現代社会においては、環境保護もビジネスになる。しかし、市場の原理だけで、環境問題を、解決することはできない。大体、市場の原理は、市場の状況による原理であり、普遍的な原理というわけではない。市場そのものが人口的な構造物であり、市場の原理は、所与の原理、自明な原理、自然法則のような性格の法則ではない。競争の原理と言ってもそれを不変、絶対の如く扱うのは硬直的な考え方である。まず、経済の状況に照らして市場にどの様な働きを期待するのかによって市場の原理は考えられるべきなのである。経済が不活性化し、成長、発展に陰りがでたり、生産性や効率が著しく低下した時には、競争による効果は、上がるが、競争が過熱し、個々の企業の経営状態が悪化して体力が落ちている時に、過度な競争は、企業の倒産を誘発し、市場の独占、寡占を深化させてしまう。
 特に、環境のように経済性のみによって解決できないような問題、要因は、市場に対する規制を強化することに依ってしか、効果を上げることはできない。やたらに、規制を緩和すれば良しとするのは、短絡的に過ぎるのである。

 温暖化問題は、喫緊にして、深刻な問題である。対処をあやまれば人類の未来に暗い陰を投げかけることとなる。それ故に、前副大統領にして大統領候補であったゴア氏が、「不都合な真実」を著し、ライフワークとして取り組んでさえいるのが、その証左である。

 環境問題を考えると経済を国家が、主導権をもって構造化せざるをえないと考えざるをえなくなる。
 環境問題にとって決定的な影響を与えている要素は、社会のインフラストラクチャー、即ち、交通システム、エネルギーシステム、情報システム、食料の流通システムである。

 環境問題が深刻なのは、その問題の本質に関わる部分が、エネルギー、交通、食料、情報と言った個人の生活のライフラインや社会のインフラストラクチャーといった人類の生存の根幹に関わる所で起きていることである。

 つまり、環境問題の問題は、国家の仕組みの基礎、根幹に隠されているとも言えるのである。この事は、経済体制の在り方の問題でもある。そして、突き詰めてみると環境問題は、人間一人一人の生き方や幸せとは何かに収斂していくのである。

 それは、環境問題が、国家の枠組みや建国の理念に根ざさなければ解決しえないことを示唆している。
 しかも環境問題は一国で解決できる問題ではない。大陸国のように河川を共有している国々では、河川の汚染は忽ち国際問題に発展してしまう。大陸国でない島国の日本でも大気汚染や海洋汚染は人ごとではない。また、石油資源のような限られた地域に産地が固まっている場合、産地の政治問題は、忽ち、国際問題に発展してしまう。いまや、地球は、一つにまとまらなければならないのである。

 環境問題は、実は不経済な問題から端を発している。つまり、エネルギーや食料の無駄使いや浪費に原因があるのである。つまり、市場経済における効率性や成長性、生産性が、経済本来の在り方からすると不経済だという事になる。この様に我々が、現在、経済的だと思い込んでいる事象の中に、多くの不経済な在り方が隠されている。

 この様な不経済な在り方を生み出しているのは、大量生産、大量消費体制なのである。消費は美徳だと、使い捨てを奨励し、又、浪費を促す。資本主義体制や市場経済体制下においては、それが経済の活性化に繋がると信じられてきた。しかし、実際には、有限な資源を無制限に使い、又、環境を破壊する不経済極まりない行為なのである。そして、この様な経済感覚は、つい近年形成されたものにすぎず、それ以前は、資源の無駄遣いや環境破壊は、不経済な行為だという健全な意識が働いていたのである。

 中でも、戦争ほど、本来不経済な行為はない。ところが、現在の資本主義体制、市場経済では、経済を活性化する要因となる。そこに資本主義の病巣がある。
 しかも核兵器の拡散は、人類の多大の未来に多大な危険性を負わせることになる。一方に原子力の平和利用の必要性が、もう一方に、核兵器に拡散による人類的な危機が同時に発生しているのである。

 食糧問題やエネルギー問題の本質は、食料価格やエネルギー価格ではなく、食料の生産や需給と言った食料自体の問題であり、エネルギーの需給や生産と言ったエネルギー自体の問題である。ところが市場に現れるのは、食料価格であり、エネルギー価格と言った貨幣的現象である。そして、この貨幣的現象は、時として、実物経済から乖離した形で勝手な動きをすることがある。

 環境問題は、一つ間違うと人類の存亡に関わると言っても過言でないほど深刻な問題である。環境問題も市場原理主義者が言うように市場の原理にまかせておけば解決できるというような単純な問題ではない。

