多くの人は、市場の独占と言った経済的問題を道義的な問題として捉えるが、市場の独占の是非は、市場機能の適正化の問題であって、道義的問題ではない。先ず、この点を確認しておく。そうしないと、なぜ、市場の独占を禁じるのかの意味が薄れてしまう。
 独占禁止法を道義的な問題にすり替えて考える者もいるが、それでは、独占禁止法の本質、真意を理解することができなくなる。独占禁止法を正しく理解するためには、市場の機能をどの様に捉え、何を期待するかにかかっている。

 そもそもカルテルや独占は悪い事だという認識が昔からあったであろうか。また、賄賂や収賄も同様である。君主制や世襲も良くないことだという認識が生まれたのは、市民革命以降の問題であるし、男女同権も然りである。
 カルテルが悪いというのも、独占が悪いというのも、もっと極端に言うと、人の物を盗んではいけないということも、所有という概念が確立されて以後のことである。思想なのである。思想なのである。
 思想ならば、思想として扱うべきなのである。それをあたかも自然の法則のように決め付ける。問題は、思想信条の自由と言いながら、思想の中でも根本的なことを強制しているのである。

 なぜ、独占的市場はよくないかというと、市場として機能しなくなるからである。独占市場における価値は、単一価値、即ち、絶対的基準によって決められる。しかし、本来市場価値は、需要と供給を調整する為に、相対的基準を基礎としないと有効に機能しない。それ故に、独占的市場というのは、機能的にあり得ないのである。

 経済は、本質的に相対的なものである。市場価格は、相対的基準であるから有効に機能する。元々貨幣は交換価値を表象したものであるから、交換の用に立たなければならない。貨幣価値は、財の市場価値を測定するための道具である。財は、需給の量によって裁定されるべきものである。それが絶対的な価値を持てば市場価値は硬直的、特に、下方硬直的なものとなり経済の柔軟性は失われる。

 しかし、これはあくまでも機能的問題であり、倫理的問題ではない。つまり、独占的に市場を支配する者は、悪であるというのではない。ただ、市場の正常な機能を阻害する存在だと言うだけである。だから、あくまでも、ビジネスライク、実務的に処理すべき問題である。不正というのとは性格が違う。

 独占市場というのは、統制経済と変わりなくなる。しかも、公的機関による統制ではなく。私的機関による統制を意味する。私的機関が、市場価値を独占的に決定するのである。経済的権力は、政治的権力よりも力を発揮することがある。それ故に、独占企業は、その産業において圧倒的な力を行使することが可能となる。それ故に、独占的体制は、避けなければならないのである。

 市場は、放置すれば、エントロピーの増大によって定常的状態に収束する。独占禁止法というのは、この市場の定常的状態を回避するためにある。故に、単に独占的状態を回避すればいいと言うのではない。

 市場は、放置すれば寡占、独占的体制になる。なぜならば、産業というのは、基本的に排他的、閉鎖的なものであり、創業者利益や先行者には、いろいろな特典、例えば技術や販売網、ノウハウ、有形無形の資産、人材といった蓄積が生じるからである。技術やノウハウ、人材の蓄積は、世間が考えているほど容易いものではない。それなりの年月と実績が必要である。それが信用である。信用という価値は測りようがないのである。故に、新規参入は、参入障壁が高いと言うだけで難しいというのではなく。技術やサービス、ノウハウ、人材の蓄積という面、信用という面からも難しいのである。規制を緩和しさえすればいいと言う程単純ではない。
 その上、経営主体は、基本的に市場を支配することによって収益の安定を計ることを基本として、結果的に独占を目指す傾向がある。
 また、市場は、技術やコストは、平準化する傾向があり、その為に、市場は成熟するに従ってコモディティ化する傾向があるからである。コモディティ化すると商品格差は、質よりも量的に依拠するようになり、勢い価格に収斂する。価格による格差は、低価格か、乱売合戦を生み出し、個々の経営主体の経営を圧迫する。
 また、コスト面に開ける格差は、最終的に人件費に収斂する傾向がある。人件費は、労働条件と所得を基礎とする。その為に、その国、その地域の物価や雇用慣習によって決定的な影響を受ける。
 市場が質的な競争を主体としたものであるならば、市場の多様化が保てるが、その様な業界は限られている。大量生産、大量消費は、商品の規格化、標準化を促す効果がある。また、生産工程は、効率化、生産性を重視すればするほど単一化する傾向がある。
 また、投資から見ても高効率、高生産性の設備を設定すれば、高額の投資と、高率の稼働率、操業度を前提とせざるをえず、それは、固定費の増大と、大量生産、大量供給を前提とした生産体制の成立を意味し、必然的に損益分岐点を高めることとなる。
 結果、供給過多を引き起こして、価格の低下を招く。
 この様な収益の圧迫は、経営主体の淘汰を促し、必然的に、寡占、独占状態を招く。つまり、供給者側の前提条件に大差がなければ、価格競争に収斂し、結果的に、企業の体質は個性がなくなり、単一化される。それが高じると市場は、単一的となり、事実上寡占・独占体制となるのである。
 適正な競争を維持するためには、市場に対する規制が必要である。ただし、その規制は、絶対的なものではなく。市場の環境、状況に合わせて適時、発動されなければならない。

