今の事業、経営で一番問題なのは、志がないことである。志を失った原因の一つは、共同体、コミュニティの一員としての自覚がなくなったことである。
 個人主義と利己主義との履き違えもある。同じ自己中心の思想でも個人主義虜主義とは本質が違う。それは、自己と他者との関係に対する認識が違うからである。自分さえ善ければという発想でも、個人主義は、自己と他者との関係の上に置いて自己善を追求するのに対し、利己主義というのは、あくまでも自己だけの欲求にしか基づいていない。自他の関係が喪失してしまい、我利我利亡者でしかないのである。
 江戸時代では、藩が一つの基本単位であった。明治維新後もしばらくは、藩が生活の基本単位であった時期がある。そのころは、自分達の郷土の発展を一義に考え、地域社会が人材の育成や産業の発展を担っていたのである。優秀な人材があれば、資金を出し合って中央の学校へも出したのである。また、有為な人材は、故郷に錦を飾る、あるいは、郷土に戻って働くことを誉れとした。医学などその典型である。
 つまり、産業や事業は、地域の発展に対する貢献を前提としていたのである。その為に、金のある者は、金を出し、知恵のある者は知恵を出し、力のある者は力を出して、共に郷土の発展に尽くしたのである。また、成功した者は、郷土の若者を書生として受け容れ、面倒を見た。
 本来の投資という意味が底にはある。今の投資は、金儲けばかりが目的化してしまっている。その為に、事業の継続性が危うくなってきた。短期的結果ばかり、目先の利益ばかりを追い求めるようになったからである。

 今は、誰も他人のことを思いやらなくなった。そして、思いやるゆとりさえなくしてしまった。そして、他人と関わり合うのさえ厭(いや)になってしまった。親は子の世話をしなくなり、子は、親の面倒を見なくなった。それで足りなくなったところを教育制度や介護制度、福祉制度に求めるようになった。会社は、会社の都合だけで社員を雇い。社員にとって会社は、生活費を稼ぐだけの場でしか過ぎなくなった。国に、国民は、要求だけをして国に尽くす事を忘れた。
 誰の助けもいらぬと言う社会は、社会としての本質的機能、相互互助の精神を失ってしまう。そうなってしまったら社会など不必要なのである。
 人と人との関わり合いの中で、社会は形成され、また必要とされる。人と人との関わりそのものを否定し、喪失したら、社会なんて無意味なものになる。

 何が、自分達に必要なのか。何を、依って立つべきなのか。以前の人々は、もっと単純明快に理解していた。助け合って生きてきたのである。重要なのは、単純明快さである。今の時代は、複雑怪奇になりすぎて、自分達が依って立つ基盤をも見失いつつある。
 中央集権化されすぎたために、自分達にとって大切な意思決定が自分達からかけ離れたところで行われるようになってしまったのである。政治や経済というのは、本来、自分達の身近な生活の延長線上で捉えるべき事柄なのである。子供達の教育も生活に必要な事も、根本は、自分達の郷土をどの様な社会にするのかと言う構想である。だからこそ、環境も大切にすることができるのである。大切なのは郷土愛である。その上にたって、その土地に生きていく人達、地元で決めていくべき事なのである。つまり、日常生活の一環なのである。それがなければいかに土地が荒廃しても開発を優先するであろう。経済は栄えても、土地は荒廃していく。

 ほんの少し前の時代では、我々の生活は、もっとシンプル、単純で素朴だった。生活に必要な物を自分達の手で作り、助け合って暮らしてきた。現代社会は、そのころの生活に比べて複雑である。我々の子供の頃と比べても格段に違う。

 考えてみれば、単純な社会でも生活はできたのである。テレビがなくても、携帯電話がなくても、飛行機や自動車がなくても、石油や電気がなくても、それなりの生活はできたのである。ところが、現代社会では、それらが不足すると生活が成り立たなくなっている。それを進歩というのだろうか。

 重要なことは、その時の生活を支えている財、生活必需品の生産と分配である。それさえできていれば生活には困らないのである。そして、それが経済の根本である。ところが現代社会では、その経済の根本、つまり、必需品に対する考え方、認識が劇的に変わってしまった。それなのに、現代人は、そのことに気が付いていない。

 そして、その劇的な変化を引き起こしたのが、貨幣経済であり、市場経済であり、利己主義なのである。本来は、貨幣は、市場経済の道具に過ぎない。ところがいつの間にか、貨幣に全てが還元され、人間の生活や社会は、貨幣価値に支配されてしまっている。今では、唯金主義、拝金主義といっても過言ではない状況を呈している。

 そして、利己主義によって人間関係は、解体され、生活の土台だった共同体は、崩壊してしまったのである。そのために、個々の人間を評価するの手段は、貨幣価値しかなくなり、金銭以外の価値は無価値、逆に言えば、金さえ在れば、どの様な行為をも正当化できる時代になってしまったのである。

