小泉内閣では、郵政民営化を争って与党内部が分裂をし、総選挙によって決着を付ける事となった。その結果、自民党が圧勝して、余勢をかって郵政は民営化することになった。そのあおりを受けて道路公団も民営化された。

 また、今年に入って年金で、政局が揺れている。ずさんな年金の管理と不正の続発で社会保険庁の民営化も俎上に上がっている。

 年金を主管している社会保険庁は、厚生労働省(旧厚生省)の外局である。(マイペディア)

 郵便局というのは、郵政省の外局だった。それを、先ず公社化し、その次ぎに、政府が100%出資の株式会社にした上で、随時、株を市場に放出していくことになる。

 それに対して、道路四公団の民営化は、公団の民営化である。

 外局(がいきょく)とは、内局(内部部局)に対するもので、日本の行政組織において、府省のもとに置かれ、特殊な業務、専門性の高い業務を行う機関。庁と委員会の2つに大別される。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)特殊な行政事務を管掌させる場合、内閣府、各省におかれる行政機関である。(マイペディア)

 これから見ても解るように外局は、国営機関である。

 外局のような行政機関の一部を民営化しようとした場合、一足飛びに、民営企業にするのは、技術的に難しい。その為に、一旦、公社化をした上で、その次の段階で株式会社化して、段階的に民営化をする場合が多い。
 公社化は、民営化の前段階においてもよく用いられる手法である。

 公社(こうしゃ)とは、政府の出資する法人であって、その名称に「公社」の文字が用いられているもの、あるいは地方公共団体が地方住宅供給公社法(昭和40年法律第124号)に基づく地方住宅供給公社、地方道路公社法(昭和45年法律第82号)に基づく地方道路公社及び公有地の拡大の推進に関する法律(昭和47年法律第66号)に基づく土地開発公社又は、地方公共団体の出資する公益法人その他であって、その名称に「公社」の文字が用いられているもの等の総称である。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 政府の出資する法人の内、過去にその名称中に「公社」の文字が用いられているものは、日本専売公社及び日本電信電話公社(これに公共企業体である当時の日本国有鉄道を加えて「三公社」と総称した)が存在したが、いずれも特殊会社に事業を承継させ(その後、一部は民営化済)、解散している。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 三公社五現業というのは、三つの公社、即ち、日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社と五つの現業官庁、優勢、国有林野、印刷、造幣、アルコール専売の各事業部門を指して言う。このうち、三公社と郵政は、民営化され、アルコール専売は、新エネルギー産業技術総合機構に移管された。(「広辞苑」)

 公営企業というのは、経営主体が、国家から独立した公共機関である。典型的なのは、公社である。

 専売制というのは、国家や国家に準ずる機関、江戸時代ならば藩が、行政財政上の目的で特定の財貨の生産、又は、販売を独占することである。(「広辞苑」)
 日本では、明治時代以後、政府はタバコ・塩・樟脳・アルコール・あへんに専売制を実施。第二次世界大戦後はタバコ・塩・樟脳を扱う日本専売公社が設立された。塩は、明治38年(1905年)開始され。平成9年(1997年)廃止された(塩専売法廃止、塩事業法施行)。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 樟脳は、明治35年(1902年)に開始され、昭和37年(1962年)廃止された。

 タバコ事業を専売制にしたのは、1904年のたばこ専売法により、日露戦争の戦費調達が目的だった。(「民営化で誰が得をするのか」石井陽一著 平凡社新書)
 この様なケースを見てもわかるように、公営事業の中にも、最初から営利性を重んじたものもあるのである。

 公団とは、法律によって定められた一定の公的事業経営を目的とする公法人である。特殊法人の一つ。第二次世界大戦後、統制経済実施機関とされ、政府の全額出資で設けられた諸公団、例えば、産業復興公団、食糧配給公団の類は、経済の復興と統制の廃止しとともに全廃された。(広辞苑)現在の公団は、公益事業を推進する目的で昭和三十年以降、設けられた住宅都市整備公団、日本道路公団などで、私企業に対する補完的機能が顕著である。(マイペディア)

 特殊法人とは、特別法により設置される場合の法人。国策上あるいは公共の利益のために設置される。日本銀行、帝都高速度交通営団、商工組合中央金庫などである。(広辞苑)

