アメリカの歴史は、ある意味で独占との戦いの歴史とも言える。そして、独占禁止法の歴史は、その時代・時代の経済に対する考え方を如実に現していると言える。中でも、トラストに対する考え方は、市場経済の基本に関わる問題でもある。

 アメリカのトラストに対する戦いを象徴しているのは、スタンダードトラストに対する対応である。1890年、反トラスト法としてシャーマン法が成立、その二年後には、スタンダード・オイル・トラストに解散命令が出されるのである。このシャーマン法こそ、反トラスト法の端緒である。(「経営史」安倍悦生著 日経文庫 日本経済新聞出版社)

 トラストやコンツェルンに対しては、多分に感情的な議論が先走る傾向がある。これは、ユダヤ陰謀説にも通じることであるが、多分に妄想的な部分が含まれている。重要なのは、トラストやコンツェルンの何が問題なのかを明らかにし、その上で、一定の原則に則った対策を講じることが大切なのである。
 又、この問題点の根本には、国家理念に関わることも含まれている。それ故に、慎重な検討が必要となるのである。

 権力や支配、覇権という言葉にアレルギーを示す人が多くいる。特に、青年期に反体制、反権力思想の洗礼を受けた人達にこの傾向が強い。しかし、権力機構や支配機構は、思想信条を異にする人間が共同で社会を構成する限り、なくなりはしない。問題は、自分がどの様な考えに基づき、どの様な立場に立つかである。
 この世の全ての権力を呪い、否定したところで新たな権力を生み出すことにすぎない。何等かの構想や思想をもって主体的に社会にかかわることは、即ち、権力闘争の渦中に飛び込んでいくことを意味するのであるからである。
 人間が、主体的な存在だとするのならば、公正や公平、中立を重んじるというのは、一種の欺瞞、まやかしに過ぎない。そして、社会も、経済も人間の主体的活動の結果、現れなのである。

 経済に対する構想を持たない権力者はいないし、仮にいたとしたら、その者は、権力を保つ事はできない。問題は、それがどの様な構想なのかである。どの様な動機、目的によるかなのである。そして、どの様な結果を期待しているかである。
 経済に対する構想を持つだけで悪だというならば、共産主義者も無政府主義者も社会主義者も一律に悪だと言う事になる。富を独占し、自分だけの権益を守ろうとするのは間違いだが、自分の事業に対して構想をもつ事事態は悪いではない。むしろ当然の行為である。
 自分なりの構想や考えを持って経済行動や政治行動を起こすことは、ただ、自分の欲望を満たしたり、自己の利益を追求することだと決め付けることはできない。人間は、何等かの大義名分に従って生きているものである。成功者の行動を欲得だけにかられた結果だと断定するのは、ただ、自分と違う考えの者を悪だと決め付けて非難しているのに過ぎない。ただ、結果において、富が遍在したり、一部の人間に独占されるのは問題である。しかし、それは個人の問題ではなく、制度の問題である。

 トラストの弊害は、市場の機能を低下させるのみならず、経済的特権階級を生み出すことである。経済的滞留は、新たな階級差別の要因となるのである。それ故に、平等を目指す思想家達は、殊更、トラストやコンツェルンを嫌うのである。

 反対に極端な市場原理主義者も競争の原理や規制緩和ばかりに気を取られて、その結果に対しては無頓着である。競争は、普遍的な原理ではない。それは、市場の機能を保つために必要なものなのであり、競争の原理を保つために、市場は規制されなければならないのである。

 市場が競争を望んでいるのである。市場は、機能的な意味で競争状態を必要としているのである。しかし、市場は、放置しておくと過当競争状態から淘汰、合従連衡を繰り返し、寡占、独占段階へと進んでしまう。適正な競争状態を維持するのは、困難なのである。市場原理主義者が、市場を放置し、競争原理に委ねればいいと言うのは、とんでもない嘘である。それは、市場を尊重しているようで、市場の機能を低下させることに繋がるのである。

