産業界は、将に、戦国乱世である。合従連衡が日常茶飯事に繰り返されている。一人、日本だけが蚊帳の外にいるわけには行かない。

 今、世界は、M&Aの嵐が吹き荒れている。
 鉄鋼業界では、2006年、インドのミタル社とヨーロッパのアルセロール社と合併し、世界市場の10%を占有する巨大企業、アルセロール・ミタル社が誕生した。ビール業界では、ベルギーのナンバーワンのアルトア社とナンバーツーのビードボフ社が合併してできたインター・ブルー社がアンホイザー・ブッシュ社を追い抜いて世界ナンバーワンのシェアを獲得した。製薬業界は、M&Aが激しく行われ、M&Aによって急成長したファイザー社と同じように急成長してきた新興勢力とがトップの座を争っている。自動車業界や金融業界もM&Aが激しく繰り広げられている。
 国家という枠組みを超えた新しい勢力が台頭していることである。(「グローバルM&A戦争 」小坂 恕著 ダイヤモンド社)
 
 買収と言っても狙われるは、優良企業である。当たり前なことだ。潰れそうな会社をM&Aに仕掛けても仕方がない。M&Aを仕掛けられるのは優良企業か何等かの特技、得意をもった企業である。特に、潤沢な現金や過去の利益の余剰資産として持っている会社は狙われる。その意味で、無借金会社は狙い目である。(「会社の値段」森生 明著 ちくま新書)つまりは、真面目にまともな経営をしてきた会社、利益を蓄えてきた企業が餌食にされてしまうのである。優良企業は、肥った豚なのか。
 現在の資本主義体制では、わざわざ企業内容を悪くしなければ、優良企業は、乗っ取りから護れないのである。また、事業承継もできない。
 ライブドアのように、株式分割を繰り返し、株価をつり上げることによって企業自体とは違う部分で株式総額を増殖させ、企業実体からかけ離れた株式時価総額に基礎にして株式交換のような手段で相手会社を呑み込んでいく。事業とは無縁なところで資本の論理によって企業が合従連衡されるような事態にもなっているのである。そうなると何のための事業、何を本業としている企業なのかも定かでなくなる。

 企業合併や再編は、累積的な問題点を清算するためには、格好の機会である。それが時として、M&A戦略の基本となる。自社の財務体質の強化のために、また、自社の財務体質の欠陥を糊塗するために、M&Aを仕掛けるのである。
 会計上、合併には、同じ合併でも人的合併と物的合併がある。
 
 GEが好例であるが、最近急激に成長をしているのは、本業ではなくM&Aの結果である。

 政略、軍略と言う言葉はよく聞く。しかし、経略という言葉はあまり聞かない。政治や軍事に戦略があるように、経済にも戦略が必要であり、また、現にあったのである。人々は、経済的理由で政治や軍事が左右されることを好まないが、実際の世界において、社会を動かしているのは、経済である。
 なぜならば、経済とは、日々の営みに必要な財の生産と分配、消費に関わる過程を指して言うのだからである。
 故に、国は、人々の生活を維持し、守るためには、戦略的にならざるをえない。過去に起こった戦争の多くは、経済的な事柄が原因であり、その根本に経略が存在していたのは衆知の事実である。経済のために、もっと穿(うが)った言い方をすれば、金のために多くの国民や、又、近隣諸国の人民を犠牲にしたとは言いたくないし、認めたくないから経略とは言わないだけである。しかし、それが冷厳たる事実である。逆に言えば、それが経済的動機だというならば、平和に解決かる手段も残されているはずである。

 ただ、経略が国家の枠組みを超えつつある。これが、国際社会の混乱を引き起こす原因伴っているのである。産業の再編は、国家戦略の一つとなりつつある。

 M&A(Mergers and Acquisitions)を理解するためには、企業には、所有権と経営権があ留という事を理解する必要がある。M&Aというのは、複数の企業間で、その所有権と経営権の転移、又は、交換をする行為を言う。また、M&A(Mergers and Acquisitions)とは、企業合併(Mergers )と企業買収(Acquisitions)の二つの言葉からなる。企業合併というのは、複数の企業が対等の立場で合併契約をし、一体化することをさし、買収とは、相手の何等かの対価をもって、相手の経営権や資産(事業、営業権)を買い取る行為である。
 合併には、新設合併と吸収合併がある。買収には、株式買収と事業譲渡がある。また、最近では、会社分割(Divestiture)を併せてM&A&Dという事もある。(「知識ゼロからのM&A入門」監修 コンパッソ税理士法人 弘兼憲史著 幻冬舎)

