野茂は、ある意味でプロ野球界のパイオニアである。野茂が、多くの反対を押し切ってメジャーリーグに挑戦し、めざましい活躍をしたことで、プロ野球の市場が国際化し、イチローをはじめ多くの日本人選手がアメリカのメジャーリーグに進出した。そして、それは、日本のプロ野球球団が国際競争に曝されることをも意味することとなったのである。選手の年俸もメジャーリーグの年俸と釣り合わなければ、優秀な選手の流出は止まらないであろう。
 日本のプロ野球も以前は、国内のことだけを考えていればよかったが、今では、破格の年俸で選手を引き抜くメジャーリーグに対抗せざるを得なくなりつつある。
 これは、企業の多国籍化の一つの契機である。つまり、多国籍化というのは、多国籍化せざるを得ない状況や環境を前提としているのである。

 日本のプロ野球やサッカーは、海外に向かって進出した。それに対し、日本の相撲界は、自分達の土俵の上に世界を取り込もうとしている。どちらも多国籍化に違いはない。

 今や日本は、世界中から食料を調達している。今や日本人の食卓は、多国籍化している。我々の身近にある食生活ですらこの様な状態なのである。我々の身近で日常的な社会が多国籍化しているのであるから、必然的に日本の企業や産業も多国籍化しているのである。産業の多国籍化以前に、市場のグローバル化がある。内に向かっての国際化は、外に向かっての多国籍化、グローバル化を促す。

 世界同時株安やオイルショックと世界の市場は、ますます連携の度合いを強め統合化されつつある。今、思えば、ベルリンの壁の崩壊は、一つの象徴的な事件であった。それでも、日本のバブル崩壊は、日本国内の問題であったが、本来、アメリカ国内の住宅問題であるはずのサブプライム問題は、たちまちの内に世界に飛び火して、世界同時株安を引き起こしている。この様に、今や、世界市場は、一つになりつつある。必然的に企業も国際化時代に対応せざるをえなくなっているのである。
 更に言えば、国際化というのは、市場を諸外国へ門戸を開くという意味合いがあるが、現在のグローバル化というのは、もっとダイナミックな意味で地球的規模で市場が統合されつつあるという意味合いが強い。

 プロ野球の世界ですらグローバルな時代なのである。一国の事情だけを優先するわけには行かなくなってきたのである。
 経済のグローバル化が叫ばれ、市場の国際化的規模の拡大が進んだ今日、企業の多国籍化は避けられない状勢にある。

 1990年代半ばから、第五次M&Aブームが起こっていると言われる。その結果、多国籍企業がメガ化しているが、それは、事業を拡大したと言うより、主としてM&A、つまり、企業の買収、合併によるものが多い。つまり、企業が巨大化し、市場を占有する手段が、事業の拡大によると言うよりも企業買収や合併が主だと言う事である。

 1980年代に起こった第四次ブームは、「メガ・ディール」と呼ばれる。第五次ブームは、80年代に起こった「メガ・ディール」の延長線上にあると見られているが、80年代とちがって同一産業内の上位企業同士の合従連衡に特徴がある。その結果、鉄鋼業界では、「アルセロール社」というメガ企業が誕生し、小売業界では、「五大グローバル・リテイラー」体制となり、セメント業界も五大グループに、自動車業界は、七大グループに集約されつつある。また、石油も、セブンシスターズと言われた時代から五大スーパーメジャーの時代に移行しつつある。
 M&Aというのは、複数の企業間で、その所有権と経営権の転移、又は、交換をする行為を言う。合併には、水平的合併と、垂直的合併、多角的(コングロマリット型合併がある。(「進化する多国籍企業」末廣昭著 岩波書店)