 本来の人と人との繋がりが失われ、ただ、貨幣関係でしか人間を捉えられなくなっている。また、制度的に、否応なく、人間関係を金銭に換算せざるをえない体制となっている。それは、親子関係、夫婦関係においてもと言うよりも、親子、夫婦のように関係が濃厚で在ればあるほど、その関係を金銭に置き換える必要性が高くなるのである。それも、人間が最も感情的になる時、又、哀しい時に、人間関係を金銭的にも清算しなければならなくなるのである。それが人間の性(さが)、宿命であるとしても、あまりにも惨(むご)い現実である。

 逆に言えば、金さえあれば一人でも生きていけると言うことになる。そうなると、人間関係は金銭関係でしかなくなり、結局金なんだと言う事になる。しかし、考えてみよう、人間関係は、本来、金銭とは無縁なところで成立しているはずなのである。それが貨幣が介在することによって、金銭でしか認識できなくなっていると言うだけなのである。経済も同様である。経済の本質は、本来、貨幣とは無縁だったはずである。その証拠に、貨幣経済が成立するずっと以前から、人間の営(いとな)みは存在していたのである。

 イエスキリストは、人は、パンのみに生きるにあらずと言われた。ここで注意して欲しいのは、キリストは、パンと言われたのであり、金と言われたのではないという事である。同時に、パンのみに生きるにあらずと言われたのである。つまり、パンという実物を指し、さらに、人間の生きる目的は、パンをえることではないと言われているのである。

 金がなくても人間は生きてきた。金がなくても、経済は成り立ってきた。そして、大事なのは、その時々の人間の生活、人間の生き様なのである。我々が子供の頃には、テレビなんてなかった。今に比べれば、ずっと貧しい食糧事情だったし、洋服もなかった。テレビがなくても、テレビがないなりに、電話がなくても、電話がないなりに人間は生きてきたのである。ところが今は、物が溢れ、生活に苦労することはないはずである。それなのに、ホームレスは、町に溢れ、フリーター、ニート、ひきこもりに頭を悩ませている。それを今の若者はと言ったところではじまらないのである。人間は、その時代、その時代に生産されていた財によって生活してきたのである。そして、豊かさの基準は、比較しようがないのである。ただ、生活が成り立たなければ、やはり経済は成り立っていないのである。故に、問題なのは、生活水準であり、財の分配の仕組みなのである。
 例えて言えば、我々は、物がなく、懸命に生きている時は、物に差別など付けていなかった。買いたくても物がなければ、欲しがっても仕方がないのである。しかし、生活が豊かになり、多少ゆとりがでてくると同じ物の中でも差を出してくる。例えば、同じ着る服でもブランドを好むようになる。しかし、それは、商品を細分化しているのと違いがない。本当の価値は別の所にある。その様に、価値の差は、貨幣価値の差に過ぎない。

 結局、経済の問題は、インフレやデフレと言った景気の問題ではなく。豊かさの問題なのである。つまり、貨幣が引き起こす問題に目を奪われて、経済の本質を見落としてはならないのである。
 そして、豊かさの基準は、物質的なことだけにあるのではないのである。先ず重要なのは、人間いかに生きるべきかなのである。

 かつては、生活の基本、即ち、経済の基本は、共同体であった。経済領域を基本とした、地域コミュニティであり、又、血縁、家族を基礎とした大家族主義であった。そして、共同体内部の世界と共同体外部との世界との間には、境界線が存在したのである。そり境界線によって内部経済と外部経済が形成された。
 共同体内の経済が内部経済ならば、市場経済は、外部経済で発達したのである。

 企業は本来、共同体である。その証拠に企業内部では、市場の原理が働いているわけではない。企業内部では、組織の原理、共同体の原理が働いているのである。その意味では、企業の拡大は、本来は、内部経済の拡大を意味する。ただ、これまでの共同体との違いは、雇用という金銭関係を土台としているという点である。貨幣関係を土台とすることによって見せ掛け上、外部経済化しているである。しかし、企業の共同体としての性格は、失うことはできない。企業は、一種の共同体である。

 企業というのは、属人的な共同体であるのに対し、地域コミュニティというのは、属地的な共同体である。

 貨幣経済が発達する以前では、国家も私的存在であり、財政も家産的なものであった。つまり、財政に端を発する国家経済も内部経済が土台だったのである。

 近代の問題点は、この内部経済の否定によって引き起こされている。内部経済を否定する事によって、主体の所在が、内部から失われてしまったのである。

 外部経済だから、倫理は問われない。倫理は内的規範だからからである。故に、自分の身内が、どの様に落ちぶれようと、助け合おうという発想が生まれなくなる。それは、イスラム経やキリスト教、ユダヤ教とは相容れない世界である。彼等は、神の共同体を護らなければならない使命があるからである。それが、現代日本と決定的に違うことである。

