市場を構成する要素は、売り手と買い手、即ち、人と財と貨幣の三つからなる。そして、この三つの要素が相互に関係することによって経済は、人と物と貨幣とを結び付けているのである。そして、市場構造は、人と物と金の相互作用によって成り立っている。
 この要素が経済現象を決定付ける要素なのである。

 市場とは、一定の境界線や制約によって囲まれた人為的空間である。勘違いしてはならないのは、市場は人工的空間だと言う事である。決して、天然自然に出来上がった空間ではない。必然的に、市場に働く法則も人工的なものである。自然の法則ならば、人間の力で変えることのできない、絶対的な摂理かもしれないが、市場の法則は、人間の力で変えることのできる相対的な力である。
 市場の内外の変動から平衡を保つように運用をする。その為の仕組みが重要なのである。その様な市場の仕組みは、天然自然に出来上がるものではない。人間の意志が関わっているのである。

 市場は、絶えず脅威にさらされている。為替の変動、原油価格の高騰、株価の大暴落、戦争、テロ、政変、革命やクーデター、大地震や台風、事故、旱魃、いずれもが市場に大影響を与える。小さな工場の事故でも、その工場がある製品の部品を独占的に製造していたら、その産業は大打撃を受ける。地震によって交通が遮断されれば、市場は大混乱する。最近では、情報が市場の死命を握っているため、通信手段やコンピューターシステムの齟齬によって市場機能がダウン、停止してしまうことすら起こっている。大停電が起これば被害は甚大である。パイプラインが破壊されれば、すぐに市場に影響が出る。政変は、すぐに株価に反映される。政府要人に何かが起これば、市場は過敏に反応する。市場の機能は、危うい均衡の上に成り立っているのである。それ故に、市場は保護される必要がある。また、規制される必要があるのである。

 人々の生活があって経済は成り立っているのに、経済があって人々の生活が成り立っているような転倒した考え方が支配的なってしまった。それは、経済を市場の現象として捉える考え方に支配されたことが原因である。市場は、経済に決定的な作用を及ぼすが、それでも経済の一部に過ぎない。その点を間違うと、経済は土台からおかしくなる。

 市場は、売り手と買い手によって成り立っている。そして、市場を成り立たせているのは、何等かの差である。差がなければ、物は流れない。また取引は成立しない。市場を動かす原動力は、差である。

 この差を生み出すのは、需要と供給である。需要と供給によって価格が形成されるのである。そして、需要と供給を調整するのが市場の役割である。
 故に、市場の役割は、競争だけではない。競争の役割というのは、需要と供給の調整し、適正な価格を決定するためのものである。しかし、価格決定の手段、要素は競争が全てではない。競争はあくまでも手段なのである。また、価格もただ安ければいいと言うわけではない。

 会計制度による期間損益は、この価格の決定に重要な要素をもたらした。それは利益という概念である。それまでの取引は、売値と買値だけが問題なのであり、費用という概念はなかった。つまり、市場で手にする現金だけが問題なので、それにかかった費用は二の次、それ以前に計算することもできなかったのである。せいぜい、買値と売値の違い、儲けだけが問題だったのである。収支と言っても個々の儲けを集計したものにすぎない。投資と言っても、せいぜい手持ち資金で賄(まかな)える範囲でするしかなかったのである。それ故に、この時代では、利益よりも財産の方が重要だった。それが、現金主義である。

 近代会計制度が成立し、期間損益に基づく利益という概念が、確立されることによって、市場の構造に根本的な変化が生じる。それは、価格の計算が、市場に駆け引き、取引だけに依存するのではなく。明確な計算根拠を持ったことである。そして、価格の計算が根拠を持つことに従って設備投資や借入の計算が容易となり、投資資金を調達するための下地が確立されたのである。また、定価を形成する根拠ともなった。定価は、原価計算の基となる。また、定価は、物価を形成する。それが、発生主義である。

 市場は、財的市場、人的市場、貨幣的市場からなる。財というのは、基本的には、物的な市場を指すが、無形な物まで含むので、包含的に財的市場とする。そして、貨幣経済では、その媒体として貨幣が対置される。即ち、財的(実物)市場は、財(実物)対金、人的(労働)市場は、人(労働力)対金、貨幣的市場は、金対金から構成される。