 また昨今では、企業の多国籍化は、生産拠点だけでなく、流通、金融、資本とあらゆる局面にわたっている。それに伴い産業の再編も、先に述べたように、地球的規模で展開されるようになった。
 資本の移動、金融決済、流通などは、インターネットの発達によって国境が取り払われつつある。それは、多国籍企業の在り方を根本から変えようとしている。それは、企業概念を物理的空間からインターネットという仮想的空間へ置き換えていくことを意味する。
 物理的空間と仮想的空間との決定的な差は、物理的空間にはある、物理的な障壁が仮想空間にはないという事である。例えて言えば、物理的空間にある距離や時間が仮想的空間には、取り除かれるか、大幅に、短縮される。また、物理的空間ならば、捕捉できる事が仮想空間では捕捉できなくなることがあるという点である。これは、物理的空間で犯される犯罪と、仮想空間で犯される犯罪との質的な違いも派生させる。

 多国籍企業とは、複数の国にまたがって構成される企業集団であり、その集団自体が自律的な機能を有する企業集団である。

 多国籍業のルーツは、国境貿易にある。つまり、二国間、又は、数カ国間にある物価や制度上の違い、差を上手く活用することによって利鞘を稼ぐのである。

 多国籍企業というのは、なにも、財閥、コンツェルンの様な大規模な企業集団ばかりとはかぎらない。最近では、市場の国際化、経済のグローバル化に従って町工場のような中小企業にも多国籍化の波は押し寄せている。むろん、最初から多国籍企業を目指す企業もなくはないが、多くは、環境の変化に対応してやむおえず、多国籍化していくのである。
 その意味では、企業の多国籍化と言った方が多国籍企業と言うよりも正しいのかもしれない。ただし、最初は、やむにやまれぬ理由で多国籍化したとしても、一度企業が、多国籍化すると、それなりに戦略や政策が必要となる。そして、国家間にある違いを活用して企業の利益を計らざるをえなくなるのである。

 企業の業務が複数の国に及ぶと必然的に各国間の制度や文化、習慣、風習の違いが際立ってくる。反面、共通した基盤も大きな影響力を持つようになる。違いは、違いとして際立たす反面、その基礎となる部分が知らず知らずのうちに標準化、統合化されることを意味する。それが世界同時株安と言った現象を引き起こすのである。
 多国籍企業の機能を考える時、この国家や一定の地域による格差と、世界的な共通基盤とを見極める必要がある。
 典型は、情報の世界である。言語体系は、国家や民族によって違ってくる。一つの国家の中に、複数の言語が混在している場合もある。しかし、コンピューターのOSは、一般にウィンドウズによって標準化されている場合が多い。もっと言えば、国家の体制は違っても自然の法則は一つである。これは、一見何の変哲もないようだが、重要なことなのである。
 その最たるものが道徳である。個々の国や、地域、民族、宗教の持つ固有の風俗、習慣から来る考え方の違いが争点となる反面、経済に対する価値観が万国共通になってくる。例えば、金利に対する考え方や食文化である。

 この様な多国籍企業の存在は、会計制度や税制度の世界的統一、標準化を促す反面、地球的規模の国際分業も促進する。グローバル化が進めば進むほど、ナショナリズムが盛んになると言う矛盾した現象が起こる。そして、それらの動きが世界各所で激しくぶつかり合っているのである。

 マクドナルドは、典型的な多国籍企業であるが、マクドナルドの商品であるビックマックが各国の物価水準や通貨水準を計る物差しとして使われている。
 ビックマック指数の他に、コカコーラマップ、スターバック指数、iPod指数などがあるがいずれも代表的なアメリカ系の多国籍企業を背景として持っている。

 ハンバーガーチェーンが多国籍化し、各国に進出する事によって、成果の食文化に変化が現れる。つまり、ハンバーガーが食を平準化、標準化するという事である。味覚まで、標準化されてしまうのである。この様に、ハンバーガーチェーンが、市場を制覇するとハンバーガーが、食文化や味覚、物価の国際標準の尺度を作っていく。つまり、世界の基準を多国籍企業の商品が担うようになっていくのである。
 パソコンのOS、石油、電気のように、その商品がなければ、生活が成り立たないようになれば、結局、人々の生活は、その商品を供給する企業によって支配されてしまうのである。