 トラストは、単一、ないし、少数の企業によって市場を実質的に支配するために、公正な価格形成が市場で行われなくなることが問題なのである。
 トラストで有名なのは、ロックフェラーによる石油トラストであるが、アメリカにおいては、トラストの問題は、石油だけでなく、あらゆる分野において問題とされた。それは、アメリカの建国の理念に関わる問題だったからである。
 その点で言えば、日本や新興国の多くは、トラストやコンツェルンに対して比較的寛容な姿勢をとってきたし、現在でも、アメリカのような厳しさを持ち合わせていない場合が見受けられる。

 トラストとカルテルとは違う。カルテルは、トラストと違って複数の経営主体が協定や提携を通じて実質的に市場を独占する体制を言うのに対し、トラストは、単一の企業によって市場を独占してしまうのである。トラストが形成された時の支配力は、カルテルなんかに比べて圧倒的な力を発揮する。一度トラストが成立すれば逆らえないのである。だから、トラストとカルテルではわけが違う。

 それ故に、アメリカの政策は、トラストとの戦いだったといえるほど、厳しい姿勢でアメリカ議会は臨んだのである。そして、独占禁止法の歴史は、その時代・時代の経済に対する考え方を如実に現していると言える。中でも、トラストに対する考え方は、市場経済の基本に関わる問題でもある。同時にアメリカにとって、自由、独立、公平、公正、平等といった建国の理念にまで、遡(さかのぼ)って考えられる。将に、倫理、道徳的な問題にまで深化してしまっている。とにかく独占は、悪いから、悪いのである。しかし、独占を頭から悪いと決め付けてしまうと、独占の持つ意義や問題点を明確にすることすらできなくなる危険性がある。独占のどこに問題があり、どこが悪いのか。それを解き明かす事は、単に独占の弊害と言う事にとどまらず。市場経済の問題点、弱点、欠点、短所を明らかにすることに繋がるのである。

 独占を禁じるというのは、思想である。真理ではない。また、規制を緩和し、競争の原理を働かせるというのは、市場の独占を促進させる働きがある。故に、規制を緩和することは、短期的には、市場の機能を活発化させるが長期的には、市場の機能を低下させることになる。故に、市場の機能を絶対視する者が、規制を緩和し、競争の原理を無条件に働かせろというのは、矛盾している。

 企業が市場を支配しようとするのには、原因がある。動機があるから、企業は、市場を独占しようとする行動に走るのである。また、企業行動の結果、市場が独占的な状態になるのである。いずれにしても、市場の独占、寡占というのは、結果に過ぎない。結果に過ぎないが、市場が独占されてしまうと、市場の機能が発揮されなくなるから、独占排除されるべきだというのが、独占を禁止しようとする発想なのである。
 例え、独占企業が良心的、良識的な企業であっても、独占を排除すべきだというのは、独占によって市場が期待される機能を発揮できなくなるからである。独占企業が排他的だからとか、利益を独占しているとか、搾取しているからと言った倫理的な動機によって独占を排除すべきだと言っているのではない。あくまでも、市場機能の問題なのである。
 よく独占は悪だという感情的な議論があるが、その様な感情的な意見は、無意味である。問題は、市場を独占することによって、どの様な弊害があるかが、重要な問題なのである。故に、独占を禁じるという思想は、普遍的真理と言うよりも相対的原則と言った方が正しい。

 現代人は、客観的、客観的と言い過ぎる。それを科学的合理主義だと錯覚している。経済というのは、本来恣意的なものであり、主観的主体的なものである。いくら客観的基準で測ろうとしても自ずと限界がある。

 公平、公正、中立という反面で、現代人は、人間の経済的行動を色と欲の所産として見なす傾向があるが、人間は、合目的的な存在であり、欲望だけで行動しているわけではない。公平、公正、中立と叫ぶ人間は、自分を神の如き存在だと錯覚しているのではないだろうか。唯物論的な発想では、最も人間らしい活動である経済の実相など理解することはできない。

 市場原理主義者の中には、経済は、あたかも自然現象のように成るものだと主張する者がいる。しかし、それは、短絡的な発想である。経済は、人間の主体的な活動の結果である。その主体的活動を否定したら経済は、成立しない。そして、それが主体的な活動で在れば、必然的に市場を支配する方向に人間は向いていくのである。

