今は、民営化が大流行である。何でもかんでも民営化してしまえば、うまくいくと為政者は思い込んでいる節がある。しかし、なぜ、国営は上手く機能しないのであろうか。その反省もしないで、国営はうまくいかないからと言う理由だけで、民営化してしまえと言うのは、乱暴すぎる。

 ここで注意しなければならないのは、国営と国有とは違うと言う事である。国営というのは、国が直接経営することを意味し、国有というのは、国家が経営主体を所有するという意味である。国営主義というのし、国家が直接事業を行うことを意味するのである。

 国営主義というのは、究極的には、全産業を国営化してしまえと言う思想である。この思想は、共産主義国や社会主義国に多く見られる。
 国営主義というのは、国内を単一の組織、体制によって制御、統括しようという思想である。必然的に、統制主義経済、計画主義経済、管理主義経済、独占的経済にならざるをえない。つまり、市場が入り込む余地がなくなる。必然的に貨幣も排除されるか、配給切符みたいなものにならざるをえない。つまり、貨幣本来の機能、交換価値の権利を表象、留保していることから派生する機能を発揮できなくなる。
 いくら貨幣を保有していてもあらかじめ交換できる量が制限されていれば、貨幣は、貨幣としての機能を発揮できず、貯蓄しても無駄になるのである。

 今述べたような点を鑑みると、国営主義の特徴は、統制主義的、計画主義的、予算主義的、独占的、専売的、官僚主義的、組織的、独善的、閉鎖的な思想だと言える。
 この様な特性によって国営主義は、自己目的的な体制に陥りやすい。つまり、国営主義とは、国家そのものが、国家存立することだけ目的とした体制を作り上げてしまう。国家が国家のためにある体制、そこには、国家以外のもの、例えば個人の幸せや利益とか、権利というものの一切が否定されてしまう体制である。更に、私的所有権すらも制限されてしまえば、個人の内的動機に依拠するのではなく、国家権力の都合によって全体を統制するだけの体制になってしまう。
 一切の違いや格差は、否定され、単一の基準に集約されてしまう。かつて、共産主義中国は、人民服によって服飾まで統一してしまった。

 全てを国営化するというのは、所謂(いわゆる)単一化である。単一化することの弊害というのは、構造化しにくいという点にある。つまり、構造というのは、複数の要素が相互に連携しながら環境に適合していく体制を形成していくことである。環境に適合し、相互が連携していくためには、相対的認識に基づかなければ成立しない。単一化すると、基準が絶対化し、相対的認識を排除してしまう。その為に、競争の原理や相互牽制が働くなり、組織、体制が硬直化し、環境への適合を困難にしてしまう。
 これはそのまま、国営主義の弱点となる。

 国営主義には、個体差がない。つまり、他がないのである。一律であり例外を認めない体制である。
 私営企業であれば、自己以外の他が最大の問題となる。つまり、顧客の要求が最大の関心である。それに対し、国営企業では、他の存在そのものを認めないから、自己都合が優先される。組織内部の規律が重視され、それに対する他者は切り捨てられる。効率性や生産性も自己内部の絶対的基準に基づくのであり、そこには、客は介在する余地はない。あくまでも自己充足、自己満足的な基準に依るのである。
 更に、労働や貢献に対する評価は、内的な動機や絶対的基準に基づくため、成果や貢献は度外視されてしまう。また、同一労働同一賃金の原則が貫かれて個人差が消去されてしまうため、やってもやらなくても同一の基準で評価されてしまう。早い話、野球はポジションで評価され、成績も実績も貢献も意味がなくなる。突き詰めると野球は野球することだけで、評価されてしまう。

 国営企業、これは、公営企業も準じるが、経営責任が問題にされない。経営という行為は、単なる役割に過ぎず。それによる評価が伴わないからである。評価が伴わなければ責任も伴わない。なぜならば、評価に差がなければ、責任をとらせようが無いからである。私企業では、企業を潰しただけで犯罪行為と等しくみなされ、全財産を没収されるだけでなく、法的責任を負わされることすらあるのに、国営企業や公営企業を破綻させた場合、その経営責任者は不運だったと同情されるのが関の山である。
 財政を破綻させても公営企業を潰したとしても総理大臣や公営企業の責任者が責任を問われたという話は希にしかない。堂々と退職金をもらった別の公営企業の責任者におさまっている者すらいる。それは、国営主義というのは、個というものがないからである。

