メーンバンク制には、否定的見解が多い。その根底には、金融資本主義に対する警戒感がある。つまり、金融資本による経済支配である。それは、一種の思想であり、どちらかというと観念的な部類に属す。むろん、金融権力による経済、ひいては、社会の支配という危険性を否定するわけではない。しかし、根本は、むしろ金融の在り方であり、金融機関の独占的体制の問題である。金融機関を中心とした体制が悪いというのではない。金融機関は、資金を融資する以上、融資先の企業を何等かの形で監視する必要がある。と言うよりも、それが預金者への義務である。
 重要なのは、金融機関の機能である。余剰の資金を資金が不足している分野に流すのが、金融機関の役割である。この点が重要なのである。特に家計部分において余剰となった資金を産業に流すのが金融の中枢的な機能である。むしろそうなると、資本主義体制下におけるメーンバンク制に対する否定の根拠は、間接金融か、直接金融かの問題といえる。つまり、メーンバンクを否定する根拠として、金融機関が中核となって資金を運用せずに、資金の提供者が直接的に資金を提供すべきだとする。しかし、これも一種の思想である。金融機関が仲立ちしてはならないという決定的な根拠にはならない。

 金融市場にも、資本市場にも一長一短ある。
 金融機関の良いところは短期的業績に基づいて資金を供給するのではなく。長期的な展望に立って資金を供給できるところにある。
 戦後の日本は、基幹産業に資金を供給するために、長期信用金融機関が、大手企業向けに都市銀行、地場の中小企業向けに地銀や相互銀行、信用金庫、信用組合、また、個人の財産形成を支援する目的で信託銀行、農業や漁業振興のために農林中金、農協、漁協、一般消費者向けに消費者金融や質屋、また、各種の政策を支援するための政府系金融機関と目的に応じて各種の金融機関を準備していた。中に、時流にそぐわなくなった金融機関もある。だからといって一律に否定する根拠にはならない。(「金融権力」本山美彦著 岩波新書)
 なぜ、日本は、成功してきた政策やシステムを成功したという理由で否定しなければならないのか。実体を見ずに間接金融は、資本主義に反するといって一律に否定するのは、野蛮である。乱暴な話である。日本の仕組みを否定する者の言い分は、資本市場を中心とした思想にすぎないのである。それは、投資にのみ特化した思想である。
 結局、それが、日本の金融市場の単一化、平準化を招き。ひいては、市場の寡占化とメガバンクの誕生を招いた。また、メーンバンク制には問題があるとしても金融機関の国家統制の方が余程、問題である。

 メーンバンク体制というのは、よく日本の産業の特徴のように言われるが、要するに金融資本を中核にした企業群のことを指して言うのであり、日本だけに存在するわけではない。むしろ、金融資本が発達すれば必然的に形成される体制である。
 ただ、アメリカのように金融資本による経済支配を嫌う国では、金融資本が前面に出ることを好まない可能性がある。また、日本では、投資会社や資本市場がまだ未成熟である。それが直接金融ではなく、間接金融による体制が主軸となることはある。

 日本は、資本市場を相場物、又は、賭博的に捉えてやくざなものと避ける傾向がある。その反面、銀行預金が奨励されてきた。その為に間接金融が発達してきた。また、銀行が経営を指導し、与信調査を代行してきた時期がある。そして、それは概ね成功してきたとみなされている。
 また、護送船団方式として、戦後、金融機関は擁護されてきた。経営が悪化したり、破綻した銀行は、関係の深い他の金融機関に合併したり、吸収したりして金融機関の経営破綻を表面に出さないようにしてきた。それが、金融機関は倒産しないと言う神話を生み出し、金融機関を中軸とした産業体制が構築されたのである。

 また、メーンバンクは、融資先の企業を人、物、金、全般において面倒を見てきた。要するに、他の企業や金融機関に迷惑をかけないようにしてきたのである。そして、これは暗黙の了承の上に為されてきた。

 それが破綻したのが、バブル崩壊後の金融不況である。行政は、護送船団方式を改め、ペイオフの施行等を通して金融機関の自己責任を追及した。その結果、国内の都市銀行は、四つのグループに集約されてしまった。