 だからこそ、市場を野放し、放任するのではなく。何等かの装置、制度によって制御する必要があるのである。独占禁止法もその装置の一つである。そして、その様な装置を是とするのも為政者の思想の現れなのである。それは、絶対的真理のようなものとは、性格を異にしている。

 アメリカには、五回にわたって企業合同の波があったと言われている。そして、その後どの波それぞれに時代背景があり、特徴がある。それは、独占の在り方に重大な示唆を与えてくれる。

 企業が市場を独占しようとするのには、何等かの理由がある。なんとなく、市場を独占したいからとか、自分の虚栄心を満足させたいからと言うだけの動機で市場を独占しようとするわけではない。多くのマスコミや反体制主義者は、極端な人間不信に陥っているように見え、あらゆる、権力は、悪徳非道な人間だと決め付けている様に見えるが、経営者や権力者も人間である。自らの信念に基づいて行動していることには変わりないのである。もし、問題とするならば、その考え方や思想に対してにでなければならない。そうでなければ、それは単なる誹謗中傷に過ぎない。
 企業は、何の原因もなく、市場を独占するような行動をとるわけではない。例え、結果的に市場を独占することになったとしても、企業が市場を独占するようになるには何等かの動機や原因が潜んでいる。その動機や原因を明らかにしなければ、独占的行動を抑制することはできない。

 それを解明する手立てとしてアメリカの企業合同の五回の波は、示唆に富んでいる。
 第一の原因は、産業革命以後の産業形態、産業構造にある。第二に会計制度にある。第三は、金融制度にある。第四の原因は、税制度にある。第五に、資本主義体制に原因がある。

 まず第一の原因として考えられるのは、産業革命による生産手段、生産形態の変化である。産業革命によって大量生産が可能となった。しかし、その為には、大規模な設備投資が必要となり、巨額の資金を用意しなければならなくなった。設備投資にかかる費用を処理するために、固定資産会計、中でも、減価償却の概念が確立された。現代の会計制度は、この固定資産の処理の仕方が確立することによって制度としての大枠が準備されたのである。
 産業革命がもたらした大量生産方式の特徴は、初期投資が過大になる反面、一度操業が始まると一つあたりにかかる原価は、操業率、操業度に左右されるという事である。フル操業をすれば、初期投資にかかる費用は小さくなり、一つあたりの原価が安くなると言う特徴がある。その為に、機械設備の操業率、操業度を上げようとする。機械設備の操業率、操業度が上がれば、単価が下がるために、廉価に販売できる。その結果、操業度、操業率を上げて、原価を下げ、その分、単価を安くする。それが市場の過当競争を招き、また、初期投資が大きい分、市場の占有率の低い企業は、損益分岐点を収益が下回り、経営を継続することができなくなるのである。この様な事態を回避するには、一定の操業度と単価を確保する必要が生じるのである。実は、市場の競争の原理というのは、この操業度と製品一つあたりの原価、単価のきわどい均衡の上に成り立っている。そして、この均衡を保つことが独占禁止法の精神なのである。
 故に、独占禁止法の精神には、カルテルやトラストだけでなく、不当廉売に対する規制も含まれている。ところが、日本の世論や意識は、消費者は、善で、資本家は悪だという視点から何でもかんでも、価格が安ければいいという偏った見方をする傾向がある。この偏った考え方が、結果的に市場を独占的、寡占的体制にしてしまうのである。また、同時に、巨額の資金を調達できない零細業者は淘汰されてしまう。特に、職人のように機械設備に頼れない業種は、絶えてしまう。日本の伝統的工芸が失われた原因がそこにある。その際、マスメディアが及ぼした影響は、重大である。