 裁定取引などは、国際間、市場間に生じる時間的、また、何等かの距離的な差を利用して利益を上げている。インターネットが発達した今日、瞬時で市場間の格差は是正されてしまう。この様に、市場の国際化は、世界市場の平準化を促す作用があるのである。

 この様な傾向は、国際規格の面にも現れている。かつて、ベータvsVHS戦争と言われ、家電メーカー間で熾烈な争いが十年間続いた例にもあるように、「事実上の標準」デファクトスタンダードにせよ、「国際標準化機関などによって定められた規格」デジューレスタンダードにせよ国際規格の標準を抑えた企業が次代の市場を征すると言われている。この様な規格の標準化を推進するのは多国籍企業の働きの一つである。そして、この様な規格の標準化は、各国間の市場の垣根を取り払う働きがある。そして、国際的な市場の統合の動きを加速させる。

 多国籍企業というのは、各国間の格差、即ち、制度の違いや、物価、所得、金利水準の違いを活用することに利点がある。ここで重要なのは、方向性(ベクトル)と水準である。
 例えば、賃金水準の高い国から賃金水準の低い国に生産拠点を移転することによってコストを削減すると言う事である。産業の空洞化もこの延長線上に位置付けることができる。しかし、この様なコストの移転は、結局、移転先の賃金水準を引き上げることになり、長い間には、世界の所得水準を平準化する事に繋がる。仮に、賃金水準を低い状態に据え置こうとすれば、それは、単純にコストの転移ではなく。貧困、格差の固定化を意味することになる。それは、貧困の輸出、また、新しい帝国主義、植民地主義をいもしている。
 これは、制度的な問題でも言える。規制が厳しい国から、規制が緩い国に拠点を転化すれば、規制を引き上げるか、規制を緩和する化しなければ、公正な競争力は維持できなくなる。規制は、規制をする何等かの目的や意義がある。例えば、環境汚染や公害、薬品規制なのである。公害に産業廃棄物に対する規制が緩い国に生産拠点を移すことは、公害や環境汚染を輸出することにもなる。かといって自国の規制を緩めることは、自国の国民の衛生や健康を犠牲にすることになる。
 温暖化現象のように環境保護が喫緊の要事である今日、自国の規制だけを緩めて産業の競争力を高めることは許されないのである。環境汚染に国境は存在しない。川上の国の河川の汚染は、川下の国に影響を及ぼすのである。
 この様に考えると各国間の格差を活用する反面、各国間の格差を縮める方向に多国籍企業は向かわざるを得ない。

 結局、企業は、多くの国に進出すればするほど、国家間の法や会計制度の違い、通貨の違い、商慣習や文化、言語の違いなど言った諸々の諸問題の解決を迫られることになる。それが、多国籍企業の無国籍化を引き起こすのである。同時、俗に言うワンワールド、一つの世界に一つの市場という方向性を促すのである。

 国際市場の規律は誰が保つのかが重要な課題となる。市場の規律を保つものは、絶大な権力を掌握する危険性があるからである。また、同時に多国籍企業は、誰のために、何のために収益を上げるのかも重要になる。

 企業の多国籍化は、企業の無国籍化を意味する場合がある。企業の多国籍化が進化すると、拠点としていた国から離れ、いろいろな国籍や民族、宗教を取り込み、所謂(いわゆる)多民族国家のような状態を呈する場合がある。それが高じると多国籍企業の利益と個々の国の国益とが対立する局面が生じたりもする。

