カルテルが悪いと言うが、経済犯罪は、なぜそれが犯罪にあたるのかの理由を明らかにする必要がある。

 経済犯罪というのは、刑事犯罪とは違う。犯罪を構成するための基礎的要件が重要となるのである。つまり、なぜ、何が悪いのかを経済に与える影響に基づいて規定する必要があるのである。つまり、犯罪が成立するための前提条件が重要なのである。

 カルテルというのは、市場主義者達によってすっかり悪者扱いされてしまった。しかし、カルテルが悪いという理由を聞いていると、道徳的な意味合いで捉えているように思える。
 しかも、その道徳的根拠もたんなるルール違反だからと言う程度に思われる。
 そのルールがどの様にして生まれ、どんな役割があるのかという点まで掘り下げてはいないように思える。
 経済を論じる時、倫理的価値観を持ち出して、絶対的基準に嵌め込んで考えると本質を見誤る危険性がある。

 市場原理主義者は、カルテルは、悪いものだと決め付けている。しかし、なぜカルテルが悪いのかと言われるとその根拠は、甚だ心許なくなる。
 下手をすると悪いものは、悪いという事になる。市場の公正な競争を阻害するというならば、何を公正な競争として、なぜ、公正の競争を阻害してはならないのかを明らかにしなければならない。だいたい、競争を阻害するから悪いというのは、公正な競争が正しいという事を前提としてなければ、成り立たないのである。また、公正な競争が正しいというならば、公正な競争が実現できるという事も立証する必要がある。
 しかし、市場において競争の原理は、不変的な原理だと言う事を立証するためには、そもそも、市場にどの様な機能を持たせるべきかが明らかにされていなければならない。

 必要悪という言葉があるが、必要な物は、悪ではない。
 今ではカルテルは悪いという事の代名詞のように使われるようになっている。しかし、カルテルが生まれるには、それなりの必然性、即ち、状況、環境があったのである。ただ単に企業が自己の利益、権益を守るためだけに協定を結ぶわけではない。
 カルテル極悪論は、市場の原理を競争だけに特化し、競争に反する行為として、カルテルをみなすが故にでてきた論理であり、その背景には、産業資本家とその手先である、企業経営者を悪党だとする価値観が働いていると見られるてもおかしくない。
 しかし、市場の原理というのは、競争だけを指して言うのであろうか。無原則に競争をさせておけば、市場は、その本来の機能を働かせると楽観的に考えて良いのだろうか。
 競争は、善くても、話し合いは駄目だという競争原理主義者の主張はよく理解できない。大体、競争や闘争は善いが、話し合いは駄目だというのは、民主主義の原理からしても反している。
 競争が全てだというのならば、市場の機能は、競争だと言いたいのだろうか。市場の機能は、需要と供給を調整し、生産と消費の調整や財の分配を円滑に行うことにある。その為に、必要ならば競争させる、競わせることが有効なのである。しかし、それは、市場の働きの一側面であって全てではない。

 また、滑稽なことに、カルテルを悪だと断罪する者の多くは、市場の原理が働かない場所、官僚機構や研究機関にいるのである。言うなれば、市場経済とかけ離れたところから、判断しているのである。

 市場主義者が言うような公平、公正な市場などあったためしなどないのである。市場は絶えず操作されているのである。需給だけで市場価格が決まるというのは、幻想に過ぎない。昨今の石油が好例である。需給だけでは、石油の高騰は説明つかない。
 むろん、需給も重要な要素である。しかし、需給以外にも、投機の動きや、その時の政策、業者間の取り決め、規制、制度の変更、国際情勢、自然災害、市場の状況と言った多くの要素が絡み合って価格は形成される。問題はその力関係に過ぎない。そのうえ、国家には、国家の事情や歴史がある。そう言った国家の思惑にも左右される。
 全ての市場は、同じ競争条件、少なくとも一律の競争条件ではない。同じ産業であっても国が違えば、競争条件が違ってくる。 それこそ、サッカーと相撲ほどの違いがある。例えば労働市場である。労働単価も労働条件も国によって違う。それを一律に測れば、既に公正な競争などあり得ない。
 
