属人給というのは、何をもってその人を評価するのかが柱となる。

 個人情報の保護が厳しくなってから、長者番付は公開されなくなった。しかし、公開されていた頃の長者番付の上位を見ると小説家や芸能人、スポーツ選手などが実業家などに混じって常連となっていた。
 彼等は、個人事業者であり。彼等の所得は、彼等の能力による部分が大部分を占めていたのである。

 人には、個性がある。つまり、個体差がある。個性には、先天的なものと後天的なものがある。この様な個性に則して決められるのが属人給である。

 属人給というのは、人的な要素・基準で給与を決める給与体系を言う。

 人件費は、第一に、報償、第二に、収入、第三に所得という性格がある。属人給は、報酬に属する給与である。ただ、仕事給が実績に対する評価であるのに対し、属人給というのは、そのこと固有の属性に由来する給与である。

 人それぞれにはその人固有の属性がある。年齢、勤続年数、学歴、経験、資格と言ったその人固有の属性である。

 属人給というのは、純粋にその人の属性、例えば、身体的能力や技術、知識、経験、特技、資格と言ったものを基にして支払われる賃金体系である。スポーツ選手や芸能人などの給与体系が典型である。
 人的属性とは、その人が持つ固有の能力と外形的な状態とがある。外形的な状態というのは、その人の家族構成とか、生活環境と言ったものを指す。ここで言う、属人給は、その人の持つ固有の能力を基に支払われる賃金を指して言う。
 故に、属人給は、突き詰めると能力とは何かという問題に突き当たる。また、その能力をいかに評価するかという問題に行き当たる。
 能力とは、機能、働きのことを言うとしたら。仕事の成果を人間の能力だけで評価し、測れたとしたら、それは、労働市場は成立する。しかし、実際は、能力や成果からだけで評価できるほど単純ではない。一見能力や成果だけで判断されているような評価も実はいろんな要素が組合わさっているのである。
 能力にも身体的な能力以外に、資格や免許と言った法的に付与された能力がある。

 特許権や著作権といった知的所有権が、莫大な利益を生むようになってきた。それと同時に、特許権や著作権のような権利が個人に帰属するのか、組織に帰属するのかが重大になってくる。

 特許や著作権は、属人的な権利といえるのか。それとも、組織や仕事に帰属する権利なのかで争われる。

 賃金には、単に成果や能力に対する評価という意味合いだけでなく。労働の対価、生活の原資としての賃金としての働きもある。純粋に能力だけを問題にした賃金というのは、スポーツ選手のような特殊な職種にかぎられている。

 報酬は、自分の労働に対する評価が根本にあり、収入は、生活をしていく上での必要性が基礎となり、所得とは、社会的な意義が根本となる。
 労働の対価、評価の裏付けとなる実績や成果が、報酬を計算する上での尺度基準となる。それは、基本的にその人の持つ身体的能力や適正、そして、労働の質が変数となる。

 人間の能力には、限りがある。かつて、ある今井通子が、「18から22才までは、黙っていても成長した。22から26までは、努力すれば成長する。26から30までは、日々精進すれば現状を維持できる。でも、30を過ぎるとどんなに頑張っても衰えていく。だから、私は、30になってそのことに気がついた時、北壁に挑戦する資格をえた」と悟ったと言っていた。

 人間を能力だけで判断するのは難しい。人間は、生きていく上で生活をしていかなければならない。その時々に必要な物がある。人間の成長と、必要性とは別物である。また、人間は、成長し続けるわけにはいかない。人生、生きていく上で必要な物と成長の軌跡とは一致しないものである。必要とするときには、力が不足し、必要でないときに、力が余ってしまう。

 しかも、世の中の経済情勢は一定ではない。年金生活者にとって金利が低いデフレの時代も厳しいが、物価が上昇するインフレもまた厳しい。つまり、収入を得られない人間は、社会の変化に対応する力を失うのである。社会的弱者とは、その様な人々を指して言う。

 もし、人間の能力だけで、人をの収入を査定するのならば、20代が収入は頂点を極め後は、下降するだけである。その20代で生涯に必要な収入を得て、蓄えることは、極めて難しい。しかし、それに気がつくのは、力が衰えて、再起が難しくなってからである。

 40過ぎてからの転職は厳しい。しかし、人員が余剰となった時に真っ先に整理されるのは、高給を取る中年層、管理職層である。しかも、最も、資金を必要としている世代も40代である。
 今は、60になるとサラリーマンは、定年を迎えるが、隠居するには、早すぎるし、まったく違う分野の仕事をするには、限界がある。仕事というのは、人生そのものであることを忘れている。
 近代、労働を蔑視する、蔑視どころか嫌悪する風潮が蔓延している。だから、休日を増やし、労働時間を短縮し、早期に引退することを奨励する。
 しかし、それは、西洋文明の思想である。労働を神聖視し、労働の場を人生の道場として捉え。働けることに感謝する。それが日本人だった。また、日本の繁栄を支えた。労働を蔑視する思想とは本来、相容れないのである。
 高齢者が安心して、また、誇りを持って働ける場所や環境を確保することが肝心なのである。それが本来の高齢者対策なのである。高齢者を邪魔者扱いする社会ではない。能力だけで考えたら、この様な社会は築けない。

 人間の能力と必要性には、時間差や個人差がある。時間差や個人差から生じる矛盾を解消できるのは、世の中の仕組みでしかない。

 功労者とは何か。世の為、人の為に尽くした人間が報われる社会とはどの様な社会なのか。それを根本的に見直す必要があるところに、我々は立っている。

 人は、世の中に必要とされているから、生き甲斐があるのである。世の中から不必要だというような扱いを受ければ、人は存在意義を失ってしまう。

 むろん、だからといって能力を度外視して良いというのではない。能力や実績と生活とが両立できるような賃金体系、仕組みを構築することが求められているのである。

 諸行無常、万物は流転する。有為転変、あらゆるものは、とどまることなく変化し続けている。その様な事象が、変易である。しかし、その様に変化し続けている物の背後には、普遍の摂理が働いている。それが不易である。変化し続ける現象も普遍の摂理もその根源には、自己の意識の力がある。それを易簡という。

 一陰一陽これを道という。(「まんが易経入門」周 春才作画 鈴木博訳 医道の日本社)仕事を考えるという事は、人生を考えることである。
 人事制度にも、不易な部分と変易の部分、易簡の部分がある。その変易の部分と不易の部分、易簡の部分を上手く組み合わせることによって賃金体系は、形成される。


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