収益というのは、輪廻のようなものである。つまり、一定の期間を区切って繰り返し、再生と清算を繰り返すのである。それは、循環運動の結果であり、直線的運動の結果ではない。

 利益はなぜ必要なのか。先ずその点を明らかにする必要がある。民間企業に勤めていれば、利益を上げる事を要求されるのは、自明な事、当たり前なこととして考えてしまう。松下幸之助も、利益を上げられない会社は、犯罪的存在だとすら言っている。しかし、一方において、利益を上げる必要がない。更に言えば、利益を上げてはならないという事業も存在するのである。その典型が、公益事業である。しかも、利益、イコール、金儲けは罪悪だという考え方が根強くある。
 だからこそ、なぜ利益が必要なのか、利益の持つ意義について明らかにしておく必要があるのである。

 経営は、本来単年度で均衡できるようにはできていない。それは、資金収支に端的に現れている。単年度では資金は均衡しない。例えば、創業期には、投資が先行して、資金の持ち出しになるのが通例である。成長期には、初期投資した資金を回収しながら、設備更新に備えて資金を貯めておく必要がある。故に、損益上では、費用対効果を参照して、単年度の収益、利益を計算するようにしている。しかし、それでも、期間損益にズレが生じることがある。それは、収益を左右するのは内部要因だけではないからである。故に、単年度、単年度で損益を計算する一方で、単年度で計算しきれない、時間的なズレを貸借上、即ち、資産と負債と資本(純資産)に含まれた時間的価値によって調整するのである。
 利益は、悪だというのではない。単年度収支は均衡できないから利益が必要なのである。

 現金主義で言えば、減価償却費は、費用として認識されない。故に、俗に言え現金主義で言うところの儲けには、減価償却費は含まれない。売上から仕入れと経費をさっ引いた物が儲けの大部分である。商店街の親父が明日の仕入れに必要な金を残して、売上から金をチョロまかすのは、それでも、設備投資がかからなければ問題にならないからである。しかし、その場合、元手が、即、設備投資の資金になる。そして、設備の更新費用は、埋没してしまう。だから、自前の土地で自分の金で建てた店舗で商売する者は、設備や建物を更新する必要がない間は儲かるが、更新時期にかかると必要な元手がない上に、借金をしただけでは、利益の確保ができなくなるのである。
 減価償却費を計算に入れると金利だけが、経費と見なされ、元金の返済部分は、減価償却費と見なされる。つまり、経費と見なされる金利と元本にかかる費用が明確に区分されるのである。会計上の期間損益は、この減価償却という概念によって成立している。そして、利益が経営実態を表す指標と見なされることになったのである。
 減価償却制度が確立されたことによって資金調達がしやすくなった。その為に、初期投資に巨額の資金を必要とする大規模事業が成立するようになった。
 それは、期間損益が確立することによっさて事業を総体で評価する尺度は明確になった事に起因する。そして、現在の金融や資本市場は、期間損益をもって企業実績とする。しかし、期間損益と期間収益は、基本的には関連性が乏しい。
 期間の企業実績を測る尺度は確立されたが、反面、収支と資金調達、資金繰りを関連付けるのが難しくなった。それを補う為に、近年、キャッシュフローが重視されるようになったのである。
 償却資産であるか否か、また、償却計算をどの様にするのか、償却期間をどれくらいに設定するのかによって損益に重大な影響が発生する。それは、個々の企業や産業の在り方によって設定されるべきものなのだが、我が国では、確定決算主義によって徴税者側の都合が優先され、実体にそぐわないケースが多くある。また、その変更も当事者が関わることができない体制である。故に、欧米においては、会計基準の見直しは、民間で行うというのが原則として確立されている。

 利益というのは、絶対的なものではない。利益操作を不正なことだと思い込んでいる人が沢山いる。しかし、元々、減価償却のように非貨幣性費用が設定されたときから利益というのは、作られたものなのである。それは、期間損益を確立するためには必要な事であり、利益操作が可能となり、期間損益が算出することが可能になったから、博く一般投資家から巨額の資金を調達することが可能になったのである。利益は、操作することが可能であり、また、常に操作されてきた。利益を操作することによって企業は、継続存続できたのである。
 それでは、何が、粉飾なのかと言えば、それは予め決められたルール(やっては成らないと決められた事)に従ったかという点と事実に基づいているかという点である。ならば、予め決められていないことに能動的、積極的に関わって良いかという疑問が起こる。英米では、当然、関わるべきだというのが大勢である。英米には、「やってはならない事は書いてあるが、やっていいことは書いてない。」と言われている。肝心なのは、投資家や債権者に経営の実情をわかりやすく、正確に説明することであり、実情にそぐわない、例えば、税制上の償却期間と言ったもので基準があれば、実情に即した処理方法に(例えば、在庫の処理方法の会計方針の変更と言ったこと)、適正な手続きに従って処理することは、違法な行為ではないのである。

