一口に、人件費と言うが、いろいろな要素が構造的に組み込まれている上に、それぞれが機能する場も違う。個々の要素のウェイトによって、人件費の果たす機能や社会構造にも変化が生じる。ある意味で、人件費とは、社会思想を具現化したものとも言える。

 人件費には、私的な側面と公的な側面があり、また、人件費は、第一に、報償、第二に、収入、第三に所得という性格がある。報酬と所得は、私的な側面であり、所得は、公的な側面といえる。そのうえに、人件費は、消費と生産の両側面がある。
 報酬は、自分の労働に対する評価が根本にあり、収入は、生活をしていく上での必要性が基礎となり、所得とは、社会的な意義が根本となる。
 労働の対価、評価の裏付けとなる実績や成果が、報酬を計算する上での尺度基準となる。それは、基本的にその人の持つ身体的能力や適正、そして、労働の質が変数となる。
 それに対し、生活上の必要性は、年齢、家族構成、物価、人生設計と言った生きていく上での前提条件が計算上の変数となる。
 所得というのは、可処分所得、最低賃金、所得の再分配、社会保障、所得税などを計算する上での基礎となる要素である。

 報酬は、経営主体、収入は家計、所得は、財政と各々が機能する場も違ってくる。賃金は、これらの要素が構造的に組み込まれている。

 経費、中でも、人件費は、下方硬直的である。それに対し、収益は、経営環境や経済動向に併せて変動する。デフレや不景気は、収益を圧迫し、雇用環境を悪化させる。成熟期に入った産業、コモディティ産業は、必然的に、雇用を流動化させたいという動機が働く。
 人件費が下方硬直的というのは、人件費を構成する要素に原因がある。つまり、人件費は、労働の対価という側面以外に生活費の原資という側面を持つからである。

 報酬的な側面を重視するとうのは、生産効率や競争力、能力主義と言った市場機能を重視する考え方であり、収入的側面を重視する側面は、社会的平等性や生活を重視した社会主義的な考え方、また、所得という考え方に則れば、所得の再分配や福祉と言った、国家の役割、社会保障を重視する思想となる。ただ、いずれにしても一つの側面だけで解決できるものではなく、構造的に均衡させる必要がある。

 人件費とは、個人所得であり、家計に直結している。家計は、消費の原資であり、個人の消費構造を現す。
 家計は、消費単位と所得単位からなる。問題は、所得単位と消費単位である。家計単位と所得単位、消費単位は必ずしも一致していない。一つの核家族を単位とする場合でも所得が一つとは限らない。所得に課税するためには、先ず、家計構造を明らかにしなければならない。ためには、家計単位を定義する必要がある。この定義は、法によって為される要件定義である。また、消費も一つとは限定できない。共稼ぎ世帯の中には、収入だけでなく、支出も別会計でやっている場合がある。つまり、財布が一つとは限らないのである。しかし、それでは、家計単位が特定できないので、法的に定義によって家計単位を特定する以外にない。その場合婚姻関係を基礎とせざるを得ない。

 家計実体の整合性は、消費構造と所得構造とを照合することによって明らかになる。消費構造と所得構造の歪みは、経済の実相、景気に現れる。故に、消費と所得は、相関関係になければならない。
 消費構造と所得構造とを仲介しているのが賃金・給与構造である。そして、賃金・給与構造を裏付けているのが、人事評価制度である。要は何を評価するのかで、そこに、労働観や生活観、世界観、社会観が実体的に反映される。国民国家では、思想は制度に反映されるのである。
 ただし、家計単位で見ると、複数の所得単位が存在し、その複数の所得単位毎に定収入なのか、臨時収入なのかの性格分けをする場合もある。故に、単一の所得・給与体系では、一概に判断できないが、しかし、給与所得者が大勢を占める社会においては、給与所得構造が社会の実相を反映していると考えても良い。

 給与構造は、第一に、生活費。第二に、社会への還元(税等)。第三に、過去の清算(負債)。第四に、未来への投資。第五に、いざという時に対する蓄え。第六に、娯楽、遊興費などからなる。
 そして、給与所得には、第一に、固定的な経費か、流動的な経費かの流動性の問題。第二に、家計単位で共有すべき経費か、個別の経費かの問題。第三に、公的な費用なのか、私的な費用なのか、即ち、公私の問題がある。第四に、絶対額問題なのか、比率が問題なのかがある。第五に可処分所得か、非可処分所得かである。第六に、自由を重んじるか、平等を重んじるかの問題がある。

