産業の規模は、市場の規模によって規定される。問題は、市場の規模が特定できないことにある。その為に、設備投資の予測がつかないのである。設備投資は、ギャンブルのようなものである。投資した資金が回収可能か、否かは、市場規模に依存している。最初から市場規模が確定しているならば設備投資の額をはじき出すのは難しくない。しかし、市場の規模がどれくらいあるのかを予測することは困難である。また、例え予測できたとしても、それが、どれくらいの成長力があるのかまで予測することは、現在の技術では不可能に近い。それ故に、初期投資はどれ位すべきかを判断するのは、賭なのである。
 設備投資は、市場の規模と回収期間との積によって決まる。つまり、設備投資においては、市場の規模を正確に予測することが鍵を握ることとなる。

 市場の規模は、生産力と消費量によって確定する。生産力は、供給力として、消費量は、需要量として市場に現れる。

 水準は、生産力と消費の問題である。全員が金持ちになるのか、貧乏になるかの問題である。水準とは、生活水準である。我々は、現在ある生活水準を基本にして物事を考える傾向がある。しかし、ほんの50年ほど前には、今のような生活水準は、想像すらできなかったのである。テレビも、冷蔵庫も、クーラーもない。道路だって舗装すらされていない。高層ビルもない生活、それが、平均的な生活だったのである。この様に生活水準の差は、時間的、空間的な差として存在する。
 需給は、市場の均衡の問題である。市場は、需要と供給を調整し、均衡させることで、生産と消費を制御する。需要と供給によって、生産と消費を調整するための媒体が貨幣である。本来、貨幣価値というのは、交換を媒体するための基準であり、交換価値を象徴する情報である。ところが、貨幣価値が、需要と供給という実体的市場価値が分離し、独自の価値を形成することがある。それが投機的価値である。投機的価値は、市場の機能を低下させ。状況によっては、破綻させる。それがバブル現象である。
 その国の生活水準は、生産力と消費量によって決まる。それに対し、貧富の格差は、分配から生じる。格差は、それぞれの経済単位の働きによって裁定される。しかし、格差が機能するのは、格差が是正する範囲内である。格差が固定的なレベル、絶対的なレベルになると格差は、無意味となり、その働きが機能しなくなる。即ち、極端な格差は、分配機能を破綻させる。

 市場の規模によって産業の規模は特定される。
 産業が成立する初期段階では、市場規模は未知数である場合が多い。それ故に、パイオニア的企業や国の多くは、資源を逐次投入にしがちである。産業革命を起こした英国において、多くの産業が家内制工業の段階にとどまり、成長が停滞したのは、資金が集中的の投資されずに、長い期間をかけて逐次投入されたからである。大量生産、大量消費を前提とした社会では、設備投資は、ある時点で集中的に投下された方が効果が上がる。

 設備投資は、経済の長期波動の要因だと言われている。それは、特定の時期に集中的に資金が投入されるのと、集中的に投下された資金を回収するのに一定の期間を必要とするからである。故に、設備投資の周期は、景気の変動に一定の波動を生み出すことが考えられる。景気を予測する上で設備投資による周期は無視しできない。
 設備投資に、周期性があるという事は、設備投資では、回転率が重要な意味を持ってくる。

 景気変動には、波動があるといわれている。波動には、長期波動と中期波動、短期波動と何種類かの波動が認められている。一番長い波動は、コンドラチェフの波動と言われ大体50年周期で起こると言われている。その波動の要因は、技術革新ではないかと思われている。二番目に長い波動は、クズネッツの波動と言われ建設循環が原因ではないかと見られている。周期は、大凡20年だと見られている。三番目に長いのが、ジュグラーの波と言われ設備投資循環が原因とされている。ジュグラーの波は、大体、10年収期だと言われている。そして、最後に在庫循環の波と言われるキッチンの波である。キッチンの波は、2〜3年だと見なされている。

