性費用のようなものも含まれるという事である。また、資産の中にも費用性資産がある事も忘れてはならない。つまり、費用というのは、時間の関数であり、必ずしも表示されている貨幣価値とイコールではない。
 発生主義というのは、この様な費用の性格によって形成された思想である。つまり、費用というのは、必ずしも資金によって裏付けされた行為と言うよりも、概念と考えるのが妥当なのであり、経営上においてこの様な資金的価値の喪失が発生したとみなされる事柄や行為なのである。
 この点をよく理解する必要がある。会計情報は、企業の外形的状態を貨幣価値を用いて表現したものに過ぎない。企業の真の実体や状況を表しているとはかぎらない。

 費用をどの様に評価するかによって企業利益の在り方は違ってくるのである。

 例えば、売上総利益、俗に言う粗利益である。我々は、売上総利益という考え方、計算方法は一つだと思い込んでいる。しかし、製造業とその他の産業とでは、計算方法が違う。製造業以外の産業は、売上−仕入れ高だが、製造業は、売上−原価なのである。この原価という概念こそ、製造業を性格付ける重要な概念である。

 また、費用を考える上で重要な要素の一つに水準がある。水準と一口に言っても、いろいろある。例えば、為替、価格水準(単価、石油、原材料)、技術水準、人件費等である。費用の水準の変化は、課目によって違いか生じる。
 猶、水準には、時間や空間が作用する。例えば、産業革命以前、以後と言った時代差、成長段階か、成熟期かといった段階差、産油国か、消費国かと言った地域差である。

 経済成長は、諸々の時間的水準の変化を伴うものである。また、水準の変化を前提としている。それに対し、成熟期に達した市場や産業は、水準が一定になる。その為に、成長期から成熟期への行こうに際して、水準の変化が問題となる。
 一般に、競争と言うが、競争は、水準の違い、差によって生じる場合と水準とは無関係のところで生じるものがある。問題は、水準の変化の中に、石油価格や為替の変動のように、経営者の不可抗力による部分が含まれる場合である。

 経済構造を考えていく上で、重要なのは、実質的な経済価値である。実質的な経済価値というのは、経済は、日々の生業、生活を指すのであるから、生きていく上で何が必要なのかの度合いである。つまり、生活していく上で最低限必要とする物の価値である。この実質的経済価値を構成する費用がしめる割合が鍵を握っているのである。つまり、分配率が重要なのである。
 実質的な経済価値には、必需的費用、予備的費用、余剰費用がある。
 例えば、衣食住といった第一に、生活必需品にかかる費用と生活の基盤に対する投資にかかる費用(教育費や地代、家賃、金利等)、第二に、予備的費用(預金や保険等)、第三に、生活を彩る余裕費用・余剰費用・贅沢費用の割合である。
 また、固定的な費用と変動的費用の割合も重要な要素である。変動費も為替や景気に左右される費用とスポット的、一時的費用(病気や災害)とがある。
 実質的な価値の中で、為替の変動の影響を受けない部分と為替による変動要因、即ち、為替相場を変数としている部分の構成割合である。それは、輸入製品、輸入原材料であり、その対極の輸出製品と輸出原材料である。
 為替の影響を受ける部分が大きければ大きいほど景気は、為替の変動に敏感に反応することとなる。
 この指標として重要な役割を果たすのは所得であり、その裏側にある人件費である。これらは、費用構造を解析する上でも重要な要素である。

 また、国際競争力を判断する上でも、この実質的な経済価値、そして、それが生み出すところの経済力というのは鍵を握っている。国際的市場競争力も為替の変動にどれくらい感応するかに関わっている。つまり、景気が内に対して及ぼす作用ならば、国際競争力、外に対して及ぼす影響力なのである。

 我々は費用というのを、日常、何気なく使っている。しかし、この費用という概念こそ、近代経済を支える概念の一つなのである。そして、その費用の概念を成立させているの要素の一つが物価である。