 昔の生活は、もっとシンプル、単純だったのである。例えて言えば、生活の必需品は、衣食住で足りていた。テレビもなければ、電話もない。自動車も、飛行機も、鉄道もない。電灯と言った電気製品もいらない。電気洗濯機も、掃除機も、冷蔵庫も必要ではなかった。それがつい最近までの常態である。
 それに対して、現代社会は、物が溢れている。自分の身の回りを見ても昔には想像もできなかったものが数多くある。その物の数の何倍かの産業が在るのである。市場が複雑になるのは当然である。
 経済の有様もすっかり変わった。それなのに、現在の経済状況を普遍化するのは愚かなことである。今の時代は、極めて特異、特殊なのである。

 生活がシンプルだった時代は、市場の構造もシンプルだった。それ故に、市場の構造そのものをあまり複雑に考える必要がなかった。市場の原理もより単純に捉えればよかったのである。しかし、物が溢れ、経済が複雑化した今日、市場の構造もまた、複雑化している。一つのシステムとして考える必要があるのである。

 市場の役割は、需要と供給を均衡させることだけにあるわけではない。需要と供給を均衡させるのは、市場の重要な機能の一つには違いがない。しかし、それは、市場の機能の一部に過ぎないのである。市場には、価値の創造や財の分配、所得の再配分という機能もあるのである。

 市場構造を考えていく上で、重要なのは、実質的な経済価値である。実質的な経済価値というのは、経済は、日々の生業、生活を指すのであるから、生きていく上で何が必要なのかの度合いである。つまり、生活していく上で最低限必要とする物の価値である。この実質的経済価値を構成する費用がしめる割合が鍵を握っているのである。つまり、分配率が重要なのである。
 実質的な経済価値には、必需的費用、予備的費用、余剰費用がある。
 例えば、衣食住といった第一に、生活必需品にかかる費用と生活の基盤に対する投資にかかる費用(教育費や地代、家賃、金利等)、第二に、予備的費用(預金や保険等)、第三に、生活を彩る余裕費用・余剰費用・贅沢費用の割合である。
 また、固定的な費用と変動的費用の割合も重要な要素である。変動費も為替や景気に左右される費用とスポット的、一時的費用(病気や災害)とがある。
 実質的な価値の中で、為替の変動の影響を受けない部分と為替による変動要因、即ち、為替相場を変数としている部分の構成割合である。それは、輸入製品、輸入原材料であり、その対極の輸出製品と輸出原材料である。
 為替の影響を受ける部分が大きければ大きいほど景気は、為替の変動に敏感に反応することとなる。
 この指標として重要な役割を果たすのは所得であり、その裏側にある人件費である。これらは、市場構造を解析する上でも重要な鍵を握っている。

 市場を動かす原動力、エネルギーを生み出すのは、色々な差である。ただ、格差も量的な差と質的な差がある。貨幣経済の問題点は、価値を数値化、数量化することによって質的な差を埋没させてしまうことである。
 しかし、市場の機能を考える場合、特に、実物(財的)市場や人的市場を考える上では、量的な格差よりも質的な格差の方が重要な作用を及ぼす。

 格差には、水平的格差と垂直的格差がある。水平的格差とは、国家観や地域的格差をさし。垂直的確さというのは、国内における貧富の格差である。水平的格差と言うのは、生活水準であり、これらは、国際競争を通じて平準化していくと考えられる。なぜならば、水平的格差の基準は、国民の所得に依るものであり、これは、実質的価値に直接繋がっているからである。

 この水平的、垂直的な格差だけでなく。市場は、地理的、時間的な格差を利用する事によって成立している。特に、近年では、情報技術の発展に伴い、時間的格差を利用した新たな市場が形成されるようになってきた。その一つが先物市場であり、裁定取引である。

 市場の単位は、国家である。国家間の制度的、構造的な違いから派生する水準の差が、国際競争力では決定的な作用を及ぼす。しかし、それらの差は、生活水準や物価水準を背景としており長期的には均衡していくと考えられる。
 また、国家間の経済的な格差は、変動相場制においては、短期的には、為替によって調整される。

