地方都市や都心の古くからあった商店街が寂(さび)れ、昼間からシャッターを閉めている店が増えた。そう言う商店街を「シャッター通り」というのだそうだ。
 そして、駅前の古くからの商店街が寂れることによって街の活力は失われ、治安が悪くなり、若者達がいなくなり、人口が減少する。何よりも地方文化が衰退していく。
 反面において、六本木だ、お台場だと、新しい開発地や巨大な大型ショッピングセンターが脚光を浴びる。しかし、それらも新興の街は、ほとんどが巨大なビル群であり、住宅街から離れた都心か、郊外にある。故に、そう言う新興の街や大型ショッピングセンターには、生活感や生活臭がない。無味乾燥、無機質な空間である。いわば、巨大な倉庫か、工場のようなものである。さらに、インターネットと言う仮想空間にかつての都市や商店街は、移行しつつある。つまり、世の中全てが仮想空間化しようとしている。
 だから、人々の生活に新興の街やショッピングセンターは、結びつかない。いわば、巨大な倉庫のようなものにすぎない。人と人との関わりが稀薄なのである。その為には、街の活性化には結びつかない。なぜ、生活は、便利になったはずなのに、町は衰退していくのであろうか。
 職住の分離が進んでいる。職場と住宅が離れてしまうとサラリーマンにとって家は、ただ、寝に帰るだけかの所でしかない。そうなると、サラリーマンにとって、家は、生活の場ではなくなる。本当にそれを豊かさというのであろうか。

 つまり、人間関係を土台とした共同体やコミュニティが喪失しているのである。人と人との関係が失われ、各人がバラバラに存在しているのが現代社会である。
 それが三無主義(無関心、無責任、無気力)が蔓延している原因である。

 それは、現代人が、経済の本質を見失っているからである。経済の本質は、労働と分配である。それを、経済の本質は、生産と消費、あるいは、需要と供給だと錯覚していることに問題がある。生産と消費も大量生産、大量消費においていることが重大なのである。需要と供給に至っては、市場の論理に過ぎない。
 生産と消費という観点から捉えるから、生産性や効率性ばかりが重視されるのである。しかし、労働の根源は、雇用である。効率性ばかり追求すると雇用が軽視されるようになる。その結果、分配機能が衰えて経済が停滞することがあるのである。つまり、効率性を追求した結果、経済が停滞するのである。分配という観点からすると経済には、非効率な部分が必要となるのである。特に、貨幣的に見て非効率な部分が必要となるのである。効率、即ち、経済性とはいかない。効率が良いから、経済が停滞すると言う事があり得るのである。その好例が、商店街の問題である。

 労働が問題ならば、成果をどの様に評価するかが重大になる。労働の評価が画一的になれば、結局人間の生き方、ライフスタイルも画一的なものになってしまう。

 現代の日本人は、同族会社や世襲、オーナー企業、個人事業、中小企業、零細企業を頭から否定している。それは、社会主義や資本主義を問わずである。しかし、なぜ、否定されなければならないのかを明らかにしていない。あるとすれば、非民主的だからとか、封建的だからとか、家族主義的だからと言った理由と言うより決め付けである。これは思想である。思想なら思想としてハッキリとして欲しい。ところが、思想ではなく。摂理のようなもののように扱って、その根拠を明らかにしない。なぜ、同族会社や世襲企業は、非民主的なのか。明確な答えもないままに否定し、それを根拠に制度化してしまっている。

 例えば、内部留保課税であり、相続税である。それが、日本の中小企業の過小資本を招いている。

 いつ、誰が、同族会社や世襲企業を否定したのか。中には、世界の常識であり、欧米には、同族会社や世襲企業があたかも存在しないかのごとく言う者までいる。

 株式会社、発祥の地と言われるイギリスでは、2005年現在で中小企業は、合計433万社で国内企業の99.9%、雇用者総数の中の59%を占めると言われている。(「日本の中小企業」鹿野嘉昭著 東洋経済新報社)イギリスでも大企業優遇策がとられてきたと言われる。それでも、中小企業の存在は無視できるものではない。
 ドイツでは、中小企業の数は、290万社で企業総数の中の99.3%、従業員総数の76.3%を占め、フランスは、2002年時点で企業総数の99.8%、雇用者総数の63%を占める。(「日本の中小企業」鹿野嘉昭著 東洋経済新報社)