 景気の波動の中で設備投資(建設投資も含む)に関連した波、又は、建設投資を含んだ広い意味の設備投資が原因と思われる波動は、クズネッツの波とジュグラーの波である。この様に、何等かの投資活動によって景気は、左右されてきたと考えられてきた。

 注意しておきたいのは、景気には波動があると思われるという事とそれが、設備投資や在庫投資と関係がありそうだと言われているだけで、直接、関係が確認されたわけではないという事である。あくまでも仮説である。ただ、何等かの形で、長期的、また、中期的、短期的波動がありそうである。

 基本的に経済活動というのは、循環活動である。つまり、回転運動を基礎としている。回転運動は波動を生む。また、回転運動は、波動そのものである。回転というのは、例えば、資金の回転であり、資産の回転であり、設備の回転であり、在庫の回転である。それが表現されるのが回転率と回転日数である。回転率と回転日数は、逆数の関係にある。

 設備投資は、固定資産を形成する重要な要素である。そして、粗付加価値の中で、人件費と利潤を除いた部分、地代、家賃、利息の一部、そして、減価償却によって構成される部分でもある。
 又、キャッシュフロー上において定期的に、かつ、一時的な支出として現れる部分でもある。故に、景気の波動を作り出す源泉でもある。むろん、設備投資も一律ではない。しかし、中核となる産業の波動が周辺の産業の波動に影響、波及するのは明らかである。その意味で、公共事業や軍事産業のような産業における投資活動は、景気に重大な影響を及ぼすのは、明白である。

 長期波動を生み出すのは、償却資産である。ただ、景気に影響を与えるのは、直接的収支であり、資金の動きである。

 償却というのは、一つの思想である。この思想は、会計的に制度化されたことによって確立された。償却という概念が確立されることによって近代的市場経済、資本主義が確立されたのである。
 しかし、償却という思想は、会計制度が確立される以前からあった。諸行無常ではないが、木の文化である日本は、何年に一度かは、家の立て替えをしなければならない。伊勢神社の20年に一度の建て替え、遷宮は、ある種の償却と同じ思想であるとも言える。
 そして、この20年に一度の遷宮が経済の長期波動の原因と見なすのである。
 伊勢神社の遷宮は、平成25年で62回目の遷宮を予定しており、1300年を超え一つの文化まで昇華されている。遷宮は、建物の清浄さを保ち、技術の伝承の目的も果たしている。むろん、日本家屋でも何百年の風雪に耐えられる物もある。しかし、石の文化である欧米に比べれば、建物は、償却資産だという考えは受け容れやすい。
 それに対して、石の文化である西欧では、必ずしも、建造物は、償却資産とはしていない。
 よくよく考えてみると建物、建造物は、財産か、償却資産かが問題なのである。そして、その在り方一つで、経済に対する考え方も違ってくる。日本では、建物、建造物は、償却資産であり、ある一定期間きたら建て替えることを前提としている。
 償却というのは、一定の期間で、建物や設備を買い換える、更新することを前提としている。それは、消費を前提とした経済である。これは、市場経済が、大量消費、大量生産型経済であることを示している。その代わり、資源を効率的に活用しようと言う思想とはかけ離れている。
 償却によって、市場経済は活発にするが、資産の蓄積は、期待できない。つまり、建物は、一定の期間を過ぎると価値が喪失してしまうのである。しかも、それは会計制度上の決まりに基づくのであり、実態に則して決められたわけではない。
 特に、確定決算主義をとる我が国では、税制上において決められた償却期間が絶対的基準に置き換わりやすい。しかし、税制の規定は、納税額を計算するための目安、都合であって経済実態からはかけ離れている。しかし、その税務会計上の規定によって経済が重大な影響を蒙ることがあるのである。そのことに対して、徴税者は、無関心でありすぎる。
 償却資産であるか否か、また、償却計算をどの様にするのか、償却期間をどれくらいに設定するのかによって損益に重大な影響が発生する。それは、個々の企業や産業の在り方によって設定されるべきものなのだが、我が国では、確定決算主義によって徴税者側の都合が優先され、実体にそぐわないケースが多くある。また、その変更も当事者が関わることができない体制である。故に、欧米においては、会計基準の見直しは、民間で行うというのが原則として確立されている。

