昔は、一族、親戚が頼りだった。最後に助けてくれるのは、家族しかいない。その名残で、今でも家族しか信じない者も沢山いる。だからこそ、家名、相続が常に問題となるのである。また、一つのコミュニティ、村落共同体や宗教的共同体も互いに助け合ってきた。それが社会的セーフティーネットの大部分である。だからこそ、親孝行が奨励され、家族主義が社会の基本だったのである。

 近代に入る以前は、セーフティーネットといっても、私的なものであった。公のセーフティーネットと言っても限られたものであり、家産国家では、公と言っても権力者の私的な領域に属するものが大多数であった。故に、君主や支配者のお慈悲に縋(すが)るか、後は、宗教的動機に基づいたものであった。

 つまり、国民国家が成立する以前では、家族、地域社会、宗教教団といったコミュニティの互助的仕組みがセーフティーネットだったのである。そして、その互助的関係を支えているのは、個人の道徳や宗教的信念だったのである。
 つまり、道徳がなければ、社会のセーフティーネットは機能しなかったのである。

 セーフティーネットが注目されたのは、バブル崩壊後の金融リスクに際し、預金保険機構の必要性が生じた時である。
 しかし、セーフティーネットというのは、金融に関してのみあるのではない。預金保険機構のような金融リスクに備えるだけでなく、社会的リスク全般に対する備えがセーフティーネットである。

 セーフティーネットというのは、社会という視点から見ると、いわば、社会の安全装置、防御装置、安全策、安全網である。個人という視点から見ると救済制度である。その機能が、近代社会以前は、私的な部分でしか働いていなかった。軍や消防も安全装置の一つだが、国民国家が成立する以前は、私的なものであった。つまり、家産国家だったのである。

 国民国家が成立する以前は、セーフティーネットはないに等しい。それこそ、社会保障も福利厚生もない。昔は、自分の身は自分で護るしかなかったのである。子供のうちは、親の世話になり、老いては、子の世話になる。そうなると、身よりのない者は、心許ない。いざという時に、誰も助けてくれない。下手をすれば、奴隷同然の身に堕ちるのである。

 近代国家において、身よりのない幼子が遺産を相続し、その子がその遺産を上手く維持、運用する手立てがないとされた場合、後見人を付ける場合が多い。この子どもにとって後見人は、セーフティネットである。しかし、その後見人だって怪しいものである。つまり、ただ後見人を決めただけならば、後見人に対する信用の裏付けがない。そう場合、後見人の信用を裏付けるのは法が必要となる。この場合、セーフティネットとは、法を指している。法によって、国家が後見人の信用を保証するのである。もし、法が守られなければ、国家に対する信認が失われる。故に、法は、刑罰という強制力を持つのである。法は、刑罰によって保障される。この場合のセーフティネットは、刑罰である。この様な多層的構造を持つのが法治国家であり、近代的国民国家である。市場経済、貨幣経済は、この様な法治国家を前提として成り立っている。

 つまり、セーフティネットというのは、個人の救済処置と言うより、社会的ルールだと言っていい。だから、セーフティネットなのである。そして、その本質的な機能、働きは、社会の信用システムの維持にある。

 宗教が果たしてきた社会的役割の一つにセーフティーネットがある。孤児院や施療院は、その好例である。この様な宗教は、私的な部分、即ち、個人の救済と公的な部分、即ち、社会という人間関係の維持という二面性を常に持っている。そして、社会という人間関係を支えているのが信用制度なのである。それ故に、宗教は、社会制度の形成に深く関わってきたのである。

 近代国家、法治国家、国民国家は、信用の上に成り立っている。つまり、国民の国家に対する信用の上に成り立っているのである。そして、その信用を裏付け支えているのが、法であり制度である。
 その好例が貨幣制度である。紙幣の価値は、紙幣を発行している国家、並びに、国家制度に対する信用によって保証されている。もしこの保障がなくなれば、紙幣は、忽ち紙切れになる。それは、戦後の日本が体現しているのである。国家の信認がなくなったとき、貨幣価値は下落し、ハイパーインフレ現象が起こる事は、歴史的に立証されている。