 欧米の産業状況を見ても解るように、産業政策の鍵を握っているのは、実際は、中小企業政策なのである。中小企業というのは、現行の市場経済下では、放置すれば収益が悪化し、その結果、市場が荒廃するのである。市場が荒廃すれば経済は、劣化する。中小企業の活力が経済や産業の底辺を下支えしている事を忘れてはならない。それでいながら、中小企業は、結束力が弱く、社会的弱者のまま捨て置かれている。しかも、政策的に中小企業は結束できないように、また、互いに権勢、競争しあうように仕向けられている。

 また、アメリカの中小企業の経営者の多くは、それほど成長を望んでいないと言う調査結果もある。その様な現状でありながら、絶えず向上しなければならない。また、成長し続けることが善であるような思想にとらわれている。
 いずれにしても、中小企業の在り方を決するのは、思想なのである。摂理のようなものではない。

 思想ならば、思想として議論をすべきなのである。どこが、どう悪いのかを、明らかにした上で、国民的な合意を取り付けるべきなのである。

 現代社会は、進歩や発展、成長のみを善とし、金儲けに巧みな者だけを成功者という。貧乏だけど、清い生き方をした者を人生の勝者とは言わない。汚いことをしてでも、巨額の金を手に入れた者だけが成功者なのである。しかし、それは思想なのである。進歩、発展を正しいとするのは、一つの思想なのである。
 世襲が悪いというのも一つの思想である。しかし、多くの中小企業は、世襲化しなければ存続できない仕組みになっている。現状維持が悪いというのも思想である。競争が良いというのも思想である。
 思想ならば、思想として扱うべきなのである。大企業を善とし、全てを給与所得者と資本家に区分する。それも思想なのである。しかも、最も現実的で実効力を持つ思想なのである。あたかも、自然の摂理、世の中の常識、必然的帰結、絶対的真理のように扱うのは間違いである。
 民主主義者や自由主義者、資本主義者、進歩主義者は、進歩発展を自明の真理のように扱い。他の思想を弾圧している。それも、自由、平等、科学主義の大義の基にである。

 世襲は、悪であり、雇われ社長は善であるとするのは、思想なのである。ならば堂々と討議すればいいのである。暗黙の前提の上に一方的に他方を否定するのは、不公平であり、思想信条の自由に反する行為である。

 かつては、必要以上に働くのは悪だとか、必要もないのに働くことは、雇用の機会を他人から奪うものだという思想があった。
 大量生産や大量消費というのは、大量の無駄や浪費によって支えられているという側面を忘れてはならない。
 効率と言っても分配から見た効率性と言ったら、浪費や無駄を省くことである。そして、経済性という言葉もかつては、無駄や浪費に向けて使われもした。それが節約や倹約である。
 経済から必要性という概念が消えてしまったからである。確かに、必要以上に働くのは悪だとか、必要でもないのに働けば、他人から雇用の機会を奪うという論理が、資本主義の発達を阻害したかもしれない。しかし、必要でもないのに、大量生産をすることもまた、不経済なことである。
 それに、この様な消費社会を支えているのは、生産革命だと言う事も忘れてはならない。生産革命がなければ、大量消費は、大量の不足を生み出すのである。消費文化も消費型経済を支えているためには、常時、大量な物資を絶え間なく供給し続けることが前提である。それが続いている限りは、大量消費経済は、持続できるが、物資が不足したり、供給が途絶えるととたんに破綻する。現在、石油も食料もその有限性が懸念され、いつまで、市場の要求に供給量が応えられるかが疑問視されるている。その供給が不安視されるような事象がある度に、石油や食料の価格が高騰し、経済に混乱を引き起こしている。供給の不足が現実となった時、大量消費に支えられている経済が成り立ち得るかどうか、判然としていない。しかも厄介なことに市場の要求は、エスカレートする傾向がある。経済には、不可逆的な動きをする部分があり、一度、一定の体制が出来上がると経済を縮小することが困難になることがままある。その典型が自動車や電化である。百年ほど前は、電気や自動車がない生活が当たり前だった。しかし、現在では、自動車や電気のない生活は考えられないところまできているのである。こういった大前提に立った上で経済の効率性は考えられるべき事なのである。つまり、その場合、効率性というのは、大量生産、大量消費を前提としたものだと言うことである。
 ただ闇雲に、大量生産や大量消費を煽り立てるのは、市場経済における効率性でしかない。それは、低生産、省資源、省エネルギーを前提とした効率性ではないのである。低生産、省エネルギー時代における効率性は、節約であり倹約的な基準に基づいたものでなければならない。
 一概に効率と言ってもその基準は相対的であり、状況によって変わる。いずれにしても極端から極端に走れば、その基盤となる制度や構造まで破壊されてしまう。常に、状況を鑑みて均衡を保つことが寛容なのである。何事も衡平が重要なのである。
 