 カルテルで有名なのは、赤線協定やアクナキャリー協定である。いずれも石油が絡んだ協定である。また、有名なカルテルであるOPECも産油国によるカルテルである。つまり、カルテルの歴史は、石油抜きには語れない問題である。また、建設業界における談合問題も容易になくならない。
 こうしてみると、カルテルが成立しやすい業界というのがある。また、逆にカルテルが成立しにくい産業がある。カルテルは、協定であるから、しかも、機密性を要する場合が多い。故に、あまり業者が多すぎては、協定を結ぶのが困難になる。つまり、支配的なシェアを少数の企業が独占している状態が前提となる。また、末端で乱売合戦や安売り合戦が生じやすい産業や市場に自動制御、自制が効きにくい産業などがカルテルを結びやすい。また、商品格差が少ない、コモディティ産業でもカルテルが生じやすい。それは、商品や顧客の差別化がしにく産業である。
 石油の歴史を見ても解るように、自国の権益を守ろうとする産油国がカルテルを結び、原油を安く仕入れようとする石油会社が自由市場を指向する。販売価格を維持しようとした場合は、反対に、石油会社がカルテルを結び、消費者が自由市場を望む。つまり、カルテルと自由市場というのは、どちらが正しくて、どちらが悪いという単純なものではなく。それぞれの立場によって決まるものなのである。

 その国の内政状態も重要な要素である。経済にとって政治情勢は、決定的要因の一つである。経済は、国際政治から切り離して考えられるものではなく、むしろ、政治の上に成り立っている現象だと言える。政治と経済を切り離し、経済を経済という狭い分野だけに限定して研究しようと言うのは、換えって政治的においをさせる。

 経済がただ市場の需給によって決定されるという考え方には、無理がある。強いて、それを主張するのは、現実の経済に対して無知なのか、何らかの意図があるのかを感じさせられる。経済は、配分の取り合いによって動かされる。それは、市場の需給だけでなく。いろいろな力が作用しているのである。

 経済は、基本的には、生活の問題であって、競争の問題ではない。つまり、配分の問題なのである。極端な格差が貧困の問題である。貧困は、配分、相対的な問題であって、絶対的な問題ではない。絶対量の不足は、貧困ではなく、災害である。

 無原則に、競争原理を奨励するのは、危険なことである。だいたい、この競争の原理だって嘘である。競争の原理というのは、早いか、遅いかを競うのに過ぎないが、市場は、食うか食われるかの弱肉強食、生存闘争の場である。競争の場ではない。競争などと言うきれい事ですまそうとするから、市場を無原則な場にすればいいという事を言い出すのである。しかし、この様な無原則な競争を市場の原理だと決め付ける背景には、何らかの意図が隠されているとしか思えない。つまり、市場を無原則な状態におけば、結局は独占的市場になり、何者かによって支配されてしまうという事は、自ずと予測がつくからである。

 確かに、市場の規律が強すぎれば、市場は硬直化する。しかし、市場を無原則な競争と言うより闘争状態におけば、市場は荒廃し、やがては、寡占独占状態におかれる。寡占、独占体制となれば、カルテルが結ばれているよりも更に、市場の柔軟性は失われる。
 競争か、協調か、いずれにしても、過剰になれば、市場における需給の調整機能は、失われるのである。
 問題は、競争が是か否かではなく。市場をいかに有効に機能させるかである。それを競争は善で、競争を阻害する物は悪だと決め付けるのは、一種の信仰であって、合理的な判断とはいえない。

 競争を市場の原理と言うが、最初から、競争を市場の原理だとしていたわけではない。むしろ、規律こそ、市場の原理とされていた時代の方が長い。鎌倉時代には、「式」後に、「座」となる同業者組合が形成され、参入規制や地域指定などの営業特権が与えられてきた。
 織田信長によって「楽市楽座」が認められ、座の特権が弱められたが、江戸時代になると「株制度」によって新規参入が規制された上、株は世襲的な権利とされた。
 競争を絶対的な市場の原理とするのは、近代に入ってからである。