 企業や事業の売買ができるというのは、資本主義の最大の特徴の一つである。その意味では、企業は、一つの物、商品、又は、権利に過ぎない。

 M&Aには、第一に、救済型、第二に、友好型、第三に、敵対型、第四に、乗っ取り型、第五に、戦略型があると言われている。(「M&Aがわかる」東京リサーチインターナショナル編 仲野 昭・笹川啓介著 実業之日本社)

 かつて、企業合併というと救済合併のようなものが主であった。また、業界再編も戦時や不況対策として国家主導で行われる場合が多かった。その場合、いきなり、産業再編という形ではなく、カルテルという形式をとる場合もある。カルテルより、産業再編の方が直接的な手段であり、産業界の反発も強い。反面、カルテルは、世論の反発を招くことがあり、かえって産業再編という形をとった方が、国民の合意を取り付けやすい場合がある。
 中でも、戦争は、産業再編の重大な契機となる。日本においては、第二次世界大戦の折りに統制経済の下に企業統合が進められ、敗戦によって、逆に財閥解体や農地改革が行われた。
 アメリカでは、反トラストと言った国策や国家理念に基づいて、たびたび、企業分割が行われた。
 この様に、一口にM&Aと言われるが、国家理念やその時代の国家戦略、国家経略に基づいて行われる場合が多い。
 産業再編と言っても単純に経済上の問題、市場原理と片付けるわけにはいかない。むしろ、背景には、国家観なり、経済思想が隠されているものである。

 日本の産業は、戦後長いこと、株の持ち合いやメーンバンク制によって、あるいは国の護送船団方式によって保護されてきた。

 アメリカのM&Aは、これまで四つの波があったと言われている。そして、現在五回目のM&Aの波の中にいると考えられている。(「M&Aがわかる」東京リサーチインターナショナル編 仲野 昭・笹川啓介著 実業之日本社)

 第一の波は、19世紀末、アメリカの市場の統合が進んだ結果、重要産業において有力企業に集約される形でM&Aが盛んに行われた。

 第二の波は、1920年代で、第一に、公共性の高い産業において持ち株会社を使った業界の統合・再編M&A。第二に、1914年制定されたクレイトン法の盲点をついた製造業の垂直的統合である。

 第三の波は、1960年代に起こっている。反トラスト法の網をかいくぐったコングリマリット型再編である。つまり、水平的、垂直的M&Aのどちらにも属さない再編である。

 第四の波は、1980年代に起こった、所謂、マネーゲーム型のM&Aで資本市場や資本取引技術の高度化に伴って派生したM&Aである。この時には、敵対的M&Aが盛んに行われるようになり、また、そこで取り引きされる金額も巨額なものにのぼった。又、低格付のジャックボンドの発行による資金調達、ターゲット企業の資産を担保にするLBO、株式交換よるM&Aなどが盛んにお粉わるようになった。(「M&Aがわかる」東京リサーチインターナショナル編 仲野 昭・笹川啓介著 実業之日本社)

 第五の波は1990年代から2000年代にかけての波で、マネーゲーム的な敵対的M&Aから友好的M&Aが中心となり、情報分野や金融分野に大型M&Aが集中する傾向がある。

 これらの変化を見ると、M&Aは、アメリカの経済思想や構造をよく反映していると言える。この様に、産業の再編は、その国の経済理念や経済状況に基づくものなのである。市場原理主義者が言うように偶然によって支配されたものではない。その背後には。何らかの意図が隠されているのである。そして、その意図は、そこで生起した現象や結果を見ると明らかなのである。

 M&Aには、幾つかの動機がある。その一つが、産業の再編である。また、企業構造の再構築、リストラクチャリングである。また、経営や業績に行き詰まった企業を救済、あるいは、再生する。また、特殊な技術やノウハウ、人材、販売網、ブランドを取り込んだり生かす目的のものもある。他に、企業価値を利用して利鞘を稼ぐことがある。問題なのは、最後にあげた動機である。

 一種のマネーゲームの対象としてM&Aを利用することである。むろん、企業の不良な部分を清算し、再生するという側面もあり、一概に、否定はしきれないが、概して、企業の資産を食い潰してしまうのが場合が多い。

