人生には、波がある。それに伴って支出にも波がある。この様な波を平準化するのが固定給である。生病老死、一寸先は闇である。何の保障もない。
 収入にも波がある。しかも、なかなか予測がつかない。どちらかと言えば、支出の方が一定していて、予測がつくものである。

 収入の波と支出の波が同じであれば、問題はない。しかし、収入と支出の波は必ずしも一致しているわけではなく。何等かのズレが必ず生じる。不必要な時に、余分な金があったかと思えば、必要な時に金はないものである。金が余っているときに蓄えておけば、それにこしたことはないが、得てして、金がある時は、使ってしまうものである。困っているときは、蓄えも底をつくものである。

 市場には、拡大均衡期と縮小均衡期がある。収益は一定していないのである。個人事業者は、常に、その波にもまれている。

 経営主体というのは、その収入を一定化する働きがある。また、計画化することも可能である。昔は、若い頃は、暇と金を与えると碌な事に使わないと少な目に配分してものである。それが年功給である。

 つまり、収入を経営主体が溜め込み、それを長期的、かつ、公平に配分することによって成り立つ。それが固定給制度である。
 それが長期雇用契約のメリット、良いところである。

 人件費には、私的な側面と公的な側面がある。私的か公的かを分ける基準は、必要性の問題であり、私的というのは、私的に必要としている部分であり、公的側面というのは、公的に必要とされる部分である。つまり、私的部分とは、消費の局面であり、公的というのは、生産的局面である。仕事というのは、公的側面に属し、仕事給というのは、生産的局面で労働を評価し、報酬を決定する部分を指して言うのである。

 報酬は、経営主体、収入は家計、所得は、財政と各々が機能する場も違ってくる。賃金は、これらの要素が構造的に組み込まれている。労働市場と言うが現実の労働の場は、市場と言うよりも共同体的要素の方が強い。つまり、交換の場と言うよりも分配の場なのである。

 現行の学校の基本単位は、学級である。学級という社会は、横並び社会である。即ち、原則として、同年齢の学生を同一の教科書によって教科毎に一人の教師の下、均一な指導方法によって指導をする体制である。極めて同等な社会である。
 誰もを同等に扱うと言う事は、この様な学校と変わりのない社会を意味する。しかし、この様な学校においても必然的に格差は生じる。

 報酬は、自分の労働に対する評価が根本にあり、収入は、生活をしていく上での必要性が基礎となり、所得とは、社会的な意義が根本となる。
 労働の対価、評価の裏付けとなる実績や成果が、報酬を計算する上での尺度基準となる。それは、基本的にその人の持つ身体的能力や適正、そして、労働の質が変数となる。
 それに対し、生活上の必要性は、年齢、家族構成、物価、人生設計と言った生きていく上での前提条件が計算上の変数となる。
 所得というのは、可処分所得、最低賃金、所得の再分配、社会保障、所得税などを計算する上での基礎となる要素である。
 この二つの面が加味され均衡したところに人件費は、通常、設定される。仕事だけで、労働を評価できるのは、本来、消費面を無視しても問題ないほどの所得を保障されている場合だけである。
 例えば、プロスポーツの選手などが典型である。ただ、プロスポーツの世界は、かぎられた技能者だけが報酬を独占する体制である。つまり、格差が大きい社会であり、限られた期間に生涯の全報酬を獲得しなければならない世界である。また、何の保障もない世界でもある。
 しかし、スポーツのような特殊な世界を除いて、報酬は、長期間に渡り、安定的、平均的に支払われることが望ましい。一定の所得が保障されれば、人生計画が立てやすく、長期的な借入や延べ払いも可能になるからである。
 この様に通常は、消費の局面と生産の局面を均衡させることで給与体系は成り立っている。それが市場原理だけの場と違うところである。経営主体は、分配の場、共同体なのである。

 また、人件費は、第一に、報償、第二に、収入、第三に所得という性格がある。報酬と所得は、私的な側面であり、所得は、公的な側面といえる。

 そのうえに、人件費は、消費と生産の両側面がある。人件費の持つ消費的な側面を除いて、生産的な側面だけで捉えると仕事の成果が前面に出てくる。それが仕事給である。つまり、仕事給というのは、人件費における生産性だけを問題としているのである。それが仕事給である。