 生活費とは、主として衣食住に関わるものである。それに、今日では、交通、通信費を加えたものと言っていいだろう。これらは固定的経費である。ただ、固定的な費用と言っても生活水準や考え方によって相違がでる。個人のライフスタイルや思想が反映される部分である。その為に、固定的費用と言ってもある程度は、流動性が確保できる部分である。絶対額か重要となる部分である。
 第二、社会への還元部分というのは、主として税金や社会保険費を指す。つまり、国家や地方自治体の思想が基礎となる部分である。この部分の負担が大きくなるという事は、それだけ公的費用の割合が増大することを意味する。つまり比率が重要な意味を持つ部分であり、非可処分所得となる部分である。更に、固定的費用である。しかも外因的な費用である。
 第三の過去の清算というのは、家のローンのような借金の返済の部分を指して言う。この部分は固定的な費用であり、可処分所得に決定的な影響を与える。近年、ローンのような借金の技術の進化により、累積的な債務が膨れあがっている。その為に、可処分所得が圧迫され、個人倒産の増加の要因となっている。家計を考える上では、絶対額も比率も重大な意味を持っている。また、資産部分を形成する原資であるため、所得水準、資産水準が反映される部分でもあり、社会的格差の元となる部分でもある。
 第四の未来への投資は、教育的費用である。戦後の日本においては、この教育的費用の伸びが顕著であり、馬鹿にならない出費となっている。しかもこの部分は、本来は流動的費用であるのに、固定的な性格が強くなってきている。
 第五のいざという時の為の蓄えは、基本的に預貯金を指す。預貯金は、個人にとっては、蓄えであるが、経済的に見ると間接的投資である。故に、金融資産の原資となる部分であり、社会的には、一定の確保が要求される。基本的には、流動的費用である。
 第六に、娯楽、遊興費である。純粋に流動的費用といえる。しかし、教育的な要素も多分に含み、必ずしも、刹那的な浪費としてでなく、未来への投資とも言えないこともない。また、経済的には、景気を支える要素もあり、ただ単なる無駄遣いとも言えない。むしろ、今日では積極的な要素を見出す傾向が高い。又、自己実現の費用とも言える。ただ、格差が現れる部分でもある。

 この賃金構造は、所得構造と消費構造に反映される。所得構造は、定収入と臨時収入、消費構造には、可処分所得と非可処分所得がある。定収入と固定的費用、非可処分所得との結びつき、比率が社会、経済には重要な要素になる。更に、給与所得では、支出の項目になる公的な費用が、所得全体で見れば、給付金や補助金という形で収入となる部分もある。この様な公的な収支をどう捕捉するのかも重要な要素である。

 この様な所得の構造は、生活水準や社会思想に影響するし、又、される。長幼の序のような基準が有効に機能している社会においては、年功的賃金体系も有効であり、また、成長経済下では、多少の人件費の格差や上昇は、経済成長によって調整、吸収できる。しかし、低成長時代になると賃金水準は、格差として固定的になる。又、年功的賃金では、競争力を維持できなくなり、実力主義型賃金に移行する。この様に経済の実相は、社会思想をも変化させ、個人の価値観をも支配する実力を持つ。

 消費構造と所得構造をそれを仲介する給与構造は、自由と平等の問題を実体的に現している。極端な話、好きな物を好きなだけ食べることが善いとするのが、自由思想であれば、同じ物を同じだけ食べるのが善いというのが平等主義である。
 この事は、公を重視するか、私を重視するかの問題であり、公を重視すれば社会主義的になり、私を重視すれば自由主義的になる。好きな物を好きなだけ食べろと言っても食べられる物には限りがあるし、無駄も多くなる。逆に、食べたい的に食べたい物が食べられないのも辛い。公のみを重視すれば全体主義的となり、私のみを重んじれば無政府主義的になる。この様にしてみると、自由と平等は、どちらが正しいと言うよりも均衡の問題である。


 人件費とは何か。一口に、人件費と言っても給与所得者以外で明確に人件費という科目で所得を把握されていない層がいる。これは、税務上の不公正の原因ともなっている。しかし、労働と分配という見地から見ると給与所得者の所得構造を分析するのが手っ取り早い。そこで、給与所得者の人件費を分析することにする。