 物価というのは、物と価格という二つの言葉からなる。財は、商品という実体と貨幣価値という観念からなる。これが一体となって財の価値は決定される。

 もう一つ重要なのは、価格というのは、貨幣価値だという事である。
 数字、即ち、貨幣価値というのは、相対的基準である。貨幣価値は、基本的に使用価値を持たない。貨幣自体は、交換の媒体としての価値しかない。それ故に、一見費用というのは、実体があるようでない概念なのである。費用とは、必ずしも、何等かの実体を持っているとはかぎらないのである。

 ところが、商品としての価値から価格が乖離しそれ自体が価値を形成することがある。つまり、本来媒体であるはずの貨幣が、それ自体で独自の価値を形成するようになるのである。それがバブルと言われる現象である。

 また、物価というのを一律に考えるべきではない。物価は、一律には測れない。時代と伴に上昇していく物価、ほぼ横這いの物価、下降する物価がある。また、固定的か、変動的かの基準も何に対して固定的か、変動的かに相違がある。常用なのは、個々の財の価格水準であり、それを成り立たせている前提条件である。また、所得と関連付けて比較する事も重要な要素の一つである。

 水準は、環境や前提条件に左右される。生活水準は、基本的には、個人の欲求の集積によって成立するが、個人の欲求が、即、必要性だと決め付ける事ができない。
 必要性は、その人その人の価値観や慣習、ライフスタイルと言った主観的なものに影響される。更に、その基底は、衣食住と言った生きていく上で必要不可欠な財に対する考え方、認識である。
 人間にとって、生きていく上で必要な最低限物資が、時代や場所によって変化している事を前提としなければならない。エネルギー自給率や食糧自給率の基数は、生活水準によって違ってくる。その点を見落としてはならない。

 忘れてはならないのは、物価を左右するのは、基本的に価値観だと言う事である。つまり、生活水準である。この百年間で、人間のライフスタイルは、劇的に変化した。それによって物価の水準も著しく変化したのである。そして、それに伴って生活必需品も変わってきた。百年前には、テレビも電気冷蔵庫、電話もなかった。自動車も一部の特権階級が所有するくらいであった。しかし、電気冷蔵庫や洗濯機、テレビは、必需品である。電話は今や、携帯電話が普及している。食生活も劇的に変化している。今や電気やガス、石油のない生活は考えられないのである。

 需要と必要性とはイコールとはかぎらない。故に、需要があるから必要なのだと短絡的に判断するのは禁物である。
 戦後直後には、食糧難から、餓死する判事まで出た。高度成長の初期には、テレビもなく。車も普及していなかった。冷蔵庫や洗濯機、そして、掃除機などもなかった。それがカラーテレビになり、さらに、薄型と絶え間なく市場は進化と拡大をし続けてきた。そして、それがあたかも状態だと錯覚されるまでに至る。現在は、物があるのが当たり前である。贅沢に慣らされ、その生活水準が不変的だとも思い込んでいる。
 しかし、足元を見ると食糧難と言われた戦後直後よりも食糧自給率は、半分以下にまで低下しているのである。
 日用品は、不足しているのに、贅沢品は、有り余っていると言った不均衡な状態に陥る危険性がある。
 また、エネルギー不足を解消するために、バイオエネルギーに頼れば、食糧が不足するという事態を招きかねないのである。無尽蔵に資源があると無邪気に信じられた時代は過ぎ去ろうとしている。費用の問題は、資源の適正な配分の問題でもあるのである。

 費用と支出は、違う。費用というのは、認識の問題であり、支出の伴わない費用もあるのである。また、同時に、基準によって同じ物、同じ事でも、費用として認められる物と認められない物がある。早い話、日本には、税法と商法と証券取引法があるが、それぞれの基準・原則によって費用の捉え方が違う。特に有名なのは、交際費の取り扱いである。税法では基本的に、交際費を認めない。しかし、経営から見れば、販売にかかった費用は費用である。この事、往々に見解の相違として新聞紙上を賑わすことになる。それは、簡単な問題ではなく。税効果処理を巡って、結局、大銀行が再編せざるを得なくなるような重大な事態をも惹起するのである。
 現代の会計では、費用は、発生した時点で費用として計上をする発生主義がとられている。しかし、何を持って費用が発生したとするかの定義は、必ずしも一律、明快に定義されているわけではない。

 費用というのは、貨幣的に表示されながら、必ずしも貨幣的な実体を伴ったものではない。その証拠に、支出を伴わない費用があるのである。また、費用は、物理的な実体が伴っているとも限らない。経済的な意味での財が伴うとも限らない。
 要するに、費用というのは、貨幣的に定義された概念なのであり、解釈の仕方によって違ってくる性格の物なのである。故に、費用で大切なのは、解釈の仕方をどの様にするかである。解釈をする基準が重要な意義を持ってくる。

 何等かの物理的実体を伴わない費用の典型が、減価償却費である。
 建物、建造物は、財産か、償却資産かが問題なのである。日本では、建物、建造物は、償却資産であり、ある一定期間きたら建て替えることを前提としている。
 償却というのは、一つの思想である。この思想は、会計的に制度化されたことによって確立された。しかし、古くは、伊勢神社の20年に一度の建て替え、遷宮は、ある種の償却と同じ思想であるとも言える。伊勢神社の遷宮は、平成25年で62回目の遷宮を予定しており、1300年を超え一つの文化まで昇華されている。遷宮は、建物の清浄さを保ち、技術の伝承の目的も果たしている。20年というのは、クズネッツの波に相当する。
 それに対して、石の文化である西欧では、必ずしも、建造物は、償却資産とはしていない。一度建てた建物は、何百年もの風雪に耐える。また、風雪に耐えられるように建築をする。その様な街は、芸術的でもある。そうなると、建物は、償却資産とは言えなくなる。土地と同じように非償却資産であり、暦とした財産である。この様な資産は、一定期間で壊れたり、価値が喪失するようなものとは違う。
 償却というのは、一定の期間で、建物や設備を買い換える、更新することを前提としている。それは、消費を前提とした経済である。これは、市場経済が、大量消費、大量生産型経済であることを示している。その代わり、資源を効率的に活用しようと言う思想とはかけ離れている。減価償却を基礎とした経済は、短期に回転することを前提としている。それに対して、建物や設備を何世代にもわたって活用していこうとする考え方は、長期の周期による回転を前提としている。この差は、産業構造に影響を与える。
 償却によって、市場経済は活発にするが、資産の蓄積は、期待できない。つまり、建物は、一定の期間を過ぎると価値が喪失してしまうのである。しかも、それは会計制度上の決まりに基づくのであり、実態に則して決められたわけではない。
 特に、確定決算主義をとる我が国では、税制上において決められた償却期間が絶対的基準に置き換わりやすい。しかし、税制の規定は、納税額を計算するための目安、都合であって経済実態からはかけ離れている。しかし、その税務会計上の規定によって経済が重大な影響を蒙ることがあるのである。そのことに対して、徴税者は、無関心でありすぎる。

 費用というのは、消費と使用、移転である。費用がフローを生み出す。フローとは、貨幣の流れと物の流れである。
 金というのは、持っているだけでは何の役にも立たないのである。使わなければ、役に立たない。しかし、使えばなくなる。お金は、使うことによってはじめて価値が出る。即ち、貨幣価値は、権利を行使することによって発効する。たとえ、いくら大金を持っていたとしても使われなければ価値がないも同然なのである。そして、貨幣価値は、行使すれば権利は相手に転移し、失効する。貨幣価値は、権利が転移することに意義がある。また、貨幣は価値を行使されることによって流通するのである。
 使わなければ価値がなく、使えば、価値は行使した相手に渡り、なくなる。この事は、貨幣が、権利を表象した物であることを証明しているのである。
 費用概念は、この貨幣の性格を最も反映した概念である。つまり、費用は、消費によって成立するのである。そして、蓄えは、消費を前提として成立する。
 また、支出は、消費と転移と貯蓄とになる。そのうち、費用は、消費と転移とからなる。転移は、所得を意味する。
 価格が均衡するためには、コスト構造の問題が欠かせない。利益というのは、収益と費用との相関関係によって定まる。

 費用の本質は分配なのである。我々は、費用を製品を製造したり、販売したりするときに犠牲になる財とか消費される財と捉えがちであるが、実際は、消費されると言うよりも分配される財貨なのである

 費用を見る時、費用が収益に占める割合が重要なのである。一般に、収益に費用が占める割合は、極めて高い。利益率というのは、数%というのが現実である。つまり、費用の構成が少し変化しただけでも、企業は、赤字に転落する可能性が高いのである。この様な収益構造である限り、コスト削減は、至上命題となる。つまり、無駄な費用は、全て削ぎ落として製品を製造することに努めるようになる。

 費用は、収益と利益の関数である。つまり、費用という概念は、収益と利益という概念があって成り立つ概念である。

 よく言われるのが、原価(費用)、足す、利益が、売価だという考え方が、従来の考え方であった。次に出てきたのが売価、引く、原価(費用)が利益だと言う考え方である。それに対して売価引く利益が原価だとする考え方である。どこが違うのかと言えば、原価に利益を上乗せしたのが価格だという考え方から、価格から原価を引いたものが利益であるという考え方に変わり、最後に、市場の価格があってそれから利益をある程度決めた上で、原価を合わせるという考え方に変わってきたのである。つまり、現在では市場価格が先に決まって次ぎに、利益を決めて製造原価は、それに併せて決める。製造原価は、最後に決める、つまり、製造に関わる全ての工程は、市場価格に併せて設計することを意味する。

 費用構造である。一つの指標は、粗利益率である。粗利益は、売上、収益から原価、仕入れを差し引いたものである。この粗利益が本来の収益だとするのが、純額主義である。売上そのものまで収益に含めるのが、総額主義である。
 現在の会計は、総額主義をとっている。なぜ純額主義があるのかと言えば、結局、本来の付加価値は、仕入れや原価を除いたものから産出されるべきだという考えがあるからである。ただ、その場合、費用、コストに占める原価の役割が見えなくなる。その意味では、粗利益を算出する前の、部分、即ち、売上と仕入れ、原価の部分の構成が重要となる。

 原価項目の分類には、第一に、形態別分類、第二に、機能別分類、第三に、製品との関連による分類、第四に、製造原価、販売費、一般管理費、総原価と言う段階別分類、第五に、実際原価、見積原価、標準原価、第六に、操業度の関連による分類、(固定費・変動費)第七に、製品原価と期間原価の分類。第八に、全部原価と直接原価による分類。第九に、原価項目と被原価項目の分類がある。
 操業度に関連した分類には、固定費と変動費の分類の他に、管理可能・不可能の分類もある。
 経費分類には、第一に、支払い経費、第二に、月割り経費、第三に測定経費、第四に、発生経費がある。

 原価項目は、内的要因によって決まるが、実際の費用の動きは外的要因に左右される。それは、物価に連動する費用、相場に連動する費用、原価(償却資産のように)に連動する費用、為替に連動する費用、金利に連動する費用、独自の動きをする費用などがある。

 経済の問題の多くは、コストの問題に還元できる。水の高きから低きに流れるように、経済の流れは、コストの高いところから低いところに流れていく。これが経済の矛盾である。経済性から見れば、収益は、高いにこした方がいい。それなのに、費用は、常に低いところを求めて流れていく。