 温暖化問題だけでなく、環境問題は、深刻の度合いを増している。場合によっては、新たな紛争の火種にもなりかねない。しかし、反面において、世界各国がいろいろな試みをはじめてもいる。そして、その多くが、社会の仕組みの枠組みに触れているという事である。
 ある意味で都市計画そのものだとも言える。高効率で、循環システムを前提として、それでいて住みやすい社会の形成、考えてみれば、それは、人類が昔から取り組んできた問題なのである。そして、本来、経済も、社会も、政治も一つの構造物として、物理的な空間に実現してきたことなのである。それが広場を中心とし、その周辺に公共建築を配した都市造りであり、都市計画だったのである。
 それに対して、現代社会は、無秩序、無原則な都市造りをしてきた。その為に、都市としての統一性、景観の美しさは犠牲とされたのである。思い思いに自分達の好きなビルを建て、都市全体の機能は無視され続けてきた。
 特に、戦後の日本は、焼け跡の中で、何の計画も、規制もないところに自分勝手に家を建て、それを自由だと錯覚してきた。国民国家というのは、一つの共同体である。だからこそ議会を中心とした構造を持つのである。全体の調和を無視したところには成り立たないのである。つまり、共有部分と私有部分との境界線をハッキリさせることなのである。
 戦後の日本人は、基本的なことを曖昧にしたままで私的領域ばかりに固執してきた。それを個人主義だと錯覚したままである。
 環境問題に取り組むためには、先ず全体の環境に目を向ける必要がある。その上で自分達のコミニティをどの様に形成していくかを必要な手続に基づいて構築していくのである。それに失敗すれば、新たな全体主義か、無政府主義の台頭を許すことになる。

 環境問題を解決し、よりよい社会を再構築するためには、経済本来の目的に従って社会や経済の仕組みを効率的な構造に再構築することなのである。それが経済の構造化なのである。

 現代人が言う経済的合理性という場合、経済の前に貨幣とか、市場とか、資本主義という言葉が付いていることを忘れてはならない。つまり、現代人が言う経済的合理性というのは、貨幣価値や市場価値に換算された合理性に過ぎないのである。つい百年少し前までは、金に換算できない価値があることを誰もが知っていた。愛情や、家族や、幸せ、健康、命、思い出は金に換えることができない物であることを承知していたのである。現代人は、何でも、金、金、金である。金で手に入らないものはないと思いこんでいる。神や魂までが、金さえあれば手にはいると思い込んでいる節がある。
 だから、税金を払いさえすれば国民としての責任や義務を果たしていると決め付けている。もっと酷い者は、税金を払いもしなくても権利だけは主張できると思い込んでいる。その場合の税金とは、金である。つまりは、金で何でも解決できると思っているのである。
 しかし、税ですら以前は、使役や労働で払ったものである。その典型が兵役である。又、物納が一般的だったのである。
 我々が言う経済的価値とは、貨幣価値に過ぎない。しかし、真の経済的価値とは、経済目的から導き出すものである。そして、経済とは、生活である。生活の便益である。国民の暮らしである。
 税というと、それも労働や使役でなどと言うと負担でしかない様に思うものが日本人には多い。しかし、かつては、この国を守るために多くの若者達が自分の肉体と命を捧げたのである。国民国家において、税の根本にあるのは、国民意識である。税は、御上から召し上げられる物ではないのである。自分達の国を造るために必要な費用なのである。つまり、国民国家においては、労役も強制的に徴用されるわけではないという事である。国民的合意に基づいたものなのである。それは、自分達が国造りに参画するという意識、自覚に基づかなければならない。財政が破綻したら、行政サービスが受けられなくなる。又、国家が護れなくなると言うのは、勘違いである。その時こそ、国民一人一人の自覚、意識が問われるのである。その時こそ、国や社会が我々を必要としているのである。さもなければ自分の権利と自国の独立を明け渡さざるをえなくなる。
 環境問題は、行政府だけで解決できる問題ではない。それは、国民、そして、人類が等しく努力すべき課題なのである。翻(ひるがえ)って言えば、環境問題は、金だけでは解決できないのである。

 環境問題の原点は、公害問題にある。公害は、古くて新しい問題である。人間が文明を築き上げた時から環境破壊は始まったと言える。いわば人間という存在自体が、環境を破壊してきたのである。故に、環境破壊は、単純に悪いと言ってしまえば、それまでである。つまりは、人間の存在そのものまで否定する事になりかねないからである。そうなると、誰のための、何のための、あるいは、誰に対する環境なのかが釈然としなくなる。つまり、環境というのは、あくまでも人間に対して、もっと有り体に言えば、人間が生きていく為の環境を指しているからである。
 何等かの開発は、環境破壊を必ず伴う宿命にある。我々は、開発によるバラ色の未来を思い描く反面において、必ずその影となる部分に注視しなければならない。逆に言えば、弊害ばかりを問題とすれば何もできなくなる。つまり、進歩はなくなるのである。

 戦争は、最大の環境破壊である。原子爆弾による惨禍は、いまだに、癒されていない。また、戦争によって破壊された環境はいまだに現状を復帰できないでいる地域が数多くある。と言うよりも、戦争が起こる以前と以後ではまったく違った環境になってしまったところがあるのである。

