財政というのは、本来、思想的なものなのである。それを市場原理主義者のように経済的合理性だけで解決しようとするのは、乱暴な話である。何でもかんでも民営化してしまえと言うのは無謀である。

 国家理念というのは、どこからどこまでが国家の仕事であり、どこからどこまでが、家計、又は、企業の仕事なのかの線引きをすることなのである。そして、それが最も顕著に現れるのが財政である。

 財政の機能の問題は、財政と企業と家計をどこで線引きするかの問題なのである。最近の民営化流行によって企業の働きが極限まで拡大している。この事は、民間企業においても決して良い事ではない。また、資本主義の根幹にも関わる問題でもある。

 最近は、民営化ばやりである。民営化は、万能の特効薬のように言われている。特に、市場原理主義者においてはこの傾向が強い。しかし、本当に何でもかんでも民営化すればいいのだろう。また、民営化したら何でも問題は解決できるのであろうか。ではなぜ、民営化すればうまくいくのに、公営や国営ではうまくいかないのであろうか。警察や、刑務所、消防署や軍隊のようなものまで民営化してしまっても良いのだろうか。そのうち国家までも民営化してしまえと言うことになりかねない。
 民営は、何も、昨今始まったわけではない。官業の払い下げも、一種の民営化である。そうなると、我が国は、明治維新当初、即ち、近代化の当初から民営化を武器にしてきたとも言える。又、同時に、民営化に伴う不正も建国当初から始まったのである。(「民営化で誰が得をするのか」石井陽一著 平凡社新書)

 民営化ばやりだが、民営化には、常に利権が絡むものである。又、その後の産業構造を左右しかねない大事でもある。官業払い下げが、財閥のいしずえを築いたのは、その好例である。

 民営化と一言に言っても、民営化の動機や目的は、多様である。又、民営化の手法にもいろいろある。その点を民営化推進論者も正確に把握しているとは言えない。動機や目的からして、民営化そのものが怪しく思える事案も、多々見受けられるのである。つまり、民営化は、先にも述べたように利権の塊(かたまり)なのである。一儲けしようと言う輩(やから)は、いくらでもいる。

 先ず、民営化とは何を指して言うのかを明らかにしておく必要がある。

 世界銀行では、公的資産の所有権、又は、運営権を公的セクターから民間セクターに移転することに伴う何等かの措置」とある。しかし、公的資産を公的セクターから民間セクターに移転しただけでは、必ずしも民営化したとは言えない。(「民営化で誰が得をするのか」石井陽一著 平凡社新書)

 私は、民営化とは、公的な事業体を私的の事業体へ、経営権を移転することであると定義する。事業体が事業を継続するためには、所有権と経営権が必要であるが、一般に民営化という場合は、経営権の移管を指して言う場合が多い。逆に、経営権をそのままにしたまま、公的機関が所有権を掌握する場合もある。この場合は、公有化、国有化といい。かならずも公営化、国営化とはかぎらない。
 この点から考えて、民営化は、所有権と経営権の双方を何等かの形で民間に移転する場合と、所有権をそのままにして、経営権だけを民間に移管する場合とが考えられる。

 その場合、民営化の動機と目的が問題となる。民営化の目的の第一は、公営企業や国営企業の経営破綻がある。第二に、国家財政に対する負担の軽減である。第三に、民間市場の構築である。第四に、国家戦略上の配慮からである。第五に、制度的問題である。第六に、政治的理由である。

 公営企業や国営企業は、市場経済において、例外的存在とされる場合がある。その為に、正常な市場の形成が妨げられたり、市場原則が働かなくなる場合が生じる。また、外部経済と内部経済とが乖離し、外部経済と内部経済とが均衡しなくなる場合がある。(この場合の外部経済というのは、市場を指し。内部経済とは、組織内の分配構造を指す。)その為に、経済効率が著しく悪くなったり、外部不経済になったりして、経営的に破綻している例がよくある。電電公社や国鉄などが好例である。この場合、経営主体を市場経済に移転することによって是正しようとする動機が発生する。

 公営企業、国営企業が外部不経済となると財政に大きな負担となる。つまり、内部的に均衡していれば、収益を目的としなくて良いとなると、必然的に、市場経済の原則が外れてしまうことになる。結果的に、市場経済の側から見ると経営破綻することになり、それを糊塗する為に、財政を出動することになる。経営が是正されないかぎり、この財政上の負担は解消されない。国鉄民営化が好例である。

