我々は、会計原則というと、普遍的な法則を想像しがちであるが、会計原則は、あくまでも一つの仮定であり、絶対的なものでも、普遍的、普遍的なものでもない。第一に、我が国の会計原則は、あくまでも我が国の会計原則であり、他の国と共通しているところもあるが、まったく共通していないところもある。その証拠に、アメリカは、日本のような会計原則は持っていないのである。つまり、会計原則というのは、相対的な前提にすぎない。これは、原則だけでなく、公準も同様である。

 なぜ、会計原則があり、会計基準があるのか。それを理解しなければ、会計原則や会計基準の意義を理解することはできない。ところが、日本人の多くは、ただ、会計原則や基準を鵜呑みにしてしまい。その本来の意義を見失っている者が多い。それは、まだまだ会計制度というものが借り物に過ぎず、自分のものにしていない証拠である。

 日本人は、会計に関して杓子定規すぎる。大体、会計の目的は、本来、一体の期間の損益を関係者に説明することである。
 会計原則は、会計基準は、その目的に沿って決められたものである。状況や環境が変化し間尺が合わなくなったら、見直すのが当然なのである。
 しかし、日本人は、一度決めた事は、変えたがらない癖がある。良い例が、憲法である。憲法というのは、一度決めたら、金輪際変えられないものだと思いこんでいる節がある。しかし、人間が決めた事に絶対というものはない。状況に合わなくなったら変えるべきである。同様に、会計原則でも、会計基準でも目的があって決められた命題なのだから、目的に合わなくなったら、変えないまでも、目的に沿った解釈を変えることは違法なことではない。むしろ適正な処置である。むしろ、原則や基準に拘泥して現実を曲げてしまうことの方が誤りである。
 減価償却費の処理が好例である。日本人は、減価償却費の処理の仕方は、税法で決められた事以外にないように錯覚しているものが多い。しかし、減価償却費は、もともと、期間損益を決定するために、編み出された概念である。期間損益をどの様に認識するかの問題が前提としてある。それは国が決める事ではなく、当事者が決める問題だという意識が英米には根強くあるのである。だからこそ、減価償却のやり方のみならず。会計基準は、民間で決めなければならないと言う意識が強いのである。会計基準には、やってはいけないことは書かれているが、やっていいことは書かれていないと言う考え方である。(「会計学の座標軸」田中 弘著 税務経理協会)
 世の中は、教科書通りには行かないし、教えられたとおりになるとは限らない。むしろ、教科書に載っていなかったり、教科書どおりに行かないことの方が多いのである。
 経済学者の多くは、なぜか、生臭い問題に触れようとしない。しかし、経済は、本来、生臭いものなのである。そして、経営分析では、教科書に書かれていない、又、生臭いことにこそ重要な鍵が隠されている場合が多いのである。
 会計は、観念の世界の中にあるのではなく。現実の世界にある。会計原則があって会計的現実があるのではなく。現実の経済があって会計原則がある。この点を忘れてはならない。

 余談ではあるが、公会計制度を非営利会計という区分をしている教科書もあるが、市場経済、貨幣経済を前提とする経済体制下で非営利会計というのは成り立ち得ない。それこそが、公共機関の病弊である。それは営利という概念を頭から否定していることであり、営利事業が利益をのみ目的としているかの如き先入観から発している。だからこそ、営利事業で経営者は、事業に失敗すれば、経営責任を問われ、私財を没収されたり、犯罪者扱いすらされるのに、公共事業では、経営破綻しても責任を追及されないどころか、同情されたりもする。利益を出すというのは、一つの基準である。もし、それが社会的に必要な産業だとしたら、利益を出せないと言うのは、市場経済の仕組みにどこか欠陥があるのである。故に、最初から利益を上げない、上げる事は犯罪だみたいな視点で事業を行うのは、市場原則を無視しているのである。

 会計の基礎となる前提を会計公準という。(「ゼミナール現代会計入門」伊藤邦雄著 日本経済新聞出版社)会計公準には、第一に、エンティティの公準、第二に、貨幣的評価の公準、第三に、会計期間の公準の三つがある。

 会計の一般原則は、第一に、真実性の原則。第二に、正規の簿記の原則。第三に、資本取引・損益取引区分の原則。第四に、明瞭性の原則。第五に、継続性の原則。第六に、保守主義の原則。第七に、単一性の原則の七つである。