 その根っ子にあるのは、不良債権問題であるが、不良債権問題は、日本が債務者主義をとる限り、発生し続ける。土台は、担保価値と債務価値・負債の価値が乖離することが問題なのである。それが、メーンバンク制がしっかりしているときは、表面化しなかったが、メーンバンク制が崩壊したとたん、担保不足による貸し渋り、貸しはがしとして表面化した。

 メーンバンク制を嫌うのは、金融資本による市場の独占を嫌うからである。しかし、それは、権力に対する認識上の問題であり、善悪の問題ではない。メーンバンク制は、経済における金融機関の果たす役割と機能という観点から再考すべき時期に来ているのである。

 貨幣経済では、金融資本が圧倒的な支配力を持つ。それは、金融機関が貨幣の働きを司ることになるからである。それ故に、金融資本による独占を市場は、嫌ったのである。また、政治権力も金融資本が経済権力に発達することを避けたのである。
 メインバンク制とは、この様な金融資本の育成を必ずしも意図したのではない。また、護送船団方式の弊害ばかりを近年問題とし、金融機関に対する保護政策をやめ、ひたすら規制緩和と競争の原理を働かせることに為政者は専念した。その結果、金融市場は、四グループに集約され、状態に陥った。そして、競争の原理が働かなくなり、金融資本が形成される方向に向かっている。護送船団方式は、悪い面ばかりではない。むしろ、戦後の経済をリードしてきた面を見逃すことはできない。
 日本のように、狭い国土において複数の企業群が適度な競争を繰り返し、お互いが切磋琢磨するためには、ある程度安定した資金の供給と長期的展望に立った投資が不可欠である。むろん、それが行きすぎれば、市場の活力が失われてしまう。その場合は、規制を緩めて競争を促す政策も必要である。しかし、だからといって無原則に競争をさせ、市場の淘汰に任せていてばかりいたら、必然的に金融資本は、集約されてしまう。
 日本は、自動車産業にせよ、家電業界にせよ、電気計算機産業にせよ狭い国土の中に複数の企業が、競い合う環境が維持されることで、生成発展してきた。それを背後から支えてきたのがメインバンクであり、それによって市場の信認も保たれてきたのである。しかも、国家が直接市場に介入することなく、金融機関を通じて間接的に市場の規律が保たれてきた。それは、制約の中である程度、金融機関の自主性が、保たれてきたからである。ところが、今日、規制緩和、自由競争と言いながら、金融機関に対する国家の直接的な介入、場合によっては、国営化まで含んで、強化されているのが実情である。護送船団と言い、一見、規制をしているように見えても今日のような強制よりもずっと自律性が保たれていたのである。
 また、メインバンク制は、核となるメインバンクが系列企業に対する責任を持ってきた。面倒も見てきたのである。それによって経営破綻からくる混乱を最小限にとどめてきてもいた。確かにも、メインバンク制には、弊害もある。しかし、だからといって、全てを否定するのはいかがなものであろう。
 戦後、日本は、日本的なものの全てを否定されてきた。そして、バブルの崩壊によってまたまた、日本的な経営が全否定される傾向にある。欧米、特に、アメリカの言いなりになって、日本的システムを否定すれば、自分がバブルの時に行ってきたことの免罪符になっているとでも思っているのではないだろうか。しかし、戦後日本経済が高度に発展してきたのにはそれなりの要因があったのである。良い物は良いとしながら、反省すべき点をきちんと反省し、清算しない限り、日本経済は、立ち直れないであろう。

 経済体制において、企業、即ち、経営主体の果たす役割は大きい。一企業の問題と片付けられないことが多いのである。経営主体の大前提は、継続である。企業が地域経済や雇用に果たす役割を考えると、明らかなことである。地域経済が停滞する原因の多くは、地域経済を支えてきた企業の衰退である場合が多い。経営主体の中心的機能は、事業と、並びに、雇用である。つまり、その地域の中核的企業が地域経済において果たしてきた役割を無視して経済は語れない。経営主体が潰れると、特に、その経営主体が産業や地域経済、企業手段の中核に位置しているとその影響、被害は甚大なものになる。

