経済とは、過程である。
 創業か、守成かと問うたのは、唐の太宗である。結局は、どちらも厳しいと言うことになる。ただ、どちらも厳しいが、厳しさの内容は、創業期と守成期とでは違うと言う事である。それを一律に扱うと言う事は、愚かだと既に唐の時代に言っているのである。
 現代には、成長神話、進化に対する信仰のようなものがある。つまり、常に、人類は、進化、進歩し続けている。過去より、現在。現在より未来の方がいい社会であると言う思い込みである。つまり、時代の経過を直線的にしか捉えない発想である。これは、特に一神教国に多いと言われる。
 それに対し、時間を循環的なもの、波動的なものとして捉える考え方方がある。前者の代表的な思想が輪廻転生であり、後者の代表的な思想が陰陽五行である。
 ただ、いずれにしても経済は過程である。変化を前提とすべきなのである。諸行無常、万物は流転すである。
 もう一つ重大なことは、進化論的な発想の根底に終末論的発想が見え隠れすることである。進化し続けていくのかと思うと、最後は急に終末論、つまり、人類滅亡のようなこと、最後の審判のような事態になる。
 ただ、直線的な時代認識は、歴史主義に発展するとどこかの本で読んだ。確かに、輪廻転生、陰陽論的ならば、因果応報で清算されるが、直線的な人生観や時代観では、歴史的な事象で清算するしかなくなる。それが終末論のような考え方にも結びつくのかもしれない。

 成長期は、現状が厳しくても、将来に夢が持てるから楽しい。しかし、成熟期は、現状が楽でも将来に不安があるからしんどい。成長期であれば、年々、給与を上げても成長によって吸収することができる。やったら、やっただけの成果が期待できる。つまり、拡大均衡が図れる。それに対して、成熟期の産業は、市場が飽和状態であるために、収益に限界が出始める。縮小均衡に転換していかなければならない。
 今は、貧しくても努力すれば、将来報われるのが良いのか、今は、豊かでも、将来に保証はなく、漠然としている方がいいのか。それは、考え方の相違であるが、それ以上におかれた状況でもあるのである。成長期にも難点はある。成熟期にも問題はある。その時その時の状況環境に合わせて対応を決めていくことが大切なのである。最悪なのは、一つの見方に固執して、状況を見ないで、画一的な施策を採り続けることである。とくに、成功者が、この落とし穴に嵌(はま)りやすい。

 スポーツのルールに絶対的なものはないように、市場のルールに自然法則のような原理なんてない。あるのは、前提条件と状況である。競争を絶対視するのは愚かである。

 個々の産業には、創生期、生成期、成長期、成熟期、停滞期、衰退期と言った過程が一般にはある。産業の発展は、一律ではなく。いろいろな段階の産業や企業が市場の中に混在していると考えなければならない。市場は極めて繊細なものである。繊細な市場の問題を画一的な政策で解決しようと言うのは、無理がある。

 金融機関も産業の状態や市場の環境を勘案しながら、国家的、社会的構想に基づいて融資の判断をすべきなのである。近視眼的な融資の姿勢は、市場を荒廃させ、有望な産業を根絶やしにしてしまう。
 晴れた時に、金を貸し、雨が降れば、傘を取り上げると言われる由縁である。金融機関も行政も先ず、どの様にして地域経済を育成し、また、保護していくかを最優先すべきなのである。保護主義的な政策は、全て悪だと片付けるのは、それもまた、近視眼的すぎる。要は、目先のことにとらわれて大局を見失うことが、悪いのである。
 また、世襲の是非も思想であることを忘れてはならない。もし、世襲を悪だと決め付けるのならば、世襲ができない体制を先に作っておくべきなのである。世襲でなければ、成り立たない環境にしておいて、世襲は悪だからと言ってもはじまらない。どこが悪いかを明らかにして、改善する施策を採るべきなのである。
 世襲が是か非かを問わず。弾圧するのも、また、なし崩しに認めてしまうのも、見識のない仕業である。

 常に、進化し続ける、また、進化は、淘汰によって良い方向に変化するというのは、進化論的な思い込みなのである。経済成長は、人類に恵みだけをもたらしたわけではない。過去が良かったというような懐古主義を是とするのではない。ただ、温暖化の例を見ても解るように、進化にも何等かの負の要素があることを忘れてはならないのである。進化論も一つの思想である。思想ならば、思想として扱うべきなのである。絶対的真理のように崇めてはならない。

 競争もまた然り。競争こそ、相対的な手段である。それを成立させている前提と働き、目的が重要なのである。競争を絶対的な真理のようにし、何が何でも、競争をさせろと言うのは、思想ではなくて、信仰に近い。

 市場の状態や産業の段階、個々の企業の成長度合いや規模によってとるべき、政策や施策は自ずと違ってくる。画一的な施策では解決できないのである。

 また、経営も過程である。経営には、資金の流れがある。資金の流れには、調達、投資、回収の流れがある。この流れも一定の過程を生じさせる。それが市場の過程にも影響でる。生成、発展、成熟、衰退と言った産業の栄枯盛衰は、個々の企業の栄枯盛衰をより集めた結果であり、産業の栄枯盛衰は、個々の企業の栄枯盛衰に陰を投げかける。
 発展成長期にある産業は、旺盛に資金を調達し、投資を繰り返す。成熟期に達した産業は、資金の回収を専らとする。故に、成長期の産業は、資金需要が旺盛である。それに対し、成熟期の産業は、資金需要が細る。金融からすると先に期待がもてずに、魅力に乏しい。しかし、よく考えると、成長期の産業は、リスクが高く、成熟期の産業は、安定性が良い。
 企業は、資金に不足するから融資を頼るのである。資金不足だからと言って融資ができないとしたら、金融機関は不必要である。金融機関に求められるのは、支払い能力以前に、長期的展望と見識なのである。博打のような投機によって資金を運用することが是か否か、実体経済では資金を必要としている産業はいくらでもある。そして、そう言う産業は、窮状に陥っているのである。成熟期の産業こそ、保護すべきであり、成長期の産業こそ育成すべきなのである。

 ところが現在の経済体制は、成長、進歩、変化を前提として、成熟と停滞、安定を望んでいない。結果的に、成熟期にさしかかった産業に無理に競争を強いて体力を奪う。

 また、産業の過程には、物理的、空間的過程もある。工程である。工程は、地域経済に影響を与える。産業立地である。
 どこに生産拠点を置くのか。また、どこで、生産をするのかも重要な考え方である。日本の石油業界は、基本的に消費地精製主義をとってきた。つまり、生産拠点を消費地に置くという考え方、戦略である。それに対し、生産地精製主義という考え方もある。産油国の多くは、現在、この生産地精製主義に傾いている。
 自動車産業は、貿易摩擦が生じた時、相手国や消費国に生産拠点を移した。また、為替の変動に則して、通貨や人件費が安いところに生産拠点を移した。それによって産業空洞化が叫ばれたのである。

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