 製品に占める人件費の率から言って国家間の競争は、最終的には、人件費のスケール、水準が競争力を決定付けるといっていい。国際競争力を維持しようとすれば、人件費を抑制するような働きをうむ。つまり、給料を安くしようとする働きである。それが、産業拠点の転移を引き起こし、国によっては、産業の空洞化を招く。
 しかし、反面、人件費というのは、絶対的な価値ではない。ある種為替による見せ掛け上の費用だという性格も持つ。また、人件費は下方硬直的な性格を持つため、この様な抑制力にも自ずと限界があり、国家間の格差は、為替の水準によって短期的には調整される。

 結局、短期的には、国家間の競争力は、為替の変動に左右されることになる。
 しかし、為替の変動は、国家間の政治、経済状況に敏感を反映する性格を持つ。また、為替の変動には、国家間、市場間の資金移動が決定的な要因となるため、不安定で、神経質な動きをする。その為に、為替の変動は短期間で急激に起こる傾向を持つ。
 この様に不安定な動きをする為替に市場が支配される事は、健全な産業の育成の阻害になる。長中期的展望が立たず。計画的な事業が展開できなくなるからである。安定的な通貨制度を確立することは、世界経済にとって最大の課題である。そして、それは、世界市場の統合の過程で果たされていかなければならない課題でもある。

 世界市場が統合されていく過程で、国家間の競争は、人件費の平準化にたいする圧力を発生させると思われる。人件費の平準化は、地域的な平準化だけでなく、時間的、即ち、年齢的平準化にも発展する。
 世界市場が単一化するに従って人件費は、国家間には、格差を均衡しようとする力が働くようになり、最終的には、平準化していくと考えられる。

 所得というのは、どれ程、もらったとしても、交換する権利を与えられたに過ぎない。欲しいと思う財が市場になければ手に入れることはできないし、必要以上にもらったところで使い道がないのである。
 バブルの頃に東京23区の地代でアメリカ全土の土地を購入できると言った話があった。しかし、これ程、馬鹿げた話はない。それは、ただ、貨幣価値を換算した場合と言う事であって、だからといってアメリカ全土の土地を買おうという人間はいないであろうし、現実に不可能である。むしろ、それほど日本の地価は、異常に高いという事を意味しているのであり、日本人の所得からして相対的な自分の取り分が異常に低いという事を意味しているのである。つまり、地価というのは、個人の所得との比較において正当性を持つのである。

 また、国際競争力を判断する上でも、この実質的な経済価値、そして、それが生み出すところの経済力というのは鍵を握っている。国際的市場競争力も為替の変動にどれくらい感応するかに関わっている。つまり、景気が内に対して及ぼす作用ならば、国際競争力、外に対して及ぼす影響力なのである。

 需要と供給も格差である。市場は、この格差を平準化し、均衡するように作用する。それが需給の調整である。これは、市場に働く競争原理で言えば、独占化、寡占化の方向に進めることになる。また、人件費の平準化も意味する。つまり、市場原理主義者が絶対視する競争の原理というのは、過渡的現象に過ぎず。放置すれば、市場は、競争状態から均衡状態、即ち、独占的、寡占的状態に移行するのである。

 熱力学上のエントロピーのように、社会的、経済的格差は、平準化する方向に作用する。その平準化を妨げ、格差を固定、あるいは、増幅するのは、社会的制度である。格差は、市場を動かす原動力であるがそれが広がりすぎ、固定的な枠組みになると換えって、市場を停滞させ、市場活力を減退させる。
 市場を機能させるためには、適度な競争が不可欠なのである。しかし、度を過ぎた競争は、市場構造を破壊しかねない。また、競争がなくなれば、必然的に市場の活力、突き詰めてみると機能が失われるのである。この様な過度な競争や市場の独占状態を防ぐのが独占禁止法である。独占禁止法は、なにも、市場独占だけを禁止しているわけではない。