 M&Aには、水平的M&A、垂直的M&A、多角化型M&A、コングリマリット型M&Aがある。水平的M&Aとは、同業者間のM&Aであり、垂直的M&Aとは、例えば、同業種でも製造部分と販売部分の企業間のM&Aを指す。多角化型M&Aは、特定の製品と市場的な関連、あるいは、技術的な関連がある企業間で行われM&Aである。又、コングリマリット型M&Aとは、異業種間のM&Aを言う。(「ケースブック アメリカ経営史」安倍悦生・壽永欣三郎・山口一臣著 有斐閣ブックス)

 M&Aの行き着く先は、規模の経済である。また、市場の独占、寡占体制である。末端の市場は、過当競争が行われていても根源は、一つであったり、又、ごく少数の企業に独占されることにもなる。それは、特定の階級による間接的支配体制を成立させることになる。それも国家という単位を超えた次元において構築されると、一つの国の力では動かしがたい構造となる。国家すら支配下に置かれてしまうこととなる。経済が、円滑に機能するならば、それでも、ある程度は、許容せざるを得ないであろうが、行きすぎると、所謂(いわゆる)階級差別社会になる。

 ただ、規模の経済には限界がある。ある一定の規模を越えてしまうと、急速に、組織の効率が低下する。故に、組織は、ある一定規模を維持する必要が生じる。その限界は、管理、及び、情報の限界である。

 情報や管理の限界とは、人間の能力の限界でもある。所詮、人間は、人間である。万能の神ではない。自ずと限界がある。そして、組織は、人間の集団なのである。基本は、人間の能力である。

 機械化や合理化が、その国の経済にとって必ずしもプラスに作用するとは限らない。雇用問題から見ると機械化や合理化は、逆行する場合もあるからである。労働者は、即ち、消費者でもあるのである。所得の低減は、消費の減退を招くからである。
 また、高所得者は、高齢者や、中間管理職、熟練工に多く、合理化によって彼等は常に、解雇対象にされてしまう傾向がある。しかし、その層は、社会的にも、経済的にも、組織管理上でも、いろいろな役割を果たしている場合が多い。収益が悪いからと言って簡単に解雇すべきかどうか簡単には片付けられない。ところによっては、若年者や未熟練者から解雇するようにルール付けられている、即ち、転職しやすい層から解雇する様に仕向けられている国もあるくらいである。単純に、企業を機関として見なすのではなく。共同体としての機能も見落としてはならない。

 強引なM&Aから企業を守るための防衛策もいろいろと講じられるようになってきた。突き詰めてみると、誰のために、何のために企業は、存在するのかという事になる。資本主義経済においては、あくまでも、事業や仕事中心的発想が主となり、労働や分配は従になる。ゆえに、事業や仕事の効率や生産性が主たる問題となり、雇用や従業員の生活は、従、副次的、二義的な問題になりやすい。そこには、企業や経営主体は、人間の集団であり、運命共同体なのだという発想が欠落していくことになる。

 組織は、人間集団である。一定の目的のために結成された一種の運命共同体である。確かに、当初は、その主たる目的が、事業なり、仕事にある。しかし、運命共同体は、一旦結成されると共同体としての性格が強くなり、企業目的も事業目的から共同体としての目的に変質していく。特に、経営主体が継続を前提とする様になるとその傾向が強くなる。つまり、事業目的から、共同体として継続するという目的が、主たる目的に、変貌していくのである。この事を前提としてM&Aは、考えなければならない。なぜならば、運命共同体であるからこそ、組織に一体感が生まれ、帰属意識が成立からである。組織に一体感や帰属意識がなければ、その目的を達成することは困難である。なぜならば、経営主体を取り囲む環境は常に変化しており、その環境の変化に適合していくためには、組織の構成員に、組織を維持しようとする意識がなければならないからである。その意識の源が、一体感であり、帰属意識なのである。そして、その一体感や帰属意識が組織に規律をもたらし、規律が自律的機能を組織に与えるからである。
 組織は、守ろうとする者がいなければ、守りきれるものではない。

 資本主義的組織の最大の欠陥は、組織の構成員と組織の運命が分離されていることである。つまり、組織の所有権が組織の外部にあり、組織を実質的に動かしている人間が、組織の所有権に対して中立的立場におかれていることである。故に、組織の構成員のインセンティブ、動機付けは、報酬に頼らざるをえなくなる。しかし、それには、限界がある。必然的に、構成員は、組織から阻害されていくこととなるのである。