 今日の金融機関や投資家は、会計的な利益のみを見て、事業やその経営主体が果たしている役割を評価しようとはしない。それは、資本家的な見方である。つまり、金融による支配が悪いと言うよりも、金融機関の資本家化が問題なのである。
 赤字や資金不足に落ちいている企業に対する対策を考える上で、本来、検討しなければならないのは、欠損や資金不足の原因である。その上で、その企業が果たしている役割と将来性である。そして、当該経営主体が、市場において正常に機能させることのできる環境、状況を構築し、維持する事が肝心なのである。つまり、どの様な市場状況が好ましいかの問題なのである。
 それが投資家や金融機関の政策は、姿勢は、ただ、収益が悪い、生産性が低いという理由だけで、資金の回収を優先する。それ故に、事業の内容よりも担保や会計情報だけで判断している。
 事業には、外部要因と内部要因があり、外部要因の多くは、不可抗力の要因である。経営状態が悪化している原因が外部要因か内部要因かをよく見極めることが重要なのである。
 内部要因によるものならば、経営努力によって改善できるが、外部要因が原因の場合、一企業の力だけでは解決できないことが多い。それから先は、環境の問題である。そして、その産業を金融機関としてどう評価するかである。事業や産業に対する長期的、短期的見通しも立てずに、ただ、単年度の成績だけで企業を評価していたら、長い目で見て企業は立ち居かなくなるであろう。
 構造不況業種は、構造的問題であり、内政問題である。重要なのは、日本にとってその産業を保護・育成する必要があるか否かであって、他国の思惑や競争力ではない。その典型が、食糧問題であり、国防問題である。警察や軍隊を民営化し、外資の傘下に入れてしまえと言うのはいかにも乱暴な話である。
 過去において、ホンダや京セラといった今日基幹となる多くの産業を育てたのは、金融機関である。それは、短期的な株式のような短期的な資金ではなく。金融機関が責任を持って資金を長期的な視点に立って運用してきたからである。

 また、護送船団方式が悪い。収益力のない金融機関は、ただ淘汰してしまえて言うのは、金融機関が支えてきた信用制度を頭から否定する事にもなる。しかも、それが金融市場や資本市場を引っかき回し、混乱させている張本人である投機筋からでれば尚更である。

 結局、金融機関の役割とは何かと言う事に行き着く。金融機関の役割の第一は、社会に遍在する資金を資金が不足している部分にまわすことである。資金が不足しているのは、産業だけとは限らない。家計、消費部分にもある。また、財政部分にもある。いずれにしても、資金が余っているところから不足しているところにまわすことである。第二に、地域、国家に必要な産業や事業の育成である。そこには、社会、国家に対する明確なビジョンが必要となる。第三に、融資した先の事業を監視することである。そこで必要となるのが、収益計算である。

 我々は、金融機関というと所謂(いわゆる)銀行、つまり、産業や事業に対して融資することを専らとする金融機関を思い浮かべるが、何も、企業だけが資金を必要としているわけではない。むしろ、一般庶民や消費者こそ資金が不足しているのである。ところが、銀行は、そう言う小口の貸付には見向きもしない。その為に、高利貸しや悪徳消費者金融が蔓延(はびこ)るのである。この様な時勢の中でグラミン銀行のような存在もある。弱者を組織化することによって成り立っていく金融機関があっても良いのである。
 またイスラム金融のような存在もある。基本的に、金融機関の果たすべき使命とは何か。それこそが金融機関の在り方の本質を現している。ところが、その本質的議論を忘れて、効率性や生産性のみを追い求めていることが問題なのである。

 北海道拓殖銀行の破綻が北海道の経済に与えた影響を見ても解るように、金融が地域社会に対し果たす役割を忘れてはならない。それが金融機関の使命でもある。その使命を忘れて金儲け主義に走れば、地域社会は、荒廃する。
 金融機関に要求されるのは、事業を見抜く力である。住友家家訓にあるように「浮利をはしり軽進すべからず」である。

 メーンバンク制の是非を問うのならば、メーンバンクが果たしてきた役割、機能を抜きにして語れない。もっと、メーンバンクの機能を直視することが重要なのである。中でも、地域社会に果たす金融機関の機能、役割が重要なのである。