 市場の構造を考える場合、市場を構成する要素が重要である。
 第一に財の総量、例えば石油で言えば埋蔵量である。
 第二に、費用を含めた生産力であり。第三が、生産量である。生産力と生産量は違う。生産力というのは、生産する設備・能力を指して言い、生産量というのは、実際に生産された量のことを言う。この生産力と生産量は常に一致しているわけではなく。むしろ、一致していない場合が多い。ただし、生産力は生産量の上限を規定する。生産力は投資額に結びつき、生産量は、操業度に結びつく。そして、これらは、市場価格を形成するにあたり、別々の局面に作用する。
 石油で言えば、この生産も二段階有り、一つは、原油の生産であり、次が、石油の精製である。そして、それぞれの段階に生産力と生産量がある。石油価格は、原油の生産力だけに影響を受けるのではなく、石油の精製にも影響を受ける。例えば、2005年の石油の高騰は、ハリケーンカトリーナによる石油精製設備に対するダメージの影響や石油の精製設備の老朽化が指摘されている。
 第四に、供給力であり、第五に、供給量である。生産と同様に、供給にも供給力と供給量に違いがある。また、供給力は、供給量の上限である。第一次オイルショック時、石油のみならずトイレットペーパーなどが供給力は、ありながら、供給量が意図的に減らされて価格を高騰させた。この様に、供給力と供給量も一致しているとは限らず、その為に、価格の高騰を招くことがままある。特に、意図的に買い占めや売り惜しみによる供給量の減少は、経済に重大な影響を与えることがある。
 供給力は、生産力と在庫力、そして、輸送力の関数によって導き出される。
 第七に、在庫力と第八に、在庫量である。これも生産や供給と同様である。在庫力と在庫量は当然一致しない。なぜならば、在庫力は、倉庫のような設備に依存し、在庫量は、市場の状況に影響されるからである。つまり、在庫量は、市場におけるフローとストックの関係から導き出され、一定でないからである。また、在庫は、あらゆる局面において派生する。生産の局面においても、流通の局面においても派生する。その為に、在庫の総量は一局面を捉えていただけでは掌握することができない。また、在庫の評価は、収益に直接的に影響する。それが市場価格をも左右するのである。
 第九に、流通量である。生鮮食品のように供給量が、即、流通量となる物もある。しかし、一般に、供給量と流通量は、必ずしも一致しない。特に、貯蔵技術や輸送技術の進歩に伴い、供給量と流通量は、乖離し続けている。そして、これが市場価格の形成に重大な影響を及ぼしている。
 第十に、購買力と第十一に需要である。購買力と需要も一致しない。購買力は、所得と貨幣の流通量に連動し、需要は、必要性から派生するからである。しかも、需要も一定ではなく、また、測定するのは困難である。ただし、潜在的に需要がいくらあっても購買力がなければ、実質的な需要に結びつかない。そこで、購買力の裏付けとなる所得を増やそうというのが、「有効需要の原理」である。
 そして、第十二に消費力と第十三に、消費量である。消費力と消費量も一致しない。消費力と消費量は、需要の基底となる。

 また、市場は、取引によって成り立っている。市場の働きは、この取引の在り方によっても左右される。
 市場を構成する取引には、入れ札、競り(せり)、談合、合い見積もり、抽選、コンペ、投票、試験、相対などがある。最近では、インターネットを利用したネット取引も台頭している。

 株で言えば、流通する量(浮動株)、取扱高、株式時価総額、市場規模、在庫などが価格を構成する要素に影響を与える。そして、この価格を構成する要素が市場の状況を決めるのである。
 発行株式の大多数は、固定株であるが、株価を決めるのは、固定株ではなくて浮動株である。それでありながら、株式時価総額は、この時の相場によって決まる。

 市場は、場である。しかし、ただ単なる場ではない。市場は何等かの仕組みや制度によって人為的な作り出された場なのである。市場は構造的なものである。市場は過程、プロセスである。つまり、市場は、何等かの仕組みによって制御された過程なのである。それが市場の本質である。それ故に、市場には規制が必要である。と言うよりも、規制によって制御される。規制がなければ市場は暴走し、やがて寡占独占状態に陥って正常に機能しなくなる。

