現代、日本の経済体制は、第一に、自由経済体制である。第二に、市場経済体制である。第三に、貨幣経済体制である。第四に、資本主義体制である。これが大前提である。

 現代日本の国家経済を構成する三つの要素は、家計、産業、財政である。家計の機能は、労働力の供給と消費、納税である。産業の機能は、財の生産と所得配分、納税である。財政の機能は、税の徴収と公共サービス、所得の再分配、社会資本の整備、景気の調整である。もう一つ、財政の機能で忘れてはならないのは、貨幣の供給と制御である。そこに、公共投資と税の必要性がある。

 先ず基本的に、経済の根本は、労働と分配である。市場経済、貨幣経済では、この労働と分配を仲立ちする場が市場であり、媒体が貨幣なのである。
 自由経済、市場経済では、産業の機能は、市場を媒介して家計と財政との相互関係によって成立している。故に、産業の働きを明らかにする前に、家計と財政の働きを明らかにしたい。
産業に対する家計の働きは、労働力の提供と消費である。それに対し産業の家計に対する働きは、財の提供と所得の分配である。

 財政、即ち、国家の働きについて、我々には錯覚がある。国家財政は、単なる費用ではない。むしろ資金である。資金であるからこそ、貨幣の流通と管理という機能が果たせるのである。

 財政には、所得の再分配と再投資という機能がある。そして、これは、生産と分配という経済の本質に関わる機能であり、生産と分配を再調整する機能なのである。

 国家というのは、一種の投資機関でもある。ところが、行政機関は、投資機関としての基本ができていない。それが財政破綻の最大の原因なのである。投資機関ほど経済性を追求すべき期間はない。それなのに、行政機関は、経済性を無視している。無視しているどころか、罪悪視すらしている。
 行政というのは、サービス機関でもあるというのに、サービスが悪い。サービスが収益に結びついていないのである。サービスなんてしたら、公共機関としての沽券にかかわると思い込んでいるのではないのかとすら思えるほどである。大体、経営という発想が乏しいか、欠落している。その典型が年金に対する社会保険庁の対応である。詐欺紛(なが)いのことをしていながら、当事者に罪悪感すらないのではないのかと考えられる。それは、経済性という視点、又は倫理観が最初から欠如しているからである。
 民間企業の経営者に厳しく経営責任を糾弾しながら、公共事業が破綻しても経営者は、高額の退職金が保障されている上、それを受け取ることに痛痒も恥を感じていない。それは根本思想に経済観念がないからである。
 一種の御上意識であり、自分達は、やってやっているのだから、文句を言われる筋合いはないと開き直っているからである。しかし、その原資は、国民の税金である。しかも彼等の労働の対価ではない。
 行政サービスに顧客がいない。つまり、誰のためのサービスであるかが曖昧なのである。故に、顧客満足度など知る必要がないし、知る事ができない。なぜならば、顧客が存在しないから、調べようがないのである。故に、公共の施設は、工事がすさんで、居住性やデザイン、機能などまったく無視され、ただ、予算に見合っていればいいと言う造りになる。誰も工事を監督・監視する者がいないのである。いたとしてもせいぜい予算通りにされているか、否かである。当然、利権や不正の温床になる。健全な市場が育たないのである。

 国家の財政の基本は、税金だと言う事である。つまり、反対給付のない資金だと言う事である。

 投資機関であれば、行政機関は、大規模にする必要はないのである。行政機関そのものが直接執行する業務は限られているからである。無意味に事業を拡大することは非効率を招くからである。

 お役所仕事が好例である。典型的なのは、年金にたいする社会保険庁の仕事である。不必要に組織や業務を拡大することは、それだ、ミスや間違い、事故を招きやすいのである。又、管理業務が意味もなく増大すると、管理業務本来の目的を見失いがちになるのである。業務、特に管理・業務は極力簡素なものが間違いがないのである。又、管理業務が多すぎると責任の所在が不明確になる。
 ただでさえ、管理業務は放置すると増殖する傾向がある。管理業務は管理を生むからである。故に、管理業務で大切なのは、なぜ管理をするのか、即ち、管理の目的である。管理の目的の所在は、業務の内容にある。故に、管理が業務からかけ離れると必然的に管理の目的が失われるのである。