 カルテルを考える時、是非善悪成否の基準ではなく、カルテルが果たしている機能の長所欠点、適正性、妥当性という相対的基準によって判断すべきなのである。

 つまり、カルテルが成立した前提、カルテルが、形成されなければならなかった環境、状況を把握した上で、その妥当性を問題賭すべきなのである。

 ただ、不正に競争を阻害し、利益を独占しようとしたり、また、新規参入者を差別するようなカルテルは、禁止されるべきである。また、情報を開示せずに機密協定のようなものを結ぶのも情報の非対称性を深める故に、禁止すべきである。つまり、需給を調整したり、市場や企業の生産性や効率を高める為の競争を阻害するのは、市場が正常に機能しなくなるから禁止すべきなのである。つまり、カルテルの是非は、市場の機能と経済環境から判断されるべきものなのである。

 カルテルも以前は合法的なカルテルも存在した。合法的なカルテルの中で典型的なのは、不況カルテルである。

 不況カルテルが成立する要件は、乱売合戦が激化して適正な価格か形成できなくなった場合、原材料等の高騰や為替の変動により急激な価格の変動が起こった時、不況によって関連産業の収益が急速に悪化し、資金繰りがつかなくなった場合、不可抗力によって競争力が低下した場合、また、産業の再編成により、価格が混乱した時と言った場合が考えられる。

 不況カルテルというのは、不況を切り切るために結成されるカルテルである。(広辞苑)1953年の独禁法改定によって独占禁止法の例外措置として認められたもので、商品価格が平均生産費を下回り、経営が困難になった時など、特定の事態が生じた場合に限り、生産数量・販売数量・価格などについて業者間で結ぶことので着る協定で、公正取引委員会の認可があれば実施できるつされた。

 合理化カルテルというのは、産業の生産体制を合理化するために、独禁法で特別に認められた企業間協定をいう。(広辞苑)技術向上・品質改善・原価引き下げなど企業活動の合理化のためにつくられるカルテルであり、日本では、独占禁止法の規定によって企業の合理化のために特に必要があると認められた場合に、公正取引委員会の認可を受けて結ぶことができる。

 適用除外制度の見直しとして、不況カルテル制度及び合理化カルテル制度の廃止(平成十一年七月二十三日施行)並びに商工組合の経営安定カルテル制度及び合理化カルテル制度の廃止(平成十二年三月二日施行)が行われた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 カルテルには、ハードカルテルと非ハードカルテルがある。
 ハードカルテルには、第一に、価格カルテル。第二に、数量制限カルテル。第三に、設備制限カルテル。第四に、販路カルテルがある。非ハードカルテルには、第一に、特許カルテル。第二に、製品制限カルテル。第三に、割り当てカルテルなどがある。
 その他に、シンジケートや紳士協定を含む場合がある。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 構造不況業種とは、不況が構造的な物として不可避、不可抗力な業界を指して言う。ならば、なぜ、その様な不況業種は淘汰されないのか。淘汰されては困る産業だからである。この点を、頑とも、市場原理主義者は、認めようとしない。つまり、収益性のない産業は、不必要な産業だと決め付けているのである。

 構造不況業種と言われる産業の中には、鉄鋼、非金属、化学、紙・パルプ、その他素材産業、造船、繊維と基幹産業やかつての花形産業が多く含まれている。また、構造不況業種には成熟産業が多く含まれている。