 非効率な部分を公的な部分が担ったらどうかという議論がある。しかし、公的な部分で非効率な部分を担うと抑制が効かなくなる。非効率な部分が増殖拡大すると同時に、経済の循環を阻害することになるのである。

 従来の公共事業というのは、土木、建設業が中心である。確かに、土木業、建設というのは、巨額の資金を必要とする上に、産業としての裾野が広い。また、末端の作業員に至れば、労働とそのものも特殊な技能を必要としていない、単純労働である。その為に、総需要を一時的な高める効果が期待できるとされている。しかし、土木、建設というのは、基本的に、生活の核である、衣食住とはかけ離れた産業である。つまり、庶民の生活に密着し、永続的な効果をもたらす産業ではない。
 土木建設業に非効率な部分を期待したが故に、現代社会は、不必要なまでに、コンクリート化されてしまったのである。その結果が、乱開発による環境破壊である。おかしな話だが、公共事業というのは、公共事業によってどの様な世界を築くのかが目的はではなく、公共事業そのもの、と言うよりも公共事業で税金・資金を浪費することが目的であるかのようになってしまったのである。
 これでは、真の経済発展は望めない。

 公共事業は、確かに雇用を創出するかもしれない。その雇用も永続的で地域に密着したものでなければ地元の経済に与える影響は、限定的なものにならざるをえないのである。日雇い労働者では、安定した生活基盤は築けないのである。
 しかも、その土木・建設業も効率性を追求すると直接雇用に結びつかなくなる。そうなると、特定の分野に資金が大量に滞留することとなる。この様に資金が偏って存在すれば、必然的に分配は滞り、経済は停滞する。貨幣経済下では、貨幣は万遍なく行き渡る必要があるのである。

 個人事業主義というのは、かつて、革命勢力から小市民主義と批判された。しかし、本来は、市民革命の担い手だったのである。その立場が中途半端であったが故に、淘汰されつつあるが、しかし、ある意味で、都市文化の中心的担い手であることには変わりない。

 都市商人に代表される自営業者や職人、家内工業主、農民といた自律的市民を中心とした社会を建設しようと言うのが個人事業主義である。個人事業主義というのは、規模の経済を追求する事よりも個人の経済的自立を保障することによって政治的自立を実現しようと言う思想である。ある意味で個人主義の究極的な姿である。個々人が政治的にも経済的にも自立する。その為には、政治的にも、経済的にも、ある一定以上の規模の組織を認めないと言う思想である。
 自営業なものが衰退すれば、全ての人間は、賃金労働者になることを意味する。つまり、給与所得者である。オール、サラリーマンかである。究極的には、農業も大規模農業しか成り立たなくなる。そうなると、人間は、何等かの形で組織の一員でしかいなくなる。そうなると、個としての価値観が成り立たなくなる。つまり、全人的な存在ではなくなり、何等かの組織の一員でしかなくなる。それを個人事業主義は怖れるのである。

 文化の多くは、非効率な世界から生み出されている。経済を効率面からばかり見て、評価していたら文化は衰退する。個人事業主義には、確かに限界がある。しかし、個人事業が成り立たない社会は、それはそれで、また、問題があるのである。

 市場の効率性ばかり追求していると結局、市場の多様性が失われ、単一化していく。それは、独占的市場に繋がり、ある意味で経済的な全体主義に発展する。(「スタバではグランデを買え」吉本佳生著 ダイヤモンド社)それは、選挙に勝つことのみを目的とするとどうしても大衆に迎合的になり、政策が画一的になるのに似ている。政策が画一的になるのを防ぐためには、政党が、自分達の依って立つ思想的基盤をしっかりと持つ以外にない。日本の野党が、何でもかんでも反対しながら、政策的に、与党と差別化しえないのは、自党の思想的基盤が脆弱だからである。
 同様に、個々の経営主体が他の経営主体と差別化するためには、経営理念が重要となるのである。それは、単純に経済的効率性を追求するだけで映えられないのである。