 近代資本主義や会計制度の確立に貢献したのは、運河や鉄道と言った大規模事業である。多額の資金を必要としたこれらの事業が資本の概念を確立し、同時に、減価償却の概念が確立されて期間利益計算が可能となった。

 発生主義による期間損益が確立されるまで、現金主義が主流だった。では、何が発生主義会計と現金主義会計とは違うのかである。発生主義によれば減価償却費は、期間損益上の費用である。現金主義で言えば、減価償却費は、費用として認識されない。故に、俗に言え現金主義で言うところの儲けには、減価償却費は含まれない。売上から仕入れと経費をさっ引いた物が儲けの大部分である。しかし、その場合、元手が、即、設備投資の資金になる。そして、設備の更新費用は、埋没してしまう。だから、自前の土地で自分の金で建てた店舗で商売する者は、設備や建物を更新する必要がない間は儲かるが、更新時期にかかると必要な元手がない上に、借金をしただけでは、利益の確保ができなくなるのである。その為に、大規模な設備投資を必要とする事業には、現金主義は、適さない。この辺に減価償却の意義が隠されている。減価償却の概念が確立されることによって大規模な設備投資を投資家に説明することが可能となったのである。それが近代会計制度の根幹を形成した。
 発生主義では、減価償却費を計算に入れると金利だけが、経費と見なされ、元金の返済部分は、減価償却費と見なされる。つまり、経費と見なされる金利と元本にかかる費用が明確に区分されるのである。会計上の期間損益は、この減価償却という概念によって成立している。そして、利益が経営実態を表す指標と見なされることになったのである。
 減価償却制度が確立されたことによって資金調達がしやすくなった。その為に、初期投資に巨額の資金を必要とする大規模事業が成立するようになった。
 それは、期間損益が確立することによっさて事業を総体で評価する尺度は明確になった事に起因する。そして、現在の金融や資本市場は、期間損益をもって企業実績とする。しかし、期間損益と期間収益は、基本的には関連性が乏しい。
 期間の企業実績を測る尺度は確立されたが、反面、収支と資金調達、資金繰りを関連付けるのが難しくなった。それを補う為に、近年、キャッシュフローが重視されるようになったのである。

 減価償却の概念が確立され、期間利益計算が可能となった半面、良い意味でも悪い意味でも資金収支と期間損益とが乖離してしまった。良い意味というのは、利益に対する概念が柔軟になったということであり、悪い意味というのは、利益が恣意的、主観的なものになったという意味でである。
 また、償却期間を一律に捉えることが困難だと言えることである。つまり、償却期間はその財や設備によって違ってくるという事である。そして、設備の寿命も物理的な原因だけでは捉えきれないという事である。 

 ではどの様な時に、また、場合に設備投資は現実になるかである。それが問題なのである。そして、それがなかなかに明らかにならない。
 先ず、第一に、言えるのは、設備の老朽化や寿命による買い換え需要である。設備更新もこれに準じる。第二に、税法に基づく償却期間である。税法の基づく償却期間には、現実的かと言われるといろいろと異論がある。しかし、税金を納める方からしてみると一度法的に決められてしまうと法に従った方が有利であると言えなくもない。その為に、無理に法定償却期間に合わせなければならない物もでてくる。第三に、技術革新による陳腐化もある。情報産業による技術革新は、ドックイヤーと言われ、めまぐるしく変化している。その為に、機械設備を法定による償却期間を大幅に早めないと対応しきれない。第四に、何等かの事故や災害によって清算せざるを得ない状況である。第五に、何等かの形で清算せざるをえない例である。設備を作った会社が倒産したかなんかで修繕したくても部品が手に入らないといった場合である。