 官業払い下げのように、産業の初期の時代や民間企業が成長しきっていない時や、巨額の資金を調達しなければならない場合、国家や国家が準ずる機関が、産業の下地を作り、その後に、経営主体を所有権ごと民間に払い渡すような例である。それによって産業の基礎を官が準備するのである。ただ、この様な事例は、必ずと言って利権が発生する。

 例えば、海外進出をする場合、国鉄のような国営企業だと侵略行為と見なされかねないと言うケースである。石油産業のように戦略物資に関連した産業は、むしろ、民営化しておいた方が、都合が良い場合がある。反面、石油企業のように、戦争時に利敵行為と見なされかねない行動をとる場合も生じる危険性がある。

 制度的動機というのは、中央銀行が好例である。中央銀行の発券銀行としての機能上の問題や政治的中立性という観点から、制度的な独立を保障するために、民営化するといた事例である。

 政治的理由というのは、国鉄民営化の陰に、露骨な組合潰しや政敵潰しがあったと言われる。また、郵政民営化の折りにも、激しい権力争いが展開され、大きな政権再編成があったとされる。

 民営化の手法には、所有権まで移転するものとして、「トレードセール」と言われる直接売却方式、株式公開型、MBO型の三つを石井陽一は上げている。また、経営権のみの移転の手法(民間委託方式)として運用委託方式、コンセッション方式、PFI「民間資金等活用事業」、PPP「官民パートナーシップ」の四つを上げている。(「民営化で誰が得をするのか」石井陽一著 平凡社新書)

 この様に、民営化と言っても動機や目的、手法は、多様であり、一概に民営化を論ずることには危険がある。民営化を考える場合には、その背景や目的、前提をよく吟味する必要があるのである。

 確かに、現在は、公営企業、国営企業の悪い面ばかりが目立っている。しかし、よく見てみると国営企業も公営企業も悪く成るべくして成っている部分がある。
 それは、国営企業や公営企業を成り立たせている前提に問題がある。要は、考え方の問題である。
 なぜ、国営企業より民営企業が良いのかという質問に競争の原理が働いているからと言うのがある。しかし、何でもかんでも競争の原理を働かせればいいと言うのであろうか。例えば、軍隊に競争の原理を働かせれば、戦争になってしまう。警察の競争の原理を働かしたらどういう結果を招くであろうか。国営よりも民営企業が良いのは、国営企業にできない部分を民営企業がやっているからである。しかし、国営企業ができないと言うのは、例えば、営利を追求してはならないといった具合に国営企業そのものが自粛、規制している部分が多いのである。その点を改善すれば国営企業でも十分効率化しうるはずなのである。
 資本主義を成立させている基本的な要素は、資本と経営の分離である。そして、資本と経営の分離を可能とした土台が、市場経済、貨幣経済、会計制度である。資本主義という言葉を我々は、安易に使う。しかし、資本主義の実態については、明確に定義されているわけではない。ただ、漠然と資本主義を経験的に認識しているに過ぎない。
 資本主義というのは、文字通り、資本を基礎とした経済体制である。つまり、資本を基本単位とした経済体制を構築しようとする思想である。ところが、資本主義というのは、最初に理念があって成立したものではない。資本主義的なもの、資本主義的な体制があってそれを理論化したに過ぎない。故に、なかなか理論的整合性がとれないでいるのである。つまり、資本主義の定義の多くが、資本を所与のものとして定義しているのである。それ故に、現実の世界をどう認識するかによって資本主義の定義が変わってくる。

 資本主義は、株式会社の成立をもって契機、端緒とする。

 民営企業というのは、基本的に株式会社を指し、民営化というのは、公共事業の株式会社化を意味する。つまり、国営企業や公営企業というのは、基本的に資本主義的な事業体とは異質な事業体だと言える。国家機関は、資本主義的原則とは違う原則で動いている。その点を明らかにしておく必要がある。
 どこが違うかと言えば、国営企業には、資本に相当する部分がないという事である。つまり、国家は、売買できないし、国家の所有者に資本家はなれないという事を意味する。翻って言えば、国家を株式会社化すれば、国家は、資本家の所有物になることを意味する。つまり、極端な民営化、民営主義の根底には、国家の資本家による間接的支配という思想が流れていることを忘れてはならない。そこまで行くと、資本家は、一つの支配階級となる。

 株式会社は東インド会社に始まると言われている。東インド会社は、オランダ、及び、イギリスにおいて国策会社として設立された。特にイギリスの東インド会社は、最初の株式会社とみなされている。東インド会社は、元々、イギリスのインド支配のために道具であり。会社の性格は、商社的なものであった。
 その後南海泡沫事件が起こり株式会社の設立は、一時、下火となった。

