日本では過当競争の弊害をあまり問題としない。しかし、市場経済から見ると独占と同じくらい過当競争は、危険なのである。

 戦後、日本のメディアは、意図的にか、過当競争やダンピングのことは触れないようにしている。しかし、国際社会で最大の懸案事項、国家間の貿易摩擦で最大の問題となるのは、ダンピングの問題である。これは、為替の問題や内外価格差の問題も絡んだ複雑な問題なのである。

 たださえ、日本の企業は、過小資本、低い利益率が問題となっている。それを競争、競争と競争に煽り立てるのは、何か悪意すら感じる。金を儲けることは、罪悪であるとでも言いたいのであろうか。
 競争は、手段である。目的は、国民経済の活性化にある。国民経済の本質とは何か、それは、日々の生活にある。最低限の収入と安定した物価こそ望ましいのである。急激な変化は、決していい結果を招くとは言えない。また、格差の拡大も人々の生活にストレスを生み出す事になる。
 馬車馬の如く、競争、競争の果てに、疲れ切り、生きる気力すら失せてしまっては、何の意味もない。
 だからといって収益性を度外視して良いというのではない。適度の競争は必要である。それは、人間に適度な運動が必要だというのと同じである。怠惰な生活は、心身を堕落させる。だからといって、病気し衰弱した労馬に、むち打ち走らせるが如き事は、残酷な仕打ちに過ぎない。
 企業にとって、一番の目標は継続である。継続を目標として経営する時、内部の努力によって解決できることと、どれ程、内部で努力しても解決できない、不可抗力がある。経営者が贅沢な生活をしたり、また、投機的な事業に手を出して失敗したり、賄賂や買収のような不正な行為によって利益を上げたというならば話は別であるが、災害や為替の変動、石油のような原材料の高騰と言った、経営者の努力ではどうにもならない問題は、政治の問題である。それを効率、効率と、馬鹿の一つ覚えのように騒ぎ立てるのは、無知か悪意としか思えない。

 戦後の日本人は、金に犯されて、少し頭がおかしくなっている。何でもかんでも安ければいいと言う短絡的な価値観に支配されている。その反面で価格で価値を測る傾向がある。安アパートに住みながら、高級車を乗り回す。明日の生活にも困るというのに、高利貸しから金を借りて遊びまくる。安物の服を着て、高級ブランドのバックを持ち歩く。この不均衡さはどこから来るのであろうか。何でもかんでも値段だけで判断しようとするからである。
 ただ、安ければいいと言うのは、経済を値段という面、つまり、外見的貨幣価値でしか判断する事ができなくなってしまったことを意味する。金、金、金と何でも上っ面の値段でしか判断できなくなったから、人間まで、外形でしか判断できなくなってきた。つまり、人間の値付けをするようになってしまったのである。それが三高である。高学歴、高収入、高身長で人を判断する。所得で人格を測るようになったらお終いである。安ければいいが、内容の伴わない安手の文化を生んでいるのである。最近のテレビ局も自分達で番組を作らずに、制作費をケチって、下請けに出す。高品質の番組は望めないし、本当に、番組作りを支えている人達の所に金が廻らない。そう言う構図、仕組みに問題があるのである。
 その事業の社会的な役割、責任、国家に果たす使命などは、どこかに消し飛んでしまった。価格は、値段の高低だけが問題ではなく。そこに含まれている情報が重要なのである。安かろう、悪かろうというのでは困る。安く売ることができると言うことは、安く売れる理由がある。
 問題は、その安く売れる理由である。安全や環境にかかる経費を犠牲にすれば、それだけコストを低く抑えることができる。低賃金で労働者を酷使すれば人件費を抑制することもできる。最近、食の安全や環境保護が問題となっている。他国へ貧困や公害を輸出しているのではないのかといった事も言われている。格差や労働条件の劣悪かも問題となりつつある。また、正社員以外の臨時雇いの社員によって人件費を浮かそうとする。それが社会の格差を増長している。
 そう言った社会の歪みを生みだしたいるのは、マスコミを中心としてある安く売ることは、正しいことだという、安売り市場主義やその背景にある市場原理主義である。彼等にとって安売り業者は、ヒーローである。
 マスコミが言うように、なにも、企業は、ズルして儲けようなって考えてはいない。コストを抑制するために、最大限の努力をしているのは、企業自体である。営利事業は、利益を出すために搾取しているというのは誤解である。それは、ある種の思想家が為にして流していることである。