 市場は過程である。過程を制御する事にある。市場の構造は、段階的、過程的であるから、局面や位相が重要となる。

 市場や産業の環境は、市場の変化、成長によっても違ってくる。また、産業の特性、構造にも左右される。市場の変化を見ずに一律に独占は悪だと感情的、道徳的に決め付けるのは、あまりに短絡的である。

 人間の一生には、幼児期、思春期、青春期、成人期、中年期、老年期と言った過程がある。市場にも、導入期、成長期、成熟期、転換期、安定期の過程がある。更に、転換期や安定期が衰退期に重なることもある。この様な過程に応じて、市場構造は変化し、また、その時々のとるべき政策にも変化がある。ところが市場原理主義者は、この過程を無視し、市場原理を一律、不変的な原理としてそれを絶対視してしまう傾向がある。これは、幼児と青年、老人とを同じ基準で競わせて記録を競わせるほどの愚行である。
 何が何でも、どんな状況でも、競争が正しい、カルテルは悪だというのは、短絡的すぎる。重要なのは、市場に何を求めるかである。そして、経済をどうしたいかである。
 市場が衰退する原因は、財の需要の減少、財の供給の減少、技術革新、代替品の台頭、ライフスタイルの変化、新興国の台頭などが考えられる。

 ロックフェラーは、鉄道を抑えることで独占体制を確立した。OPECは、原油の生産部分をまとめることで独占体制を確立した。つまり、独占というのは、全過程を支配する必要はないのである。過程の一部分を支配するだけで、十分、独裁体制を敷くことができる。
 独占というならば、どの局面を捉えて、独占とするのかを明らかにする必要がある。

 現在経済では、自由が全てであり、保護主義的な政策は、極悪のような評価を受けている。つまり、倫理的な絶対的基準から見ても保護主義は悪いというような評価である。
 しかし、産業保護は悪い事なのであろうか。大体、経済の規範というのは、相対的なものであり、絶対的なものではないはずである。

 市場の成長は市場の構造的変化を伴っている。その構造的変化に適合した政策を採用すべきなのである。
 成熟した市場は放置すれば、衰退する。問題は、その産業が社会的に必要か否かである。必要な産業であるならば、市場を規制する必要がある。
 市場が衰退する原因は、財の需要の減少、財の供給の減少、技術革新、代替品の台頭、ライフスタイルの変化、新興国の台頭などが考えられる。必要ならば、それらの要因に対し適切な対処をすべきである。必要でないと判断するならば、市場から退場する者達を保護すべきなのである。

 市場原理主義者は、成熟した産業や市場は切り捨て、淘汰されるべきだと言うが、彼等の大多数は、その産業が果たしてきた役割、機能はほとんど問題としていない。商品のコモディティ化と市場構造の在り方が重要になってくる。

 基本的に、産業は、成熟化していくと商品がコモディティ化する。
 コモディティとは、主として日用品に多く。商品格差がなくなり、価格や量的な面でしか商品を差別化できなくなる。勢い価格競争や乱売によって低価格化した商品である。コモディティ化とは、それまで、特殊な生産技術や設備によってしか生産できなかった製品が、規格化、標準化、モジュール化されることによって汎用化した場合、商品の個体差がなくなりコモディティ化する事がよくある。その典型が、IT関連製品や家電製品である。また、過去では、繊維や鉄鋼、日用雑貨、素材産業といった構造不況業種に多く見られる。と言うよりも、コモディティ産業は、価格による差別化しかなくなる為に、勢い収益性が悪化するため結果的に、構造的、慢性的な不況業種になるのである。

 コモディティ(commodity)とは、共通の(com)便利や状態(modity)と言う意味で「単一の、又は、共通の尺度、基準で計れる物」と言う意味にとれる。コモディティ化しやすい業種は、参入障壁が低く、比較的売上が安定している商品といえる。この様な商品は、産業や経済の基底を為すものが多い。

 市場原理主義者は、コモディティ化した産業を目の仇にする。早い話、淘汰されればいいと言い切る。
 しかし、コモディティ化した産業は、日本経済の礎石を担う基幹産業が多い。基幹産業だからコモディティ化したとも言える。