 仕事給というのは、何をもって、仕事の成果を評価するのかが鍵となる。作業量なのか、成果なのか、成績、実績なのか、成績に対する期待なのかである。
 成果や成績、実績を評価するとは、仕事の結果を指すのか。また、成果に対する期待を指すのかである。例えば、野球選手が年俸を更新したり、他球団に移籍しようとした場合、何をもって評価されたいか、受け容れ球団は、何をもって評価するかである。
 特に、問題となるのは、能力なのか、実績なのかである。そして、能力を評価するか、実績に基づくかは、職務給や職能給というふうに制度に反映される。
 
 職務給というのは、仕事、作業の要素・基準によって給与を決める給与体系である。仕事を細かく要素に分析し、それを再構築できる。この様に仕事の要素から報酬を決めるのが職務給である。

 仕事を労働によって評価するというのは、労働の密度を指して言う。労働の密度とは、つまり、質と量を掛け合わせたものである。その基準は、労働そのものに対するものと、成果に対するものがある。つまり、単位労働×時間として計算するか。成果の質と量から計算する考え方である。仕事を労働と時間の関数と見るか、成果物と数量の関数と見るかの違いである。しかし、これは、労働の成果を計る上で本質的な問題でもある。

 労働に対する考え方には、同一労働同一賃金と言う原則がある。ただ、この原則を一律に適用できないのは、労働は、量的な要素だけでなく。質的な要素が加わるからである。そして、人間性というのは、この質的な部分にこそあるからである。労働の評価、人間性に基づいた個性によるのである。

 しかし、労働の質的差を無視すれば、向上心や成長を期待することができなくなる。誰にでもできる仕事だと言われてやる気がでるであろうか。意欲がわくであろうか。

 理屈から考えれば、労働を細かい要素に分解し、その一つ一つに同一の価値を附加すれば、簡単に報酬を計算できるように感じる。それが要素主義であり、唯物主義である。しかし、相手は人間である。感情もあれば個性もある。

 野球のポジションで一律に賃金が決められるかと言う問題がある。投手の仕事を時間で測るのか、投球数で計るのか、それとも成績で計るのかである。この件に関しては、自ずと明らかだと思う。職務だけで仕事を評価することはできないと言うよりも、それでは、非人間的である。それ故に、人間の能力や成果によって差を付けるという考え方が一方にある。それが職能給である。

 純粋な職務給は、質的な面を無視できるような仕事単純反復的労働には、には適合できるが、質が重要な仕事には、不向きである。それ故に、質的な部分をどの様に評価するか重要になってくる。

 そこで成果から判断するというのが成果主義である。その延長線上に歩合給がある。

 仕事給というのは、属人的な部分を排除している。いわば唯物主義的な考え方である。その対極にあるのが属人給である。

 仕事を属人的なものと見なすか、報酬によって測るか、それが分かれ目である。例えて言えば、仕事だよと言った場合、属人的な捉え方ならば、時間にとらわれずに、たとえ、休みであろうとやり抜くであろう。しかし、それを報酬という観点からすれば、報酬に見合った有り体に言えば、時間で判断する。時間が過ぎれば、休みの場合は、仕事を理由に働くことを断るであろう。
 本来、共産主義というのは、仕事を属人的なものとして見なさなければ成立しない。仕事を個人の責任と見なすから、報酬として切り離し、同等に扱えるのである。しかし、単純に報酬を同等にすればいい、均一にすればいいという考えにたったら、仕事に対する責任感が失われてしまう。一人一人が自分の仕事に対して責任をもつからこそ、報酬を均一にすることができるのである。しかし、それは、共産主義体制が確立された後の事で、資本主義体制下では、労働者の権利として仕事を報酬で測ろうとする。それが、共産主義体制が確立した後、錯誤となったのである。

 競争力や生産性という観点だけで捉えるならば、人件費を抑えるのが早道である。費用の中で人件費が占める割合は大きい上、固定的だからである。早い話、経営を競争力という事だけに特化させるのならば、若年の未熟練者に限り、短期間、働いてくれることが最も効率的である。
 確かに、近年、市場が成熟し、否応なく競争力を付けなければならなくなった多くの企業は、リストラをし、作業の標準化を行い、また、パート、アルバイト、派遣社員に人員体制を移行させているのである。そうしないと生き残れないからである。また、メディアもそれを当然のこととして、また、合理化を推進した企業を勝ち組として持ち上げてすらいるのである。何をもって勝者というのであろうか。企業業績だけで勝ち負けを決めるのは、短絡的すぎる。

 今日、純粋に仕事給というのは、プロスポーツの世界ぐらいにしかない。現実には、仕事給や属人給、生活給などの部分を組み合わせて報奨制度というのは成り立っている。つまり、経営主体というのは、市場ではなく。共同体であり、分配のための機関なのである。問題になるのは、分配のための思想なのである。


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