 地方で成立していた商店街というのは、時代に合わなくなったから消滅する運命にあるというのは、市場経済的効率性の上に立った傲慢さである。確かに、地方の商店街には、時流に乗り遅れた部分もある。しかし、その時流とは何かである。それは、大組織の中に、個々の共同体が呑み込まれ、市場の論理で効率化されたに過ぎない。
 似たようなものに、地域の祭りや祭礼のようなものがある。その土地、土地にあった固有の文化が廃れ、一つの文化に呑み込まれていく。そして、祭りを核にして形成されてきた子供会、青年団、町内会のような自治組織も失われていく。季節、季節の風習や習俗、習慣もなくなる。どこへ行っても変わり映えのしない均一な風景が拡がり、季節感もないままに時が過ぎていく。
 個々の商店の個性が奪われ、全国一律の店構えに変わっていく。スパーやコンビニ、喫茶店、飲み屋すら全国展開をしているチェーンストアに支配されていく。それは、地方文化の滅亡を意味する。それこそが全体主義の現れなのである。
 東京で飲むコーヒーも、ニューヨークで飲むコヒーも、札幌や鹿児島、静岡で飲むコーヒーも味が同じと言う事は望ましい事なのであろうか。日本中の街が東京の一画を切り取って貼り付けたようなそれを文化といえるであろうか。違いがあってこそ文化といえるのである。
 全国を一律の店で支配すると言う事は、地方の味や文化、伝統の否定である。どの街へ行っても変わらない味に支配されることである。それを豊というのであろうか。
 商店街の果たしてきた役割というのは、貨幣的な意味合いだけではない。貨幣に換算できない、貨幣に変えられない文化の一端を担ってきたのである。そして、それが、地方経済を活性化してきたのである。今日それが観光という資源でしか測られなくなってきた。しかし、それは擬似的なものにすぎない。地方文化の役割は、その地方の人々の心の故郷にある。人々の心に故郷がある限り、地方経済に活力、生命力はある。しかし、地方からその地方の主体性を奪えば、残されているのは衰退の道しかないのである。
 東京と同じものしか、地方都市になくなれば、東京の方がいいに決まっている。その時、地方都市の崩壊は始まるのである。市場の多様性を維持しようと思ったら貨幣的に見て非効率な部分を残しておく必要がある。

 個人事業、自営業というのは、市場の効率性から見て低いかもしれない。生産性も悪いかもしれない。しかし、自営業には、そう言った効率性だけでは測れない価値がある。そこには、サービスやブランドと言った非貨幣的価値が潜んでいるのである。そして、それが文化なのである。

 先端技術を駆使した超特急は便利である。それはそれで、必要なものである。しかし、鈍行列車もまた必要なのである。ただ、早いだけではえられない世界や効用が鈍行にもある。超特急と鈍行列車が混在する世界こそ経済の目的と合致しているのである。

 企業は人の為にあるのか、事業・仕事の為にあるか、それとも、金の為なのか。人の為と言っても自分の為なのか、自分以外の人、つまり、国家や社会と言った存在のためか。それが重要なのである。これは、企業を存続させる意味でもあり、利益の帰すところを意味するのである。
 職場は、人を生かす場、人が生きる場なのか。仕事をする場なのか。金を儲けるための場なのか。現代では、職場は、金を儲けるだけの場になっている。仕事をする場としての価値が薄れている。人が生きる場ではなくなりつつある。金を儲ける場だから、仕事に対する使命感や夢も、責任感、道義心なんて不必要である。人間的な繋がりは、余計なことである。儲からなくなれば、潰すか、売ってしまえばいい。後は、野となれ、山となれである。知ったことではない。
 資本は、人なのか、事業・物なのか、金なのか。現代の資本主義において、資本は、金である。人でも、事業でもない。企業の元手は、あくまでも金なのである。
 しかし、企業は、本来、人の為にあるものであり、職場は、人を生かす場であり、資本は人なのである。