 また、大量生産と大量消費は、商品、製品の平準化、標準化、規格化を招き、商品格差や個体差を減少させ商品のコモディティ化を推進する。大量生産や大量消費は、生産の標準化、平準化、商品の規格化によって生産性や効率性を高めるからである。

 また、客観的基準によって市場価格が確定されるようになるとコモディティ化は進む。客観的基準とは、部品の規格化や標準化をもたらすからである。談合や話し合いを排し、客観的基準に基づけば、公正な競争の原理が働くというのも幻想に過ぎない。市場の基準は、元々、相対的であり、主観的なものなのである。また、相対的で主観的な判断が聞く市場ほど多様化している。つまり、競争の原理が働いているのである。典型は、アパレル業界であり、飲食業界である。どちらもユーザーの好み、趣味嗜好に依拠しているから、多種多彩になるのである。
 つまり、生産性や効率化を促せば、コモディティ化は深化するのである。その点を市場原理主義者は理解できないでいる。無原則な競争は、市場の機能を低下させるのである。規制を緩和すれば、競争の原理が働くというのは、幻想に過ぎない。競争が激化し、過熱化させているのに過ぎないのである。規制を緩和するもしないも相対的な判断であり、絶対的な政策ではない。

 成熟化というのは、産業や市場の帰結点でもある。成熟化が悪いわけではない。成熟化するのは、産業や市場の効率が著しく高まり、一つの到達点に達したことを意味する。成長や進化だけが良いわけではないのである。ただ、成長は、未来の収益によって過去や現在の投資を回収できると言う利点がある。つまり、時間的価値が成長によって保証されているのである。それに対して、成熟というのは、現在の投資を未来の収益によって回収することが期待できない。それは、規模の拡大が停滞し、償却によってコストを吸収しているからである。それ故に、成熟した産業や市場は、成長産業や市場とは別個の規制、制度が要求されるのである。成熟産業とは、コモディティ産業を指して言う場合が多い。

 この様なことをかんがみるとコモディティ産業こそ産業全体や経済の基盤を為す産業であり、その市場を維持する必要があるのである。逆に言うと、基底、基幹、基盤産業ほどコモディティ化しやすく、市場、産業が成熟するにつれてコモディティ化していく。過去においても構造不況業種と言われる産業が経済の離陸時に活躍し、経済の安定期に衰退し、その衰退が、経済全体の足を引っ張るという事が続いてきたのである。
 つまり、成長産業よりも成熟産業の維持発展、健全な競争状況をどの様に維持するかが、本来一番考慮しなければならない要素なのである。
 健全な競争を維持するためには、個々の企業の収益力が問題となるのである。ところが、産業の保護や規制を罪悪視する市場原理主義者は、収益の確保も敵視する。
 成長期にある産業は、技術革新や生産技術の進歩、設備投資によって増大するコストを吸収できるが、一旦、コモディティ化し、過当競争によって価格の維持ができなくなると、投資を回収することができなくなる。競争力を維持するためには、高所得者層であり、ベテランや管理職をリストラせざるを得なくなる。また、保安や設備更新、環境投資と言った基幹業務の手を抜かざるをえなくなる。それは、不健全な競争、不健全な産業体質を生み出し、健全な産業を構造不況業種に変質させる。適正な収益力を保証することによって適正な利潤を確保することが、産業や市場を健全に保つために不可欠なのである。ところが、市場原理主義者は、競争を全てと是として、適正な収益力を確保する事をも認めようとしていないのである。

 今、一番問題なのは、市場原理主義者によって市場の健全な働きや発展が阻害されていることである。
 市場原理主義者の最大の過ちは、経済効率と経営効率とを履き違えていることにある。経済効率と、経営効率は違う。経済効率は、労働と分配に求められるべき指標なのである。それに対し、経営効率は、生産性や収益性を基礎としている。

 経済効率と経営効率は、基準が違う。経済効率の基準の重要な部分に必要性や社会性がある。それは、雇用や環境保護などが含まれている。しかも、市場は、経済機構の一部であって、経営機構の一部ではない。それ故に、市場の効率性を経営的基準によって測るのは間違いであり、尚かつ、危険な行為である。経済的効率を経営的効率に置き換えれば置き換えるほど、経済の整合性は失われ、市場の活力は失われていく。