 公害は、古くて新しい問題だが、それが、社会問題として顕著に現れてきたのは、戦後の高度成長期にである。
 四大公害問題と言われるのは、熊本の水俣病、新潟の水俣病、四日市市喘息 富山県のイタイイタイ病である。いずれも高度成長期に起こされている。公害問題の先駆的な事件として足尾鉱毒事件がある。いずれ事件も、田中正造のような先駆的な人物による活躍によって明るみにされてきた。しかし、公害問題は、深刻で、何世代にわたっても深刻な障害をもたらす。
 高度成長期は、いわば、産業優先で環境に対する規制は、野放し状態であった。産業廃棄物は、何の規制も受けずに、そのまま垂れ流し続けられた。その為に、公害が、スモッグ、イタイイタイ病、水俣病と深刻な環境問題を引きおこし、国民の健康被害を拡大したのである。寡占は、ヘドロで汚され、海もまた、有害物質で覆われていった。大気汚染も酷く、喘息に冒される子供達が激増した。

 花粉症も環境問題の一つである。花粉症は国民病とまで言われるようになったが、その原因は、戦後における国の植林事業にある。その時は、正しいと思ってやった事業でも、裏目に出ると深刻な環境問題を引き起こす。そして、取り返しのつかない事態を招きかねないのである。

 諫早湾の干拓事業の様に開発、海外で言えば、山峡ダム建設は、環境の変化を招く。一本の道路によって生態系を壊しかねない。その是非は、長い時間をかけて検証されなければならないのである。
 意図せぬ環境破壊の一つに動植物の外来種の持ち込みがある。オーストラリアは、孤立した大陸として人間が来るまでは、独自の生態系を保ってきた。それが人間が入植したことで壊されようとしている。

 景観も環境の一つだと言う事になると、日本の現状は、まだまだ深刻である。景観の問題を甘く見るべきではない。それは、人間の文明の根本を問うことだからである。人間は、何を求め、どの様な生き方を望んでいるのか。それが、常に、人間の社会の考えの根底にある。だから景観もまた環境問題なのである。

 ダイオキシンに象徴されるゴミ問題、中でも、産業廃棄物問題は、将来に禍根を残すことになりかねない。今や、企業は、商品が使用された後、ゴミとして処分されるまで責任を持たなければならない時代に突入したのである。
 食の安全が騒がれ。生産地の管理が厳格になりつつある。残留農薬の問題も突き詰めれば環境問題である。農薬が食料に残留することも問題だが、環境に及ぼす影響も馬鹿にならないのである。

 環境破壊というのは、諸刃(もろは)の刃(やいば)である。例えて言えば、ダム建設による環境破壊を憂慮して、ダムによる水力発電を止めて原子力発電に変えると今度は、原子力による環境への影響が問題となると言うように、何かを止めたり、規制しても、その為に別の問題が起こるのである。

 経済的合理性だけで環境規制がされていない地域に工場進出することは、公害の輸出になりかねない。しかも、自国における規制が厳しいという理由から工場を規制の緩やかに国に移転することは、環境問題を引き起こすことを予め知っていることを意味している。

 環境にかかる費用は、必要不可欠な経費であり、それが、キチンとした市場のルールに則って処理されているならば問題ない。ただ競争力を付けるためだけの目的で環境に対する投資を怠ることを正当化してしまえば、環境を維持することはできない。その為に何等かの制約を受けるのは当然のことである。それは正当なコストなのである。

 ただ環境を維持するためのコストというのは、製品を製造したり、販売するコストのように、費用対効果が、直接的に、明らかにできる費用ではない。だからこそ、国家が基準を明確に設定しておく必要、義務があるのである。つまり、市場の原理に無原則に委ねるのではなく、規制されなければならないのである。
 低賃金や環境規制が甘い点をついて生産拠点を移転するのは、公害や貧困の輸出をすることになる。だからといって個々の企業は、市場競争に勝ち残らなければならない。だからこそ国家の役割が期待されるのである。

 また、環境問題は、一企業、一国の力だけでは解決できない。国際機関の協力が必要なのである。

 自然環境などと言えば、人類が誕生する以前、また、人間が生存できないような、例えば、深海や宇宙にまで範囲が及ぶのである。仮にそうなったとして、それが人間生活に影響を及ぼさないかぎり、自然破壊とは言わないだろう。

 人類の進歩、言い換えれば、歴史には、必ずと言って環境破壊が伴っているのである。それを是とするか、非とするかは別にして、その事実を正しく認識しておく必要がある。今騒がれている温暖化現象も然りである。自分達に都合が悪いからと言って、環境を破壊することが悪いと決め付けてしまえば、人間の進歩や歴史、否、存在自体すら否定しかねないのである。素朴に自然主義者の中には、人間の文明の一切を否定して自然に帰れと叫ぶ者がいるが、それでは問題の解決にはならないのである。
 我々は、常に、環境破壊と取り組まなければならない。それは、環境破壊が人間の営みの帰結だからである。つまり、人間の営みの必然的な結果として真正面から環境破壊に取り組む必要があるのである。



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