 人間の社会では、利益を上げると言う事に精神的な抵抗感が働いている場合が多い。とにかく、儲けることは悪いことだという意識が働くのである。だから、乱売合戦が起こって、価格が低下することを無条件に称賛したり、安売り業者を英雄視する傾向がある。しかし、金儲けは本当に悪い事であろうか。金儲けは悪いと決め付ける前に、利益を上げることの意義を考えるべきなのである。
 悪質な安売り業者の陰で、良心的な業者が廃業に追いやられた例は枚挙に遑(いとま)がない。情報は非対称なもので、必ずしも消費者に正しい情報が伝わっているとは限らない。消費者が最終的に判断する情報は、多分に値段に依存している。だからこそ、規制が必要なのである。ルールがあってはじめて公正な競争ができる。明らかに、安すぎるという価格には、裏があるのである。画期的な技術革新でもない限り、重要に何かの手を抜いているのである。

 資本主義社会にかかわらず、市場経済、貨幣経済、自由経済下では、利益を上げることが重要な経営目的の一つである。その証拠に利益を上げられない経営主体は、市場から退場させられてしまう。基本的に市場経済は、そう言う仕組みにできているのである。

 利益を罪悪視する点では、共産主義者や社会主義者も同じ間違いをしている。それが、、共産主義や社会主義を破綻させた原因でもある。利益というのは、一つの目安に過ぎない。決して、資本主義固有の理念ではない。社会主義者も、共産主義者ももっと利益を重視すべきなのである。重要なのは、利益の意義であり、利益がどこに帰属するかの問題である。資本主義というのは、利益は、資本に帰属するという思想なのである。それに対し、本来、共産主義や社会主義は、利益は、共同体に、又は、人民に、社会に帰属するという思想であり、国家主義は、国家に、君主主義は、君主に帰属するという思想なのである。

 ではなぜ、利益の上げられない企業は、市場から退場しなければならないのか。それが問題なのである。我々は、利益の上げられない、即ち、赤字企業が市場から退場させられるのは、当然な事だと決め付けている。

 利益は、目安である。赤字だからと言って事業が破綻するわけではない。貨幣経済下で、事業が破綻するのは、資金の供給が止まるからである。あえて、貨幣経済下でと言ったのは、貨幣経済下でなければ、資金の供給が止まったとしても資金に代わる物があれば、事業は破綻しないからである。ただいずれにしても、利益は目安に過ぎない。赤字だからと言って企業が潰れるわけではない。むしろ、創業期の企業というのは、赤字がでるのは、想定内の問題であり、収支は、最初から合わないのが一般的である。赤字でも、その原因が明らかであり、一時的か、過程的なものならば問題にならない。ただ、赤字の意味もわからずに、資金の供給を止める者がいるから問題なのである。そして、その目安である利益に対してもいろいろな計算方法がある。つまり、元々利益は、利害関係者に説明をする必要上生まれた概念に過ぎない。それを絶対視してしまうから問題が起こる。

 では利益を度外視して良いと言っているのではない。事業を見ずに、利益ばかりを見ていることが問題なのである。
 利益を計算するのには、それだの理由がある。利益を計算するのは、単に金儲けをするためという意味だけではない。大体、利益が上がったからと言って金儲けになっているとは限らない。利益はあるのに、収支は悪いという事はいくらでもある。黒字倒産と言う事だって頻繁に起こる。