 多国籍企業の中には、国家の枠組みを大きく超えているような企業もある。かつて、セブンシスターズと言われた石油メジャーが好例である。なぜ、シスターと呼ばれたかというと、普段は仲が悪いが、共通の敵が現れたら結束して立ち向かうからだと言われた。これは、市場を支配する多国籍業の性格をよく表していると思われる。独占禁止法も国家の枠組みを超えたところで行われる行為に対しては、限界がある。それが多国籍業の陰謀説を生み出す要素でもある。
 多国籍企業の中には、この様に国家を超越した存在として世界経済を牛耳ていこうとする勢力まで現れてきた。こうなってくると多国籍企業は、何に対して忠誠を誓い、誰のために収益を上げるのかが判然としなくなる。それが問われたのは、第二次世界大戦における石油メジャーの動きであり、また、マネーロンダリングに利用されているのではないかというスイスの銀行の在り方である。

 この様な多国籍企業の在り方が、国際紛争の元凶と見なされテロの標的にされる多国籍企業も出現するようになるのである。

 企業の多国籍化は、市場の拡大に伴って必然的に拡大した。そして、企業の無国籍化は、企業の多国籍化の結果として派生したのである。
 企業は、海外に販路を拡げたり、為替の変動や安い労働力を求めて海外に生産拠点を移したり、また、節税対策やリスク管理の一貫として、結果的に多国籍化せざるをえなかったのである。そして、通信施設や交通機関の発達はこの多国籍化の後押しをしたのである。しかし、一度、多国籍化してしまえば、後戻りはできない。結局、進出した国と母国との狭間においてそれなりの整合性を取らざるをえなくなる。これら多国籍企業の行動が、一方において、会計制度や金融制度、通信機関の統一化、標準化、規格化を促し、他方において国際分業を推進するのである。

 又、多国籍企業は、国境を越えて拡大せざるをえない。それは、多国籍企業が成立した時点に定められた宿命のようなものである。国境を越えると言う事は、それだけリスクが増すことを意味する。企業の多国籍化の動機は、リスク分散にある。しかし、多国籍化すると今度は、違う種類のリスクが発生する。つまり、多国籍化とは、リスク管理に他ならないのである。

 元々、企業の多国籍化は、多角化と同様、リスク分散の意味合いもある。しかし、それは、企業が常に、何等かのカントリーリスクを負っているという事をも意味しているのである。
 そして、多角化すればするほど、カントリーリスクのファクター、要素は増すのである。多国籍企業は、、多国籍化することによって、常に、カントリーリスクに曝されることになる。カントリーリスクは、革命やクーデター、戦争、政変と言った政治的な要素と台風や地震といった自然災害、物理的な要素、為替変動や通貨危機と言った経済的な要素、国際犯罪や誘拐、テロと言った治安上の要素、労働条件の変更や商慣習の違いと言った文化的な要素と多岐にわたることとなる。

 反面において、国家間の制度的な違いや歪み、空白を活用したタックスヘブンの様な国の活用、ヘッジ取引のようなリスク管理も容易となる。また、必要に応じて拠点となる国を選べるになり、利益の移動や移転の選択肢の幅も広がることとなる。

 これからの世界経済、国際市場の枠組みは、多国籍企業がリードしていくことになるであろう。それは、必然的な帰結である。つまり、多国籍業は、無国籍化することによって一国の法や制度に対し、超然とした存在となることである。もう一つは、政治的権力に世界権力が存在しないからである。その結果、拘束力のある国際法が成立しない。そうなると、多国籍企業は、自らの利益を最大化するために、統一的な規範を生み出さざるをえなくなるからである。そして、それらは、国際会計制度や国際的な金融制度、又、商取引の慣習、国際規格に収斂されていくからである。これらは、やがて世界経済のインフラストラクチャーを形成することになる。

 市場が世界的規模に拡大すると一国の制度の枠組みでは、手に負えない事態が発生する。そこで、多くの国際機関の働きが重要となる。しかし、国際機関と言っても何等かの強制力を持つ者は少ない。つまり、国際機関と言っても調停機関である場合が多い。そうは言っても国際機関の影響力は、増している。中でも、世界銀行(WB)や国際決済銀行(BIS)、国際原子力機関(IAEA)の働きは、大きい。