 つまり、一見、セーフティネットは、個人の権利の救済というふうに見えるが、その実、社会制度の信用を守ることがその本来の役割である事を意味している。そこを誤解すると、救済という面ばかりが協調され、社会の基盤である信用を守るという点が見落とされてしまう。そして、ただ個人の救済のみを優先することがセーフティネットの使命だと受け止められてしまう。

 中でも経済は、信用を基盤としなければ成立しない。そして、現代経済は、市場経済を土台としている。故に、経済的な意味では、社会的な意味でのセーフティネットだけでなく、市場におけるセーフティネットを考えなければならない。市場には、労働市場と実物市場、資金市場があり、それぞれに独自のセーフティネットを持っている。例えて言えば、保険で言えば、対人、対物、対金という具合にである。

 そして、社会の仕組みを危うくするのは、リスクである。故に、リスクがあるからセーフティネットを設定する必要があるとも言える。リスクがなければ、セーフティネットを張る必要がない。ならばどの様なリスクに対してセーフティネットを張るのか、その対象となるリスクを明確にする必要がある。そして、問題はこのリスクの質である。

 会社の経営だけでなく、何事にもリスクはつきものである。生病老死と言われるぐらい、一人一人の人生においても、リスクは付き物なのである。また、地震、雷、台風、洪水、火事、津波、伝染病、天災、事故はいつ来るかわからないと、災害は予測がつかない。例え、過失であり、天災であったとしても、責任から逃れられない。
 しかも、経営者にせよ、投資家にせよ、自分の財産をかけているのである。失敗したら、自分の財産、場合によっては全財産を失うのである。

 市場は、リスクから市場の規律を守ろうとする。それがセーフティーネットを形成するのである。例えば、労働市場で言えば、失業や突然の病気、また、災害などから収入がなくなるリスクに対して備え、また、保障する仕組みがセーフティねっである。

 その意味では、労働市場という観点からすれば、労働組合もセーフティネットの一つといえる。つまり、労働組合は、雇用の確保と籠城条件の改善、維持という点で、労働市場の規律を保つ役割を果たしている。

 また、労働市場のセーフティーネットの代表的なものに社会保険がある。社会保険とは、リスクに対して、社会的に保障する仕組みである。例えば、失業時の失業保険、健康を害した時の健康保険、また、年をとったら年金、何等かの理由で生活ができなくなれば生活保護がある。

 リスクに備えるだけでなく。その災害に見舞われたら、それによって生じた損害を補償する仕組みがセーフティーネットである。この様なセーフティーネットの必要性は、単に弱者保護と言うだけにとどまらず。信用不安からくる社会の仕組みそのものの崩壊を防ぐことにある。つまり、信用システムを守る事こそセーフティーネットの本質的機能なのである。

 資金市場から見ると、資金が不足した時に資金を供給する役割を担っている金融制度こそ、本来、セーフティーネットそのものだともいえる。つまり、融資は、資金が不足している、資金を必要としている企業にされるものであるべきなのである。ところが、金融市場の担い手である金融機関は、融資の基準を資金の回収力においている。これでは、金融機関は、セーフティネットの機能を果たせない。つまり、今日の危機的な状況の原因の一つは、金融というセーフティーネットが機能不全に陥っていることなのである。

 そして、資金市場のセーフティネットの使命の一つは、市場システムの信認を保つと言う事にある。
 例えて言えば、預金保護機構のような金融のセーフティーネットは、金融システムの信用不安を取り除く事が重要なのである。

 この様に考えていくと、最終的にモラルの問題に行き着く。なぜならば、社会を構成する一人一人の個人が信用できなければ社会全体の信用システムは、築けないからである。つまり、信用システムの前提は、一人一人のモラルである。例えばお互いが約束を守ると言う事が信用できなければ、約束そのものが成り立たないのである。
 故に、モラルこそ最も重要なセーフティーネットである。ところが皮肉にも、何等かの制度的セーフティーネットを構築するとモラルハザードが問題となる。
 モラルハザードとは、倫理観の崩壊、ないし、倫理観の欠如した状態を指して言う。

 セーフティーネットの問題とモラルハザードの問題は、切っても切れない関係にある。つまり、安易にセーフティーネットを張るとモラルハザードが起こるという論理である。確かに、モラルハザードの問題は深刻である。しかし、だからといってセーフティーネットとモラルハザードを簡単に結び付けてしまうことの方が安易である。