 貨幣経済、市場経済、個人主義の浸透によって内部経済の外部化が進行している。それは、内部経済の中核をなす、家族に端的に現れている。例えば教育や育児、介護、家事の外部化である。それによって家庭の崩壊が深刻化している。しかし、家庭内の労働が外部化されれば、家庭の崩壊は必然的結果である。

 それでも、教育や介護、育児、家事が地域コミュニティ内部にとどまる限りにおいては、共同体の崩壊は、防げるが、これが、完全に市場化、即ち、外部化されてしまえば、共同体の崩壊は防げなくなる。

 教育、介護、育児、家事などが外部化されれば、必然的に倫理性は喪失する。倫理は、内的規範だからである。外部経済における教育の規範は、外的規範によって制約される。それは、金銭的価値観、損得勘定に過ぎない。倫理的価値観は、入りようがないのである。

 労働組合は、内部主体の外部化に過ぎない。労働組合が、有効に機能するためには、内部化、即ち、共同体と同化、一体化する必要がある。それこそが企業の民主化である。

 地域コミュニティ主義の原形は、古代ギリシアの都市国家に見られ。又、思想そのものは、スイス、アメリカにも受け継がれている。
 純然たる地域コミュニティ主義は、直接民主主義を旨とし、軍事と外交を国家に信託し、内政を地域コミュニティが受け持つと言う体制である。

 ただ、共同体と言っても、一元的な社会ではない。つまり、格差のない、一律平等の世界ではない。内部経済としての機構、組織を持っているのである。

 地域コミュニティーが経営主体を所有していくという思想である。共同体主義、通じるところがある。

 人間にとって幸せとは何かである。それを抜きにして、経済を語っても意味はない。

 我々は、文明が進化し、発展してきたと確信している。古い物は、劣った物であり、新しきに価値があると思い込んでいる。しかし、実際はどうであろうか。
 我々は、自己の快適を求めて自動車を乗り回し、家電製品を日常的に使う。その結果、石油をまき散らし、温暖化を招いている。少しだけ、我慢をすればかなり温暖化の原因となる温暖化の原因である、二酸化炭素やメタンガスの排出量をかなり削減できるであろう。しかし、それができないで苦慮している。
 市場経済を活性化するためには、使い捨て、大量消費を促すにかぎる。大量消費は、大量生産の裏付けである。しかし、大量生産は、大量のゴミ、廃棄物を生み出し、かつ、資源の無駄遣いを生み出す。人間の飽くなき欲望は、この世界の貴重な食糧資源を食い尽くす勢いである。
 我々にとって幸せとは何か。人類に果たして未来はあるのであろうか。
 
 産業の近代化は、都市化でもある。都市は、なぜに人々を引き付けるのであろうか。しかし、その都市も本来は、共同体なのである。近代における都市化は、都市本来の機能をすら市場化し、貨幣価値に還元してしまった。都市本来の機能は、自治にあったのである。この様な都市本来の機能を回復しようとすることが地域コミュニティ主義である。つまり、自治の精神である。

 苦楽を共にした仲間や共鳴、共感を大事にし、そう言った仲間や共同体のために、働くと言った発想は生まれてこない。どこまで行っても我利我利である。
 しかし、本来の生き甲斐というのは、良い仲間とやりがいのある仕事をすることである。愛する家族のために働くことである。一時の快楽のために、自分の全てを失うことほど愚かなことはない。

 アメリカのアーミッシュは、自分達の信条に基づいた生活を固く護っている。彼等の生き方をどの様に考えるかは、勝手である。しかし、彼等の生活が、成立しているという事実を否定すべきではない。我々は、途上国や未開の部族を憐れんだりする。又、アメリカインディアン達を後進的だと決め付けている。しかし、問題は、その当人達がどの様な生活を望んでいるかである。原爆を持つ国が先進国で、原爆を持たない国は、野蛮だと決め付けられるであろうか。他国を侵略して、他民族を奴隷とし、あるいは、植民地とする。それを文明というのであろうか。

 地域コミュニティ主義というのは、一定地域の中で、自治を敷き、その自治の範囲内で内部経済構造を形成する考え方である。

 今の我々にとって重要なのは、志である。自分達の郷土、国家を、どの様な社会にしていくのか。その思いと情熱こそが必要とされているのである。ただ、私利私欲にのみ拘泥すればかえって自分を見失う。自分を産み育んでくれた地域社会に対する恩返しにこそ、自分を生かし、また、生き甲斐があるのである。
 

地域コミュニティ主義

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