 多国籍企業は、国際的ネットワークも構築している。このネットワークが、国際経済の枠組みを形成させているのである。

 その意味では、インターネットや情報通信技術の発達によって多国籍企業は、新たな次元に突入した。インターネットや情報通信技術の発達は、国際市場をリアルタイムに結び付けた。それは、多国籍企業から国家の障壁を取り除くことにもなった。インターネットの世界では、国境がなくなりつつあるのである。例えば、多国籍企業における内部取引にしてもインターネット上で決済することが可能となったのである。金や情報の取引は、閉鎖的な空間内部で情報の交換をするだけで処理することが可能となったのである。

 ネット上においては、個人レベルでも簡単に多国籍化できる。多国籍企業というのが身近になってきた証拠である。情報、通信、金融分野における市場の統合は加速度がつき、もはや後戻りできる状態ではない。

 グローバル化は、この様な流れを受けて加速している。そして、世界の市場が統合されるに従って、産業の再編も、世界的、地球的規模で促進されることになる。

 今や、多国籍化は、あらゆる分野に及んでいる。かつては、人件費の高騰や為替の変動によるリスクを回避するために、生産拠点を途上国に転移するものが多かった。しかし、今や金融、情報、流通とあらゆる分野の企業が海外進出を果たし、多国籍化している。しかも、それは、企業の合従連衡を伴って国際市場、国際産業の再編成を促している。また、企業間の合従連衡も垂直的、水平的、また、コングリマリット型と多岐にわたっている。

 多国籍企業と言っても、一つの国に拠点を置いていたのが、経済情勢や環境の変化によって結果的に多国籍化する場合と、最初から何らかの意図を持って戦略的、計画的に多角化していく企業とがある。多角化してしまうと両者の基本的な違いというのは目立たなくなるが、計画的、戦略的に多角化してきた企業の方が、国際情勢の変化や国家観の違いを巧みに活用しているように思える。いずれにしても、多国籍企業の動向は、国際経済のみならず、国内経済にも重要な影響を与えることは必定である。

 生産拠点を幾つかの国に分散的にもつ場合と、金融機関のように、投資先を多くの国に分散させる場合とでは、その根本的な在り方が違ってくる。

 つまり、多国籍化と言っても貨幣経済な意味での多国籍化と実物経済における多国籍化がある。

 一頃前は、産業の空洞化を懸念する話がよく聞かれた。これなどは、実物経済における多国籍化の好例である。今は、為替の変動や金利動向、節税対策などから投資先の分散を考える機関投資が増えている。これなどは、貨幣的な意味での多国籍化である。そして、それを可能たらしめているのがインターネットに代表される。情報、通信、交通技術の進化である。

 また市場の拡大は、量産体制の拡大、即ち、大量生産、大量消費経済の拡散を意味する。また、市場経済や貨幣経済の浸透も意味するのである。
 それはまた、環境汚染や貧困の輸出と言った事態やその土地・土地にある文化や伝統の破壊、平準化をも意味する。また、交通機関の発達した今日、インフルエンザのような病疫の蔓延も防ぎようがないのである。

 アジアの通貨危機は、国際的な投機、ヘッジファンドが原因だとされている。また、インターネットによる国際犯罪も蔓延している。この様な事態の中で、多国籍企業の行動をこのまま野放しにしておいて良いのかという議論が起こっても不思議ではない。

 世界市場は、無政府な状態のまま放置されている。将に、戦国乱背の様相を呈しているというのにである。巨人が鎬(しのぎ)を削れば、市場は荒らされ、弱者は踏み潰されてしまう。その過程で個々の国の文化や伝統が破壊され、失われていって良いものなのであろうか。
 温暖化に代表される環境問題、狂牛病に代表される食の安全が叫ばれている今日、多国籍企業は、企業としての経済的合理性のみを追求するだけで良いのだろうか。しかし、理想ばかり追い求めても競争力を失えば淘汰されてしまう。