 財産と儲けの関係は、時間的価値の有無によって違う。時間的価値、即ち、金利が働かなければ、いつ売っても、儲けは儲けである。つまり、時間は関係ない。しかし、金利、即ち、時間的価値が換算されてくると話は違ってくる。
 利益を考える時、この時間的価値を充分に考慮する必要がある。

 自前の土地で食堂をする場合と、借地でレストランをする場合を考えてみよう。単純に考えれば、自前の土地で食堂を開けば地代、家賃がかからないし、借金をしなければ、金利もかからない。だから、その分、材料をよくして美味しい物を出せると思う。しかし、実際は、自前の土地で商売をしている店が潰れ、借地で、借入をしている店の方が大々的な商売をしている。

 自前の土地を使い、借金をしないで商売をした方がいいように思えるのに、なぜ、自前の土地を利用して、借金をしない方が儲からないのか。それは、資産価値が埋没してし、市場経済の表面に現れてこないからである。そこが貨幣経済の不可思議なところなのである。自前の資産を活用している限り、資産価値はゼロなのである。つまり、資金を生み出さない。資産は、売買するか、担保しない限り、貨幣価値を持たないのである。これは、無形資産が典型である。営業権や暖簾は、合併や買収によってはじめて表面化し、担保できるようになるのである。

 船を買い。その船で生計を立て、少しずつ金を貯めて、ある程度たったら新しい船を買うと言った商売の仕方が成り立たなくなっているのである。単年度・単年度で利益を算出し、納税額を計算されたら、長期的な収支の均衡は、望みようもない。ただ、一定の期間の範囲内での均衡を求めざるを得なくなるのである。

 それは、今の会計制度は、当座企業を前提として成り立っているという事にも、原因している。当座企業ならば一回、一回清算し、その都度、その都度、利益を分配すればいいのだが、継続企業は、経済の変動に備える必要がある。

 企業は、継続性を常に前提としているために、清算がやりづらくなっている。事業を始めるのは簡単だが、しまうのは大変なのである。それは比較的始め方はわかりやすいが、しまい方がわかりにくいからである。料理は作るのは、楽しいが、後始末は面倒なものである。しかし、市場が適者生存を前提としている限り、敗者復活の道や退場の仕方を予め明らかにしておくのは当然のことである。事業継承もまた然りである。いずれにしても、事業経営に始まりと終わりがあるとしたならば、始め方ばかりを定めて、終わり方を決めなければ、悲惨な結末を招くことになるのである。

 利益は、損益だけから導き出される物ではない。資産取引や資本取引からも生まれる。その時、鍵、梃子になるのが負債、つまりは、借金である。また、資産取引や資本取引は、直接的に資金や純資産に影響を及ぼす。故に、良い意味でも悪い意味でも損益以上の働きをする事がある。また、資産取引や資本取引の多くは、損益上に現れない、未実現利益である。

 金融機関は、融資する時は、資産を担保するのに、企業の業績を評価する際は、損益に基づく。未上場会社は、赤字では、借入による資金調達に支障をきたす。元々、資産と損益は基盤が異質なのであるから、これでは資金がアンバランスになる。これでは資金調達が不安定になり、資金が廻らなくなる。事業資金というのは、中長期的周期で動いている。それに対して、損益というのは短期的な結果である。故に、損益と収支を分けて説明するの為に、期間損益の概念が会計によって制度的に確立されたのである。
 それでも、予測ができない変動に関しては、期間損益だけでは捕捉しきれない。経済変動というのは、想像以上に大きい。反面に、利益幅というのは、考えている以上に狭いのである。
 だから、融資をする際においては、純資産と損益の均衡の上で測るべきなのである。ところが、日本の金融機関も政府機関も会計の本質が理解できないでいる。その為に、破綻しなくてもいい企業が清算されてしまっているのが現状である。

 会計上に計上される利益は、一つの見解であって、何等かの貨幣的な裏付けがあるのではない。ただ、どれくらい儲かっているのか、業績や企業の実態はどうなっているのかを知るための指標に過ぎない。それは、企業が継続、ゴーイング・コンサーンを前提とし、成立させるための算段に過ぎないのである。