 現代、円高による、産業の空洞化が叫ばれて久しい。なぜ、円高になると産業が空洞化するのか。それは、円高によってコストが上昇、特に、人件費の上昇し、海外に生産拠点を移さないと国際競争力を失い事になるからである。国際競争力を維持しながら、国内で生産を続けていたら、収益力が失うからである。

 かつて日本の製品は、高い競争力によってシェアを伸ばしてきた。しかし、それは、低賃金によって廉価で良質の商品を生産しえたという事に過ぎない。労働集約的な産業において、低賃金によって良質な商品を集中豪雨的と表現されるように輸出をして外貨を稼いだ。それが貿易摩擦の原因となったのは、紛れもない事実である。技術力の違いとか民族の優秀性というのは幻想に過ぎない。人件費は、競争力において欠くことのできない要素である。

 また、我々にとってたかだか一日の稼ぎが年収に相当する国があったとして、その国の国民は、その報酬で一年暮らしているのである。稼ぎが多いからといって豊かとは限らないのである。為替のマジックもある。つまり、所得というのは、生活実態に反映されてはじめて意味を持つ。生活実態と比較してはじめて所得の内容は、評価しうるのである。

 つまり、所得は消費の源であり、消費は生活の実相を映し出すものだからである。地方に行けば、確かに、大都市のような楽しみはないかもしれない。しかし相対的に家賃、地代は安く。物価が安い。その分、生活は楽である。つまり、娯楽を取るのか、生活を取るのかの問題である。むろん社会全体の民度が低く全般的に生活に困窮するとなると話は別である。

 所得は、消費や貯蓄に転化されてはじめて経済的な価値となる。その為には、所得の中で消費や貯蓄に向けられる部分、つまり、実質所得や可処分所得が問題となる。

 また、経営主体というのは、一種の共同体である。故に、組織、共同体としてとして共有している部分と個別の部分がある。そして、所得というのは、成果物の分配部分でもある。それは、フリンジ・ベネフィットや福利厚生と言った形で支払われる、分配されるものを含んでいる。

 又、所得差は、社会的格差に直結している。それ故に、所得の幅は社会思想に依るとも言えるのである。

 つまり、何を重視するのかの問題である。格差を是正し、生活費を重視しようとすれば、社会主義的になり、また、企業の生産性や収益を重視すれば、市場主義的になる。問題は、オール・オア・ナッシングではなく。何に重きを置くか、比重をかけるかの問題なのである。

 この様にあくまでも、人件費は、相対的なものであり、その意味で、重要なのは、絶対額よりも水準なのである。賃金水準であり、個別の物価水準であり、生活水準である。

 生産財で重要なのは、付加価値である。それは、付加価値が、その経営主体が生みだした、創出した価値といえるからである。経営主体が創出した価値こそ、実質的な経済的価値だからである。故に、付加価値は、所得、即ち、分配の原資となりうるのである。
 そして、付加価値を生み出すのは、主として人である。つまり、付加価値を生み出すためのコストの多くは人件費である。故に、人件費は、財の交換価値の中枢に位置する。そして、人件費の根本は、労働に対する対価である。故に、所得の根源は労働といえるのである。

 配分の比率が重要であるから、労働を測る基準が重要となる。労働を測るためには、労働の密度をどう評価するかが、重要な鍵なのである。労働の密度は、労働の質と量のから測られる。

 費用の中でも人件費というのは、重要な要素を構成している。即ち、従業員、労働者への直接的分配である。つまり、人件費は、分配の要である。そこに人件費の重要性がある。人件費の有り様は、分配の有り様を決定する。

 人件費の意味には、第一に、費用としての意味がある。第二に、生活費としての意味がある。第三に、労働の対価としての意味がある。(「賃金決定の手引き」 笹島芳雄著 日本経済新聞社 日経文庫)

 賃金の目的には、第一に、労働力を調達する目的。生活費を与えるという目的。第三に、労働者の働きを評価し、対価を支払う目的という三つの目的に大別できる。

 給与所得を分析すると給与は、基本給部分と諸手当、例えば、職務手当、役職手当、生活手当、その他に、技能手当、危険手当、資格手当と言った部分から成る。
 手当は、生活やその職務固有の条件に対して支払われる対価である。

 又、基本給以外に賃金体系には、退職金、年金、一時金が加算される。

 そして、更に、成果配分、即ち、報償給がある。つまり、これは、成績に対するご褒美の様なものである。つまり、プラスα、インセンティブである。
 賞与には、一時金や年末手当、ボーナスとも言う。盆暮れの手当という意味と報奨金的な性格がある。