 会計公準とは、会計制度を成立させている基本的な前提、公理を指して言う。エンティティの公準というのは、会計主体、会計単位のことを指して言う。従来は、個別企業や事業体を指して言うのが当たり前であるとされてきた。しかし、それが段々怪しくなってきたのである。特に、バブル崩壊後、子会社を使った不良債権隠しや、関連企業を使った飛ばし、粉飾といったような事態が発生し、単独決算では、実態が把握できないといった事態が頻繁に発生した。個別単位の会計主体では、実体を反映した定義が難しくなってきた。会計原則の揺らぎの第一が、このエンティティの公準である。つまり、会計原則の揺らぎは、公準という原則を支える公理にも及んでいるのである。それがいかに重大、かつ根源的なものであるかがわかる。
 単一、個別企業だけでは、企業経営の実態を解明することが困難になってきた。それは会計実体が、複数の企業の関係から作られるようになってきたからである。つまり、経営が単独企業ではなく、グループ経営に取って代わられるようになってきたからである。そこで、連結決算の必要性が重視されてきたのである。
 今日では、会計単位は、連結単位に重点が移りつつある。ただ、それでも、連結対象として、どの様な企業を組み込むのか、グループ構成にするのかについての基準に恣意性や主観を完全に排除することは不可能である。これは、会計が主観的基準に基づかざるを得ないことの証左でもある。元々、会計というのは主観的なものなのである。

 又、貨幣価値の公準も怪しくなってきた。貨幣価値の公準というのは、全ての会計行為は、貨幣価値に依拠すべきであるという公理である。これは、貨幣価値を一定不変であるという前提の上でならば比較的単純な話なのであるが、貨幣価値というのは一定不変なものではなく。かなり変動的で相対的なものであることが明らかになってきた。
 それに、元々、物価変動会計やインフレ会計、時価会計のように、貨幣価値を絶対視したりせず、時間の経過を会計の中に織り込んでいくべきだという考え方はあった。それが、近年になって、為替変動や株価や地価の変動をも何等かの形で取り込む必要があるという事になり、貨幣価値そのものが揺らいできたのである。
 その為に、取得原価主義か、時価主義かと揺れているのが、今の会計の実際、現実である。

 この様に、公準といった会計の基幹部分でも議論が分かれ激震が走っているのが実情である。しかも、これらは、企業の経営や経済の根幹を揺るがす問題でもある。

 会計原則の第一番は真実性の原則である。しかし、会計上の真実とは何かと言う事が最大の問題である。
 会計というのは、基本的に認識の問題に収斂する。つまり、会計的な意味での利潤とは何かである。

 会計上の真実というのは、会計取引上に現れた事象をのみ指す。そして、会計上の取引というのは、一般通念上の取引とは違う。即ち、貨幣的価値の変動がある事象を会計上の取引という。盗みも火災も貨幣的価値に変動があるから会計上では取引であるのに対し、いくら契約をしても現実に物品、貨幣の授受がなければ取引とは言わない。つまり、会計上の真実とは、最初から、一般通念とかけ離れたところで成立している。認識上の問題なのである。
 会計上の真実とは、自然科学の真理、法則のようなものとは違う。単なる決め事である。会計上の真実と言っても基本的には認識の問題である。それは貨幣価値に由来する。貨幣価値は、絶対的価値ではない。相対的価値である。何かの基準があって価値が確定しているのではなく。市場が価値を決めているのである。

 石油は、古代から存在した。しかし、石油が価値を持ち始めたのは、近代になってからである。それまでは、無用の長物に過ぎなかった。存在するだけでは会計上においては、価値は生じないのである。何等かの形で市場価値が生じた時、はじめて、会計上認識されるのである。

 例えば、不動産価格を一物五価というように、物の貨幣価値というのは一定していない。常に流動的である。有価証券のように一日の内にも激しく乱高下する物もある。

 では、何を持って会計上の価値と特定するのか。会計上の真実とするのか、それは会計上の決め事、基準に従って算出された数字を真実とするのである。「会計上の真実とは、一般に、公正妥当と認められた会計基準に従って会計処理が行われ計算された結果である。」(「会計学入門」桜井久勝著 日経文庫)だから会計上の真実というのは、あくまでも会計上における真実に過ぎず。その前提となる取引は、会計で言う取引を指す。例えば火災による消失や盗難も取引と見なすのである。この様に、時によっては、世間一般の常識ともかけ離れている場合もあるのである。