 第三セクターとは、国や地方公共団体と民間企業との共同出資によって設立される事業体である。(「広辞苑」)国や地方公共団単体が経営する事業体を第一セクターと言い。私的企業が経営する事業体を第二セクター、国や地方公共団体が民間企業と経営する事業体を第三セクターというのである。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 国営と公営とは違う。何でもかんでも民営化、民営化と叫んでいる者がいるが、そう言う人間に限って民営化とは何かを明確にこたえられない。
 郵政民営化と言うが、本当に民営化されたのかどうかを、どこで判断するかがわからなければ意味がない。

 国営、公営、民営というのは、どこが違うのか。それは、所有権と経営権の帰属先の違いである。
 国営、公営と民営との違いは、民営企業が、所有権、経営権が私的機関、団体に帰属するのに対し、国営、公営は、公的機関、、団体に帰属すると言う事である。
 そして、国営と公営の違いは、国営企業は、所有権、経営権、どちらも国家に帰属するのとに対し、少なくとも所有権が、国家以外の公共団体や機関に帰属する差ということである。公営企業の中には、所有権は、国家に帰属していても、経営権が国家以外の機関、団体に帰属している場合がある。
 所有権が国家に帰属している場合でも、経営権が国家以外の国家以外の機関や団体に帰属しているものを国有企業という。これが国営と、国有の違いである。国有企業の中には、公営企業や民間企業も含まれる。つまり、民営化企業と言っても、所有権は、国家に帰属しながら、経営権だけを委託したような事業体をふくむ場合もあるのである。

 では、所有権が国家に帰属している場合と、国家以外の公共団体に帰属している場合とでどう違うのかというと、一つは、国家に帰属している場合は、必然的に、中央集権的、全体主義的になり易いのにたいし、国家以外の公共団体に帰属した場合は、分権的であるという点である。また、国家から独立している場合は、経営権の自律性を保つことができるという点である。これは、中央銀行などの在り方に典型的に現れる。
 これは、制度的に見ると決定的な違いになる。

 公営というのは、国家以外の公共機関が、経営、運営する経営主体を指して言うのである。この場合、国有機関も含めて言う。公営企業は、地方公共団体が経営する事業体やかつての公団、有名なのは、国鉄や道路公団のようなものを指して言う。公営主義というのは、国家による統一的は、集権的な体制ではなく。事業単位をある程度の規模に分割し、ある程度の権限を与えて、分権的に、自律的に統治しようと言う思想である。国鉄や国立大学のように、国が直接管理するのではなく、個々の事業体に自律性を持たせることによって間接的に管理する体制である。

 公営企業というのは、公共企業体である。公共企業体というのは、私的企業と異質の原則、形態を持っている。第一は、会計制度である。基本的に公共企業体は、民間企業と違って、現金主義をとっている。つまり、予算制度を前提とした出納管理である。第二に、資本勘定がない。第三に、単年度均衡予算制度である。営利団体ではない。第四に、評価制度が絶対評価であり、階層制度、資格制度による。つまり、横並び評価である。第五に、集権的官僚機構である。つまり、縦割り組織である。第六に、法的規制がある。反面、民分が保障されている。
 公営企業の最大の特徴は、非営利団体だと言う事である。非営利団体というのは、市場に影響を受けない機関だと言う事である。市場経済下で問題になるのは、市場の動向に左右されない機関が、巨額の資金を運用しているという点である。

 公営企業が効率が悪いと民営化が大流行(おおはやり)である。何でもかんでも民営化してしまえとばかりである。しかし、その反面、なぜ民営企業は、効率が良くて、なぜ、国営、公営企業は、効率が悪いのかについて、何の分析もされていない。国営、公営企業の、どこが、非効率なのかも明らかにされていない。こうなると感情論に過ぎない。

 公営企業の非効率さの背景には、官尊民卑思想がある。民間企業は、利益を上げても良いが、利益を上げてはいけない。反対に、官に許されても、民には許されないといった官尊民卑である。
 公益事業は、営利事業にそぐわない。公益事業は、営利事業とは違うというように、官の側には、営利性を頭から否定している姿勢が見受けられる。ところが、それが、公営企業の経営者のモラルハザードをまねいているのである。

