世の中には、いろいろな集団がある。集団を理解する上で、重要なのは、結びつき、繋がりである。世の中、世界は、規模の大小はあるにしても個々の要素の結びつきや繋がり方によって動かされている部分が多分にあるのである。中でも、政治や経済の世界では、離合集散が繰り返され、目まぐるしく展開している。何事も諸行無常なのである。

 集合離散、合従連衡、統合分散と企業は、結びついたり、離れたり、一体になったり、分散したりして、産業を、企業集団を形成していく。産業の再編は、世の常である。
 つまり、産業の実相を知るためには、産業構成する個々の要素、中でも、企業の結びつきを明らかにする必要がある。

 産業や企業集団というのは、企業の集合体である。集合体というのは、企業と企業間を結ぶ関係の線の集合である。
 要因間の結びつき方は、一対一、一対多、多対一、多対多がある。要素間の働き、関係には、斥力と引力がある。その斥力と引力が要素間に作用反作用をうむ。企業間の結びつきは、その斥力と引力の均衡によって保たれている。斥力と引力の力関係によって企業は集合離散する。さして、斥力と引力を構成する力の源は、取引関係と資本関係、人間関係である。
 
 グループ化というのは、幾つかの要素が集まることによって形成されるものと一つの全体が分裂を繰り返すことによって形成されるもの、複数の要素が結びつくことによって形成されるものとがある。

 産業や企業集団である。ある者達は、連携し、ある者達は、敵対しながら、全体と部分を構成している。重要なことは、一体的なものではなく、複合的なものだと言うことである。また、競合、複合的であるから機能しているとも言える。

 結びつきが集団の範囲を特定する。また、結びつきが集団の性格を規定している。つまり、結びつき方が、集団の要と言える。

 産業と企業集団は、異質の集団である。産業は、敵対的、競合的集団であるのに対し、企業集団は、友好的、連携的集団である。敵対的、競合的という性格と友好的、連携的という正反対の性格の結びつきが混在することによって、市場全体が成立している。

 市場は、競合と連携の均衡の上に成立する。市場経済では、市場価格は、市場における競争、競合によって調整される。
 独占や過当競争を排し、協調と競合を促すのが市場に対する政策である。なぜ、独占や過当競争を排するのかと言えば、それは、独占や過当競争が市場の働きを弱め、市場を有効に機能させなくなるからである。
 市場原理主義者のように競争は正しく、独占は悪だというように決め付けるのではなく。市場の状態や状況に合わせて政策を選択すべきなのである。先ず重要なのは、我々が市場に何を期待し、どの様な状況をの良しとするかなのである。アクセルを踏めば、スピードがでるからと言って、アクセルは善で、ブレーキは悪だというような決めつけは、滑稽なほど、短絡的である。アクセルや、クラッチ、ブレーキは、状況に応じて使い分けるものなのである。

 協調や競合というのは、結びつきや関係の形態にすぎない。何が善で、何が悪かと言った、善悪の問題ではない。市場の置かれている環境や状況に応じて何が適切かを判断すべき現実的問題なのである。競合は、正しく、協調は悪だというのは、無意味な議論である。状況に応じては、競争を促すべきであり、また、協調を計るべきなのである。

 市場価格は、何等かの合理的根拠や方程式に基づいて演繹的に決まるわけではない。どちらかというと、市場の論理に基づいて帰納法的に決まる。

 競争、競合の場である市場においては、規律と秩序がなければならない。その規律や秩序を保つのが協定に基づく規定、ルールである。規定やルールがない市場は、闘争、戦いの場であり、ルールのない争いは、競争、競技ではなく、喧嘩である。故に、所謂(いわゆる)コミッションのような調停機関が必要となるのである。

 産業を構成する経営主体の繋がりは、市場において顕在化する。

 市場の繋がりは、一方通行の働きではなく。双方向の働きがある。市場の働き、交換とストックと流れである。この双方向の流れが、経済の作用反作用の働きを生み出す。
 双方向の働きは、双方向の流れを生み出す。物流と金流の働きと流れである。貨幣の流れは、逆方向の財の流れを生み出す。市場経済は、基本的に双方向の流れを前提としている。
 経営主体は、売り手と買い手の二面性を持つ。これは、購買と販売という働きとして現れる。また、売り主と買い主の関係は、作用反作用の関係になる。
 一般に税は、反対給付のない流れと見られます。しかし、広い意味をで捉えれば、公共財という反対給付を受けているとも言える。
 この様な、市場の繋がりには、指向性と方向性がある。作用には、斥力と引力がある。

 また、繋がりから生じる作用とは、位置と運動と関係による。

 繋がりには、上下、左右、前後、後先、順番がある。これは、位置から来る関係である。また、繋がり方、状態には、強弱、高低がある。これは、運動による。質的な繋がりと量的な繋がり。これは関係による。

 産業の構造は、企業の立地、産地、製造拠点、消費地、また、それらを結ぶ交通手段、及び、ラインなどで形作られる。過去、現在、シルクロードの例でも明らかなように交通網や交通の要衝が栄えたのである。そして、交通路や交通手段の変化が文明の消長を決してもいた。