 労働や能力、成果に対する評価は、昇給、昇格、異動に反映される。又、労働の質は、適性、実績・能力、意欲に分析され、それぞれ、配置、評価、教育と適合した処置がされる。故に、単純に、労働の成果は、賃金に反映されるとは言い切れない。

 給与所得者の雇用形体には、正社員と言った常雇いと、嘱託、パート・アルバイトといった非常勤労働者がいる。常雇い労働者と非常勤労働者とでは、必然的に雇用条件も賃金体系も変わってくる。非常勤労働者は基本的に歩合給、出来高給になる。

 賃金の性格には、第一に報酬的性格。第二に、地位・立場的性格。第三に、生活費的性格。第四に、報償的性格。第五に、能力評価・期待的性格がある。後、経済的に見て、人件費には、購買力、消費力の裏付けという性格がある。いずれにしても何を評価するかによってこれらの性格は決まる。

 購買力の問題は、賃上げ交渉など時折問題にされるだけで、見落とされていることが多い。しかし、購買力や消費力の問題は、経済上において重要な問題である。購買力が重要なのは、賃金が消費と結びついているからである。資本主義経済、それを支える市場経済、貨幣経済は、消費があって成り立っているのである。故に、常に、消費を喚起する必要がある。その消費の原資が賃金なのである。故に、資本主義社会では、費用として支出すると同時に、消費として還元させる必要がある。つまり、消費力、購買力が、市場経済の原動力なのである。だから、賃金の水準が重要なのである。

 構造というのは、幾つかの要素と属性によって構成されている。要素には、働きと位置と関係がある。

 賃金体系は、構造である。賃金体系は、単一の基準によって導き出されるものと複数の基準によって導き出されるものがあるが、現在の賃金体系は、あまり単一の基準によるものは用いられていない。賃金体系というのは複数の基準が組み合わせられた構造的なものである。

 賃金を決定する基準によって賃金は、仕事給、属人給、生活給、報償給、期待給の五つに分類される。第一の仕事給は、を基準にして支払われる給与である。第二の属人給は、個人の属性に支払われる給与である。第三の生活給は、生活条件に応じて支払われる給与である。第四の報償給は、成果に対して支払われる給与であり、第五の期待給とは、将来の貢献、結果を期待して与えられる給与である。

 粗利益、あるいは、付加価値に含まれる人件費の割合を労働分配率という。粗利益は、通常、人件費、その他経費、利益に分配される。

 水準と幅と比率によって賃金は検討される必要がある。なかでも、重要なのは、比率である。
 賃金の額面だけでは実質的な意味は理解できない。物価の上昇率の影響受けるし、地域性も馬鹿にならない。見せかけの報酬を高めることによって個人の欲求を満足させることはできるが、見せかけの賃金の上昇よりも物価の上昇率の方が高くて、賃金の全体に占める比率に変更がなければ、実質的には何の変化もない。
 朝三暮四の例えにあるように、大切なのは総量ではなく比率なのである。むろん、総量の変化は、取り分に影響を与える。しかし、貨幣価値というのは、実質的に配分の権利なのである。だから最終的には比率の問題に還元される。その典型が分配率である。

 評価の仕組みには、水平的基準と垂直的基準がある。水平的基準は、同一労働同一賃金の原則によって成り立っている。即ち、仕事給である。それに対して、垂直的基準というのは、個人の能力や属性による成立している。つまり、属人給である。(「日本人の賃金」木下武男著 平凡社新書)

 労働を評価しようとすると、どうしても、仕事とは何かが、問題となる。もう一方に所得とは何か、報酬とは何かの問題がある。そして、仕事と報酬とをどの様に結びつけるかの問題がある。

 労働を評価する上で同一労働、同一賃金の原則がある。しかし、この同一労働同一賃金というのがなかなかくせ者なのである。先ず同一労働という基準をどうするのかの問題に突き当たる。つまり、労働を時間で測るのか、それとも、成果や成果物で測るのかである。時間で測るとなると比較的計測は簡単になる。しかし、単位あたりの労働量は均質で均一化となるとこれは難しい。

 労働を単位化された作業と時間の関数と捉えるのか、一定の成果を上げるための責務として捉えるのかによって仕事に対する姿勢、在り方が変わる。

 例えて言えば、野球やサッカーで同じポジションの選手は均一の賃金で良いのかということになる。つまり、労働を時間で計測するとなると、労働を時間に還元することによって、労働の質的な問題は、度外視されることになる。

