消費者保護とは、消費者を様々な犯罪や事故、災害から保護することである。市場における消費者保護というのは、市場で生起するリスクから消費者を守ることを意味する。
 市場には、色々なリスクが待ち受けている。そのリスクから消費者を守るのが、消費者保護である。

 では、消費者とは何か。消費者というのは、市場から財を購入し、その財を消費する主体をさしていう。生産された財は、最終的には消費者にわたる。消費者とは、売り手にとって買い手、即ち、顧客を言う。消費者保護というのは、買い手を保護することを意味する。 
 ならば、何から、なぜ、消費者を保護しなければならないのかである。その理由の一つが、市場における、情報の非対称性にある。
 消費者というのは、その道の専門家ではない。消費者は素人であることが前提である。そこに、プロが介在する必要性が生じる。それが職業人の価値である。プロは、即ち、専門家であるから、必然的に、買い手である消費者に対して責任が生じる。また、買い手は、売り手を信頼して商品を購入するのであるからその売り手の信用を社会的に保障する必要がある。そうしないと、社会利信用が失われてしまう。市場経済は、信用関係の上に成り立っているために、市場の信認が失われると市場は成り立たなくなるからである。つまり、消費者保護は、消費者を保護するだけでなく。市場を保護することでもあるのである。

 市場には、なぜ、リスクがあるのか。その原因の一つに情報の非対称性がある。売り手と買い手との間には、情報の量、質ともに格差があるという事である。その為に、圧倒的に消費者の側が不利な状態にある。この様なリスクに対しては、売り手側が責任を持つべきなのである。それが消費者保護の大前提である。だからといって消費者は、リスクに対して全面的に責任を免除されているというわけではない。売り手は、その専門性において責任を持たなければならないという事である。

 リスクの中には、人的なリスク、即ち、売り手である人間が信用できる人間か、否か。極端な話し、誠実で信用がおける人間なのか、詐欺師やペテン師であるかどうかの保障もないのである。

 情報の非対称性というのが大前提であるから、情報の開示、特に、事前における情報の開示が重要な鍵を握っている。つまり、予(あらかじ)め消費の基本的機能に対する情報やリスクについて相手に伝えておく必要がある。また、消費者は、情報を得るための努力をする必要がある。

 タバコの害やインフォームドコンセントが典型である。

 消費者保護というのは、消費者を事故や災害、犯罪から保護することである。事故とは、不測な事柄で何等かの物的、身体的、金銭的に実利的な損害を受けることである。市場における事故には、物的事故、人的事故、金銭的事故があり、また、被害も物的被害、人的被害、金銭的被害がある。犯罪も、物的犯罪、人的犯罪、金銭的犯罪がある。犯罪とは、元々故意に違法な行為を仕組まれた事件を指す。ただし、その中には、未必の故意や過失も、意図したわけでなくても、結果的、実質的に消費者に損害を及ぼした場合は、犯罪として見なされる場合がある。金銭的犯罪には、情報の開示や契約上といった情報や法に絡んだ事件も含まれる。ただ、現実には、何を犯罪とするかは、法の定めに従う。例えば、同じ宣伝でも、個々の国の法の在り方によっては、犯罪となりうる国と合法である国があるのである。

 事故の原因として第一に、機構的、機能的な要因、第二に、運転などの技術的な要因、第三に、法などの制度的な要因、第四に、運用上の要因、第五に、管理的要因、第六に、経済的要因、第七に、情報的要因、第八に、道徳的、規範的要因、第九に、災害のような偶発的要因が考えられる。

 自動車を例にとれば、自動車の機能的、機構的な部分は、製造者が責任を負うべきである。しかし、運転上の問題は、運転手の責任に帰すべきであり、交通法の制定と言った法制度に対しては、立法府が、道路の整備や信号の設置と言った社会設備の建設、保全は、行政府が、法の裁定は、司法が、免許の交付や違反の取締と言った法の運用、執行は、警察が、被害の補償は、各種保険がと言う具合にそれぞれの機関がそれぞれの役割に基づいて責任を果たすことによって消費者保護は保たれるのである。
 消費者保護というのは、構造的なのである。