 その上で、企業を成り立たせているのは、キャッシュ、即ち、資金である事を考えてみよう。つまり、企業を実際に動かしている活力は、資金なのである。資金力は、流動性によって測られる。
 故に、換金のしやすさによって流動性は測られる。だから、最終的には、キャッシュ・フローが大切になってくる。

 借入金、借金というのは、元本と金利からなる。そして、元本は、貸借に反映され、金利、利息は、損益に反映される。ここが問題なのである。資金の収支上、借金の返済は、大きな部分を占めている。しかし、損益上に現れるのは、金融費用、即ち、利息部分だけなのである。

 また、借入の内、長期負債の元本に該当する部分に対応しているのは、固定資産の部分である。固定資産の内訳は、非償却資産と償却資産である。元本の返済には、減価償却費と利益が充てられる。問題なのは、償却の速度と返済の速度は必ずしも一致していない。大体において、償却の速度の方が返済の速度より早いのが一般的である。返済が終わるまで、償却が終わった部分はどうするのか、それは、現金、預金に溜め込まれ、貯蓄される。

 資本、即ち、純資産は、清算価値である。資本は、投資家の取り分でもある。投資家の持ち分というのは、企業を清算した時の投資家の取り分を指して言うのである。つまり、資本というのは、会社を清算した後の残高を指して言うのである。

 経営には、期間利益のみならず、持久力も必要とされる。それは元々経営が、継続を前提とし、単年度を基礎にして行われるものではないからである。継続を前提としていても、外部環境の変化や収支の不均衡によって単年度では、資金的な均衡が得られないからである。故に、資産の含みに蓄積された時間的価値を活用する必要があるのである。
 収入は、変動的であり、波があり、一定していない。それに対し、費用、コストの多くは、固定的であり、一定している。故に、収益を平準化すると同時に、急激な変動に備えて余剰収益を内部に蓄積する必要がある。また、損益は、長期的に均衡させるべき性質のものであり、期間損益は、本来、その前提の上に成り立っている。それは、元々、収益は、一つの事業の始点と終点をもって本来の計算期間とすべきだからである。それを一定の期間に区切って損益を計算するように無理矢理決めたのである。単年度だけで収支を計算するのには、最初から無理があるのである。だからこそ、減価償却が認められたのである。
 期間損益を基礎とすると言うことから言えば、利益は、企業を継続していく、即ち、存続していく上での重要な目安である。つまり、利益を上げると言う事は、企業の存在気を測る基準にもなるのである。だから、赤字企業は存続できなくなる。

 利益を上げる事は、企業の存在意義でもある。市場原理主義者は、利益を上げられない企業や産業は、悪であり、市場から淘汰されなければならないとまで言い切っている。利益を上げられない企業は、存在意義がないというのである。しかし、果たして利益が上げられない企業や産業は不必要だと言い切れるであろうか。市場原理主義者は、所謂、進化論主義者でもある。つまり、適者生存、環境に適合した者だけが進化、成長しているという思想である。つまり、淘汰された者に正義などないという考えである。だから、会社を倒産させてしまった経営者は、犯罪者と同列におかれるのである。成功者のみが善人であり、敗退者は、断罪されるべき悪人であるか、ただ、無能者なのである。つまり、利益が全てであり、利益が上げられないなんて考えられないのである。役人は、もっと苛烈である。自分達は、国家や公営企業を破産させても不可抗力であり、善意でしたことだから許されるが、民間企業を破産させることは、営利事業だから許されないと考えるのである。
 しかし、本当に、企業経営にとって利益は全てであろうか。だとしたら、今度はなぜ、高収益を上げて企業が不当に利益を上げているとして重税を課せられるのか。まったく、論理の整合性がない。それは、民間企業は悪だという考えがなければ成り立たない。それでいて民営化を叫んだとしても虚しいだけである。
 利益とは何か。利益の果たす役割は何か。それを明らかにしない限り、利益の持つ正しい意義は明らかにならない。

 また、税は、短期的な収支を基礎にして課税される。その為に、どうしても制度的に、損益を単年度で調整しなければならなくなっている。つまり、税法上の所得に対して課税されるのであるが、日本においては、確定決算主義を採用しており、損益計算に基に、損益計算を加算減算して所得を計算する決まりになっている。ところが、実際的には、納税は、資金の収支に影響を与えるため、税法上の決まりによって損益計算が制約を受けるという逆転現象が起こる。それが、損益計算を歪める原因ともっている。