 故に、要衝と要衝を結ぶ、点と線を結ぶ、それが、結びつきを考える上で重要な役割を果たしている。
 交易路が交叉する点、始発点、終点、集積点、中継地点などが重要になる。また、その様な要衝、拠点を繋ぐことでできる交通網が重要なのである。
 線というのは、パイプライン、電線、光ファイバー、鉄道、道路、運河、航空路、航路などである。

 価格を決定する要因の一つに、距離と商品特性の積がある。距離には、時間的距離がある。商品特性には、単位あたりの体積や重量も含まれる。それによって輸送コストに変化が生じるからである。

 市場が敵対的、競合的集団であるのに対し、企業集団は、友好的、連携的集団である。

 個別企業から企業連結へと劇的に変貌しようとしている。それは会計公準の変更にも繋がることである。連結で一番問題になるのは、企業集団の定義と範囲である。

 企業間の結びつき、関係には、第一に、親子関係のような上下関係、垂直的関係。第二には、持株会社の様な機能的、水平的関係。第三には、相互持ち合いの様な対等な関係などがある。

 企業集団には、取引関係を土台としたもの、資本関係を土台としたもの、人的関係を土台としたものなどがある。
 
 企業集団には、第一に、垂直的連携、階層的連携、段階的連携がある。第二に、水平的連携、空間的連携があり。第三に、機能的連携がある。

 垂直的連携とは、階層的な連携、過程的・段階的な連携であり、系列やサプライサイドチェーンなどがある。水平的連携、空間的連携とは、横断的なつながりで、地域代理店、特約店といった物理的空間的な領域による連携やフランチャイズのような形態がある。機能的連携は、組織的な連携であり、コングロマリットや多国籍企業のような形態がある。
 いずれも、範囲(ドメイン)が重要な要素となる。

 企業の結合には、水平的な結合と垂直的な結合がある。
 また、結合の状態には、短期的、不定的な結合と長期的、固定的結合がある。系列というのは、垂直的で長期的、固定的結合による企業集団だと考えればいい。

 ほとんどの企業グループは、何等かの中核を中心として形成される。そして、グループの中核には、親会社、持株会社、連絡会、本部、金融機関などが中核機関や企業となる。この様な繋がりを機能的な繋がりという。

 金融機関を中核としたグループに、旧財閥系企業集団がある。持株会社を中核としたグループには、金融グループがある。トヨタや松下のように事業が社や事業持株会社を中核としたグループがある。

 何が良くて、何が悪いかを決めるのは、人間である。神でも、自然でもない。カルテルや独占は、悪いと言うが、カルテルや独占は悪い事だという認識は、昔からあったわけではない。それに、賄賂や収賄も同様である。かつては、便宜を計った以上、礼を受け取るのは、当然だと考えていた時代もある。現代でも、賄賂や賄が横行する社会はいくらでもある。重要なことは、賄賂や収賄は悪い事だという取り決めがあるかである。
 むろん、買収は賄賂はいけないという認識は古くからあったが、政治の腐敗を意味する者でもある。しかし、私的な世界では、礼をするのは当然であるというふうに考えている者が多いのも確かである。世話になった医者に多額のお礼をおくる習慣があるところもある。プレゼントや贈答というのは、社会的儀礼として定着している社会もあるのである。現に、お中元やお歳暮を贈ることに罪悪感を持っている者は少ないだろう。賄賂は、いけないが、便宜を計ることは悪い事ではないと考えるものもいる。
 同様に、君主制や世襲も良くないことだという認識が生まれたのは、市民革命以降の問題である。いまだに、血統や家柄を重んじるものは少なくない。男女同権も然りである。
 カルテルが悪いというのも、独占が悪いというのも、思想である。もっと極端に言うと、人の物を盗んではいけないということも、所有という概念が確立されて以後のことであり、一種の思想なのである。
 思想ならば、思想として扱うべきなのである。それをあたかも自然の法則のように決め付ける。問題は、思想信条の自由と言いながら、思想の中でも根本的なことを強制しているのである。そして、男女同権のようなものを実現するために、また、維持するために、国家権力を行使するのは、当然の権利であるがごとく認識している。それは、国家弾圧を正当化しているのに過ぎない事を忘れてはならない。男女同権も思想なのである。
 何が正しくて何が悪いかは、人間の社会における基本的関係を決定付ける。独占が違法だとなれば、独占的体制は処罰されるのである。しかし、それは善悪と言った絶対的基準によってではなく。法によってである。法は、国家の仕組みに基づいて決められた基準である。法は、道徳的基準とは異質な体系なのである。

 近代社会、国民国家における結びつきの多くは、契約によって決まる。また、法治国家においては、合法的な関係が公式的関係でもある。それ故に、国民一人一人の思想を尊重し、合法的な手続によって結びつきの妥当性を決定するのである。自然の摂理や神の法とは異質なものであることを忘れてはならない。

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