 モラルハザードを問題にする者の多くは、自分は、モラルハザードを起こさないと思っている。また、モラルハザードを起こすような環境状況にない。つまり、モラルが危機に瀕していない、モラルが危機的な状況になるようなリスクに曝されていないのである。
 モラルハザードを問題にし、セーフティーネットを張るとモラルハザードを引き起こすという者は、モラルハザードが起こることを前提とし、なぜ、モラルハザードが起こるのかを問題としていない。そう言う人間は、既に、モラルハザードを起こしているのである。その典型が、自分の言動や行為に責任を持とうとしない、学者や評論家、官僚である。

 日常生活において倫理観が、置かれている状況と非日常生活において倫理観が置かれている状況とは違う。戦場において、人間の倫理観は、常に危機的状況にある。殺すか、殺されるかという状況の中で、人殺しは、悪いと言ってもはじまらないのである。また、反戦を叫んでも状況が、即、変わるわけではない。市場で人を出し抜くなというのは、戦場で人を殺すなというようなものである。それを、モラルの崩壊と言われればそれまでである。収益が上がらないから人員を削減したら、非情だと言われても、そうしなければ、企業そのものが存続できなくなり、その他、大勢の従業員の雇用が護れなくなるのである。それは究極の選択である。それをしなければならないのが、経営者なのである。
 しかも、経営者は、組織の長である。働く者や取引先、債権者、投資家に、常に、責任を負っているのである。いないとは言わないが、最初から騙すつもりで、事業を始める者の方が稀である。誰もが最初は、儲かる成功すると思って事業を始めるのである。ただ、根本に儲けを考えなければならないのが、資本主義経済の宿命ではある。

 経営学で設定している、前提としている人間像は、極めて特異な人間像である。それは、モラルハザードの問題でも言える。経済人が想定する人間像、ホモ・エコノミクスは、常に、自分の経済的利益に基づく欲求に従って合理的、客観的、論理的、冷徹な経済活動をすると設定されている。(「セーフティーネットの政治経済学」金子勝著 ちくま新書)しかし、現実の社会においてこの様な、先ず、人間は存在しない。いたとしても、まともな社会生活を営めないであろう。最も人間らしい営みである経済活動を論じるに当たり、人間に対する洞察力が欠如しては、経済の本質について語ることはできない。モラルハザードが設定する人間像も然りである。経済学では、あたかも、人間は、セーフティネットがあればモラルを崩壊させるというふうに設定しているように思える。それは、まったく人間に信をおいていない考え方である。性善説、性悪説以前の問題である。性善説、性悪説にあっても先ず、人間とは何かから定義するのに、それすらされずに、いきなり、セーフティネットがあると、モラルが崩壊すると結論付けるのは短絡的に過ぎる。

 モラルハザードの問題を、最初からリスクに曝された経験のない学者や評論家、官僚から、言われると鼻白むものがある。
 では、モラルとは何か。なぜ、モラルは崩壊するのか。問題の本質はそこにある。
 ただ、会計理論に従って、教科書どおりの処理をすることがモラルなのか。企業を経営する者は、企業を継続し、雇用を確保するのもモラルなのである。セーフティーネットがあるから、モラルがなくなるというのは、現実を知らない者の言いぐさである。経営者というのは、元来、保守的であり、リスクをとりたがらないものなのである。ただ、市場経済は、それ故に、経営者にリスクをとらざるを得ない環境を常に用意しているのである。
 モラルというのは、本来、その人その人、固有の善悪の基準である。つまり、自己善である。自己善であるから、それを集団の正義に昇華する必要があるのである。そこで契約が必要となる。もともと、道徳というのは、その人固有の者であり、主体的な体系、基準、規範である。外部の尺度や制度、状況に影響は受けても依存したものではない。況わんや、セーフティネットに依存したものではない。ただ、内的規範である倫理は、外的存在との相互作用によって形成されると言うだけである。つまり、モラルハザードの要因は、内的要因と外的環境にある。確かに、外的環境の影響を受けるとはいえ、セーフティネットの場合、モラルを保護する作用はあっても崩壊させる作用は、極めて稀だと言える。しかもその場合は、その原因は、外的環境よりも内的な要因に求めるべきである。つまり、セーフティネットがあるからモラルがなくなるのではなく。その人の意志が弱いからモラルがなくなるのである。飲酒運転をするのは、酒があるからではなく。運転をするとわかっているのにも酒を飲む人間が悪いのである。飲酒運転をなくすために、禁酒法を通せと言うのは、極端な意見である。