 なぜ、民営化が大流行なのか。それは、国営、公営企業の共通の弱点があるからである。それを明らかにすれば、何が公営企業の問題点なのかも明らかになる。
 公営企業における問題は、一つは、先にも述べたモラルハザードである。これは、官尊民卑的な発想が根底にある。所謂(いわゆる)御上意識である。御上には許されても、民には許されない。官は、即ち公に奉仕することであり、民は、私利私欲によるという考え方である。故に、官は、利益を追い求めてはならない。その代わり、経営責任は問わないと言う姿勢である。つまり、経済性の欠如である。民間企業は、私欲に基づく、つまり、動機が不純であるから、責任を問うが、官業、公共事業は、公共への奉仕なのであり、動機が純粋なのだから、責任は問わないでいい。背景には、私利私欲は、賤しいことだという考えである。
 公僕だという意識だけはあるが、権力を背負っている分、高圧的になるのである。それは、官尊民卑の意識がどこかにあるのである。
 官業は倒産しないと言う思い込みである。つまり、公営、国営を問わず。公共事業体は倒産しない。親方日の丸思想である。だから、無駄や無理、ムラがあっても、問題にならない。それを改善しても意味がない。税金で補填をすればいい。その為に、組織の自己増殖に歯止めがかからない。経済性を無視した拡大をする。
 また、官業は、失業対策でもあるという考え方である。元々、雇用の創出に目的があり、事業そのものの効用は二義的に考えやすいという点である。
 身分保障制度。思想や信条によって解雇されない。それが、余程のことがない限り、責任を問われない体制になる。
 それから、日和見主義、事なかれ主義、横並び主義である。つまり、無責任体制である。
 無責任というのは、自分の仕事と評価が直接的に結びつかない。実績と評価が結びついていない。やってもやらなくても同じ。つまり、評価がフィードバック機能を持ち得ない体制である。その上、評価の基礎が、加点主義的な評価ではなく。減点主義的な評価だと言う事である。何かやると、失敗した時に責任を問われるから、なるべくなら何もしたくない。これが事なかれ主義である。これでは、自分の評価を落としてまで、意識改革をしようと言う発想がでてこない。失敗や出しゃばりを怖れる体質が出来上がってしまう。又、出る杭は打たれるような、足の引っ張り合いにもなる。やってもやらなくても同じなら、やらない方がいい。やりすぎる奴は、仲間の和を乱すと言う事になる。
 それが、失敗や不正の隠蔽体質を醸成する。同僚の失敗を見て見ぬ振りをしたり、隠蔽して、表立たないように工作をする。秘密主義的になる。悪しき身内主義が蔓延するのである。
 事なかれ主義に陥るのも、一生が保証されているという事に一因がある。無理をして、安定した生活を失いたくないと思えば、臆病になる。反面、小さな不正には目を瞑る体質になる。騒ぎ立てて、波風を立てて恨まれて仕方ないという諦観を生み出すのである。それが腐敗や不正の温床になる。また、小さな限られた世界で働くために、なるべく、物事を穏便に片付けたいと思えば、平穏無事に勤め上げたいと思えば、保身を計るようになるのである。横並び的になり、自己と他者とを比べる具体的な基準がなくなれば、観念主義的、権威主義的にもなる。
 官業の非効率。不親切。無愛想。お役所仕事という言葉に象徴するように、官業は、非効率だという事が通り相場になっている。さらに、サービスの質の悪さ。とにかく、やってやっているんだという御上意識が強い。横柄で、高圧的である。されは、権力的で、暴力的だからである。
 一つは、規則、規則に拘束されている。又、手続が煩雑である。決められた事以外仕事ができない。手続が主として文書を介して行われるため、保身もあって、文書でしか行動できなくなる。文書主義。
 セクショナリズム、なわばり意識である。自分の職務の範囲外のことには、関わりたくない、無関心になる。縦割り組織であるために、上下関係が中心となって横の連絡がとれなくなる。
 組織の自己目的化である。つまり、組織の存続そのものが目的化してしまっているという事である。こうなると組織を守るために、組織の構成員を犠牲にしてもかまわないと言う事になる。その対極にあるのは、共同体意識である。仲間を守るために、不正の隠蔽やなれ合い、秘密主義、身内意識、同等意識、横並び意識と言った意識を生み出す。どちらも極端にでると、組織本来の機能からすると目的を逸脱している。
 官業の規模が大きすぎるという点である。公共事業は、えてして巨大になる。その為に、事業の全体像がつかみにくく。自分の役割も認識しにくい。
 収入の源泉が税金だという点である。足りなくなれば、税を増やすか、徴収を強化すればいいと言う安易な発想になる。つまり、収支に本質が見失われているのである。また、損失に対する痛みがなくなり、感覚が鈍くなる。