 我々は、会計上に現れる経営実績を唯一無二のもの、絶対的な数値であるように錯覚する時がある。しかし、会計上に表される数値は、相対的なものであり、前提とする条件によっていくらでも変わるのである。それは、何も粉飾をしているわけではないのである。元々会計というものはそう言う性格なのである。会計上の真実というのは、一般に公正妥当と認められた会計基準に則っていれば認められるのである。故に、会計基準に複数の解釈の余地があるかぎり、会計上の真実は一つに統一できないのである。かといって、現在の技術では、一つに統一できるようなものでもないのである。
 また、損益、貸借上に現れる数字は、認識の問題であり、貨幣的な実体があるわけではない。キャッシュフローも同様である。つまり、会計上の真実と言っても貨幣的な実体が伴っているわけではないのである。いわば、虚構である。その点を誤解してはならない。即ち、貨幣経済は、最初から虚構の上に成り立っているのである。会計的真実とは、貨幣的に表されていると言うだけで、貨幣的実体を備えているわけではないのである。

 また、会計においては、基本的に、発生主義、取得原価主義が原則である。ただ、近年では一部、金融資産は、時価主義、また、低価主義が取り入れられている。発生主義は、対応原則、発生原則、実現原則の三つの原則からなる。(「会計学入門」桜井久勝著 日経文庫)つまり、会計上の現実、真実というのは、発生主義に基づいているのである。この事は、市場経済も又、発生主義的世界だと言う事である。経済を考える上で重要な要素である。

 また、単独決算主義から連結決算主義に変わってきた。それに伴って内部取引の処理が問題となる。つまり、会計的な真実というのは、単独企業では、測れないという事を意味している。会計的真実は、個別的なものではなく。集合的なものなのである。
 その為には、会計単位の範囲の特定が重要となる。つまり、会計主体の内の定義が必要となるのである。また、会計主体の内と外との関係が重要となる。ところが、この会計主体の範囲の特定の過程で主観的な要素が多分に入り込むのである。極端な話し、会計範囲は、企業の数だけあると言っても過言ではないのである。

 また、日本の場合も会計基準そのものも完全に統一されているわけではなく。証券取引法と商法、税法と三つの体系を複合的にして成り立っている。特に、税法の基準は、目的が会計制度本来の目的とは、違う。徴税が目的である。しかし、そこに資金の流失という現実があるために、多くの企業は、税法上の基準に準拠する傾向が強い。それが又、会計の真実を歪める結果にもなる。
 もともと会計制度そのものが目的志向的な仕組みであり、目的にかなり制約を受けるのであるから、必然的に会計の真実も目的志向的にならざるをえないのである。

 最終的には、清算した時に、幾ばくかの資金が残ればいいのである。利益を上げることが目的なのではない。精算時に資金化しうる物がどれくらいあるかそれがわかればいい。その為には、資金的な裏付けがあるかどうかが重要なのである。
 ただ、資金的な裏付けと言ってもすぐに換金できる資産とは限らない。特に、非貨幣資産は、貨幣価値が一定ではなく、常に変動している。場合によっては、株のように取引そのものが価値の変動を招く資産もある。費用性資産のように流動性が低い、あるいは、ないに等しい資産もある。又、無形資産や繰越資産のように、貨幣に換算できない資産もある。その様な資産をどの様に評価し、表示するかが、一番の問題である。
 最近キャッシュフローが重視されたり、静態論、つまりは、貸借を重視する考え方が台頭したのも、会計本来の役割に目覚めたからとも言える。
 ところが、会計的現実とは、大前提が継続であり、期間損益なのである。つまり、期間の中でどの様に利益を評価するのかに収斂してしまっている。その為に、利益計算が主たる目標になってしまっている。又、税務会計は、所得の特定のみを問題としている。

 会計制度は、絶対的なものではない。アメリカでは、最初から、会計制度絶対的なものとしておいていない。つまり、会計原則のようなに包括的な原則に基づいて、演繹的に導き出しているわけではないのである。アメリカの会計基準は、「ピースミール・アプローチ」即ち、「会計研究公法」、「会計原則審議会意見書」「財務会計基準書」の三つによって構成され、この三つの基準は、それぞれが特定の領域を規定した基準であり、それらを複合的にして適用しているのである。どちらかと言えば、会計の真実を、会計的現象から帰納法的に導き出しているとも言える。(「現代会計入門」伊藤邦雄著 日本経済新聞社)

 この様に会計原則と言っても盤石なものではない。即ち、会計制度も盤石な基盤の上に成立した制度ではないのである。会計制度は、極めて脆弱な基盤の上に成り立っている。この様な会計制度を基礎とした、資本主義経済体制も同様である。必ずしも盤石な土台の上に成り立っているわけではない。それが、時として、貨幣の嵐を引き起こし、為替や相場に大波乱を引き起こすのである。

 

会計原則の揺らぎ

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