 大体、学者も、評論家も、官僚も、政治家も経営責任を問われることはない。公営事業や財政を破綻させたとしても経営責任を問われるどころか、同僚から、同情されるのがオチである。財政を破綻させたからと言って財産を没収された政治家がいるというのを寡聞にして聞かない。経営者は、常に、経営に責任を持たされている。同じ事をしても方や同情され、方や犯罪者にされる。結局、賤商主義が背景にある。士農工商が生きているのである。経営者から見て、自分の言動に責任を持たない学者や経営責任を持たない官僚は、最初からモラルが欠如しているのである。モラルのない人間に、モラルがないと言われても説得力はない。

 現代人は、資本家や経営者は、悪の権化のように設定し、刷り込んでいる。一方において、平等思想を敷延化してである。平等というならば、資本家も、経営者も同じ人間である。しかし、人間は、平等としながら、学者も、官僚も、資本家や経営者を差別的に扱う。経営者も投資家もそれぞれの立場で自分の責任を全うしようとしていると考えるのが妥当であり、公平な見方なのである。あえて問題があるとすれば制度的問題である。

 経営者は、常に、リスクに曝されている。リスクがあるから、利益が生じるとも言える。それが市場経済である。そして、そのリスクによって、常に、経営者や投資家は、モラルが危機的な状況に置かれているのである。

 企業の寿命、30年説というのが、過去にはあった。30年というと現代人の寿命の半分にも満たない。せいぜい言っても、事業は、一代限りである。それは、世賞や同族支配に批判的な市民思想から見ても妥当である。では、企業は、幸せな終末を約束されているかというと、必ずしも、そうではない。どちらかというと、事業の末路は悲惨なものである。それからすると、破産法は、重要な意味がある。
 ある意味で破産法、再生法もセーフティーネットの一つである。

 また、中小企業の7割ちかくが赤字会社だというデータもある。それでなくてもドックイアーと言われるほど市場環境の変化が激しく、技術革新も日進月歩である。市場がグローバル化する事によって、中小企業といえど為替の変動の影響を受けないわけにはいかない。また、競争相手も国内の企業に限らなくなっている。

 場合によっては、中小企業といえども、生産拠点を海外に移さざるをえない。そうなるとカントリーリスクに曝される。

 事業継承のリスクがあるから相続の対策を立てる必要があるのである。そうでなければ、何もリスクを承知で対策を講じたりはしない。しかも、法の改正によって対策が無効になるどころか、負担になることもある。つまり、リーガルリスクが存在する。
 現に、相続対策としてバブル時代に借金をして不動産を購入したところは、不良債権化している。それを推奨した金融機関は、資金を回収する方向に動いている。株価も同様である。

 設備投資、設備更新をすれば、過剰投資のリスク、市場リスクに曝される。借金をして、投資しても、その投資に見合う収益を上げられるかどうかは判然としない。また、いざ、新製品を市場に投入すれば、今度は、激しい市場競争を生き抜いていかなければならない。設備は設備で、技術革新が激しい今日では、すぐに陳腐化する。最新設備を投入してきた競争相手に太刀打ちできなくなる可能性もある。かといって設備投資をしなければ、時代に取り残されていき、結局は淘汰されてしまう。

 モラルハザードが起こる背景として、金融機関が経営に行き詰まると、リスクをとるようになり、それがモラルハザードに結びつくという発想である。しかし、市場経済というのは、最初からリスクをとらざるを得ないように仕組まれているのである。