 決定的なのは、公務員に経済感覚が欠落しているという事である。経済感覚と言うよりも、経済を卑下してみる傾向である。金を卑しむことである。赤字でも言い。赤字でも許される。それでいて、金汚い。それが公務員が嫌われる原因でもある。金を大切するからこそ、金銭に対して厳しくなれるのである。
 自分達が汗水垂らして稼いだ金、国民の血税だと言う意識が薄いから、金の使い道にも疎くなるのである。その典型が年金に対する社会保険庁の対応である。基本的な責任感、職業道徳を欠いているのである。その根本は、御上意識である。
 公務員は、資金繰りを最初から考慮していない。それが、公共事業の不採算性の源であり、問題の原点なのである。収入の範囲内で支出を抑えようと言う努力をしなければ、収支など均衡しようがないのである。家計にも見られるが、与えられた条件の範囲内で物事を処理していこうという意思が働かなければ、最初から経営は破綻しているのである。やり繰りがうまくいかないのではなくて、やり繰りを最初から考えていないのである。

 この様な官僚主義的は、一種の病弊、組織の病気である。

 よく窓口をたらい回しにされて、不愉快にさせられる。それは、公営企業の官僚主義の為せる業である。民間企業であれば、顧客第一主義、市場に見放されれば、倒産することになる。ところが、公的機関は、倒産することはない。少なくとも現在はそう思われている。余程の失敗がなければ、賃金は保障されている。又、何でも規則、文書、手続が優先される。

 公益性が高く、市場経済にそぐわない産業を闇雲に民営化したところで、必ずしも成功するとは限らない。また、公益事業は、民営化しても自然独占に陥りやすい。(「民営化で誰が得をするのか」石井陽一著 平凡社新書)

 しかし、それに、公営企業が公益性が高い産業にあるとは限らない。むしろ、公益性から見ると逆行している場合が多々見られる。
 公営ギャンブルや専売公社のように遊興や奢侈なものを対象とした公営企業もある。過去には、公営の遊郭、公娼もあったのである。

 むしろ公共事業は、初期投資額が莫大で、その投資を回収するのに、長期間必要とする事業や国家戦略や国防上、重要な物資。また、経済や社会のインフラストラクチャーにあたる産業で、収益性の乏しい事業などに見られる。
 鉄道のような、巨額な資金を必要とする産業でも英米では、最初から国営、公営せず、民間の資金に頼る場合が多い。
 いずれにしても、絶対的に公営化、国営化しなければならない産業、事業というのは、限られている。ある意味で、民営化しえない産業、事業というのは、国家権力や独立に関わる事業に限られているとも言える。それは、国家の主権に関わるからである。
 国家の主権に関わる産業というのは、軍事と警察である。
 教育や行政というのは、国家の主権を実現化する要素ではあるが、国家権力という暴力に直接かかわっていない。故に、必ずしも、国営、公営でなければならないと言うわけではない。その証拠に、学校は、国立、公立、私立が混在している。又、行政機関の一部を民営化することもよくある。

 公営企業の目的には、第一に、財政の財源。これは、専売公社(塩、タバコ)、公営ギャンブル。即ち、競馬、競輪などが上げられる。第二に、巨額な資金や投資を必要としている。鉄道、航空会社、道路、電力などである。第三に、ライフラインや社会のインフラストラクチャを形成する。電気、ガス、水道、通信、郵便、道路、港湾、空港などである。第三に公共性が高い分野である。例えば、学校、医療、福祉、。第四に、収益性が乏しいが、社会にとって必要不可欠と見なされる分野である。例えば、宇宙開発、海洋開発である。第五に、中立性や公正性を要求される分野である。例えば検査会社、中央銀行である。第六に、有用であるが、危険性があり、国家管理を必要とするものである。例えば、阿片、原子力である

