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Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano

 人生を成功か、不成功かによってだけ判断することができるのであろうか。つまり、成功者しか幸せになる資格がないといえるのか。人生には、勝者と、敗者しかいないというのか。仮にそうだとしたら、何をもって、勝者と言い、何をもって敗者というのか。名声や富を得て。なに不自由ない生活が、保障されている者を、勝者というのか。
 競争を絶対視し、競争に勝った者だけが、成功者というならば、人生の勝者は、あたかもオリンピックの金メダリストみたいな者だけを指すことになる。しかし、幸せとは、競争に勝つだけで手に入れられるものなのか。
 目を血走らせて、競争に勝つことしか念頭にない。人の不幸も愛する人の心を踏みにじってまで勝利することが本当の幸せに繋がるのか。本当にそれで幸せな社会が構築できるのか。人間の幸せは、ごく限られた勝利者だけに与えられるものではないはずである。

 成功者とは、どの様な人間を指すのであろうか。莫大な富を得ることが成功なのであろうか。権力を握ることが成功なのであろうか。やりたいことをやりたい放題する事が成功なのであろうか。あらゆる欲望を満たすことが成功なのであろうか。それとも、自分の夢を実現することが成功なのであろうか。信念を貫き通すことが成功なのであろうか。愛を実現する事が成功なのであろうか。
 所得で全人格を判断するような事は、不可能である。それは、人間を貨幣的価値に還元してしまうことを意味するからである。ならば、人間の価値は何によって測られるべきなのであろうか。人生の価値は、交換できるようなものではない。貨幣価値は、あくまでも、交換価値を表象したものにすぎない。貨幣で人の価値など測りようがない。人生の重さは、金には換えがたいものである。

 数字に表れている部分だけが経済ではない。実物経済では、むしろ、数字に表せない、また、同じ数字でも金銭的数字ではない部分にこそ本質が隠されている。

 結局人件費の問題を突き詰めると幸せとは何かに行き着くのである。幸せとは何か。幸せの追求である。それが人件費の考え方の根本である。

 基本的に、経済人は、家庭人であり、職業人であり、国民である。それ故に、経済人は、家計的側面、経営主体的側面、財政的側面を持つ。

 仕事の実績をとるのか、生活をとるのか、社会的平等をとるのかによって賃金に対する考え方は違ってくる。

 人件費には、私的な側面と公的な側面がある。
 私的な側面には、更に、人件費には、労働の対価という側面と生活の原資という側面の二面性がある。
 人件費には、労働の対価という側面と生活の原資、社会的責務という側面の三つの側面がある。それぞれにには、名目と実質の別がある。

 この様なことを考えると人件費は、第一に、報償、第二に、収入、第三に所得という性格がある事がわかる。この三つの側面は、その依って立つ基盤が違う上に、各々の人生観、思想が色濃く反映する要素でもある。

 報酬としての人件費は、経営上の経費の一部を構成し、売上利益の範囲内で支払われる。その比率を労働分配率という。労働分配率というのは、読んで字の如く、収益における労働者に対する配分率という意味である。また、労働者から見ると報酬は、自分の労働に対する評価とみなされる。
 収入としての人件費は、生活費を意味する。収入は、生活をしていく上での必要性が基礎となる。
 所得としての人件費は、社会人、国民としての義務と権利を意味し、私的取り分と、公的取り分を構成する。所得には、自分が自由にできる部分と自由に処分できない部分とを区分する。所得とは、社会的な意義が根本となる。
 労働の対価、評価の裏付けとなる実績や成果が、報酬を計算する上での尺度基準となる。それは、基本的にその人の持つ身体的能力や適正、そして、労働の質が変数となる。
 それに対し、生活上の必要性は、年齢、家族構成、物価、人生設計と言った生きていく上での前提条件が計算上の変数となる。現代人は、扶養家族、独身者、妻帯者、世帯主、老齢者というように成長する。そして、各々の世代や家族構成によってかかる費用が違ってくる。つまり、必要とする支出に違いがでる。
 所得というのは、可処分所得、最低賃金、所得の再分配、社会保障、所得税などを計算する上での基礎となる要素である。
 報酬と所得は、私的な側面であり、所得は、公的な側面といえる。そのうえに、人件費は、消費と生産の両側面がある。

 この様な人件費には、外形的構造と内部構造がある。外形的構造というのは、公的な側面、つまり、私的取り分と公的取り分を意味する。これは、可処分所得と非可処分所得とに区分される。非可処分所得の中には、税や保険と言った公的分配がある。
 また、私的な取り分には、固定給と歩合給がある。固定的部分は、どちらかと言えば生活給的色彩が強い。また、属人的要素もある。それに対し、歩合部分、変動部分は、報酬的な要素が強くなる。また、固定給でも年齢や勤続年数によって上がっていく部分と、生活環境による部分がある。

 賃金を決める要素は、労働と消費構造である。労働構造による部分と消費構造による部分では、質的な違いがある。

 貸借対照表をバランスシートというように、経済は、均衡である。経済性と言ってもただ、生産性ばかりを追求すれば、均衡が崩れるのは必然的結果である。つまり、経済は、人的な側面、物的な側面、会計的側面があり、それぞれの働きが均衡することで成り立っているのである。

 報酬、所得は、労働の成果だけが基準ではない。むしろ、組織の考え方が基準になる場合が多い。例えば、年功給が好例である。

 損益上において、最大の費用は、人件費である。合理化して機械化すれば、人では省ける。ならば、どんどん合理化し、機関化すれば効率化、合理化が計れることになる。しかし、人手は一方において、雇用でもあることを忘れてはならない。どんどんと機械化を進めれば、どんどんと雇用の機会が失われるのである。そうなると、社会全体では、失業者が増える。
 かつて、スタンドの人員が多かったのは、沖縄である。沖縄には、さしたる産業がなかった。だから、スタンドは、ある意味で、雇用の受け口であった。しかし、不経済だと問題になり、人心の削減が計られた。しかし、考え方を変えるとスタンドは余剰人員を抱えることで、雇用を促進していたとも言えるのである。また、社会がそれを容認していたとも言える。経済性は、部分的に見ていたら計れない基準なのである。

 職務給と職能給がある。職務というのは、仕事に対する属性であり、職能というのは、人的、その人その人の能力における属性である。

 人件費というのは、サラリー、給与が出現することによって劇的な変化を遂げる。給与、賃金というのは、予め決められた方法、方程式で、一定期間の労働や成果によって貨幣で支払われる労働の対価である。
 賃金、給与によって人件費の計算が貨幣化、単位化、数値化、方程式化する事が可能となった。

 定収化は、報酬を単位化する働きがある。つまり、労働と報酬とを一定の単位に細分化する。

 勤務時間の構成は、勤務時間は、就業時間と定時休憩時間、及び、職場離脱時間からなり、就業時間は、実働時間と手待ち時間からなる。実働時間は、直接作業時間と間接作業時間からなる。(「原価計算」岡本 清著 国元書房)

 家計構造、即ち、消費構造は、第一に、ライフラインに関する部分。第二に、地代、家賃、衣食住と言った基礎的部分。

 教育資金、住宅資金、老後資金は、三大資金と言われている。それに結婚資金、入院費用などを加えると人生にかかる費用というのは、平坦なものではない事がわかる。

 人生には、山あり谷ありである。一寸先は闇だという諺もある。人生は、禍福は糾える縄の如しとも言われる。
 収入は、一定化しえても支出は、変動的なのである。

 収入を一定化されることで借金が可能となった。給与所得によって長期的、安定的な見通しが立つようになった。収入が一定しない時代は、その日暮らしであった。ある程度、収入が見込めるようになれば、地道な生活や人生設計を描くことが可能となる。そこで、金の貸しても安心して融資することが可能となったのである。

 定収入が見込めるようになったことによって、生活費を長期的、計画的運用を可能となった。また、計画的な蓄えもできるようになったのである。そこから、定額預金、定期預金、保険、ローン、家賃などの制度が確立された。

 多くの人は、収入の絶対額よりも長期にわたって安定的な収入を選好する。それが生活の安定に繋がるからである。また、一度に資金を得るよりも一定額長期にわたって支給される方を好む。なぜならば、一つは、絶対額であると社会の変化に対応できないと言うのと、一度に得た資金を使うだけならば、減少する一方だからである。
 総額は多くても不安定な収入よりも多少少なくても安定した収入を得る方がいい。それが、サラリー、つまり、給与所得者を更に増大させる動機となる。

 一定の所得が保たれるかによって税収、景気、負債、資産の動向などが決まる。つまり、所得の相対的大きさが、経済全般の指標となる事が可能となったのである。

 家計を構成するのは、収入である。収入は、支出にまわされてはじめて市場に出回る。
 収入は、視点を変えると所得になる。所得は、公共的部分と私的部分に分配される。また、私的部分は、可処分所得と非可処分所得とに分類できる。
 家計において、可処分所得の内のどれくらいを支出にまわし、貯蓄にまわすかである。

 経済の成長率や物価の上昇率を問題とするが、実際は、分配率が重要なのであり、格差が拡大することが危険なのである。差がなければ、市場の動きは生まれない。しかし、格差が広がりすぎても物流は滞留し、市場は動かなくなる。
 経済の働きは、労働と分配に帰す。需要と供給は、市場の機能上の問題であり、経済の根本は、労働と分配である。分配は、所得に還元される。そして、所得の分配、再分配の一端を担っているのが企業である。