 経済は、コストである。コスト意識がないところに経済は成り立たない。財政の最大の問題点は、そこにある。コスト意識が欠如しているという事は、収益意識も欠如しているという事であり、根本的に経済性に対する認識が違うと言う事を意味している。
 そして、コスト意識が管理の無駄を省き、抑制するのである。コスト意識がなければ、組織の増殖は防げない。それが非効率や無責任、モラル・ハザードに繋がるのである。

 投資事業であるから、資金の循環を促すことができる。資金の供給と管理を効果的に行うためには、公共投資の結果、効果が明らかにされなければならない。不要、無駄な投資が行われれば、それだけ、資金が無駄になるからである。無駄になった資金は、滞留するか、死蔵されるかになるからである。
 その上、無意味な投資は、労働と分配の関係を乱すからである。さらに、その結果、環境破壊やモラル・ハザード(倫理観の崩壊)を招くからである。

 行政機関の投資は、社会資本に対する投資が主となる。実際に事業をするのは、民間企業である。社会資本に対する投資は、資金が、回収できない、又、資金の回収に長期間を要する事業である。故に、反対給付を必要としない税金が使われるのである。だからこそ、費用対効果が重視されるのである。つまり、投資目的とそれに対する効果が公共投資では重要になるのである。

 また、社会資本に対する投資の多くは、土木、建設業に関連している。故に、土木・建設業は、利権が絡むのである。

 会社は誰のものか、それは単純に所有権の問題だけに帰すべき問題ではない。企業が果たす社会的機能や責任から考えなければならない。いろいろな分野の人達が、会社から恩恵を受けているのである。中でも従業員は、企業から得る所得によってによって生計を立てている。その所得は、企業が得る収益からの分配である。だからこそ、企業は、収益を得ることが第一目標になるのである。利益こそ、企業価値の源泉である。

 企業は継続が運命付けられた。故に、一つに仕事が終了したら利益を分配して解散すればいいと言うわけにはいかないのである。しかも、投資の中には、高価な機材や多額の労務費が含まれている。これらの機材を一回、一回生産するわけには行かず。また、多くの労働者の生活も長い期間、保証しなければならない。それが、企業の社会的責任である。つまり、一定の固定的費用が恒常的に必要とされるのである。

 公共事業を考える時、自分以外の人間が儲けることは、自分は損することだといった発想を捨てさせる必要がある。その上で、収益を重視しなければならない。公共事業において最大の問題は、収益性を度外視していることである。

 この様な財政にかかわる問題は、産業の本質にかかわる問題なのである。つまり、産業と家計、そして、財政との間には連続性があり、その延長線上にある過程において家計も産業も成り立っているのである。

 経済の本質は、労働と分配である。その意味で、産業は、経済の中心的担い手である。この点を理解せずに産業の機能を理解することはできない。資本主義社会では、産業を構成する企業は、投資家、株主のものであるという認識が一般である。しかし、経済構造から見るとこの考え方には限界、誤謬がある。
 つまり、産業の根本的な役割は、その労働と分配にあるからである。そして、この労働と分配の対極、裏腹の関係が家計との関係である。即ち、家計の機能としての労働力の提供と財の消費である。そして、財政機能は、労働と分配の不均衡の是正なのである。また、家計と産業とを仲立ちしている貨幣の供給と管理なのである。

 問題なのは、産業と家計、財政とが非対称であるという事である。即ち、産業が発生主義、実現主義という会計制度的な世界であるのに対し、家計と財政は、現金主義的世界であるという点である。特に、財政が産業と異質であるという事が、経済体制の連続性を損なっている。

 そして、ここに産業の機能があるのである。そして、産業の働きの本質が隠されている。


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