 次に、営業利益と経常利益であるが、米国会計では、経常利益はない。本業から導き出される利益が判明すればいいと言う立場をとっている。それに対して、自己資本よりも借入に頼っていた日本の企業は、本業の利益の他に、金融費用がどれくらいあるのかを知るために、経常利益を重んじたのである。ここにも一つの思想があると同時に、経済の構造や産業構造、金融と資本の構造が見えてくる。

 経常利益、営業利益を評価する上で重要なのは、付加価値の概念である。付加価値というのは、企業が企業活動を通じて、企業内部、企業自体が生みだした価値である。つまり、企業の存在価値である。

 企業の存在意義、成果は付加価値の創造にあるともいえる。つまり、付加価値とは、企業が生み出した価値である。この価値の存在が企業活動の根源となる。
 付加価値の中には、必然的に利益が入る。その他に非貨幣性資産(即ち、減価償却費)、租税公課、金融費用、人件費によって構成される。付加価値の中に占める人件費の比率が労働分配率である。(「決算書を読みこなして経営分析ができる本」高下淳子著 日本実業出版社)
 非貨幣性費用とは何か。これに対応する勘定科目は、費用性資産である。つまり、償却資産である。言うなれば、償却資産は、費用の塊(かたまり)と言える。

 近代会計は、資産による支出と負債による収入を、収益と費用から除外することによって成り立っている。問題は、コスト・パフォーマンス、即ち、費用対効果の問題である。しかし、ここで言う費用とは何かである。効果とは、成果である。その成果をもたらすために費やされる、又は、使用され、転移される財貨を費用というのである。そして、費用は、発生した時点で認識される。それが発生主義である。
 会計的価値は、認識によって確定される。故に、認識時点と認識事項が重要なのである。
 取引によって負債には、債務が、資産には、債権が生じる。債務や債権の中で長期的な物は、期中に処理するとその期に費やされる財貨と成果とを結びつけることができない。故に、それらが機能する期間で按分するのである。それが非貨幣性費用である。この非貨幣性費用の概念が成立したことが近代会計制度と資本主義を成立させた。

 付加価値の分類には、費用分配と利益分配がある。費用分配は、労働分配率、金利負担、地代家賃、租税公課がある。利益分配には配当がある。そして、労働分配の対象が従業員に対して金利が債権者、地代が家主、租税公課が地方公共団体や国に、そして、配当が投資家に分配される。これは、資本主義社会の縮図を示している。

 コストは、経済において決定的な作用を及ぼす。コストの上昇は、その国、その地域の産業の衰退をもたらす。コストをいかに削減するかは、その産業や企業が生き残るために不可欠な要素である。しかし、どうしようもない、削減のしようのないコストが存在する。それは、コストは、水準と方向性と量・率で決まるからである。
 例えば、産業の空洞化は、国家間の賃金の水準、為替の動向、労働量と労働分配率によって決定付けられるようにである。

 交通の要衝で繁栄した都市や地方が交通路の変化や交通手段の変化によって衰退した例は、歴史上多く見られる。近年でも、鉄道の路線から離れていたために衰退した都市がある。最初は、鉄道を嫌ってわざわざ鉄道の路線を遠くへやった者達すらいたのである。交通は、経済・コストの問題である。

 かつての大工は、家を建てた後も定期的に巡回して営繕を供した。現代の工務店、特に、全国的、大手の住設会社は、売りきりの場合が多い。それは、住宅建設が地域コミュニティーから乖離してきた証拠である。
 地域コミュニティーは、寺院、教会、神社と言った宗教的空間が道徳的中心となり、広場、役場、寄り合い所といった集会所的空間が政治的中心となり、市場や井戸と言った生活空間が経済の中心となった。
 産業の変化も地域コミュニティーやライフスタイルと無縁ではない。流行の廃りの中で淘汰されていった産業も数知れない。最近では、石炭産業が好例である。そして、石炭産業の衰退が、現代の夕張市の財政破綻の原因の一つとなっている。

 生産性と費用・コストの問題に還元できる。コスト・パフォーマンスの問題である。


「原価計算」岡本 清著 国元書房


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