 労働市場は、人的市場である。人的市場と財的市場、貨幣市場の違いは、労働市場は、基本的に雇用契約に基づいているという事である。

 人件費というのは、経済状況、費用構成、収益構造、所得構成などの核となるものである。

 また、給与所得は、所得を一定化、即ち、定収化させる。定収化することで、税計算がしやすくなり。また、借金の算段もつきやすくなる。

 国が所得をどの様に認識しているかは、所得税の構成を見れば解る。所得税の構成は、第一に、事業所得、第二に、不動産所得、第三に、利子所得、第四に、配当所得、第五に、給与所得、第六に、雑所得、第七に、一時所得、第八に譲渡所得である。(「中小企業財務の見方超入門」久保友彦著 銀行研修社)

 雇用契約によって労働者は、法律によって身分と労働の対価とを保障されている。(「そもそも株式会社とは」岩田規久男著 ちくま新書)雇用契約というのは、一定期間拘束されるものである。故に、労働市場というのは、流動性に乏しい。人件費は固定費と見なされる。

 経済効率と、経営効率は違う。経済効率は、労働と分配に求められるべき指標なのである。それに対し、経営効率は、生産性や収益性を基礎としている。

 経済効率と経営効率は、基準が違う。経済効率の基準の重要な部分に必要性や社会性がある。それは、雇用や環境保護などが含まれている。
 百人で一億円の利益を上げるのと、一万人で一億円の利益を上げることを比較すればわかる。経営効率からすれば、百人で一億円の利益を上げる方が効率が良い。しかし、経済効率という観点から見ると一万人で一億円の利益を上げる方が効率が良いと言える。一万人で一億円の利益を上げるというのは、一万人に賃金を支払った上に一億円の利益を上げるのであるからである。

 しかも市場は、経済機構の一部であって、経営機構の一部ではない。それ故に、市場の効率性を経営的基準によって測るのは間違いであり、尚かつ、危険な行為である。

 経済的機能と経営的機能が、所得の二面性を生み出している。つまり、所得の役割には、生活費の確保という経済的な側面と労働に対する対価、成果、実績としての経営的意義の二面性があるのである。

 人の面倒を見ると言うが、本来、経済的動機の根本あるべき事なのである。つまり、それが経済なのである。ところが人の面倒を見るという行為は、経済的行為ではなく。数字的に現れた結果しか経済的行為ではないと考えるようになってしまった。その為に、経済の本質が見失われてしまったのである。

 市場経済や貨幣経済が浸透する以前は、共同体が経済単位の中心であった。その時は、専ら、獲物や収穫物の分配が経済の問題であった。そして、分配を支配するものが権力を握ったのである。
 市場経済が社会に浸透すると、分配が市場で行われるようになった。それに従って分配が共同体からはなれ、貨幣による結果配分、成果配分を基とするようになる。その媒体として貨幣が機能しているのである。賃金も成果配分になった。賃金所得となり。更に、定収入化して、給与所得となったのである。しかし、共同体としての機能が社会からまったく失せたわけではない。家計にも、企業にも共同体的側面は残っている。
 
 貨幣経済、市場経済が浸透するまでは、家計に占める現金収入は部分的なものにすぎなかった。

 最近、雇用形態の変化が、正規社員、非正規社員へと移行している。その背景には、年功序列型の賃金体系の崩壊がある。労働力の流動化をも意味する。労働力の流動化は、即ち、労働の市場化を意味している。しかし、人件費は、市場の論理だけで解決できるほど単純ではない。社会の根底に流れている価値観が重要な働きをしているのである。
 
 ちなみに家事労働をどの様に評価するのかと言えば、婚姻関係を解消する場合、つまり、離婚する場合は、共同関係を解消するのであるから半分とか、相手の精神的負担分、即ち、慰謝料というような計算するが、経済的に見ると半分と言う事はない。つまり、労働の対価としてもそれでは安すぎるし、また、機会損失という観点から見ても低すぎる。つまり、家計として受け容れる所得の総額ないし、配偶者の必要経費を除いた分、あるいは、家事労働によって生産された埋没的財の総額と考えるべきである。全ての食事を外食で賄ったら、掃除洗濯を外注に出したら、育児を外部機関に委託したらどれくらいになるかを計算すればいいのである。

 一つは、家事というのは、共同体内部の経済であり、市場経済や貨幣経済の原則が働いていない。もう一つは、収入は、家庭内労働の対価として支払われたものではなく。家庭外部から仕入れた原材料や用役に対して支払われたものだと言うことである。
 家外労働は、生産的労働であるのに対し、家内労働は消費的労働である。生産的労働と消費的労働は、表裏をなす労働であり、本来一体的なものである。優劣があるわけではない。

 人件費というものを多くの人間は、錯覚している。人件費というのは、市場経済、貨幣経済下での費用である。しかし、本来の経済は、市場経済や貨幣経済が全てではないのである。人間の社会には、貨幣では計れない世界があることを忘れてはならない。
 

人件費の構成