 バブルやサブプライム問題などの底辺に、税制が関わっていることがよくある。と言うよりも、金利や税制、会計制度というのは、構造的に、直接的に経済や景気に影響を及ぼすのである。その点をよく見極めずに、安易に制度を改正すると思わぬ災害に見舞われることが多々ある。

 元来、資本主義経済は、経済的に不必要となった企業は淘汰されるべきだという前提において成り立っている。つまり、企業の存亡は、経済的意味での存在意義にある。更に言えば、産業そのものの存在意義が問われる。しかし、その存在意義は、現行の市場経済では、経済的な効率によってしか測られていない。つまり、収益力である。資本主義経済では、収益力がなくなった企業は淘汰される宿命にあるのである。
 この様な考え方にたつと利益は、存在意義であり、その経済主体の必要性を裏付けるものである事になる。

 しかし、企業の役割、機能は、利益を上げることが全てではない。と言うよりも、企業の目的は、利益を上げることとは違う。利益は、結果である。利益は、企業が存続するために、必要不可欠な要素である。利益を上げることは、企業が継続し、目的を達成するための手段である。企業が目的を達成するためには、利益を上げなければならない。しかし、利益は、企業が存在する目的ではない。

 産業主体の存在意義は、必ずしも収益力によってのみ測られるものではない。例えば雇用の創出や従業員の生活保障、地域経済の活性化、財の再配分、資源、エネルギーの効果的配分、環境の維持と言った機能は、収益力だけで判断すべき事ではない。だからこそ、市場原理のみに産業の存在意義を判定するのは危険なのである。
 その目的に照らし合わせて適正な利益を生み出すのが企業の使命なのである。

 収益と利益、収入とは、違う。その違いを正しく理解することが大切である。収益と収入の概念の前提となるのが、取引である。故に、取引の概念を明らかにする必要がある。

 まず第一に、収入も収益も貨幣的概念であり、貨幣価値によって表示されるという事である。第二に、収益とは、取引によって得られる予定の収入を言う。第三に、費用とは、費用というのは、収益を得るために費やされる、財貨(財、あるいは、貨幣)である。費用は、財貨の消費と使用、移転として現れる。第四に、取引によって得られる予定の貨幣的成果を利益というのである。第五に、収入とは、取引によって期初からその時点までに、受け取った貨幣の総額である。第六に、支出とは、取引によって期初からその時点までに支払われて貨幣の総額である。
 
 利益とは、一年間の経営活動の成果という意味と、純資産の前期残高と当期の残高の差と言う意味がある。この二つの意味は、それぞれ会計の動態論、静態論の流れを生み出している。

 経営活動から算出された利益とは、収益からその収益を上げるのに必要な費用を差し引いたものである。その場合、期中の取引に関係ない資産価値の変動よる損益は換算されない。それに対し、前期総資産と当期総資産の差額、即ち、純資産の差額を利益とした場合は、期中の資産価値の変動も換算される。しかし、その中には、未実現損益が含まれることになる。よく時価主義は、客観的、公正だとしたり顔で馬鹿げた解説をするテレビキャスターが居るが、時価主義の方が未実現利益を換算する分、客観性に乏しいのである。つまり、取引実績を背景としてみていないのである。ただ、経営の実体を現すためには、かぎりなく時価評価をするのが至当だと言う事である。

 収益は内部牽制の働きもある。収益の働きがなければ、コストを抑制する要因がない。財政や公共事業の抑制が効かないのは、収益理念がないことも一因である。

 取引とは、資産、負債、資本、収益、費用の増減を引き起こす行為である。また、取引とは、基本的に貨幣を媒介として、資産、負債、資本、収益、費用の交換を前提として行為である。

 実現主義とは、取引が実現した時に当該取引によって得られるとみなされる収入を収益として認識する考え方である。

 利益の重要な役割の一つに利益が分配の基準となるという事である。
 利益は、分配の基準である。利益は、段階毎に区分されている。日本では、粗利益、営業利益、経常利益、特別損益、税引き前利益、純利益という具合にである。そして、最終利益は、再分配される。アメリカでは、営業利益と経常利益の区分はない。また、税を費用と見るかどうかも異論がある。しかし、利益は、その項目によって区分されている。また、各段階毎にどれくらい利益が上げられるかによって分配の目安が検証される。早い話、最終利益が上げられなければ、株主も国家も分配を受けられない。故に、利益は、企業の存在意義なのである。

 収益に占める利益の率は、収益の構造を表す。そして、収益の構造は、分配の構造を表す。分配は、利益率によって調整する。利益が上がらなければ、従業員の所得も上がらない。また、投資家に対する配当も支払われない。故に、利益は、分配の基準となる。

 故に、粗利益率、売上高営業利益率、売上高税引き前利益率と言った利益率は、経営構造の概要を表す、重要な指標であり、その利益率によって産業の特徴が現れることにもなる。

 また、最終利益は、再分配される。利益が再分配される対象は、投資家、債権者(従業員、取引先を含む)、経営者、公共である。投資家は、配当という形で、債権者は内部留保に、そして、経営書は報酬として、公共には税として支払われる。この様に利益は、再分配されるとして、内部に留保された利益は、資本として蓄積され、それをそれぞれの取り分として区分される。
 このように、最終利益は、基本的に投資家と債権者、経営者、公共に再分配される。その時の基準が利益である。この分配の率も一定の社会思想を表している。特に、配当率、税率をどう考えるかは、資本主義に対する考え方を端的に表すことになる。

 また、最終利益は、賞与や昇給に還元されるという事によって従業員の所得にも関係してくる。つまり、利益は分配のための目安でもあるのだ。

 利益の機能、役割は、再投資の原資、景気変動に対する予備金(バンパー、サスペンション)、債権者への保証金、従業員の積立金、投資家の持ち分である。

 企業経営には、リスクが伴う。大体、経営は、リスクをとることによって成り立っている。そのリスクが利益を必要とさせているのである。故に、利益の持つ意義を理解するためには、リスクの内容を性格に解明することが重要なのである。

 リスクの全てを捕捉することはできない。将来起こることの全てを予測するのは、不可能である。確実に利益が上げられるという保証はない。この世は不確実なのである。だからこそ利益や利益を集積した資本が必要なのである。

 純資産の問題を検討する場合、リスクの問題は避けて通れない。純資産を成立させている要素は、リスクそのものだからである。

 純資産率がある一定の数値を下回ると負債の返済が滞り、資金が廻らなくなる。最悪の場合、負債が雪だるま式にふくれあがり、返済不能に陥る。財政も同じである。

 利益率も同様である。ある一定の数値を下回ると、支払が滞り、資金が廻らなくなる。そして仕入れができなくなり、商売が成り立たなくなる。

 現代企業は、継続性を前提としている。かつてのような一航海を一つの事業とした時代は、一回限りの当座の事業でよかったが、現代企業は、継続することが大前提である。

 企業は、継続が不可能となれば、解散するか、清算するか、倒産するしかない。解散したり、清算したり、倒産した場合、企業は、事業から得た成果を関係者に分配することができなくなる。即ち、社会的な存在意義がなくなるのである。

 継続を前提とする限り、リスクは避けられない。つまり、予測不可能な事態や予期せぬ出来事は、不可避だからである。逆に言えば、継続が不可能にさせる要素がリスクなのである。

 企業を継続させるためには、資金が必要である。資金の供給が止められれば、企業は、事実上、存続することが不可能になる。企業を存続させていくための障害になるリスクの根源は、資金ある。それ故に、今日、キャッシュフローを重視する様になってきたのである。