 年功というのは、ライフサイクルをなぞったものであり、そう言う観点からすると生活給といえる。つまり、年功給は、生活給の要素が大きいのである。

 生活というのは、地域性によっても違ってくる。寒冷地と温暖な地方とでは、暖房費一つとっても違う。また、都市部と郊外とでも、物価水準や家賃、交通費に違いがでる。

 勤務条件によっても違ってくる。転勤の有無や転勤するにしても単身赴任をするかしないかで条件が違ってくる。

 評価の基準には、いろいろな要素がある。中でも重要な要素は、実績と能力である。つまり、評価基準の要領は、実績を評価するのか、能力を評価するのかにある。

 その他の要素として必要性の問題がある。必要性というのは、該当者が、最低限の生活を営むために、どれくらいの所得を必要としているかである。

 軍人の評価とは何を基準で行うのか。軍人には、階級と職務がある。職位に基づく賃金体系と職能に基づく賃金体系、すなわち、職務給、職能給になる。

 組織形態と評価体制の不一致が深刻な問題となる。
 現行の組織は、長を頂点としたピラミット型の組織が多い。このような指示、命令系統のヒエラルヒーと評価体制を一致させると必然的にピラミッド型になる。また、経営層、管理層、一般職と階層的な賃金体系になる。これに年功序列が加わると年齢が賃金体系を構築する上で重要な要素となる。

 人件費の構造というのは、その時代、その社会や風俗を色濃く反映する。また、社会や時代の価値観の縮図でもある。そして、ライフスタイルや生活観の根底をも形成する。つまり、それは、社会の生産財の分配の原資となるからである。そして、それは、個々人の仕事に対する観念的評価ではなく、実際的な評価に結びつく。又、労働感や思想にも影響してくる。それでありながら、人件費というのは、おおざっぱにしか捉えられていない。例えて言えば、人事評価の在り方は、実際的に社会思想に反映する。その社会が社会主義的な傾向が強ければ、必然的に社会主義的なものになるし、封建主義的社会では封建主義的なものになる。現在、欧米では、平等主義的な体制と自由主義的な体制とが相克している。それは、水平的均衡を重視するか、垂直的整合性を重視するかの問題を制度的と実体化することである。組合問題では、産別組合と企業内組合に違いになって現れているし、また、賃金体系や税体系のも影響を及ぼしている。

 人件費は、貨幣的価値である。しかし、世の中には、金銭に換算できない行為、労働もある。その様な行為や労働は、かつては、当然のこととして高い評価を受けてきた。しかし、今日、労働や仕事の価値を金銭でしか測らなくなり、非貨幣労働が否定、衰退してきている。しかし、非貨幣労働には、家事、介護、育児などが含まれ、又、奉仕活動も含まれている。それらの労働が社会的な評価ができなくなりつつあることが、経済全体に重大な問題を引き起こしている。

 貨幣社会だからこそ、非貨幣社会を大切にしなければならないのである。なぜならば貨幣は、財の交換価値を表象した影に過ぎないからである。現在流通している貨幣そのものに実体はない。貨幣社会だからと言って、金が全てではないのである。

 貨幣には、対価という性格がある。つまり、対価がなければ貨幣は成立しないのである。一方通行の奉仕は、対価がない。この様な行為は、対価としての貨幣価値が生じないのである。故に、貨幣経済が深化してしまうと、対価のない労働や行為は廃れてしまう。その最たるものが家事労働、家内労働である。家内労働は感謝さえされなくなり、無価値なものと見なされてしまう。この様な非貨幣性労働が社会に果たしてきた役割は大きい。そして、貨幣換算されないからと行ってこれらの非貨幣性労働に価値がないとは言えないのである。
 世の中には、非貨幣的労働もある。又、多くの人達は、金で片づかない問題があると考えている。しかし、貨幣経済、市場経済の原則は、基本的に金で片づかない問題はないという事である。しかし、これは、貨幣経済や市場経済の問題ではなく。それを受け止める社会の問題であり、その社会を構成する一人一人の価値観の問題なのである。つまり、貨幣経済や市場経済において足らない部分を補うのが社会であり、一人一人の意志だからである。それは、社会や個人が、貨幣経済や市場経済を絶対視してしまえば成り立たなくなる事を意味する。
 非貨幣労働をいかに評価するのか、それこそが貨幣経済体制における最大の課題なのである。

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