 大阪の組合幹部が、自治体や公共事業は、民間と違い赤字でも良いのだと発言していた。これは、役人の本音だろう。あからさまな権力志向であり、組合という観点からしても、独断的すぎる見解である。御上意識の現れであり、どこかの国の独裁者と何ら変わりない。まるで封建時代に遡ったかの様である。収益を目的としている事業体と、収益を目的としていない事業体とを分けるのは、明らかな差別である。一方が赤字を出せば、私財財産を全て没収され、犯罪者扱いされるというのに、他方は、まったく責任を問われない上、高額の退職金をもらい、新たな職場を用意され、尚かつ、同情までされるとなれば、あまりにも理不尽である。この意識こそが問題なのである。
 年金問題で、責任をとった社会保険庁の幹部も厚生労働省の役人もいない。見ようによっては、一種の詐欺である。民間企業ならば、犯罪として処理されるであろう。公共機関だから許されるというのは筋違いである。

 しかし、だからといって全てを民間、民営化すればいいと言うのは、明らかに行き過ぎである。国営事業、公営事業にも利点がある。と言うよりも、国営でなければできない事業もある。また、国家が直接、宇宙開発や海洋開発など、長期にわたって多額の資金が寝てしまうような事業には、行った方がいい、また、国家事業としてしか成り立たない事業もあるのである。

 過激な民営論者の中には、民営化は、万能薬のように信じ込んでいる者もいるみたいだが、使用方法を間違うと劇薬になることも忘れてはならない。

 中には、警察や軍隊、消防署や刑務所までも民営化してしまえと言う者までいる。限にロボコップという映画にまでなっている。

 経済の効率と経営の効率を混同する傾向がある。経済と経営というのは、土台が違う。経済は、広く、国家社会の国民生活を土台としているのに対し、経営というのは、一民間企業の収益を土台としている。

 経済の本質は、分配であって、効率にあるわけではない。そして、効率という概念も、分配から見た効率性と、生産や経営から見た効率性とは、基準が違うのである。
 百人で一億円を儲けることは、経営的には、効率が良いかもしれないが、一万人で一億円も受ける方が、経済的には効率的なのである。

 経営的効率性を追求することが経済的効率を悪化させてしまうという事がよくある。郊外型大型店が進出することで、地方都市の商店街が衰退したと言うような事例である。また、喫茶店の大手チェーンが拡大することによって小さな喫茶店が淘汰されてしまうと言うようなことである。地方都市の目抜きどおりを通ると喫茶店の大手チェーンやコンビニエンスストアーばかり目について個人商店の影が薄くなっているのを感じる。また、生産現場の機械化、合理化が進むことによって雇用が減退したり、また、家内工業や職人がいなくなると言った事態が起こる。

 2005年8月と9月に「カトリーナ」と「リタ」と言う二つの超大型ハリケーンがアメリカ南部に上陸した。カトリーナは、ルイジアナ州、「リタ」は、テキサス州とルイジアナ州に上陸した。この二つの超大型台風が上陸した地点は、石油の精製所が密集している地域で超大型台風の影響で精製所の多くが休止し、全米の石油の精製能力の三割が失われる結果となった。(「オイル・ジレンマ」山下真一著 日本経済新聞出版社)
 なぜ、この様な台風の通り道となる地域に石油精製施設が集中したかというと、この地域は、全米の原油の約三割を生産するという生産地であり、生産地と精製地という利便性や経営効率による。
 リスク分散を考えれば、一カ所に重要な施設が集中するのは好ましくないが、経営的合理性を考えると強制するわけにはいかない。