 株式会社が良いとは限らない。英米を除いたヨーロッパでは、有限会社、パートナーシップ性が主流であるのが好例である。戦後、日本人は、同族会社が悪であるように吹き込まれた。日本以外の先進国には、上場会社しか存在しないかの如く吹き込まれもした。しかし、優良企業の中には、非上場会社が多く含まれるし、一つの選択肢であることは間違いないのである。(「M&Aがわかる」東京リサーチインターナショナル編 仲野 昭・笹川啓介著 実業之日本社)
 また、会計士や弁護士のように、個人的技能にかかわる、又は依存する職種の多くは、パートナーシップが主流である。

 MBOというように、企業の内部から企業を再編する動きもある。これは、企業が共同体であること証明するような事象である。いずれにしても、M&Aには、経営主体を構成する構成員の役割を無視することはできないのである。それは、敵対的M&Aを後退させた原因の一つとも言える。

 産業再編では、持ち株会社を使った事業再編が重要な意味を持つ場合がある。それは、持ち株会社が企業グループのセンターとしての機能を果たしているという持ち株会社の性格にもよる。いずれにしても、企業再編というのは、産業構造を構築していく上で重大な役割を果たしている。

 M&Aは、必然的に企業グループを形成する。しかし、その企業グループも単に上場企業の集まりというのではなく。未上場会社や有限会社と言ったいろいろな形態の企業の集合体である場合が多い。

 つまり、いろいろな形態の企業を組み合わせることによって、企業グループの性格は、形作られるのであり、中核となる企業は、非公開企業である場合が多くある。その典型が、西武グループである。

 マネーゲームの弊害が問題とされている。産業の再編が、いつの間にか資本の論理にすり替わってしまっている場合が善く見受けられるのである。資本の論理とは何か。それは、資本を抑えたものが企業を支配すると言う事である。それが資本主義の原則でもある。しかし、資本とは何かというと実際には、実体的な裏付けを欠いている場合があるのである。資本は、実際には創られた概念なのである。
 優良な企業が不良な企業を買収するとは限らない。むしろ、不良な企業が優良な企業を呑み込む場合の方が多い。ライブドア問題が好例である。つまり、資本を抑えた者が勝ちなのである。
 ライブドアが買収しようとした企業は、ライブドアよりも事業内容、資産内容がいい企業がほとんどである。それに対し、ライブドアは、株価操作によって不当に株価を引き上げ、膨らませ、その資本力で、強引に優良企業を取り込もうとしたのである。このような例は、事業が生み出す利益ではなく。資本が生み出す貨幣価値を担保しているのであるから、当然、資本コスト、配当資金が、嵩(かさ)む。その資金を生み出すためには、際限なく企業買収、事業再編を繰り返すしかない。それが近年のM&Aの基調である。
 また、買収資金も買収先の収入や資産を担保、つまり、当てにして調達することも可能である。出資者さえ見つかればこの様な強引な手段も可能なのである。世界的な金余りによって容易にスポンサーが付くようになったのである。

 株式交換による企業買収では、事業や資産の内容ではなく、株の時価総額である。その場合、株式の分割のようなあからさまな株価操作が行われたりもする。株の時価総額というのは、資本市場において作り出された株価が基礎にあるのである。
 
 投資と投機の違いは、投資は、事業に対して資金を提供することであるのに対し、投機とは、キャピタルゲイン、即ち、株の売買益や利鞘を稼ぐことを目的とすることである。
 資本市場が投機の場と化してしまうと、資本そのものが資金調達の手段、金儲けの手段になってしまう。資本そのものが投機の対象となれば、資本から投資の機能が失われてしまう。株が投機な対象となれば、投資家は、目先の株価の動きに目が奪われて短期的な利益の追求に走りがちになる。それでは、資本の実体が失われてしまう。それは、資本主義にとって命取りにもなりかねない事態である。