 一方で利益を上げないことは罪悪だと犯罪者扱いしながら、役人は、自分達の事業は、公の仕事だから赤字でも良いと公言している。その意識がおかしいのである。民間企業の経営者が赤字を出すと、馬鹿だ間抜けだと罵り、身ぐるみ剥いでしまうというのに、その一方でいくら利益が上げられない、即ち、赤字の事業体でも存続することが許されている者がある。たとえ、清算されることになってもお咎めがないどころか、高額の退職金や慰謝料までもらえる。これは、あからさまな差別である。要は、公営か、民営かが問題の争点だが、実際は差別が問題なのである。
 公共機関である。国家でも、地方自体でも、赤字だからと言って市場から退場させられるわけではない。むしろ、赤字であることを奨励されているくらいである。その結果、国家財政の赤字は天文学的数字になった。それで、財政当事者は、慌てだした。しかし、慌てだしたからと言って民間企業の経営者ように責任をとらされたり、財産を没収させられるわけではない。民間企業で赤字を出せば、犯罪者扱いだが、公共機関でいくら赤字を出しても責任者が経営責任を問われたという話は寡聞にして聞いたことがない。むしろ気の毒にと同情されるのがオチである。財政赤字が問題にされる以前は、黒字にする方が悪いことだとさえ言われたのである。

 何も民営化しなくても、費用と効果が均衡すれば、いくらでも収益は上げられる。むしろ、公共事業、公益事業というのは、初期投資の多くを税金で賄えるのであるから、収益を上げるのは、民間企業よりも容易いはずなのである。公益法人が赤字なのは、儲からないようにしているからである。しかし、国民の税によって行っている事業が、効果と費用が均衡しないとしたら、それこそ犯罪行為である。それが財政赤字の本質である。公益事業だから赤字でも良いという考え方こそが最大の問題点なのである。

 元々、共産主義も社会主義も公の立場を重視することによって成り立っていたはずである。それが公を私物化することによって破綻してしまったのである。それを反省しない限り、社会主義や共産主義の復活はない。

 利益を上げる事自体悪い事ではない。なぜ利益を上げる必要があるのかが問題なのである。そして、問題は、どの様にして利益を上げるかである。それは、利益とは何かという疑問に突き当たることになる。我々は、日々の営業活動の結果として利益が上がるものと錯覚している。しかし、利益という概念は、結果として想定されたものではなく。資金を調達し、また、投資家に報告するという目的によって生み出されたものなのである。

 我々は、利益の源泉は、営業活動にあると考えがちである。しかし、物事は、それを程、単純ではない。
 先ずその前に確認しておくべき事は、企業経営を継続するために、必要なのは、利益ではなく、事業であり、事業に必要な資金である。事業に必要な資金を継続的に調達し、循環させ続けることができれば、企業は、例え赤字でも存続できる。その資金を調達するために必要なのは事業である。仕事である。その事業を測る目安が利益なのである。仕事がなければ、資金は回らなくなり企業は成り立たなくなるのである。しかし、利益が上がらなければ、いつか資金も尽きる。つまり、資金を調達するために利益は必要だとも言えるのである。この当たり前の道理が、学者、役人、金融はわかっていない。事業に必要なのは、資金である。

 要は、資金である。常に、一定の量の資金を獲得できれば企業は存続するのである。ところが企業は、経営の過程で資金の過不足が生じる。その資金を一定の水準で調達し続けることが重要なのである。安定的に手持ち資金を確保するためには、収支を一定化させる必要がある。ところが、通常の営業活動だけでは、収入と支出の率で均衡しない。瞬時でも、資金が途絶えれば、企業活動は停止する。最悪の場合倒産するのである。
 ではなぜ、収支は、一定の状態で均衡しないのか。生産、消費、在庫は一定ではないからである。更に言えば、生産は、計画できるが消費は市場の動向、大衆心理によって左右される。
 コストにも、イニシャルコストやランニングコストがあり。資本・資金にも、運転資本と経常資本の別がある。おしなべて収入と支出が一定しているわけではない。