 赤字だから会社が潰れるというのではない。利益を出す、つまり、黒字にするのは、資金を提供する際の目安として使われるからである。では企業はなぜ潰れるのか。金が廻らなくなるから会社は潰れるのである。極端な話し、金が廻ればやっていけるのである。収入だけで支出を賄えるのならば、経営は、破綻しない。ところが、金が廻らなくてやっていけなくしてしまうのが資本主義である。それが実現主義である。金をやり繰りしなければならない仕組みがいつの間にか出来上がってしまったのである。そのやり繰りしなければならないような仕組みの根幹にあるのが税制と会計制度である。
 現金主義ならば、現金は、現金であり、現金の機能しか持ち合わせていない。ところが現金にいろいろな機能を付加する事によって、現金からいろいろな機能を引き出す。現金からいろいろな機能を引き出すことによって企業を雁字搦めにしてしまう体制が資本主義であり、その根底にあるのが、実現主義である。収入と収益は似て非なるものである。利益がなくても経営は、継続できるが、資金が廻らなくなれば、経営の継続は不可能となる。つまり、企業というのは、儲からなくなったから潰れるのではなく。資金の供給を絶たれるから潰れるのである。ただ、その資金の供給を受けられるか否かの基準が利益、収益力なのである。収益を上げなければ資金繰りができなくしておいて、絶えず損益を均衡をさせなければならないように仕向ける。収支でなくて損益だと言うところが鍵なのである。それが資本主義の仕組みなのである。
 借入によるレパレッジ効果など好例です。金融という仕組みが確立されたことで、借金をすることによって手持ちの現金の価値を一時的に増殖する事が可能になった。しかし、一度借金をすると絶えず資金をまわし続けなければならなくなる。つまり、常に現金を供給をうけざるをえなくなる。だからといって、一度、実現主義を採用すると現金主義に戻るわけにはいかなくなる。そんなことをすれば、金の供給が止まって頓死してしまうからである。しかも、会計や税制を考えると借金をしなければならないような仕組みに最初からなっているのである。
 現金商売の魚屋や八百屋は、明日の仕入れの金さえ確保できれば、何とか商売は続けられる。しかし、店を新装するために、借金をしたら別である。返済は、待ったなしである。一定の資金を決まった日に、常に、用意していなければならなくなる。
 税制で、金を借りなければ事業が継続できないようにしておいて、一度借金をしたら、今度は否応なく会計的に利益を上げさせる。そして、その利益に課税する。この様な仕組みの上に資本主義は成り立っている。こうしてみると、資本というのは一種の麻薬である。

 昔は、一生懸命働いて小金を貯め、その金で商売をはじめた。その金が元手である。元手というと、今でもこの意味合いは薄れていない。故に、資本というのと元手と言うのは、少し意味合いが違う。今でも、定年退職を迎えたサラリーマンが退職金を元手にしてアパートを建てると言った感覚である。
 元手さえあれば、後は、商品を仕入れて売り切ればいい。現金収入が安定していれば生活には困らない。現金の出納管理が全てである。根本は、現金主義でもある。
 その元手を一族や有力者から集めて事業をはじめたのが、今で言う会社のそもそもの始まりである。会社の歴史もあまり古いものではない。
 今の時代は、昔のような大地主は、大変である。相続税なんてものは、昔はなかったからである。昔の地主は、先祖代々受け継いだ大土地の上に成り立っていた。ここには、あまり元手という意識はない。あるのは、先祖代々築き上げた財産である。この様な発想からは、会社という組織は生まれない。

 この様に、資本主義の枠組みを維持しているのは、会計制度と税制度である。会計というのは、経営の実体を説明するための機構、仕組み、基準に過ぎない。最初に会計ありきではなく、最初に経営ありき、経済ありきなのである。その証拠に、会計制度は、時代時代の要請に応じて変化し続けているのである。日本人のように教条主義的に絶対視す方がおかしいのである。

 企業が継続を前提とすることにより、利益は、長期的に均衡する。利益というのには、波がある。利益以上に波があるのが、収支である。例えば、初期投資は、事業の初期に投資される資金であり、その資金は、事業の当初に支出される。しかし、その投資によって得られる成果は、その投資が生産手段に転化され、されにその生産手段によって製品が製造され、販売した後に実現する。この様に、投資とその投資の成果の実現の間には、タイムラグ・時間差がある。そうなると収支上初期には、多額の資金不足が生じ、後期には、収入の過多が生じる。それを平準化する目的で考えられたのが費用性資産であり、非資金性費用である。つまり、一定期間に区分し、累計収入、累計利益を分配し、平準化したものが期間収益であり、期間利益なのである。

 不必要に過剰な利益を上げるのは、余剰の利益を積み上げ、過剰流動性の原因や格差の素となる。かと言っても赤字は、企業の財務体質を脆弱にし、体力を消耗させ、いざという時の蓄えをなくす。
 市場は、需給の調整過程で生産と分配を関連付ける働きがあるが、過剰な利益や収益を無視した経営は、この働きを失わせる。

 利益は、目的ではなく手段である。だから、利益が上がらないことが問題なのではなく。利益が上がらなくなったことが問題なのである。その産業が必要か、不必要かは、また、別の問題である。社会にとって必要な産業が、利益を上げられなくなった時、その利益が上げられない原因、構造を明らかにし、それを改善することこそが肝心なのである。むろん、利益が上げられなくなった産業を放置したり、また、保護するだけで事足りるわけではない。利益が上げられるような環境や構造を築き上げることなのである。
 それとも、国家財政が破綻した国は淘汰されればいいと市場原理主義者達は言うのであろうか。
 

収益構造

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