 今の資本主義は、毎年毎年、収支、損益を清算しなければならないようになっている。つまり、一年一年、儲けを出さざるを得ない。しかも、価値が時間と伴に上昇し続けている。昔ならば、一生、遊んで暮らせるだけの収入を短い期間で得ることもできたが、今日ではなかなか難しい。それがリスクを生み出すのである。
 単年度、単年度、損益と、収支を均衡させ、尚かつ、納税しなければならない。それを毎年毎年、繰り替えし続けなければならない。ある年に莫大な利益を上げても、次の年に赤字になり、収支が合わなくなれば、極端な場合、経営を継続できなくなる。資本主義は、基本的に単年度毎の利益を還元しなければならないことが原則だからである。儲かったからと言ってそれを内部に蓄積することを原則的には認めない。故に、経営主体は、常に、破産のリスクに曝され続けているのである。

 事業は、一度始めたら、なかなか止められないのである。始めるのは簡単だ、しかし、止めるのは難しい。それが事業なのである。走り出したら、走り続けなければならない。一度逸脱したり、道を踏み外すとなかなか元に戻れない。自己の規律を失い、規範が崩壊するからである。そして、最後は、暴走するのがオチである。この様な状況下で、経営者は、常に、楽をしたいていう誘惑にかられる。そして、安易な選択をするとモラルが崩壊するのである。つまり、安易な選択そのものが、反道徳的な行為である場合が多い。その好例がインサイダー取引であり、粉飾行為である。

 粉飾も最初から騙そうとして粉飾に手を染める経営者はあまりいない。その様な者は、経営者と言うより、詐欺師である。ただ、赤字では、資金調達ができないと追いつめられた時、粉飾に手を染めるのである。その様な状況こそ問題なのである。例えば、一時的、一過性の赤字だとしても融資基準に照らすと不良債権に判定されるとなれば、粉飾せざるを得なくなる。今日の不良債権の多くが基準によって生み出されていると言っても過言ではない。それが、経済を停滞させている原因でもある。つまり、セーフティーネットがないのである。

 金融制度こそ、本来、セーフティーネットそのものだともいえる。融資は、資金を必要としている企業にされるものである。つまり、金融というセーフティーネットの機能を、基準が無効にしてしまっているのである。今日の危機的な状況の原因の一つは、金融というセーフティーネットが機能不全に陥っていることなのである。

 モラルを維持するためにこそ、セーフティーネットが必要なのである。セーフティーネットがモラルハザードを引き起こすというのは、認識そのものの間違いなのである。(「セーフティーネットの政治経済学」金子勝著 ちくま新書)

 独占禁止法というのは、市場の競争力を一定な状態に保つことを目的としている。この様な独占禁止法もある意味でセーフティーネットの一つだと言える。

 つまり、独占禁止法も、破産法、民事再生法も市場の規律を守るための安全装置の一つだからである。

 市場経済は、信用制度を土台にして成り立っている。その信用制度を支えているのは、実は、個々人の倫理、道徳、モラルなのである。その個々人の倫理、道徳、モラルは、常に危機にさらされているのである。ゆえに、その個々人の倫理や道徳、モラルは、社会のルールや制度によって保護する必要が生じる。そのルールや制度がセーフティネットなのである。人は、そのセーフティネットがあるから、安心して生活することができる。
 セーフティネットがあるから、危険なことを冒すというのは、本末の転倒である。危険があるからセーフティネットを張る必要があるのであり。
 人間は、あえて危険を冒したがらないから、利益で誘導し、挑戦させるのである。それは、新規事業には、リスクが付き物だからである。だから、才能がある者に、事業を興すためのインセンティブ(誘因)を与える必要があるのである。危険を冒させるのであるから、安全装置を設けるのは当然であり、安全装置がなければ、モラルが崩壊する。即ち、モラルハザードが起こるのである。

 孤児院があるから捨て子をする親がでるわけではない。警察があるから、犯罪が起こるわけではない。消防署があるから、火事になるわけではない。医者がいるから、病気になるわけでもないし、軍隊があるから、戦争になるのでもない。戦後の日本人は、ともするとこの種の議論に陥りがちである。しかし、道理をわきまえれば、何が正しいことかわかるはずである。セーフティーネットに対する考え方も同様である。セーフティーネットがあるからモラルが崩壊するわけではない。モラルの崩壊の原因は別にあるのである。逆に、医者がいなければ、病気を予防できないように、セーフティーネットがなければ、モラルは守れないのである。(「セーフティーネットの政治経済学」金子勝著 ちくま新書)





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