 今、金融機関というのは、特定の一族や個人、階級に支配されているわけではない。つまり、金融機関というのは、国家や社会の仕組みの一部になりつつある。むろん、何等かの勢力や階級によって支配、独占される危険性がないわけではない。また、現実に影の勢力によって支配されているのかもしれない。その様な危険性を監視する仕組みも必要である。しかし、現実には、金融機関は、社会の一部として機能していると考えられる。
 そして、金融機関の役割は、本来、余剰の資金を持っているところから資金が不足しているところへ資金を融通することにある。具体的に言うとこれまで資金が余っていた家計から企業が不足している産業界へ資金を融通してきたのである。資金を融通することによって資金の環流を引き起こし、財の分配を促してきたのである。この機能を忘れてはならない。
 また、メインバンク制の基本的な意義もこの資金の運用、融通にあった。

 金融機関、メインバンクが資金をバランスするように働いてきた。故に、過小資本でも経営が成り立っていたのである。

 金融機関の役割は、資金の循環にある。即ち、資金が余っているところから、資金が不足しているところへ資金を融通することである。ところが、現在の金融機関は、資金の集積と増殖にしか興味がない。

 日本の金融産業は、かつては、基幹産業を育成するために、長期信用銀行が、大手企業向けには、都銀、地方企業のために、地銀、中小企業のために相互銀行、信用金庫、信用組合、また、農業や漁業の振興のために農林中央金庫と言った具合に分業をしてきた。
 しかし、バブル崩壊後の金融再編の中でこの様な分業体制は崩壊したしまった。金融市場の規制緩和も、結局、金融事業の平準化、標準化、均一化に過ぎなかったのである。(「金融権力」本山美彦著 岩波新書)

 個々の企業が固有の理由で赤字におちいるのは、経営上の問題である。しかし、業界の大半の企業が赤字におちいるのは、構造的問題である。それは、その状態を金融機関がどの様認識し、どう対処するのかが問題なのである。

 地価が下がっている時に、あえて担保主義に則れば、企業の評価が低下するのは当然である。為替が円高に振れれば、輸出産業の業績は悪化するのは自明である。石油をはじめ、原材料が高騰すれば、キャッシュフローが悪くなるのは必然的帰結である。地価が下がっている時に担保主義にたったり、円高になったときに輸出産業の業績の悪化を理由に融資を引き上げたり、原材料が高騰している時にキャッシュフローを問題にして融資を渋るのは、単に経営者のあら探しをしているのに過ぎない。角を撓めて牛を殺すことである。
 問題の本質は、長期的展望にたって産業をどう育成するかにある筈である。その原点を忘れれば金融業の存在意義は失われる。
 ただ、瞬間瞬間、時点時点の業績を問題にするから、方向性を見失うのである。企業や産業の育成というのは、長期的展望、見識があって成り立つのである。
 政策や外部環境の変化によって経営が悪化したら、その責任の所在はどこにあるのか。環境や状況が悪いからこそ金融業の真価が問われるのである。最近は、マネーゲームに興じて肝心の事業評価が疎かにされているように思える。

 企業の健全な育成を忘れて資金の投機的運用にうつつを抜かす。それは、犯罪行為である。サブプライム問題で何千億という損失を出しながら、数千万という融資に対し貸し渋りをする。それでは社会の健全さが失われるのは当然である。額に汗して働いて売る金よりも、博打で得た金の方に重きを置けば、社会の根本的倫理観が損なわれてしまう。金融機関は、自重すべきである。また、信念を持つべきなのである。

 メインバンク制というのは、金融資本による産業支配という側面を持つ事は否定しない。しかし、規制緩和、競争の原理の美名の下に金融市場の寡占化が進んでしまった現実をどう考えるべきなのか。

 成長を基盤とした市場経済下では、企業は、資金調達を運命付けられている。つまり、現状維持が許されないのである。そこに、金融機関の必要性がある。

 メインバンク制は、少なくとも戦後の日本経済を支え、その中から、自動車産業をはじめ多くの日本の基幹産業が育ってきたのである。その点を見逃してはならない。少なくとも国策に基づいて金融機関は存在した。その国策を頭から否定してしまったら、金融は、方向性を見いだせない。
 反体制、反権威、反権力主義も過度になれば、かえって、権力や独裁を生み出す原因となるのである。
 結局、重要なのは、国家観であり、思想なのである。つまり、どんな国に、どんな社会にするのかの具体的な構想なのである。
 

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