 構造不況業種には、幾つかの類型がある。それは、第一に、商品特性(機能や品質、ブランド)に原因がある業種である。商品特性に問題があるというのは、ガソリンのように商品格差が少なく、商品の差別化が難しい、俗に、コモディティ商品と言われる商品を指して言う。商品格差が少なく、差別化が難しいために、価格競争に陥り、乱売合戦になってしまうことである。
 第二に、多くの設備投資をする反面、一度、設備投資をすると大量に製品が作り出されると言う産業、装置産業である。この様な産業は、投資をして単価を下げなければ、競争力を失う。しかし、設備投資をすると固定費が高くなり、単価を下げるためには、稼働率を高める必要がでてくる。つまり、損益分岐点を超える生産を維持しようとする。その為に、慢性的に供給過多になる傾向がありながら、生産調整ができない。
 第三に、借入が多い産業である。借入が多いというのは、多額の設備投資を必要としている産業の裏腹にある。つまり、巨額の資金を調達しながら、それを長期間で回収しなければならない産業である。
 第四に成熟産業である。成熟産業というのは、成長産業のように、市場の拡大や技術革新が望めない産業である。
 第五に、最近の傾向であるが、技術革新の速度が早く、短期間で技術の普遍化、汎用化が進む産業で、製品価格の下落が早く、高級品が、投資を回収するまもなく、普及品か、低価格品化する場合である。
 また、第六に、参入障壁が低く、新規参入が容易い上、安定した売上が期待できる損業である。
 第七に、かつて花形産業だった業種で、市場環境、例えば、為替や原料価格、人件費といった要因が急激に変化した業種である。労働集約的産業は、人件費が安いところほど有利である。この様な産業は、経済が急成長していたり、市場が急拡大しているような国や地域に有利に働く。なぜならば、経済や市場が急成長、急拡大している国や地域の人件費は、相対的に低い場合が多いからである。

 固定費が高く、借入が多い上、商品格差が少ない業種の典型が、ガス、電気、通信インフラ、石油といったライフラインに関連した産業が多く見られる。また、技術革新が激しく、新製品がコモディティ化しやすい産業としては、先端産業が上げられる。また、かつて花形産業と言われた産業の多くは、地域経済の基幹産業、中核産業である場合が多い。単純な市場原理主義者のように収益が上がらない産業は、不必要な産業だから淘汰してしまえと言うわけにはいかないのである。ライフラインを支える産業は、安定供給や安全、保安、保全と営業に直接結びつかない、固定的費用がかかるのである。むろんだからといって公益事業のように競争をなくし、独占企業にしてしまえと言うのは、市場原理を頭から否定する事になる。結局は、節度ある競争をいかに保つかの問題である。その為には、市場の状況に応じて協定を結んだり、規制を緩和することが必要なのである。

 ただ、恒久的な形でカルテルを結ぶのは、結局、独占、寡占と同じ事であり、事実上、市場の機能を停止することになる。市場の機能を維持するためには、市場の状況に合わせて競争政策をとるか、協調政策をとるかを選択すべきなのである。一律に、競争を絶対視するのも、協調を絶対視するのも、ただ、怠慢なだけである。

 独占禁止法というのは、中小零細業者、消費者と言った弱者の味方であろうか。安売り業者や資金力にものをいわせて市場を席巻しようとする大手業者の味方ではないのか。単純に、競争は良いことだと言いきれるのか。
 安売りや乱売合戦で市場が荒れても力のあるものは、スクラップ・アンド・ビルドができる。しかし、地元で手堅く商売をしてきた、個人事業者はやり直しがきかない。彼等は、古くさい弱者だと切り捨てているのは、正義を気取るメディアではないのか。
 地方の商店街からいつの間にか、古くからの喫茶店や居酒屋が消え。街の目抜きどおりは、全国展開をする大手チェーンに席巻されてしまった。
 根本あるのは、経済である。競争ではない。どの様な経済環境や状況を良しとするのかが重要なので、ただ、競争をさせればいいと言うのではない。
 野放図な乱売合戦や安売り合戦は、市場を荒廃させる。問題は、競争に何を求めるかである。市場を、健全に保つための話し合いや取り決めを、なぜ、一概に悪いと決め付けることが、できるのであろう。





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