 経済の本源は、労働と分配である。労働と分配は、生産や消費に必ずしも直接的に左右されるわけではない。労働と分配を決めるのは、労力の提供と対価、あるいは、義務と権利である。労働と分配を決める基準は、生産や消費とは別の基準なのである。生産と消費は、欲求と必要である。労働と分配を決める基準は、収益と費用の関係である。生産と消費を決める基準は、需要と供給の問題である。しかし、生産と消費は、需要と供給によって市場を通して収益化、費用化され資金繰りに影響を与える。その費用から分配は割り出されるのである。その時、収支が合わなければ、経営は、破綻する。つまり、収益と費用として生産と消費、労働と分配は、関連付けられるからである。しかも、不足資金は、収入と支出に連動して割り出される。結局、市場価値は、収支、損益、需給の均衡によって決まるのである。

 その為に、例え、利益が上がっていても資金を調達しなければならなくなる場合が生じる。資金を必要とする時に、資金が調達できなければアウトである。経営は成り立たなくなる。それが積み重なると経済に重要な影響を与える。

 この様な一時的な資金不足を補うためには、収益以外の部分から資金を調達する必要がある。資金を調達するための原資は、利益と資産にある。その為に、経営者は、利益を捻出するのである。

 資金調達のために、経営者は、なんとしても利益を捻出しようと考える。つまり、利益をあって事業があるような転倒が起こる。適正な利益を上げるのは、適正な事業をやっているかどうかを監視する目的があるからである。その事業が、その費用に見合う内容であれば、利益が上げられない体制こそが問題なのである。

 市場経済を効率化する場合、重要な要素に「規模の経済」や「範囲の経済」がある。規模の経済とは、販売量と固定費の関係から派生する。
 損益を分析する場合、費用を変動費と固定費という分類をする。ただ、この場合の変動費と固定費の分類は、全体の売上を考える場合の基準であり、単価を基準にして考えるとこの関係は逆転する。即ち、単価を基準にした場合、固定費が変動し、変動費が固定的になる。この関係が、販売数量を増やすと原価が安くなるという絡繰り(からくり)である。

 価格の下落の意味がここにある。シェアを拡大し、コストをギリギリまで下げるのである。そして、限りなく規模を拡大し続けて者だけが、コスト削減の果実を手にすることができる。このような大量生産、大量消費経済は、市場から多様性を奪い取る。見た目は、種々雑多な製品が氾濫しているように見えても内実は、市場の単一化、標準化、平準化が進んでいるのである。

 規模の経済は、勝者が市場を独占し、利益を独占するという構図の上に成り立っている。これは、競争の原理を働かせ市場を効率化させるという事からすると逆行している。結局、市場は寡占独占状態に向かうのである。
 しかも、この場合の規模は、量的なものであり、質的な面が軽視されがちである。つまり、大量生産、大量消費が最も効率がよいことになる。むろん、うたい文句には、高品質がうたわれ、品質の向上も計られるであろう。しかし、その基本は、大量生産であることにかわりがない。

 無原則な過当競争は、市場を荒らすことになる。過当競争は、市場を戦場と化してしまう。企業は、生き残りを賭け、死にものぐるいでコストを削減する。その結果、削減されるのは、雇用であり、また、保安と言った企業の最低限の必須項目である。そして、ひたすらに、減量した企業だけが生き残る事になる。行き着くところは、市場の独占と寡占である。

 企業努力によって低価格を実現するというのは、半面の真理であり、また、半面、幻想である。努力するにも限りがある。限界に達すれば、基本的技術や人材に手を付けざるをえなくなる。その結果は、産業の荒廃である。