 多国籍企業は、経済的効率性を求めて生産拠点を移動する。また、自社の政策に基づいて立地条件や雇用条件、衛生環境、政治体制、税制度などを選択する。そのことによって各国の経済制度や雇用環境が振り回されているのが現実である。
 極端な場合、革命やクーデターのような政治体制の変革や政変の引き金を引くこともある。そこまで行かなくても政策や制度の変更を余儀なくされたりする。

 個々の国の産業を育成したり、発展させるために国家毎の自律的な政策が、多国籍企業の立地戦略や投資戦略によって左右されてしまったり、規制されてしまうと言うことが起こる。それは、国家の独立や国民の権利を侵すことにもなる。(「進化する多国籍企業」末廣昭著 岩波書店)
 基本的に多国籍企業のとる行動は、経済的合理性にある。つまり、人件費が安く、企業の都合のよい雇用条件が整っているところを選択する。そして、その選択の是非は、結局、市場における競争力によって判定されてしまうのである。いくら、良心的、理想的な雇用体系を築いたところで、高コストになれば、自ずと淘汰されてしまう宿命にある。そうなると、客観的な基準によってコスト的に最も最適な国を多国籍企業は、選択せざるを得なくなるのである。
 もし、経済条件をよくして多国籍業を誘致しようと思えば、例えば、低い労働費で競争力を維持しよとした場合、賃金を不当に安く据え置く政策をとるか、自国の通貨は、低く抑え込む以外にない。しかし、無理に賃金や通貨を低く抑え込む事は、市場の原理に反し、市場機能の低下を招く。
 いずれにしても、多国籍企業の行動は、国家の政策や制度に決定的な影響を及ぼすことになる。

 最近、顕著になってきたのは、多国籍企業が構造化しているという事である。国際市場において最も経済的な体制をとろうとする。その為に、機能的に拠点を定めているのである。最も、コストの安いところを求めて絶え間なく、その拠点を動かしている。そして、その都度、当事国が震える、震撼するのである。

 経済のグローバル化は、労働市場のグローバル化をも意味する。つまり、国際市場が統一化されれば、労働者も国際間の競争に曝されることになる。

 無国籍な行動、無政府主義的な行動が、国家、国民から見ると多国籍企業が暗躍しているように映るのである。それ故に、多国籍企業には、節度ある行動がこれからはますます要求されると同時に、情報の開示がもとめられていくことになるであろう。また、国家間の協調と国際機関の権限の強化、国際市場の整備などが必要とされるようになるであろう。

 結局、これらの弊害を取り除くためには、何等かの形で世界市場を調停する機関が必要とされるようにならざるをえなくなる。それは、国際金融機関であり、国際治安機関であり、国際司法機関のような所謂(いわゆる)、国家機関に準ずるものにならざるをえない。

 私は、近代という時代を成立させた要素は四つあると考えている。第一は、近代科学にである。第二は、近代民主主義である。第三が、近代会計制度である。そして、第四に近代スポーツである。その意味で、近代プロスポーツの在り方は、次の時代を占うのに最適である。
 昨今のスポーツの動向を見ていると国際化、多国籍化が、ますます盛んである。その国際化、多国籍化も日本のプロ野球のように外へ向かっての多国籍化と相撲のようにウチへ向かっての国際化の双方においてである。そして、それに伴って国内のスポーツ機関の整備と国際スポーツ機関の役割が重要となってきている。
 日本のプロ野球が第二の開国とも言える時代に突入した。その門戸を開いたのは、野茂という一人の選手の勇気である。この事は、企業の多国籍化や市場のグローバル化に際し、貴重な示唆を与えてくれたと思う。このグローバル化の流れに、我々は、否応なく流されていくのである。ならば、ただ受け身でいるだけでなく、積極的に、真摯にこの事態を受け止めるべきなのである。

参考文献
「進化する多国籍企業」末廣 昭著 岩波書店

 

多国籍企業

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