 国営、公営、民営は、むしろ、国家思想によって決まる。

 国営主義が共産主義ならば、公営主義は、一種の社会主義といえる。ただし、公営企業を主体とした社会体制は、まだ、成立していない。

 「国家持ち株会社」を考えてみればいい。この場合は、国有主義とも言える。国有と国営とは違う。国有というのは、国家が、所有権を持つ形態であり、経営は、必ずしも国家が、行っているわけではない。経営を業務委託する場合もある。この場合は、民営企業の一形態と見なされるである。

 公営主義というのは、事業体の所有権を公共団体が掌握することで、企業の公共性を保持させようと言う思想である。
 国営主義が、全体主義的になりがちなのが、公営主義は、分権的になる。また、経営権も独立させると、企業体の自律性も保たれる。

 やれ民営化だ。民活化、規制緩和だと言うが、結局は、モラルの問題に行き着くのである。それを解決しなければ、問題の本質は、理解されない。民間よりも、国が行うべき事業は沢山ある。民営化すればいいと言うのは、一種の逃避である。財政の赤字も、それでは改善されない。問題を糊塗しているに過ぎない。要は、無責任体制であり、無責任で倫理観の欠場が蔓延することの方が問題なのである。それは、一種の社会的病である。共産主義が倒れたのもその病故にである。では、資本主義ならば、その病に冒されないか。それは、先入観である。資本主義もまた、例外ではない。
 佞臣が蔓延る国は、滅びると言ったのは、孔子だが、現代の社会でも変わらない。最近、高級官僚のタクシー券の濫用や年金処理のずさんさが問題になっている。また、無駄な公共事業や利権かが問題になっている。一度決めたら、止められない。この変化の激しい時代に、硬直的な石頭では対応できるはずがない。反面、長期的構想や戦略もなく、予算は、単年度で使い切らなければ、次年度削られると意味もなく浪費される。公共事業なのだから、赤字なんてかまわないと労使共に無責任体質が染みついている。
 正論を称える者は、固いことを言う奴と倦厭される。いつの間にか、悪いと知りながら体制に迎合する阿諛追従、郷原(きょうげん)のような輩ばかりになる。
 なぜ、民営ならば良くて、公営は駄目なのか。それは、責任感の欠如というか、根本的な認識の差である。公は、権力と一体化しやすい。つまり、御上意識である。民間では許されないが、公権力では許される。本来、逆であるべき発想、つまり、民間では許されるが、公に尽くす者は許されないと言う、崇高なる精神、倫理でなければならない事が、事金の問題となると、だらしなくなる。公に尽くしているのだから許されるだろう。事業に失敗すれば、民間では、全財産を失い、身ぐるみ剥がれるというのに、公営事業で、失敗したからと言って責任を問われた者はいない。ただ、賄賂、賄(まいない)、横領だけが、悪いとされるのである。それでは、事業そのものに対するモラルハザードは防げない。
 法さえ守っていれば何をしても良いと誰もが思い始めた時、危機は忍び寄ってくる。現在のサブプライムも、原油の高騰も、結局は、モラルの欠如がもたらしているのである。

 石油高騰を取り上げたNHKのドキュメンタリー番組において、年金機関の幹部が、「石油の高騰は、年金の受給者を苦しめることは承知している。しかし、自分達が石油先物取引をしなくとも誰かがやる。だとしたら、我々は、石油先物をやるのが正しい。」それが今の世の中であり、金のためならば何をしても許されるという考え方が蔓延している。呉越同舟。ユダヤやイスラムという仇敵の関係にある者ですら、金のためならば、裏で手を結ぶ。こうなったら、社会の悪化を止めることはできない。

 公営化、民営化が問題なのではない。根底にあるモラルを維持できない体制が問題なのである。
 逆に言えば、そのモラルを維持できる体制ができれば、公営の方が効率の良い事業もあるはずである。



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