 リストラ、リストラというと合理化と結び付けて、人減らしの口実だと考える風潮がある。リストラを人員削減に結び付けるのは、日本人の悪い癖である。しかし、リストラの本来の意味は、事業の再編のことを指すのである。組織を変更したり、再編をすることによって、含み資産が表面化したり、不良資産が消えるなど言う事が会計制度上、往々にしてある。実体は何も変わらないのに、財務上は、不良な企業が優良な企業に変身してしまうことがあるのである。それが、株価の上昇を伴う場合、自己資本率を高める結果を招くこともある。
 窮鼠、猫を噛む。追いつめられて苦し紛れにライバル企業を買収したら思わぬ副産物があったりする。それが資本の論理である。
 しかし、それが行きすぎると実体の伴わない株価を形成し、後々、大問題に発展することもある。直接投資よりも会社を買収した方がいいという安易な考えに支配される危険性もある。それでは、産業そのものの実態が失われてしまう。ともすると、M&Aが、マネーゲームと言われる由縁は、その辺にあると思われる。

 産業革命の光と陰。産業革命の光ばかりに目を奪われて、影の部分を見落としがちである。市場を絶対する者は、市場の効率ばかりを絶賛するが、その結果については、多くを語ろうとしていない。市場の機能を競争の原理だけで説明しようとするが、市場に求められる本来の機能については、何も明らかにしていない。また、市場の原理は競争の原理と言い切れるであろうか。市場の原理は、競争と言うよりも生存闘争と言った方が正しい。
 規制緩和、民営化の大合唱によって無原則に規制を緩和し、民営化を推し進めてもいいものであろうか。もともと、市場は見方を変えれば修羅場、鉄火場なのである。

 経営は、環境状況に支配されるものであるから、「皆で渡れば怖くない」式に、大勢に流されやすいものである。経済とは環境である。土地が高騰している折りは、土地に手を出し、株がいいとなれば、株にのめり込む。それが人情である。
 無意味に競争を煽れば、企業は、競争の中で淘汰されなければならない。

 M&Aや多角化を企業経営者の多くは、やりたくてやるわけではない。日本の老舗と言われる大店(おおだな)が家業以外に手を出すなと家訓で決めるのがその証拠である。何も、慣れない仕事に手を出して、大やけどをしたくないし、しても自業自得と嘲られるだけである。なのに、なぜ、多角化をするのか。それは、本業だけでは立ちいかなくなる理由があるからである。その理由とは、競争である。

 特に、産業革命以後にその傾向が強くなる。産業革命というのは、新しい産業の勃興をいもするが、同時に、古い産業の衰退も意味する。資本主義の発展の影には、数知れない多くの犠牲が隠されているのである。

 競争力とは何か。競争力の源(みなもと)は、差である。一つは、技術力である。また、企画力でもある。しかし、技術力や企画力は、時間とともに失われていく。後は、資金力と価格である。資金力は、企業の本質とは違う。資本の問題である。最終的には、価格、即ち、コストの問題に行き着く。

 産業革命の過程で、多くの老舗と言われる企業が淘汰されたのは、巨額の資金で初期投資をしなければ、コスト競争力についていけなくなったからである。つまり、会計や資本主義という仕組みによって引き起こされた現象でもあるのである。されは、大量生産、大量消費の幕開けでもあるが、同時に、幾多の手作業や職人技術が失われていく過程でもあったのである。また、持たざる者と持つ者の格差が決定的に広がった時代でもあるのである。

 そして、国際的な競争が激化する中で、労働争議や公害が引き起こされてきた経緯がある。労働コストや環境投資が嵩(かさ)むと生産拠点を転移し、競争力を高める以外にない。それは、結局、労働問題や環境問題を転化しているのに過ぎないのである。

 産業革命の過程で、劣悪な労働環境、条件によって過酷な労働を強いられ、それが、労働運動にまで発展した。また、公害は、悲惨な被害、取り返しのつかない惨禍を地域住民に与え、今なお、その後遺症に苦しめられている。新興国の勃興と言っても、その過ちをこれから、産業を確立させようとしている国々に転移しているに過ぎない。

 更に、今日のM&Aは、マネーゲームと化し、産業本来の在り方からも逸脱しつつある事が、最大の問題なのである。
 仮に、資本主義を終焉に導くものがあるとしたら、それは、資本である。資本とは、本来投資を基礎とするべきである。投資とは、事業に対するものでなければならない。ギャンブラーが競馬馬を選ぶような目で、投資先を選ぶようになれば、単なる賭け事になってしまう。産業や企業、経済の実体とは、無縁の所で、資本価値が乱高下することになる。そして、資本市場が産業の在り方や在るべき方向から逸脱し、資本市場と経済が乖離した時、資本市場が市場としての機能を果たせなくなったり、その結果、金融市場や実物市場、労働市場が本来の機能を果たせなくなった時、資本主義は終焉を迎えるであろう。


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