 ただここで注目しなければならないのは、資本市場の形成と国債の発行が紙幣の成立にどの様な影響を与えたかである。資本、財政、紙幣の不可分な関係は、それらが成立した時から確立されていたのである。

 それと、大航海時代にヨーロッパにもたらされて大量の金の存在も忘れてはならない。

 また、資本、財政、紙幣の仲立ち、核となったのは金融機関である。すなわち、資本主義の形成に株式会社と金融が決定的な作用を及ぼしたのである。

 いずれにしても見落としてはならないのは、株式会社と近代貨幣制度、特に紙幣との関係である。近代貨幣制度確立することに資本市場が重要な役割を果たした事である。

 株式会社の基本的要件は、第一に、法人格。第二に、株主の有限責任。第三に、株式の自由譲渡。第四に、ゴーイングコンサーン。第五に、株式の公開。第六に、資本と経営の分離。第七に、会計制度、財務報告制度、情報の開示である。

 企業で重要なのは、ゴーイングコンサーン、つまり、継続である。経営主体の大前提は、継続である。なぜならば、経営主体の中心的機能は、事業と、並びに、雇用であるからである。経営主体が潰れると、特に、その経営主体が産業や地域経済、企業手段の中核に位置しているとその影響、被害は甚大なものになる。
 肝心なのは、事業内容である。事業の将来性や必要性である。今の銀行は、会計的な利益のみを見て、事業やその経営主体が果たしている役割を評価しようとはしない。金融に必要なのは、事業を見抜く目であって、マネーゲームの技術ではない。赤字や資金不足に落ちいている企業に対する対策を考える上で、本来、検討しなければならないのは、欠損や資金不足の原因である。その上で、その企業が果たしている役割と将来性である。
 それが投資家や金融機関の政策は、姿勢は、ただ、収益が悪い、生産性が低いという理由だけで、資金の回収を優先する。事業の内容ほ見ないで担保や会計情報ばかりを問題にする。しかし、それは事業の実体を必ずしも反映してはいない。見せかけの数字に誤魔化されているだけである。どんな事業でも長期的な展望が不可欠なのである。

 資本と経営の分離とそれに基づく会計制度の確立である。資本の論理というのは、ある意味で会計の論理であり、資本主義は、会計の論理によって支配されているのである。それなのに、現実の経済政策には、会計の論理が働いていない。それは、財政が会計論理によって運営されていないからであり、財政は、資本主義の原理が働いていないことを意味する。そこに、財政の問題点が隠されている。

 資本と経営が分離されることによって資本家が生まれ、それが富裕階級を形成し、市民革命の下地を作った。つまり、資本と経営の分離は、経済的にも政治的にも近代の基礎を築いたと言えるのである。

 現在の経済体制は、資本と経営が未分化な企業も多く現存している。そして、この状況が資本主義の実相を曖昧なものとしている。
 資本主義は、資本を公的なものとして公開されることを前提として成り立つ体制である。資本があくまでも、非公開なもの、私的なものであるとするのは、それは資本主義とは相反する思想である。それは、資本主義ではない。純粋の資本主義社会というのは、資本と経営の分離。株主の有限責任。株式の自由譲渡。法人格の四つの要素を満たしたものを指して言うのである。それ故に、今日の経済体制は、資本主義というよりも混合経済体制と言うべきものである。

 民営主義というのは、国家の株式会社を意味する。警察も、軍隊も、消防も、教育も、それこそ、行政機関も、裁判所も、全部株式会社化してしまえと言う思想である。これは極端な例である。しかし、行き着くところは、資本主義的思想によって国家を統一的に支配するという考えに違いはない。それは、資本家階級が資本を使って国家を間接的に支配することを意味する。しかも、その資本家は国内にいるとは限らない。海外にいても、更に言えば、海外の国家や機関でもかまわないのである。それが民営主義の行き着くところである。

 民営化が悪いというのではない。ただ、国家の定義は制度的定義でなければならず。国家理念の定義は、どこからどこまでが、国家の仕事であり、どこからどこまでが、民間企業の仕事であり、家計の仕事であるかを線引きすることにある。その事を忘れて安易に何でもかんでも民営化してしまえと言う話を真に受けてはならない。まず、国家が手放してはならない仕事は何かを見極めることが肝心なのである。

参考文献
「経営史」安倍悦生著 日経文庫
「財政のしくみがわかる本」岩波ジュニア新書
「民営化で誰が得をするのか」石井陽一著 平凡社新書



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