 経済効率と経営効率を混同してしまったために、市場が全てとなってしまって市場が本来の機能を果たせなくなっている。市場価値が全てに優先すれば、必然的に貨幣価値が全てに優先するように機能してくる。金対金の市場が、単独で経済に作用を及ぼしていくのである。そこには、何ら実体的裏付けがない。つまり、実体のない価値、お化けのような価値に経済が乗っ取られてしまったのである。

 実体経済とかけ離れたところで、企業が評価されている。それは、貨幣市場が実物経済と連動しないところで形成されるからである。過剰流動性によって余剰の資金が、実需ではなく、投機的目的で資本市場や先物市場に流れ込み、実需に基づかないで思惑によって貨幣市場が左右されてしまうからである。
 資本市場では、企業に対する評価は、何等かの情報や話題性に感応する傾向がある。変わった情報や話題に乏しいと資本市場ではなかなか評価されない傾向がある。
 資本市場が投資的資金ではなく、投機的は資金に支配されると、、企業の評価が偶然性に支配され、蓋然性や必然性は見失われている。企業を評価するのは、事業計画と社会的役割であるべきなのである。

 貨幣市場が隆盛する影で、実物市場が軽視される傾向がある。マネーゲームによって実物市場が振り回されるような風潮まである。

 2007年から2008年にかけての石油価格の異常な高騰は、サブプライム問題によるリスクを避けた投資資金が実物市場に逃げ込んだことが重要な要因だと言われている。

 昨今の経済の動向を見ると、一見、貨幣市場によって支配されたかのように見える。実物市場からの要請による変化は決定的な要因であることにかわりはない。例えば、石炭から石油に移行したエネルギー革命が好例である。貨幣が自己増殖をして価値を高める現象は、バブルである。つまり、泡である。

 いくら貨幣が社会の隅々まで浸透しても、財の絶対量が不足すれば、必要な財は、廻らなくなるのである。

 結局、市場の役割は、労働と分配にある。労働によって生産された財を公正に分配するのが市場に与えられた使命なのである。財の価値を突き詰めると付加価値に帰結する。つまり、金利と地代と人権費である。このうち、人件費以外は、不労所得である。そうなると人件費の構成比率が重要になる。
 つまり、経済の実体は、本来、財的市場や人的市場にある。そして、財的市場と人的市場、貨幣的市場の連携にある。それぞれが勝手な動きをすれば市場経済は破綻し、崩壊してしまう。
 現在の石油価格は、需給や経済成長によって決まるのではなく、投機や政治的な要素のよって左右されている。
 実体のない価値の上昇は続かない。実需の裏付けのない価格の上昇は、一種のバブルであり、暴落か、インフレーションによって調整される。

 経営には、為替の変動や原油価格の高騰、税制の改定、インフレやデフレと言った不可抗力の要素が多分に含まれる。

 事業の継続を前提とすれば、明確な展望や長期的計画を重視し、経営者は、利益の平準化を追求するようになる。また、投資家は、事業計画を土台にして判断する。それが本来の資本市場のあるべき姿なのである。
 それは、企業が事業から本来の収益を上げられなくなってきたことにも依る。それは、国際間の市場の格差が決定的に作用し、先進国が競争力を失ったことに起因する。

 その為に、先進国の市場の主役が、実物市場から、貨幣市場に移り。投機的な資金に市場が支配され。また、本来の投資需要が減退した結果、金融機関も目先の利益、短期的収益を追求するようになるからである。
 そうなると、金融機関は、事業収益よりも金融収益を重視するようになる。結果、M&Aのようなマネーゲームが盛んとなり、証券化を土台としてサブプライム問題の遠因を作ることになる。
 金融機関本来の役割は、市場に資金が不足した時、それを供給することにあるはずなのに、逆に、不況になり資金が市場に不足した時、回収する様な行動をとるようにもなる。だから、銀行は、晴れた時に傘を貸して、雨が降ると傘を取り上げると揶揄されるのである。
 金融機関には金融機関の役割がある。その役割を忘れて市場の番人のように振る舞うのは、愚かさを超えて滑稽でもある。先ず市場における金融機関の役割をこそ明確にすべきなのである。