 また、設備投資は、単に新規需要や更新需要を指すだけではない。増設需要や増築需要と言った事業の拡大に伴う投資や、修理、修繕、改善と言った設備の寿命を延ばすための投資もある。また、営繕や保守、管理、メンテナンスのための費用もある。これらは、ある程度、定期的な発生する費用と突発的に発生する費用とがある。これらの出費が重なり合うようにして複雑な波動を起こしていると考えられる。

 固定資産の比率が、損益構造を形成する。即ち、初期投資が巨額にのぼり、償却に時間がかかる産業は、固定費の比率が高くなり、限界利益が小さい損益構造になる。また、一定の数量を捌かないと利益が確保できないために、乱売合戦に陥りやすい。また、巨額な資金を必要とするために、地域独占になりやすい。
 逆に設備投資をあまり必要としない産業は、新規参入基準が低く過当競争に陥りやすい体質を持っている。また、固定費としては人件費の割合が高くなり、海外の労働市場の影響を受けやすい。

 減価償却や固定費に与える影響から設備投資は、利益計算に与える影響が大きい。会計処理の仕方いかんにおいては、莫大な利益を計上することも赤字に転落することもあり得る。故に、固定資産会計は、会計担当者の腕の見せ所でもある。反面において、利益操作に使われやすい課目でもある。

 また、建設投資というのは、非常に、長い周期で起こると見られている。その為に、建設投資に依存する業界は、この波の影響を受けやすい業界といえる。建設投資の変動によって好不況がはっきり出やすい業界だと言えるのである。個々の企業や業界の持つノウハウや技術、知識を絶やさないためには、ある程度定期的な投資を促す必要がある。それが公共投資である。建設投資に依存する産業、即ち、建設業界は、必然的に公共投資に依存せざるをえない性格を持っている。

 建設業は、多額の資金を必要としている上、多くの雇用も生み出す産業である。しかし。建設業の仕事は、基本的にプロジェクト、即ち、恒常的にある仕事ではなく。一回限りの仕事である。その為に、一度、投資すると一定期間たたないと新たな仕事の必要性がない。道路や港湾のような仕事は、一定の期間で老朽化するようにしてあると言われる。なぜならば、恒久的な設備を作るとその後、仕事が廻ってこなくなるからである。

 公共投資は、単に景気対策という側面から考えるだけでは意味がないのである。公共投資が生み出す、経済的効果を超長期的に捉える必要があるのである。公共投資は、失業対策や景気対策のために、ただやればいいというのでは、意味がないのである。

 好例がODA関連の事業である。一見、ODAは、相手国の経済や社会に対して行っている事業のように見える。しかし、実体は必ずしもそうとは言い切れない。

 それは、ODAで誰が潤(うるお)うのかを考えればわかる。現地で雇用が派生するなり、仕事が請け負われなければ、地元に経済的な効果は生まれない。潤うのは、ODAによる事業を受注した企業、業界である。つまり、なんて事はない、日本の企業が請け負えば実質的に恩恵を受けるのは、日本の企業である。車も人も来ない山奥に道路を通す事業と経済的には何らかわりがないのである。むろん、相手国の利益や雇用に何も貢献していないと言うのは言いすぎである。ただ、仮に、それが乱開発や環境破壊、公害に繋がる事業だとしたら、それは、相手国に何ら利益がないのである。ODAを考える時充分に考慮すべき事である。

 ODAだけでなく、公共の資金による建設投資は、その地域社会に与える影響を充分に鑑みながら、超長期にわたる国家構想を前提としているのである。つまり、どの様な国を造るのかが明らかにされていてはじめて有効なのである。国家は、一朝一夕に建設できる物ではない。我々は。古代から営々として祖先が積み上げてきた遺産の上に生活をしているのである。我々の世代で、祖先が残してくれた資産や資源を食い潰すことは重罪である。自分達の後に来る子孫にどの様な国土、国を残そうとしているのか、それは、何百年もの未来に向けた展望、構想があってはじめて可能なのである。真の計画経済の計画とは、生産計画や短期予算の様なものを指すのではなく。制度や社会資本と言った社会基盤に対する設計図のことを指すのである。それが国家百年の計である。


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