 企業合同の形態には、水平的、垂直的、構造的(総合的)、多角的(複合的)と言う四つの形態がある。水平的というのは、同業者間の合同である。また、垂直的というのは、産業の諸段階、過程を統合する合同である。総合的・構造的というのは、産業の周辺機能や隣接部分を取り込み、総合的合同である。多角的合同というのは、異業種間の複合的合同である。多角的・複合的合同形態をコングロマリット的合同という。
 企業合同の目的には、「競争の回避」「規模の経済」「統合の経済」「範囲の経済」「産業の再編」「企業の合理化」「既得権獲得」「研究開発の合同」「技術・ノウハウの獲得」「人的・物的資産の獲得」などがある。
 「既得権」の中には、特許や著作権と言った知的財産、営業権や暖簾と言ったブランド、公共事業に対する入札権と言った利権がある。
 企業合同の目的は、「競争の回避」以外に、「規模の経済」や「範囲の経済」「産業の再編」「企業の合理化」「既得権の獲得」「節税対策」「財務体質の強化」などが上げられる。

 企業合同の中でも水平的合同は、市場に与える影響が大きい。この水平的合同が、トラストである。初期の企業合同の波は、水平的な合同がほとんどであった。反トラスト法によって 水平的合同が困難になると垂直的合同、総合的合同へと順次変化してきた。

 垂直的合同は、社内取引により利益の付け替え、移動が可能となる。特に、取引が複数国間にまたがる場合、各国間の税制度の違いを利用した複雑な租税回避行も可能となる。この点も企業合同を行う重大な動機の一つである。

 また、企業合同上、近代会計制度が与えた影響も無視できない。
 会計上の問題点の一つは、企業は、会計制度上は、継続を前提として組み立てられているというところにある。継続を前提として期間損益の計算がされており、その為に、減価償却という思想が持ち込まれたことである。減価償却という思想は、良かれ悪しかれ、現代の市場経済に重大な影響を与えた。
 資産会計と損益会計の分離されたことである。資産の変動や価値が損益上に反映できなくなった。また、儲けの意味が減価償却費を除いたものを意味するようになり、従前のように収入から単純に支出を引いたものでなくなった。また、会計制度が確立することによって信用取引も増えた。信用取引の拡大によって経済は、より活発化した。反面において、ますます、期間損益と資金の流れと乖離したのである。現在の市場経済は、あくまでも期間損益を土台にしたものである。それが企業合同の下地でもある。
 期間損益という思想以前は、極端な話し、現金が残れば商売は続けられたが、現在は、現金が残ったとしても赤字になったり、損益上は、黒字なのに、資金がショートする様にり、売上と費用だけ見ていたら商売を継続することが困難になったのである。

 何にでも功罪がある。複式簿記が確立されたことで、期間損益が成立し、資金調達の道が開かれた。反面、経営実績と資金が切り離されてしまった。資産家の意味が変わってしまった。従来の資産家は、金持ち、物持ちであって、資産財産を所有することであったが、会計上は、資産は、所有するだけでは価値がなくなってしまった。つまり、資産を売買するか、担保にして借金をするかしないと会計上の価値として顕現しなくなったのである。それ故に、今では、土地を買うよりも借りた方がいいという事になり、リースや賃貸の技術が発達したのである。
 こうなると埋没した資産を何等かの形で顕現化する必要が生じた。その手段として企業合同、企業分割は有効なのである。そして、その為の目的だけに、企業合同が行われるようになった。

 利益は、操作することが可能であり、また、常に操作されてきた。利益を操作することによって企業は、継続存続できたのである。何が、粉飾なのかと言えば、それは予め決められたルールに従ったかという点と事実に基づいているかという点である。では、予め決められていないことに能動的、積極的に関わって良いかというと、英米では、当然、関わるべきだという発想になる。英米には、「やってはならない事は書いてあるが、やっていいことは書いてない。」と言われている。肝心なのは、投資家や債権者に経営の実情をわかりやすく、正確に説明することであり、実情にそぐわない、例えば、税制上の償却期間と言ったもので基準があれば、実情に即した処理方法に(例えば、在庫の処理方法の会計方針の変更と言ったこと)、適正な手続きに従って処理することは、違法な行為ではないのである。

 会社の合併や買収、分割というのは、色々な会計処理が許されている。また、株価をつり上げる効果も期待できる。それは、企業の財務内容の改善には良い機会を与える。ただ、その為だけに企業の合併、買収、分割などを繰り返すことが問題なのである。
 そして、その様な操作がトラストや独占に結びついていくこともある。特に、国際的な産業の再編に結びつくと国内の市場だけでは規制しきれなくなる。