 自営業者の否定は、ある意味で自由主義の否定でもある。つまり、個人事業者主義というのは、言い換えれば市民主義である。

 資本主義の究極的な形は、全ての世界を資本家と給与所得者に分割してしまうことである。それは、上場企業においては、現実のものになりつつある。つまり、経営者も給与所得者であり、雇われ者である。企業の所有者である資本家やオーナーは、配当やキャピタルゲインで生活をしている。所有と経営が分離し、資本家は、所有することで収益を得るという形である。そして、働く者全てが給与所得者になる。これは、ある意味で自由人の否定である。この様な体制を自由主義体制というのは、あまりに、アイロニカルである。自由は、経済的に自立しているが故に保証されるのである。そこには、貧しくとも、何ものにも縛られない立場を守ろうという意志がある。

 資本主義も共産主義も、唯物論的な思想を基盤にしている。この様な世界では、全ての世界を工場化してしまうことである。いくら近代的で、清潔、合理的と言っても工場は工場である。人間が住むには、殺伐としすぎる。
 現代人は、経済について錯覚している。経済性というのは、無駄を廃するものと思いこんでいる。しかし、経済性とは、ある意味で無駄なところにこそある。実際、無理、無駄、ムラをなくし、合理化すればするほど、効率化すればするほど、利益が薄くなり、最後にはなくなってしまう。便利にすればするほど、不便なところがでてくる。
 利益の本質は、余剰価値、ゆとり、遊び、余裕、つまりは余りの部分にある。利益というのは余りなのである。余りこそ、経済のエッセンスである。だから、経済は、文化だと言える。余りの部分を省いてしまえば、利益はなくなるのが道理なのである。少し、余すそれが利益なのである。
 不合理、非生産的、非効率、不条理なところにこそ、経済性が潜んでいる。その一見無駄なところを、上手く温存していくのが経済の仕組みなのである。そう言う意味では、現代人は、経済という意味を理解していないのである。

 自立的自営業者を否定すると言う事は、この経済性を否定する事を意味する。民主主義の真の担い手は、この自立的自営業者なのである。

 近代文明は、人間の生きる場としての経済空間、社会空間を前提としていない。現代人が言う経済空間とは、金を儲ける場でしかない。だから、ただ無駄を廃してしまえばいいという事になる。その結果、虫も住まない空間を生み出してしまった。ゴキブリやネズミだって住みにくい空間が人間に住みやすい空間であるはずがない。
 人間も、欠点のない、品行方正だけの人間では、人間味がない。欠点のない人間は、人の痛みや、哀しみ、人の気持ちを理解できない。人情がない。それこそ、物的な存在でしかない。心がない。人間は、長所、短所があるからこそ、人間らしいのである。そして、そこから文化、人間の社会も生まれる。欠点のない人間は、それこそが最大の欠点である。
 環境問題が象徴的である。清潔で、合理的な空間を追求した結果、環境の悪化という皮肉な結果を招いている。環境、環境と言いながら、清潔で、合理的な空間を作ろうとしたが故に、環境破壊が起こったと言うことに、気がついていない。
 本来の環境は、不潔で、不合理な空間なのである。経済も、無駄があるから利益が生じるのであり。無駄をなくしてしまったら、利益の生まれる余地はなくなるのである。経済は、近代経済学が否定したところにこそあるのである。

 個人事業者の否定は、自律した自営業者の否定を意味する。かつて、民主主義、市民革命の担い手の重要な一画を占めていたのは、自律的な自営業者と農民、労働者である。経済的な自律していた自営業者の存在は、市民革命において重要な役割を示していた。経済的に自律していたが故に、自由な立場で行動していたのである。自律的な自営業者が否定され、給与所得者に取って代わられれば、市民の権利に重大な危機が訪れる。
 贅沢な生活ではなく。何ものにも拘束されない自由な立場に立てる余地を残す意味でも自律的自営業者が成り立つ余地を残すことが必要なのである。それこそが個人主義の原点でもある。全てを金の物差しだけで測るべきではない。