 資本主義社会では、コモディティ産業は、厄介者か、投機の道具でしかなくなった。それこそが資本主義の病弊なのである。本来、経済を支えているのは、コモディティと言われる伝統的産業である。なぜ、士農工商という差別が生じたのか。それは、商業を野放しにすると経済が偏ってしまうからである。商業を差別せよと言うのではない。ただ、所業の論理だけに市場を委ねるのは危険だと言いたいのである。
 その意味で、保護主義は、絶対に悪いといいきれるであろうか。コストの面から競争力がない産業、特に、労働集約的産業において、一方において、労働条件を守りながら、生産力を維持しなければならない、社会的に必要とされる産業を放置していいものであろうか。自由貿易の原則に反するものは、全て悪いと決め付けるのならば、国情も、国益も、国防も、国家としての独立に関わる国家的意志を全て否定する事になる。それで、国民の安全と国家の独立を保てるのであろうか。

 コモディティ産業の重要性は、それは、コモディティ産業が社会の基盤を形成していたことにある。コモディティと言われる産業の多くが生活必需品であり、人々の生活の隅々にまで浸透している。なくてはならない財である。しかも、産業としての裾野が広く。多くの人間の生活費を賄っている産業である。それだけに、コモディティ産業の好不況が経済の下支えをしている。それ故に、コモディティ産業は、革新性よりも、安定性が要求されているのである。
 この様に、成長性や革新性が要求されている産業ばかりとは限らないのである。
 コモディティ産業は、競争市場に不向きなのかもしれない。市場そのものは、成熟し、成長性が乏しかったり、極端な技術革新も望めない。また、商品格差もあまりなく、伝統的な生産手段に縛られている。労働集約的産業であり、環境の影響を受けやすい産業を指す。つまり、生産性や収益性が低い産業とも言える。ある著名な投資家が、コモディティ産業は、投資に値しない産業だと発言した。確かに、投資に値しないかもしれないが、国民経済にとって不可欠な産業でもある。

 現代、アメリカを代表とする産業は、エンターテイメントとIT、そして、金融だと森永卓郎氏はいっている。しかし、エンターテイメントも、ITも、金融も、昔は、それでは飯は食えぬと言われた産業である。飯の種とは、衣食住やライフラインに関連した産業であり、また、製造業のような実業、つまり、生きていく上に不可欠な物資を指して言う。エンターテイメントやIT、金融を否定したりはしない。ただ、それだけに支配されてしまうと人間は生きていけなくなると言うことを忘れてはならない。米があって、米を買う金が意味を持つのであり、米がなくなれば、いくら金があっても意味がない。(「「騙されない!」ための経済学」森永卓郎著 PHPビジネス新書)
 
 経済は、基本的には、生活の問題であって、競争の問題ではない。つまり、配分の問題なのである。極端な格差が貧困の問題である。貧困は、配分、相対的な問題であって、絶対的な問題ではない。絶対量の不足は、貧困ではなく、災害である。

 費用の中で一番重要な役割を果たすのは人件費である。経営実績を、ただ、競争力という事だけに特化させるのならば、若年の未熟練者に限り、短期間、働いてくれることが最も効率的である。その為に、企業は、作業の標準化を行い、また、パート、アルバイト、派遣社員に人員体制を移行させているのである。そうしないと生き残れないからである。また、メディアもそれを奨励している観がある。

 成功か、不成功かを人生の価値基準にしようとする傾向がある。つまり、成功者しか幸せになる資格がないとでも言わんばかりである。
 競争を絶対視してしまった社会で成功者というと例えば、オリンピックの金メダリストみたいなものである。目を血走らせて、競争に勝つことしか念頭にない。しかし、本当にそれで幸せな社会が構築できるのか。人間の幸せは、ごく限られた勝利者だけに与えられるものではないはずである。

 競争原理主義者は、公正な競争、公正な競争と何かというと公正な競争を言うが、未だかつて公正な競争など実現したためしなど一度もない。市場原理主義者は、規制を緩和し、極力、政府の介入を少なくすれば、公正な競争が実現すると思い込んでいるが、それは、むしろ逆効果である。競争ではなく、生存闘争になってしまう。ルールがあってスポーツは成り立つのであって、ルール、即ち、規制をなくせばそれは、闘争であり、戦争である。

 競争ならば、相手の息の根を止めるまで戦う必要はない。しかし、経済では、相手の息の根を止め、あるいは、呑み込み、叩き潰さなければ、争いは終わらない。市場は戦場なのである。

 競争は、善くても、話し合いは駄目だという競争原理主義者の主張はよく理解できない。大体、競争や闘争は善いが、話し合いは駄目だというのは、民主主義の原理からしても反している。話し合いが駄目だというのは、非公開、密談は駄目だというのであって、それぞれの見解を公に示したり、また、提携をすることも許さないと言うのは、明らかに行き過ぎである。つまり、妥協なき争いを奨励しているのに過ぎない。それは、際限なき殺し合いを招くだけである。

 プロスポーツの在り方は、一つの方向性を示唆している。プロスポーツのコミッションは、ある種の同業者組合のような組織である。そこでは、公正な競争の在り方を協議決定している。中でも、NFLのコミッションの在り方は、注目に値する。

 独占化、競争下の問題は、例えば、日本という国に野球チームが百チームは、多いが、一チームでは試合ができないと言った問題である。では何チームが適切であり、新規参入は可能するべきなのかが問題なのである。
 口では、平和を唱えながら、戦国乱世を望むものもいる。だから、戦闘的な平和主義者などという者が出現するのである。
 戦国乱世を幸せと感じるのか、平穏無事を幸せと感じるのか。戦国乱世は、下克上である。実力がありさえすれば、門閥家柄に関係なくのし上がることができる。しかし、当然秩序は乱れる。反対に、平穏無事の世界は、秩序が重んじられ、世の中は、固定的となる。
 市場にも、縮小均衡の時と、拡大均衡の時がある。拡大均衡の時は、市場は拡大し、獲物の取り分は、黙っていても増える。激動の時代でもある。野心家にとっては、面白味のある時代である。しかし、それは、時として、周辺の市場や企業を侵略し、又は、倒すことによって得られる獲物である。つまり、戦国乱世なのである。情け容赦のない世界である。
 縮小均衡期の市場というのは、成熟期の市場である。守成の時代とも言える。平穏無事だけど変化に乏しく、実力以外の物がものをいう時代でもある。野心家にとっては、面白味のない時代かもしれない。成熟期というのは、潰し合いの時代でもある。保守的で、守りの時代でもある。
 毎日、戦いに明け暮れ、落ち着く間のない時代が良いかといわれれば、そうとも言い切れない。
 アメリカは、日本以上に、零細企業が多く。多くの中小事業者は、競争など望んでいない。平均的な中小企業の経営者は、上昇志向や規模拡大指向がさほど大きくないと言う研究結果もある。(「日本の中小企業」鹿野嘉昭著 東洋経済新報社)要するに競争が全てではなく。幅広く、現状維持を望む層が存在するのである。家庭や自分の生活を重視し、無理をせずに、ゆとりある人生を送りたいと思う方が一般的である。彼等を無気力で堕落した人間と決め付けるのは勝手だが、だからといって、無理矢理、過酷なレースに参加させる権利は、誰にもない。
 縮小均衡期にある市場に要求されるのは、秩序ある競争である。成長期には、給与を上げても成長が吸収した。しかし、縮小均衡期では、デフレにより、実質的な所得が増えても、名目的賃金は、横這いか下がる場合がある。その時下方硬直的では、企業経営は、維持できない。名目的な賃金を抑制しながら、志気や意欲、モラルを保たなければならなくなる。

 現代は、平穏無事、平和をきらい、争いや戦い、競争を好んでいる。将に、戦国乱世を指向しているのである。だから、戦争や紛争が絶えない。
 変動や流動は、何でも良くて、安定や固定は、唾棄すべき事だと言いきれるのか。要は適度な競争が保たれるのが一番良い。
 戦国乱世においては、領土の拡大に伴って家臣への報償を加増することができる。しかし、加増すると言う事は、敵国と戦い、相手を倒して、その領土を奪い取ることである。それは、敵も味方も大きな犠牲なくしては不可能である。戦国乱世が治まり、世の中が安定してくると家臣への報償は頭打ちになる。江戸時代では、家の取りつぶしや改易が相次ぐことになる。確かに、戦に明け暮れるのも過酷だが、所謂、リストラクチャリングも、また、過酷である。

 経済は、一方通行なものではなく。双方向なものである。つまり、誰かが得をすれば、誰かが損をすると言うだけのものではない。交易は、一方向的なものはない。基本的に、双方向的なものである。一方向的な交易とは、植民地的な交易であり、しかも、強奪的なものであり、交易といえるかどうか疑問である。それは、経済の正常な在り方ではない。経済とは、ギブ・アンド・テイクな関係の上に成り立っている。その根本は、信頼関係である。
 不正な利益、ボロ儲けはできないけれど、堅実な収益が上げられる体制こそ望ましいのではないのか。

 「創業より難し」という言葉がある。言い換えれば、成長期の拡大均衡型市場よりも縮小均衡型市場における経営のほうが難しいという意味か。新しい事業をうち立てそれを軌道にのせるのも難しいが、成熟し、成長が期待できない市場において志気やモラルを維持するのも困難なことである。ただ一番難しいのは、拡大均衡と縮小均衡ではとるべき政策が違うという事と、いかに、舵取りの変更をするかである。

 市場は絶えず操作されているのである。需給だけで価格が決まるというのは、幻想に過ぎない。むろん、需給も重要な要素である。しかし、需給以外にも、投機の動きや、その時の政策、業者間の取り決め、規制、制度の変更、国際情勢、自然災害、市場の状況と言った多くの要素が絡み合って価格は形成される。問題はその力関係に過ぎない。

 市場の競争を奨励しながら、市場が寡占状態、飽和状態になると、国際競争力を強化するために、業界を再編成すべきだと市場原理主義者は言い出す。国内市場を整理すれば国際競争力が付くと言うが、日本の自動車業界や、家電業界は、国内で激しい競争を繰り広げて成長した。
 問題は、市場の構造的なことである。つまり、産業をどの様な環境にするか、その為には、どの様な構造が良いのかを見極めるべきなのである。
 市場には、拡大均衡期と、縮小均衡期がある。成長期の産業というのは、拡大均衡期にある。拡大均衡期にある市場は、成長によって均衡する。つまり、早く、到達点に達した者が勝ちなのである。しかし、敗者にもそれなりの配当がある。しかし、縮小均衡期に入った市場は、生き残り生存競争から生存闘争へと質を変える。そうなると勝者総取りになる。

 成熟した産業で、人手もかかり、競争にそぐわないから経済にとって重要なのである。新規で、著しい成長や変化、技術革新に支えられた産業や市場は、不安定で流動的である。その不安定で流動的な産業に依拠している限り、社会も経済も安定も均衡も望めない。元々、その様な社会、経済体制下では、変化や不安定さに利益を求めているからである。

 しかし、その様な産業は、雇用も生産も限られている。コモディティ産業は、市場として安定しているからこそ、利益は、薄いが安定し、均衡した収益が上げられるのである。競争は、新興で、成長期にある産業なこそ相応しい。成熟し、収益力を失った産業に過度な競争を強いるのは、市場そのものを破壊する行為である。

 問題は利益とは何かである。利益とは、その産業にかかわるもの全体の利益である。企業収益は、その一部に過ぎない。ある意味で社会的取り分を指す。利益を上げられることは、その社会に必要とされていることの証でもある。社会や国にとって必要な産業が、利益を上げられなくなれば、その産業は成り立たなくなる。その産業をその社会が必要とするならば、その産業が成り立つような仕組みをその社会が構築する責任がある。適正な利益を上げる仕組みが重要なのである。
 伝統的で、成熟した市場を支える産業が収益を上げられないとしたら、先ず、その社会構造、や経済構造に問題がないかを点検すべきなのである。国内で儲からない産業は、廃業してしまえと政治家や為政者が言うのは、自らの責任を放擲することに等しい。儲からないからこそ、政治の力が必要なのである。国家にとって、国民にとって、産業はどうあるべきかが、重要なのであり、ただ、競争さえすれば良いという思想は、短絡的に過ぎる。

