公開するか、しないかは思想なのである。絶対的な真理ではない。その社会の下地としている思想である。ただ、原則として、民主主義や資本主義は、情報の公開を前提としていると言うだけである。情報の開示を前提としていると言っても、個人情報やプライバシーの保護には、厳しい。問題は、どこからどこまでが公に属し、どこからどこまでが私的な領域に属するかの線引きなのである。
 個人情報の扱い方を見ても日本人は、この線引きに対する考え方かが曖昧である。とにかく、個人情報を漏洩したらいけないというだけで、何をもって個人情報とし、なぜ、また、どんな個人情報を流してはいけないのかが判然としていない。その為に、一方で、過剰な反応があるかと思えば、一方で深刻な個人情報の漏洩が続いている。

 つまり、開示すべき情報が何で、開示してはならない情報は何かは、思想の問題なのである。根本にある考え方や社会的な合意、又は、その合意に至る手続を明らかにする必要がある。それこそが情報の開示である。
 アメリカでは、性犯罪の前歴の公開しているという。これを日本に適用したらどうなるのか。今は、犯罪の容疑者の顔写真を公開するのもままならないくらいなのであるから。それでいて、有名人のないに等しいのである。

 情報を開示するにせよ、開示しないにせよ。国家理念や社会的合意事項が重要なのである。日本人は、外国、特に、アメリカがどう反応するか、どう言ったかばかりを問題にして、肝心の自国の考え方を明らかにしない。また、批判ばかりしている。先ず、自国民の考え方こそ、自国の依って立つ理念こそ確立すべきなのである。

 それ以前に、公開するしないを思想だと日本人は思っていない節がある。

 何のために、情報を開示するのか、それもわからないで、ただ、情報を開示しろ、情報を開示しろと要求する者もいる。しかし、何の利害関係もない者に不必要に情報を開示する必要はない。従来は、むしろ、情報を闇雲に公開される事への警戒心の方が強かったのである。
 情報を開示するには、それなりの目的と相手がいる。会計情報を開示するのは、第一に、投資家に対してである。第二に、徴税者に対してである。第三に、取引相手でにである。つまり、借金と納税と、取引をするために、情報を開示したのである。基本的には、情報には、非対称性があり、故に、取引が成り立っているのである。

 情報を開示する目的の一つは、投資家への説明責任がある。株式を上場公開していない未上場企業が証券取締法の適用外にあるのは、投資家が限定されているからである。
 では投資とは何かである。融資の投資の一種と考えた場合、融資の目的も大体同じ様な者と言える。投資も融資も基本的に事業に対する資金提供である。そして、その配当を受けることにある。ところが、日本人は、投資は、キャピタルゲインを目的とし、融資は金利を目的としてしまっているようなところが見受けられる。それ故に、株価の動きだけが重要で、事業内容は、二の次になっている。これでは、投資本来の目的は達成できない。
 投資というのは、事業目的や事業内容が主なのである。その事業目的、場合によっては、理念や事業内容に共感をするから投資をするのである。これは、ベンチャーキャピタルに顕著に表れる。だから、日本ではベンチャーキャピタルが育たないのである。

 もう一つの大きな目的が、納税である。ただ、もう税目的の情報は、投資家や債権者に対する情報の開示とは、意味が違う。徴税者から資金の提供を受けるわけではない。故に、本来の意味での情報の開示とは意味が違う。

 上場会社は、情報を投資家に開示しなければならない、動機と義務がある。それに対し、未上場会社は、情報を開示する債権者以外、動機も義務もない。問題なのは、その為に、上場会社の経営者と未上場会社の経営者の間に行動規範の乖離が派生することなのである。

 例えば、粉飾に対する動機でも上場会社の経営者は、投資家向けを動機とするために、利益を良くしようと見せ掛け、反対に、未上場会社の経営者は節税目的で利益を過小にするようにする動機が働く。つまり、正反対の行動をとるような動機付けがされてしまうのである。

 しかも、商法、会計、税法では、基準が違う。それでありながら、確定決算主義に基づいて中途半端な形で、制度が関連付けられている。
 つまり、経営者の経営判断は、商法、会計、税法の各々の制度の力関係から生じる構造的問題なのである。

 日本人は、公を重んじ、私を軽んじる傾向がある。しかもこの傾向に無自覚である。日本人社会で、私的権利を強く主張しすぎると村八分に合う。しかも、この村八分という制裁は、暗黙裡にされるために厄介なのである。