 経済性というと、価格に特化し、安ければいいと言う風潮があるが、安かろう、悪かろうでは困るのである。また、近年、初歩的なミスによる事故が多発している。
 消費者のためにと言う大義によって強行された市場の規制緩和、無原則な規制緩和が、本当に消費者の為になっているのかを検証する必要が出てきたのである。
 防災的観点からだけでなく、食の安全性や金融の安全とこれまで問題とされなかった分野、目に見えない部分での安全性が問われるようにもなってきた。

 消費者は価格で商品価格を判断する傾向がある。それは、消費者に与えられる情報の重要な部分を価格が占めているからである。何も消費者は、安い物ばかりを望んでいるとは限らない。高級ブランドを高価だから求めるというのも価格に基づく判断の一つである。

 市場は、売り手と買い手によって成り立っている。そして、市場を成り立たせているのは、何等かの差である。差がなければ、物は流れない。また取引は成立しない。市場を動かす原動力は、差である。

 この差を生み出すのは、需要と供給である。需要と供給によって価格が形成されるのである。そして、需要と供給を調整するのが市場の役割である。
 故に、市場の役割は、競争だけではない。競争の役割というのは、需要と供給の調整し、適正な価格を決定するためのものである。しかし、価格決定の手段、要素は競争が全てではない。競争はあくまでも手段なのである。また、価格もただ安ければいいと言うわけではない。
 しかし、消費者が最終的に得る情報は価格である。しかも、本来、正しい情報、専門的情報を与えなければならないマスメディアが、視聴率や販売部数を上げるために、目先の情報をセンセーショナルに取り上げるようになり、安売り業者を意味もなく称揚するようになると勢い、価格で何でも判断するようになる。むろん、逆に、高級ブランドをただブランド価格だけで、判断するようになると高ければ、高い程良いという、極端な判断に偏りがちになる。

 費用対効果を言うと、すぐに営利主義を悪く言う者がいる。営利事業であり、営利事業だから経済性が保たれるのである。つまり、経済性というのは、何も、収益性ばかりを言うのではない。本来的に、安全性も含まれているのである。保安や安全性を怠れば、最終的には、甚大な損害に見舞われることぐらい企業経営者は、百も承知している。
 しかし、市場が短期の収益性ばかりを問題し、目先の利益を上げなければ資金が調達できないような状況、事態に追い込まれれば、経営者は、安全性や衛生性を犠牲にしなければならなくなる。

 そうなると、消費者も最低限の知識を持つことが、当然、要求される。いくら安全装置を付けても使い方がわからなければ、事故は防げない。どんなに先端技術で武装しても自動車も運転が悪ければ、自動車事故は防げない。そうなると、自動車を動かさないのが一番良いという事になる。
 また、費用対効果の問題もある。安全にいくら費用をかけても消費者である買い手には、その必要性が理解できないといった事態である。だからこそも規制が必要となるのである。
 安全や環境にかけた費用は、市場ではなかなか評価されないのである。

 市場原理主義者のように競争を市場の絶対的な原理のようにしてしまうと、市場の参加者は、目先の利益ばかりを追うようになる。それは、市場が利害相反する者達が集まり形成させた場だからである。

 それでなくとも、市場は、絶えず脅威にさらされている。小さな工場の事故でも、その工場の製品が特定の産業にとって不可欠な部品を独占的に製造していたら、とたんに市場は混乱に見舞われる。2005年8月と9月にアメリカに上陸した「カトリーナ」と「リタ」という超大型ハリケーンは、石油設備のみならず、世界の石油市場に甚大な被害をもたらしたのである。

 この様な市場を放任しておいて消費者を保護できるかというとそれは不可能である。第一に、情報の非対称性が前提とされているのである。特にも金融技術が発達した今日、高度な金融技術を駆使して開発された商品を消費者だけの判断に委ねることは、危険、極まりないことなのである。

 価格だけでは、安全や衛生、環境へどれくらい生産者が費用をかけているのかを判断することは難しい。食の安全が問題となった時、実際にその食品にどの様な農薬や肥料が使われているかを価格から判断することは難しい。また、表示されている情報から判断するのも困難なのである。財務情報、会計情報だけから判断すると、安全や衛生に費用をかけない企業の方が収益力がある優良企業に見えるのである。
 悪化は、良貨を駆逐すると言うが、規制を緩和し、市場を放任すれば、優良な企業が淘汰され、悪質な企業が生き残ることが多々ある。
 それ故に、市場は保護される必要がある。また、規制される必要があるのである。

 消費者保護の対極には、消費者責任があることを忘れてはならない。最近、食の安全に関して中国が槍玉(やりだま)に挙げられている。この事は、製造者責任の問題であり、何も中国に限らず、成長過程にある地域や産業に往々にして現れることである。日本もいろいろな法や制度が確立する以前は、公害に苦しめられ、また、粗悪品や模倣品を輸出したと咎(とが)められてきた経緯がある。逆に、現在、アメリカは、製造責任に厳しく。何でも法的に訴えられてしまうために、製造業や医療の発展が阻害されるという事態まで引き起こしている。どちらも、極端すぎれば、悪影響がでて、健全な産業の発展を阻害する要因となる。

 かつては、消費者の立場が弱く、消費者の権利が軽んじられたから消費者運動が起こり、消費者の権利が確立された。それは、消費者のみならず、地域住民の健康管理や環境問題にも波及して、産業の基盤の整備作りを促したのである。
 権利が確立されたという事は、義務も同時には制したと考えるべきなのである。なぜならば、権利は、立場を変えると義務となるからである。消費者の権利は、製造者の義務を意味し、併せて、製造者の権利を派生される。製造者の権利は、消費者の義務である。

 ただ、基本は、自分の身は自分で護らなければならない。消費者は、商品を使用する上で最低限知らなければならない事は、知る権利があると同時に、知る義務がある。自動車の運転が好例である。自動車の免許持たない者が運転をして、事故を起こした場合、事故を起こした原因や責任は、自動車を製造した者にあるとは言えない。自動車のように法的に決められている製品は、責任の所在を比較的明らかにすることができる。しかし、法的な規制のない財は、責任の所在が不明確になり、製造者か消費者か又は、仲介業者か一方に責任が偏る傾向がある。
 ただ、いずれにしても、基本は、自分の身は自分で護ることでしかない。つまり、権利を主張しない限り、自分の身を護ることができない。また、その機会を逸することになるのである。

 重大な事件や災害、事故が発生すると資本家、企業悪玉論が台頭する。何か常に、企業は、責任逃れを画策し、事実を隠蔽するという発想である。例え、事故原因がハッキリせず、責任が確定していない段階でも、また、法的に、自分達の立場を明らかにできない段階でも企業を犯罪者扱いする傾向がある。しかし、この様な姿勢は、事故の原因究明には、良い影響を及ぼさない。

 何等かの災害が発生した時には、冷静、かつ、迅速、沈着な対応が要求される。特に、初動の活動が重要なのである。不用意に不確実な情報を流すことは、無用な混乱を引き起こすだけの場合がある。その点をよく見極めて的確な判断をすることが肝心なのである。

 何か事あるごとに、日本のマスメディアは、あやまれ、あやまれの大合唱になる。日本以外の国では、意味もなく謝罪など繰り返したりはしない。なのに、日本では、何が何でもあやまれである。原因が究明される前に、特定もされていない場合でもとにかくあやまれである。関係しただけであやまらなければならないと言うのが彼等の言い分である。誰に、何をどの様に謝らなければならないのかもわからないのに謝れである。一国の総理であろうと、一軍の将であろうと、大企業の経営者であろうと、お構いなしに謝れである。しかもよく冷静に、考えてみると、何も被害を受けていない、事件と関係ない者達にたいしても謝れと言っている。要するに、マスコミは、自分達、つまり、報道機関に謝れと言っているんである。では、何に対して謝れと言うのか。世間を騒がしたことに対してである。これでは、世の中の矛盾全てに対して謝らなければならなくなる。