 競争は、手段である。目的は別の所にある。同様に、戦争は手段であるなどと言われたら堪らない。戦争を手段として正当化する経済があるとしたら、それは、それだけで不当なものである。手段は、目的を正当化できない。経済は、国民生活を実現するものである。国民生活の安全と安定、平和を維持すること。国民を幸せにすることこそが経済の目的なのである。

 市場の根底にあるのは、経済である。競争ではない。競争は、手段であって目的ではない。つまり、経済をどの様にするのかが、その為に、市場の環境、状態をどうしたいのかが、根本である。競争によって市場を活性化させたいのならば、それも効果的であろう。しかし、競争は万能薬ではない。乱売や安売りによって市場が疲弊しているのならば、まず、市場の秩序を取り戻すことが肝心なのである。つまり、競争が是か非かは、市場の状態や環境によって決まる相対的な事柄なのである。

参考
奥田秀樹(スポーツライター)/我々の戦う相手は、映画や音楽産業だ 好況「アメフト」が導入した「社会主義」/『YomiuriWeekly2004.9.19』

アメフトが導入した社会主義
NFLは1993年以降、サラリーキャップ制度が徹底している。今季だと、全球団がサラリー総額を8060万j以下に抑えねばならない。アメリカンフットボールは約50人の大所帯、激しく身体と身体を衝突させ合う格闘技だ。小さなけがなら毎試合、ほとんど全員がするし、しばしば大きなけがで戦線離脱となる。

 だが、制度上、MLBの野球のニューヨーク・ヤンキースのように公式戦途中に大物選手を2人も3人も補強してくることは不可能。それゆえ、シーズンに入って、けが人続出のチームは苦しい立場になるし、逆に前評判が芳しくなかったチームでも、うまくまとまり、けがが少なく乗り切れれば、調子に乗って快進撃ということも起こり得る。絶対的に強いチームもなければ、絶対的に弱いチームもないのである。
 過去5年のスーパーボウルの結果が顕著だった。99年の優勝チーム、ラムズ、00年のレーベンズ、01年のペイトリオッツは誰も優勝候補に挙げていなかった。去年の準優勝チーム、パンサーズも、01年1勝15敗、02年7勝9敗からいきなり公式戦11勝5敗で、プレーオフを勝ち進み、スーパーボウルに出場したのである。
 全米のNFLファンが、今年こそ自分の贔屓球団がシンデレラチームになる、と期待している。おかげで、どの球場でも満員売り切れ、TV視聴率も高いのである。(中略)
 32球団のオーナーたちは、「われわれは32人の資本主義者の集まりだが、リーグ運営に関しては社会主義に賛成している」と言う。
 選手組合の代表ジーン・アップショウは、「我々は、オーナーたちを敵とは見ていない。ビジネスパートナーだ。我々の戦う相手は、他の娯楽産業で、映画や音楽産業に負けないよう、いかにプロフットボールを魅力ある商品として消費者に提供していくか知恵を絞っている」と話す。
 93年にサラリーキャップが導入されたとき、選手の間ではサラリー額の抑制につながると反対の声があった。だが、この10年間で観客動員数は増え、TV放映権料が上がることで、キャップの上限は初年度の3100万jから8060万jと、2・5倍以上になっている。NFLでは、TV放映権料、チケット売り上げなどによる収益の65%から70%が選手のサラリーに充てられることに決まっているからだ。そして、この期間に四つの新設球団が参加し、チーム数は28から32に膨れ上がっている。


 

過当競争

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