 株主資本主義では、株主利益の最大化はかる。その為には、雇用や将来を見据えた投資、環境問題が疎かにされる傾向がある。
 石油価格の高騰の裏には、精製設備の老朽化の問題がある。それは、例え利益が上がっても、その利益は、株主に対する配当に廻され、長期的投資や内部留保に向けられないために、設備投資が滞ったことに起因すると言われている。
 同じ様なことが2003年8月に起こった北米の大停電にもいる。90年代の規制緩和によって電力会社間の競争が激化し、利益に結びつかない送電線への投資を怠った結果だと言われている。(「オイル・ジレンマ」山下真一著 日本経済新聞出版社)
 株主利益を最優先に据え、株主利益の追求に汲々となった結果、先行的投資や長期的投資、公共の利益が蔑(ないがし)ろにされた結果なのである。

 その上、株主資本主義では、増収増益を運命付けられている。しかし、増収増益は、継続企業としての役割という点からするとズレている。また、本来の企業と社会的責任と言った観点にたった評価からしてもズレている。企業が継続し、発展し、また、適正な配当をするという責任から考えると、必ずしも、増収増益しなければならないと言う必然性はない。一定の利益を上げさえすればいいのである。また、長期的な展望に立てば、一時的に収益が悪化することは容認できるはずである。何が何でも増収増益しなければならないと言うのは、投資と言うより、投機的な立場に立った株主の要請である。つまり、短期的にキャピタルゲインを上げようと画策する者の要求である。しかし、短期的な利益を要求する株主が大勢を占めれば、彼等の要求を看過することはできなくなる。

 貨幣経済下において景気の方向性を決めるのは、金の動きである。だから、人々、特に経営者は、金の動向に振り回される。金の流れていく方向を見極めて行動せざるをえない。全体が流れる方向に逆らい抗って行動することは許されない。それは、破滅を意味するからである。地価が上がれば、地価の動きを追い、株価が上がれば株の動向を見極め、金利が上がれば、金利の方向性を確かめなければならない。それが経営者の必然的判断である。それを責めるのは酷である。とやかく言ってもはじまらないのである。
 産業に関しても同様なことが言える。人々の目は、成長過程にあり、市場の拡大や技術革新によって金を集め、金を生み、金を動かす力のある産業に目が向けられがちであるが、実際に人々の生活に密着し、雇用も含めて、重大な影響力を持っているのは、衣食住に関わる古典的産業なのである。

 人々の生活あって経済は成り立っているのに、経済があって人々の生活が成り立っているような転倒した考え方が支配的なってしまった。
 この様に産業は地理的な要件によって経営を左右される。

 国営企業は、株主利益を常に優先する経営的効率性から来る要請だけでなく。雇用や環境保護、資源保護と言った公共の利益から来る要請にも応える必要がある。また、それ故に、国営企業である必然性があるのである。

 経済政策の根本は、都市計画のようなものである。つまりは、どの様な国をつくるかの計画や構想、青写真である。国営化、民営化の議論で取り残されているのは、その部分なのである。どんな国を造ろうとしているのか、それによって、経済政策は、選ばれるべきなのである。ところが、ただ、生産性や効率性という観点から民営化か、国営化が、検討されている。民営が良いか、国営が良いかは、事業の内容や性格に依るのであり、短絡的に結論が出される問題ではない。また、国営企業が非効率なのは、国営だからと言う理由によるわけではない。むしろ、仕組みや根本的な思想の問題である。小手先だけの議論で済ませられる問題ではない。それは、経営とは何かという問題にも帰結する問題なのである。

 経済とは何か。それは都市を設計するようなものである。国民の幸せとは何か。国民の生活とは何か。そして、そこにいかに資源を投入し、分配するかの問題である。そして、その根源にある国家構想こそが、国営であるべきか、民営であるべきかを決定付ける。
 国営であろうと、民営であろうと、収益をあげなければならないのは同じなのである。収益とは、投資した資金によって費用が吸収できるかの問題なのである。事業として国営の方がいいという事業は、建設するのに、巨額な資金や長期の期間を必要としたり、国家目的に基ずく事業であったり、また、受益者が特定できないような事業だと言う事なのである。事業の根本に違いはない。その点を理解しないかぎり、国営企業は成り立たなくなるであろう。

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