 謝ることが問題の解決に繋がるならばそれも良い。つまり、再発防止や、被害の拡大を防ぐ事、予防に繋がるのならば別である。しかし、肝心な事は、再発防止策や応急的対策、予防策と言った置き去りしてただ謝れと言っているだけである。謝って責任がとれるならば、それなりの意味もある。しかし、謝るだけでは責任をとることにはならない。問題は、具体的にどの様な処置をするかである。事態が進行している最中に責任を問うのは、事態を拗(こじ)らせるだけである。

 彼等には、ある種の奢りがあることは確かである。一つは、自分の力に対する奢りである。今一つは、人間に対する奢りである。何事にも不確定要素はつきものなのである。全てのリスクを予知し、計算して製品を作るなどというのは、神業なのである。それは、人間を万能の神だというようなものである。予期せぬ天変地異が起こるのは、人間が悪いからではない。偶発的な問題である。そして、リスクは、その不確実で、偶発的であることを前提としているのである。国家や国際機関ですら制御できないのがリスクなのである。つまり、人間には、限界があるのである。その限界を超えたところに基準を設定されれば破綻するのは必定である。

 誰に対し、何に対し、どの様に、誰が、なぜ、謝らなければならないのかを明らかにしないで、あやまれ、あやまれと意味もなく大合唱をしても、ただ、名誉を傷つけるだけで何の益もない。それも何の被害も受けていない、当事者でない人間が感情的にがなり立てても消費者保護や弱者の味方にもならない。大体、誰が、弱者であるかは、その時の状況によって変化するのである。

 結局、消費者保護も最後には、モラル、倫理観の問題に行き着く。それぞれが各々自分の責任の範囲内で行動することが要求されるのである。
 消費者と製造者、国や第三者機関、それぞれが応分の責任と負担を追うのが原則であり、問題それぞれの責任の範囲を画定することなのである。

 自己責任の部分と他者責任の範囲の画定が重要な課題なのである。その点を勘違いしてはならない。その上で、市場の在り方を考える必要があるのである。

 リスクというのは、不測な事態だからリスクなのである。そのリスクに備えるのは、何も消費者だけではない。製造者も、国家も、一致、協力して対処すべきなのである。責任を問題とするならば、二度と同じ間違いを犯さないことである。その為には、それぞれがそれぞれの立場に応じて応分の責任を果たしていく、果たせる環境、体制を作り出すことなのである。

 自分の言動に責任を持たない言論人も、ある意味で消費者である読者に責任を果たしていないと言える。

 消費者保護と言っても、全て消費者を、全ての事案を、製造者や国が、保護することができるわけではない。製造者の国家も神のように全知全能ではないのである。
 最近のメディアは、神の如き振る舞いをする。また、神の如き能力、全知全能であることを製造者や国家に要求する。全ての災害を予測、予知し、それに備えることができなければ、製造者や国が悪いと決め付ける。
 しかし、事故、災難は、予測し得ない、不足な事態だから、事故、災難なのである。はじめから予測、予知ができることならば、それは、事故、災難ではなく。犯罪である。だから、メディアの人間は、犯罪者を仕立て上げたいだけなのである。そうすれば、記事になるし、金も儲かる。それがメディアの本性である。
 お客様は神様ですと言う言葉が流行ったことがある。しかし、お客様は神様ではない。神のように全知全能ではない。況わんや、製造者もである。
 人間は、神ではない。神にはなれない。故に、防災を心懸け、また、保安を準備するのである。消費者保安も行き着くのは、自己責任であり、モラルの問題である。それを、全て金銭的な問題に置き換えようとするところに、無理があるのである。


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