 企業、即ち、経営主体というのは、放っておけば、収益が悪化するのである。また、M&Aが、独占、寡占を急速に推し進めると言う効果がある忘れてはならない。構造不況業種の存在がそれを証明している。市場が成熟化すると産業は、構造的な不況構造に陥る。そして、衰退していくのである。かつての繊維業界が典型である。
 松下幸之助は、利益を上げられない企業は、罪悪だと言ったが、この様な見方は、圧倒的に少数派である。世の中の大多数のメディアや官僚というのは、歴史的に見ても金儲けをする事を罪悪視する傾向がある。それが士農工商という差別に繋がっているし、また、公営企業の不経済にも繋がっている。つまり、金銭を卑しむ傾向である。金銭を卑しむ考え方は、貨幣経済、市場経済を否定する考え方である。
 金銭を卑しみ、金儲けを罪悪視する。その証拠に、民間企業の経営者は、事業に失敗すれば、私財を投げ出して保証させられるのに、公営企業や公共機関が破綻してもその責任者が罰せられることはない。むしろ、気の毒がられて、退職金を上積みされることすらある。それは、公共事業は、最初から金儲けを目的としていないと言う意識があるからである。だから、経営に失敗したとしても責任を問われることはない。それが財政破綻や社会保険庁、旧国鉄、財政赤字を生み出すのである。金儲けをすることは、犯罪ではない。真っ当なことである。
 メディアの人間は、自分は、当然の高額報酬を受ける権利があるとしながら、金儲けを批判する。プロ野球の選手の多くは、自球団やプロ野球全体の収益には無関心である。金の問題じゃあないと言いながら、金に汚い。しかし、そう言う無関心さが独占を生み出す土壌となっているのである。

 時代劇でも悪徳商人と悪徳代官が不正行為をして暴利を貪っているというのは、悪役、敵役の典型である。しかし、不正行為をしてまで儲けようとしている商売人は、圧倒的少数派である。多くの商売人は、自分の仕事に誇りを持っているし、使命感もある。商売人は、泥棒や詐欺師、ペテン師と同じではないのである。
 一般で考えられているほど、商売というものは割りの良い物ではない。売上高純利益率は、数%に過ぎない。企業の寿命三十年説が示すように、何代にまでわたって続けられている商売というのは数がかぎられている。
 特に、市場が成熟期になると、目立った技術革新も終わり、新規商品の開発も滞りはじめるのが常である。それ故に、企業は、協定や業務提携なので過度の競争を避けようとする。さもないと、市場は独占、寡占状態に陥る。
 しかし、自分勝手に協定を結んだり、排他的な団体を結成するのもルール違反である。だからこそ、第三者による公正な機関が必要とされるのである。

 企業は、収益を上げる事によって社会に貢献している。収益を上げる事によって、取引業者、関連者にさの分け前を与え、また、社員、従業員に所得を提供しているのである。

 コモディティ化した産業は、最終的には、人件費の水準によってその競争力が試される。人件費は、所得に依拠している。
 所得は、生活していくために絶対必要額と付加価値とから構成されるべきものである。生活していく上で絶対必要額は、常に確保されなければならない。それは、仕事の成果と言うよりも必要性によるのである。故に、物価水準や生活水準を基としている。それ故に下方硬直的なのである。
 これは、コモディティ化した産業の根本的競争力に関わる問題である。キャッチアップ途中の地域や国は、相対的に生活水準物価水準が低い。また、技術革新や成長段階にある産業は、進化や成長によって所得や物価の上昇分を吸収できる。その為に、先行した国、先進国に生産拠点を持つ企業は、成長段階、途上段階にある国に生産拠点を持つ企業に対して競争力を失うのである。
 それを構造的に保護することは、犯罪ではない。当然の施策である。
 為政者は、適正な収益を上げ、尚かつ、適正な競争によって適正な価格が維持されるような市場環境を整えるのが任務なのである。

 なぜ、企業は、M&Aをしようとするのか。それは、企業の側に、M&Aをしなければならない事態が発生しているからである。巷間言われているように、企業家の際限なき欲望によるものとは限らないのである。それ以前に、M&Aをしなければ企業が存続できないような状況が発生していると考えるべきなのである。
 M&Aというのは、高度な知識や技術を必要としている上、精神的負担もリスクも大きい。人間関係や会社に対する愛着も強く容易く決断、実行できる事柄ではない。
 業績が悪化したから、また、将来に不安があるからか、余程の動機やインセンティブがない限りM&Aを経営者は、やろうとは思わない。リスクが大きい上、得る者が実際は少ないからである。事業再編などと言うと格好は良いが、実際は、追いつめられてM&Aを行うのである。ただ、一度、M&Aに成功すると、味を占め弾みがつくとは言える。しかし、それはあくまでも結果論である。本業を台無しにしてまで、M&Aにかけるなどと言う事は思いもつかないし、また、しない。大体、成功した人間が、未知の挑戦などしないものである。
 独占を悪だと決め付ける前に、独占的市場がなぜ発生するのか、その構造を明らかにすることが大事なのである。独占的な状態になるのは、独占的にならざるをえない事情が隠されているのである。

 市場を活性化するためには、競争は不可欠である。しかし、無原則な競争は、寡占、独占を加速し、市場の機能を低下される。M&Aが、独占、寡占を急速に推し進めると言う効果がある忘れてはならない。

 情報を把握していなければ、仕事を仕切ることはできない。しかし、把握できる情報には、限りがある。自ずと拡大できる企業規模の範囲には限界がある。その範囲、規模を越えて企業が拡大を続けている。これは、尋常なことではない。
 市場を放置し続ければ、市場は、制御不能な状態に陥るのである。

 そこに、国家のような第三者機関の必要性があるのである。ところが現在の問題点は、更に深刻で、国家の枠組みを超えたところに問題があることなのである。

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独占的市場