 非公開主義とは、企業をあくまでも私的な機関とみなす思想である。これは、どちらかと言えば、英米を中心としたコモン・ロー、自由主義世界に強く見られる傾向である。巨大な機関、権力の集中を極端にきらい、個人、私的権利を基礎として社会を構成しようとする思想である。日本では、私的な機関や私物化を嫌う思想が古くからある。その為に、私的な権利を軽視する傾向があり、又、それを敷延化する風潮があるが、英米のように強権的権力機構に抗して国民国家を形成してきた国民には、概して、私的な機関を重視する傾向があり、私的機関を必ずしも悪いものとして認識していない事に留意しておく必要がある。
 その場合、情報の開示も必ずしも公的な意味合いからではなく、私的権利を擁護する意味合いである場合が多い。
 ところが日本では、企業を私的機関とみなすことは許されない。
 よく、日本では、企業が何らかの事故や災害に見舞われたり、又、倒産した時、その企業のトップ、責任者がメディアに登場して陳謝する光景を見るが、この場合、株式会社を公的な機関とみなしているからその様な行為が成り立つのであり、欧米人にとって、被害者や投資家でもない人間を含めた一般大衆になぜ、一企業のトップが陳謝しなければならないのか理解できないであろう。それは、欧米人にとって陳謝する相手があるとしたら、自分達の行為によって何等かの不利益、それも、物理的、金銭的不利益を被った人間に対してであり、何の関係もないものにまで陳謝する必要性を感じないからである。
 この点を象徴しているのが、相撲社会であり、皇室である。相撲社会においては、横綱は、相撲社会の頭目・チャンピオンであると同時に、象徴でもある。その為に、公私両面において、暗黙の規制がかかる。これは、日本人社会における掟のようなものだが、時として外人力士との軋轢の原因にもなる。なぜならば、日本以外の世界では、あくまでも、横綱の称号は私的なものであり、公的な活動にまで規制がかかるようなものではないからである。通常、企業にとっても社長という称号は、私的なものであり、その責任の範囲内で責任を負えばいいのであり、その責任を超えたところまで追求が及ぶことはない。ところが日本人社会では、この公と私が一体なものであり、私的であると同時に公的な責任もとらされるのである。むろん、欧米においてもその人の思想や信条に関わるような職務においては、私的な行為といえでも公的な責任が問われる。しかし、それはあくまでも職務の性格上の問題であって、全人格的な問題とは異質である。

 つまり、企業を私的な問題とみなすかどうかは、是非善悪の問題ではなく。思想上の問題なのである。その点を明確にしておく必要がある。私的なものを認めないものにとっては、企業を私物化すること把握なのである。しかし、もともと、企業は私的なものであるという思想の持ち主にとっては何ら問題とならないのである。それは、企業の定義の問題であり、思想なのである。

 イギリスにおいては、非公開株式会社が主流であった。イギリスでは今日でも個人銀行として株式会社の形態をとらない銀行もある。(「経営史」安倍悦生著 日経文庫)

 東インド会社が株式会社の嚆矢(こうし)と言われている。しかし、その後に起こった南海泡沫事件をうけて制定された泡沫会社禁止条例(バブル・アクト)によって株式会社の設立がイギリスでは、困難になった。その為に、パートナーシップ(共同出資)の形式が多く取られた。しかし、パートナーシップは、法人格(Regal Entity)がないため、正式には会社とは言えない。(「MBA English」内之倉礼子著 ベレ出版)

 イギリスでは、パブリックカンパニー(公募株式会社)とプライベートカンパニー(私会社、非公募株式会社)の二つの流れがある。日本で言う非上場会社で、多くの場合が同族会社である。又、財閥などもこの範疇に入れて良いと思われる。もっとも、公開会社だけで企業グループを形成するのではなく。目的に応じて上場会社、非上場会社を組み合わせて企業集団を組む場合もあり、一概に、公開企業集団、非公開企業集団と分けることはできない。中核となる企業の性格によって公開的か非公開的であるかを判別する場合が多い。(「経営史」安倍悦生著 日経文庫)

 この様に、私的企業や同族会社は何も日本に限ったことではなく。世界一般にある。そして、それは、それで、一つの思想なのである。要は、それを認められるか、否か。容認しうるかの問題である。ただ、なぜこの様な私的な機関が成立し、幅をきかせるのかと言えば、それは、多くの産業が最初から多額の資金を調達しうるだけの事業計画なり、収益に対する確信が持ち得ないからである。また、昨今でもITバブルの際、いかがわしい企業が泡のように生じ、社会問題ともなった。資本市場もマネーゲーム、賭博場の様な様相を呈し、経済に悪影響を与えもした。又、資本市場は、時折、バブルのような状況に陥り、後遺症に苦しむことも度々あった。この様な状況を避けて健全な企業の発展を促す意味においては、あながち、パートナーシップや私的企業を否定しきれない要素があるのも事実である。

 ただ、資本主義が目指すところは、やはり、資本と経営の分離であり、公的機関としての経営主体である。故に、非公開企業の扱いは、資本主義を前提として場合、否定的にならざるをえない。

 公開企業と、非公開企業では行動規範が違う。公開企業は、株価の動向や基本的に配当を重視する。その為に、会計上の利益を重んじる傾向がある。それに対して、非公開企業は、資金の社会への流出を嫌う。その為に、キャッシュフローを重んじ、内部留保を積もうとする。特に、それは、税に対する行動に顕著に現れる。公開企業は、税を納めても収益を上げようとするが、非公開企業は、資金の社外流出である納税行為を嫌って節税行為をとろうとする傾向がある。いずれも、それぞれが目指すところの違いであり、是非善悪の基準では計れない。
 

非公開主義

Since 2001.1.6
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano