日本の会計制度は、商法会計、証券取引法会計、税務会計の「トライアングル体制」だと言われている。トライアングル体制と言えば聞こえは良いが、要するに三つに分裂しているのである。これは、構造的欠陥の最たる事例、好例である。

 第一に、商法、証券取引法、税法では目的が違う。又、第二に、その対象も違う。それを無理に一つの枠組みの中に押し込めようとしている。
 それが、現実として表れているのが、確定決算主義である。確定決算主義というのは、法人税の基礎となる所得の計算は、確定した決算に基づかなければならないと言う思想である。
 一見当然と思われるが、この確定決算主義の何が問題なのかと言えば、減価償却の計算といった非貨幣性費用などの計算方法は、その時々の納税額や株価にとって都合が良い計算方法、特に税に対して都合の良い計算方法を選択する傾向がでると言うことである。

 しかも、上場会社と非上場会社とでは、決算に対する考え方が違い。それが経営者の行動規範に、端的に現れている。

 商法会計、証券取引法会計、税会計とでは、設計思想が違う。
 まず、商法、証券取締法、税法では、その対象が違うのである。商法は、債権者向けに、債権者保護を主たる目的としており、証券取締法は、投資家向けに、投資家保護を目的として、上場会社に対して適用される法であり、税法は、徴税当局向けに徴税を目的として作られた法である。

 債権者は、企業が保有する資産の最大値を知りたがるであろうし、投資家は、資産と利益、配当の関係を重視するであろう。徴税者は、所得の最大限を求めるであろう。ところが、減価償却計算式は、数多くあり、その対象によっていろいろな選択肢があるのである。

 会計制度の主たる目的の対象は、企業、即ち、経営主体の外部に向けたものである。つまり、外部会計である。内部会計には、管理会計があるが、管理会計は制度会計ではない。つまり、正式に制度化された会計ではない。

 企業は、資金の外部への流失を嫌う。ところが、会計は、外部会計であり、資金を外部に取り出すための手段である。資金の流失は、経費、金利、配当、税という形で現れる。そして、それぞれの課目が、微妙に、財務諸表に結びついている。つまり、財務諸表は、資金を外部に吸い出すための道具でさえあるのである。

 当然、企業は、防衛上社内流失が少なくなるような会計基準を選択するようになる。これでは会計本来の目的が見失われてしまう。

 また、企業、つまり、経営主体は、法人である。即ち、法的に、人格をあたえられた組織である。この様な法人である経営主体は、ある種の共同体である。共同体は内的な人間関係によって成立しているのに、内部向けの会計が制度として確立されていないのである。
 つまり、主体が内部にない。この事は、経営主体たる企業の主体性の確立を疎外している。

 共同体というのは、本来、集団の内的関係によって成立している。それが、会計制度では、市場の側に主体をおいているために、共同体内部を外部要因とする。その為に、従業員側の視点を欠いている。

 もともと、現在の会計制度は、外部会計であって主体性が内部にないのである。故に、自律的な規範が形成できない。それ故に、企業目的も外的要因でしか説明が付かないのである。
 内的要因である、社員の福利厚生や雇用、幸せと言った問題は、二義的副次的な目的となり、主たる目的になりえないのである。人件費は、あくまでも費用の一種に過ぎない。故に、企業の存続も従業員を主体に考えるのではなく。外部要因による。その為に、企業の合理化は、即、解雇に繋がるのである。

 また、外部会計である現行の会計は、市場経済の上に成り立っている。市場の原理は、競争の原理である。それに対して共同体の論理は、協調の原理である。つまり、共同体の外部に主体をおいている会計は、競争的原理を土台としていることになる。

 大体、民間企業は、利益を一つの目標としているのに対し、税制を設計した者は、利益というものを罪悪視しているのではないのかと思われる。利益というのは、不当な行為によってあげられたものであり、御上が召し上げるのが当然であるという思想である。
 それは公共事業のようなものに端的に表れている。公共事業は、営利目的を最初から放棄、認めないことによって成立している。

 証券取引法は、株主、即ち、投資家向けの会計制度である。証券取引法というのは、株主資本主義である。つまり、株主利益の極大を最大の目的としており、必ずしも、企業の存続発展を望んでいるわけではない。また、資本というのは、返済する必要のない資金と言う事であるが、返済を必要としないから全てよいという事ではない。返済をしないという事は、それに伴う権利が恒久的に派生していることを意味している。それは、常に、企業の運命を外部の人間に握られているという事を意味しているのである。つまり、企業の所有権は、誰に帰属するのかの問題である。

 商法というのは、債権者を主たる対象としている。その為に、債権者保護が前面に出る。債権者とは何か。それは、企業に債権を保有するものである。債権者は、基本的に債権の保護を優先する。債権保護とは、何を担保するかによって違ってくる。物的資産を担保すれば、その物的資産の実際的価値、時価価値を重視する。また、収益を重視すれば、事業計画を担保する事になる。いずれにしても、企業の継続よりも、資金の回収を重視することとなる。極端な話、事業収益などどうでも良いのである。いくら、将来性がある企業だとわかっていても担保力がなければ、その時点の景況感によって資金の回収にはいる。それが債権者である。この点は、投資家とは違う。投資家は、投資した資金のよりもその時の企業の収益力、実績を重んじるからである。

 税務会計は、もっと極端である。つまり、商法会計や証券取引法会計の対極にある。もともと、税務会計は、税の徴収に目的を置いているのである。事業の継続や収益力も関係ない。とにかく税金が取れればいいのである。税金を取った後、企業が潰れても、労働者が路頭に迷っても基本的には関係ない。それが現在の行政の姿勢である。むろん赤字の企業や欠損がでた場合、それなりの優遇処置はする。しかし、基本的に経営責任は、経営者に帰属するものであり、税務当局は無縁なことと言う認識である。その証拠に赤字企業であっても税金は、取るべきであるという思想が近年では台頭しているくらいである。
 行政の人間は、元来、民間企業が収益を上げるというのは、不道徳なことだという認識であるから、税はとれるだけ取るという前提である。生かさず、殺さずが、基本的認識である。当然、税務会計は、どれくらい納税力があるかが、主要な関心事になる。

 産業、国家、家計を対立的な構図で認識することは、見直すべき時にきている。確かに、産業や家計が一方的に国家に従属するような図式もおかしい。ただ、産業や国家、家計を双方向的にかつ、作用反作用的に、即ち、構造的に捉える見方が妥当なのである。

 先にも述べたように、経営主体は、資金の流出を最も嫌がる。一度取り込んだ資金は、何等かの形で手元に取り込んでおきたいというのが本音である。故に、資金をいかに調達し、内部に留保するかを基本的命題としている。これが経営者の行動規範を支配していると言って過言でない。ただ、この行動様式が、企業の在り方、形態によって変わってくるのである。例えば、上場企業は、株主利益を重視するために、利益の極大化を計るのに対し、非上場会社は、税による資金の流出を嫌って利益の極小化を計るという具合である。又、どちらも債権者の手前、担保価値の極大化を計る。

 目的や規範が違えば、会計原則に対する認識も違うのである。それを無理矢理に一つの枠組みの中に押し込めようとすれば、制度そのものが歪んでしまうのは、必然的帰結である。

 その為に、元々の会計制度の目的までもが損なわれてしまっているのである。

 会計制度の歪みを是正するためには、内部会計を確立すると同時に、個々の目的に応じた、会計原則や構造を構築する必要がある。


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会計を支える三つの制度