 また、資本の論理によるM&Aがある。資本も作られたものである。資本の論理とは何か。それは、資本を抑えたものが企業を支配すると言う事である。それが資本主義の原則でもある。
 それ故に、優良な企業が不良な企業を買収するとは限らない。むしろ、不良な企業が優良な企業を呑み込む場合の方が多い。つまり、資本を抑えたものが勝ちなのである。ライブドア問題の背景には、この資本の論理が働いている。ライブドアが買収しようとした企業は、ライブドアよりも事業内容がいい企業が多い。それに対し、ライブドアは、ITブームに載って株価を引き上げ、膨らませ、その資本力で、強引に優良企業を取り込もうとしたのである。これは、事業が生み出す利益ではなく。資本が生み出す貨幣価値を担保しているのであるから、当然、資本コスト、配当資金が、嵩(かさ)む。その資金を生み出すためには、際限なく企業買収、事業再編を繰り返すしかない。それが近年のM&Aの基調である。
 さらに、買収資金も買収先の収入や資産を担保、つまり、当てにして調達することも可能である。出資者さえ見つかればこの様な強引な手段も可能なのである。
 そして、世界的な金余りが、この様な現象に拍車をかけている。

 投資と投機の違いは、投資は、事業に対して資金を提供することであるのに対し、投機とは、キャピタルゲイン、即ち、株の売買益や利鞘を稼ぐことを目的とすることである。現在進行している企業合同は、投機的活動の結果として買収合併が進行したという側面もあるのである。

 リストラというと、人員削減に結び付けるのが日本人の悪い癖である。本来リストラというのは、事業の再編のことを指す。組織を変更したり、再編をすることによって、含み資産が表面化したり、不良資産が消えるなど言う事が会計制度上、往々にしてある。実体は何も変わらないのに、財務上は、不良な企業が優良な企業に変身してしまうことがあるのである。それが、株価の上昇を伴う場合、自己資本率を高める結果を招くこともある。
 窮鼠、猫を噛む。追いつめられて苦し紛れにライバル企業を買収したら思わぬ副産物があったりする。それが資本の論理である。
 しかし、それが行きすぎると実体の伴わない株価を形成し、後々、大問題に発展することもある。

 トラストの持つ意味や働きも時代によって変わってきたのである。

 独占は、なぜ、悪いのか。中でも、トラストのどこが問題なのか。それは、独占禁止法の精神に関わる問題なのである。そして、その根本は、市場の在り方や機能から発しているのである。

 独禁法というのは、市場の競争力を一定な状態に保つことを目的としている。つまり、市場には、競争が必要だという事を前提としている。更に、その競争の在り方も問題としているのである。そして、競争であるからには、そのルール、制約をどうするのかに行き着くのである。競争を競争で終わらせるのか。それとも、生存競争、闘争、殺戮の場まで進化させてしまうのかである。

 トラストの危険性というのは、産業全ての領域において独占体制を敷く必要がない。
 ロックフェラーは、物流を抑えることによってトラストを形成した。また、ビルゲイツは、OSを独占することによって今日の基盤を作った。ゴールドラッシュで成功した者は、金を掘らなかったと野口悠紀雄は、その著書で述べている。(「ゴールドラッシュの「超」ビジネスモデル」野口悠紀雄著 新潮社)また、持ち株会社が重要な機能を果たすこととなる。
 トラストは、ある局面、例えば開発とか、生産とか、流通と言ったある局面や次元を横断的に支配するだけで効果を発揮する。その意味では隠された独占が結構ある。それが何らかの事故や災害によって垣間見えたりする事がある。つまり、独占というのは、実際には構造的な問題であり、一局面や部分を見ただけでは、実態が把握できない場合が多いのである。

 アメリカが最も怖れているのが、金融、エネルギー、食料、情報、通信と言った分野において横断的な支配が確立されることである。それはどの様な政治権力よりも強固なものとなる危険性がある。

 今日と、トラストは、多国籍化している。その為に、国際市場において形成され国際トラストによって国内の市場が支配される事態も充分に予測されるのである。その場合も国内法によってトラストを取り締まることができない。石油危機や食糧危機は、その前兆とも言えるのである。



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