 経済の問題というのは、生産性や収益性の問題だけではない。おかしな話だが、多くの人が言う経済性とか、収益性というのは、場合によっては、経済活動や景気を悪化させてしまう可能性がある。なぜならば、経済活動の根本は、人々の生活にあるからである。効率性や収益性、生産性ばかりを追求して雇用や所得、物価を蔑ろにすれば、一部の人間は、潤うかもしれないが、経済全体から見ると悪影響を及ぼすことになりかねない。つまり、経済の問題は、単なる収益性や効率性の問題だけではないのである。収益性や効率性は一つの目安である。むしろ重要なのは、必要性である。今、何が、必要とされているかである。公害や環境維持に費用がかかり、収益を圧迫することがわかっていても、公害をなくし、環境を維持する必要があるならば、公害をなくすための費用、環境を維持するための費用を誰が負担すべきなのかを検討することも経済の問題なのである。
 問題は、自律的な自営業者が果たしてきた、社会的、政治的、経済的役割をどう評価するかの問題である。自営業者の仕事は、効率が悪いから切り捨ててしまえと言うのは、野蛮で乱暴な話である。
 早い話、人格を所得だけで測ることは不可能である。もともと、金銭によって測るようなものではない。同じように、経済の問題だからと言って金銭だけで測れるとは限らない。むしろ、経済で一番重要な事柄の多くは、金銭によって測れない事柄である。
 街や地域社会にとって自営業者が果たしてきた役割は、無視できるような内容ではない。それは、文化なのである。そして、経済の問題は、本来、文化の問題でもある。経済は、文化なのである。

 資本主義体制を支えているのは、税制と会計制度であり、その影響を一番受けるのは、零細個人事業者であり、大企業ではない。

 独占禁止法も本当に弱者のための法として機能しているのだろうかと思える。独占禁止法が、競争を煽るための法であると錯覚している限り、独占禁止法は、正常に機能しない。独占禁止法というのは、市場の規律、秩序守るための法なのである。ただ、競争を煽るだけならば、力のある大企業に有利なだけである。その証拠に地方の零細な地場産業がどんどん姿を消している。居酒屋や喫茶店ですら町の中心地は、首都圏に本拠地のあるフランチャイズ店に席巻されてしまった。

 借金と税金があるから、情報を開示しなければならない。と言うよりも、損益が問題となったのである。現金主義ならば、収支が合っていれば問題なかったのである。つまり、税金も企業の存続も収支は関係なく、損益で決められるようになったのである。

 町中に小さな店を出しておけば、細々としても何とか食べていけた。自分の家族の食べる物が確保できるだけの田地田畑があれば、晴耕雨読の生活もできた。それだけで、貧しくとも自立した生活ができたのである。手形をきらなければ、不渡りにはならない。自給自足ができるのならば、金もいらない。現金主義だからである。儲けと言えば現金収入を指していた。
 実現主義社会で儲けとは、利益である。収入ではない。税金も利益にかけられる。収入にかけられるわけではない。利益だから、借金をした方が有利に働く。だから、借金をするようになる。また、借金をしなければ商売ができなくなる。それが市場経済なのである。

 目抜きどおりを歩くと目に入るのは、国際的なチェーンの喫茶店やコンビニ、スーパー、そして、繁華街には、全国展開をする居酒屋、郊外に行けば、倉庫のような巨大なショッピングモールである。 
 確かに、便利になった。また、格安で、大都市の名店の味が味をえられるようになった。しかし、どこへ行っても同じ味であり、同じ造りの店しかない。つまり、街としての個性がない。文化が感じられないのである。東京の亜流、模倣でしかない。東京の一画を切り取ってきて貼り付けたに過ぎない。

 かつて、街があった。都市があった。そこには、人々の個性豊かな営みがあったのである。資本家と給与所得者にに分割されるような世界ではなかった。商人がいて、職人がいて、また、聖職者や農民がいた。それでいて、都市計画に基づいて整然とした町並みを形成していた。現代都市のように、没個性的なビル群ではない。現代都市は、都市全体は、無秩序に雑然と形成されているのに、個々の建物の個性は失われている。かつての都市では、誰もが経済的に自立していた。生きる場と仕事をする場が共存していた。金は、交換の道具に過ぎなかった。人間は、金の奴隷ではなかった。都市は、生活の場なのである。都市を形成する市民は、議会で自分達の世界を構築していた。それが自由市民なのである。そして、それこそが民主主義の源流なのである。自立的市民を抹殺することは、民主主義を否定することにも繋がる。
 今や都市は、仮想空間内だけにしか存在しえなくなりつつあるのかもしれない。それは、民主主義の仮想化をも意味しているのである。



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