 それは、実物市場や人的市場は、正常に機能しなくなった証拠でもある。

 市場の機能で重要なのは、経営主体が適正な収益を上げられる環境を整備することである。収益を罪悪視するのは以ての外である。その為には、市場が一定の水準に保たれる必要がある。また、その水準を維持するための構造なのである。

 市場の構造を考える上で市場の規模というのは、重要な要素となる。なぜならば、市場というのは、一つの開かれた空間ではないからである。
 市場というと一つ岩盤の様な空間を想定しがちだが、実際は、無数の細かい空間が結びつき合い、また重なり合って全体が形成されている空間を想像した方が妥当である。その繋ぎ目や重複している部分、また、空白な部分に重要な働きが隠されている。市場を繋ぎ目のない一つの空間だと錯覚すると重大な過失を犯すことになる。少なく見積もっても市場は、国の数だけ在る。

 市場の規模を確定するのは、生産力なのか。消費量なのか。必要量なのか。供給力や潜在的能力なのかである。その要素は、市場を確定するための前提や目的によって変わってくる。それは、市場や経済に対する考え方、思想によって決まるのである。

 市場の水準を決めるのは、物価である。

 物価というのは、物と価格という二つの言葉からなる。財は、商品という実体と貨幣価値という観念からなる。これが一体となって財の価値は決定される。ところが、商品としての価値から価格が乖離しそれ自体が価値を形成することがある。それがバブルと言われる現象である。

 物価というのを一律に考えるべきではない。物価は、一律には測れない。時代と伴に上昇していく物価、ほぼ横這いの物価、下降する物価がある。また、固定的か、変動的かの基準も何に対して固定的か、変動的かに相違がある。常用なのは、個々の財の価格水準であり、それを成り立たせている前提条件である。また、所得との関連付けや比較も重要な要素の一つである。

 水準は、環境や前提条件に左右される。生活水準は、基本的には、個人の欲求の集積によって成立するが、個人の欲求が、即、必要性だと決め付ける事ができない。
 必要性は、その人その人の価値観や慣習、ライフスタイルと言った主観的なものに影響される。更に、その基底は、衣食住と言った生きていく上で必要不可欠な財に対する考え方、認識である。
 人間にとって、生きていく上で必要な最低限物資が、時代や場所によって変化している事を前提としなければならない。エネルギー自給率や食糧自給率の基数は、生活水準によって違ってくる。その点を見落としてはならない。

 需要と必要性とはイコールとはかぎらない。故に、需要があるから必要なのだと短絡的に判断するのは禁物である。

 個々の企業が固有の理由で赤字におちいるのは、経営上の問題である。しかし、業界の大半の企業が赤字におちいるのは、構造的問題である。それは、その状態を行政がどの様認識し、どう対処するのかの問題でもある。

 原油価格の高騰や為替の変動のような、経営者にとってどうにもならない、不可抗力による原因によって、経営が悪化した場合、経営者の責任を問うことができるであろうか。それを経営者個人の責任に帰しているかぎり、経済の恒常的な発展は、期待できない。仮に、経営者が責任を問われるような事態があるとしてもそれは、経営者、個人のモラルに関わる問題であらねばならない。同じ事、例えば、赤字にしても、公共団体の責任者は、責任を問われずに、民間企業の責任者だけが責任を問われるようでは、公平を欠くと言われても仕方がない。公共事業だから許されるというのは、おかしな論理なのである。反対もまた然りである。公僕という言葉すらあるのに、公共の利益を私することに鈍感なのは異常である。

 重症の病人を無理矢理、競走場に引き出し、競争に駆り立てて死に至らしめたら、それは殺人である。競争を強いた者が罰せられるべきである。
 また、明らかに無駄だとわかっていることに、多額の公金を拠出するのも犯罪行為である。

 利益を見込めない市場は、税収も見込めないのである。つまり、利益というのは、構造的な問題なのである。

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