税金というと金である。つまり、税は、イコール、金だという認識が、今の日本人一般の認識である。しかし、本来、税は、税である。税金とは違う。明治維新前は、物納が一般であり、金納の方が珍しかった。また、徭益(ようえき)、即ち、使役や労役で支払う場合もあったのである。その典型が、兵役である。
それに、税の持つ意味は、専制主義国家と国民国家とでは本質が違う。専制主義国家は、権力者が強制的に徴収であるのに対して、国民国家においては、合意に基づいて必要に応じて拠出する物なのである。
スイスは、国民の権利意識が強い上、各々のよって立つ言語的、民族的、宗教的な基盤が多様である。しかし、兵役に対しては、誠実に、これを履行する。それは、スイス国民が、何によって国家が、成り立っているかを、よく理解しているからである。
なぜ、税が必要なのか。税制度というのは、合目的的な制度である。そして、税制度の目的を成り立たせているのは、税の働き、機能である。国民国家においては、この税制度の目的、翻っては、税の働きに対して国民的合意が得られなければ、税制度は成り立たないのである。
なぜ、税金が必要なのかをさらに踏み込んで考察すると、第一に、貨幣を流通させるという事である。第二に、貨幣を循環させるという事である。第三の、貨幣の流量を制御すると言う事である。第四に、所得の再分配をするという事である。
税が、財や使役と言った実体のある物で支払われた場合は、実際に消費することを目的とする、即ち、実用的な理由がある。つまり、税として徴収した物は、徴収と消費という流れで終わり、循環的な流れではない。実物的な流れである。ここに近代税制と近代税制が確立される以前の税制との基本的な違いがある。つまり、近代税制が確立される以前は、実際に使用する物を自分達が使用するために徴収していたのである。
それに対し、貨幣制度に基づいて徴収される税金というのは、貨幣の流れである。考えてみれば、貨幣の発行権を国家が掌握すれば、貨幣経済や市場経済が発達して今日、必要なだけ貨幣を発行すればいい。そうなると税金を徴収する必要がなくなる。しかし、そうなると財政の流れは、通貨の循環が止まり、通貨の量の制御ができなくなる。一方的に貨幣の流通量は増加する。貨幣を一方的に供給し続ければ、貨幣の流通量が飽和状態になるにつれて貨幣価値は下落していく。即ち、インフレを抑止できなくなる。この様な一方的な貨幣の供給を防ぐためには、一定の貨幣の量を回収し、通貨を循環させる必要がある。
つまり、税金に期待する働きは、通貨の循環と量の制御する働きだと言える。ならば、財政が通貨を制御できなくなるのが問題だともいえる。この点をよく理解しておかないと、財政赤字に対する対策を誤ることになる。その上で、税にはどの様な働きがあるかを明らかにする必要がある。
税の働きを考える時、大切なのは、何に対し、また、誰に対し、どの様な根拠に基づいて作用しているかを明らかにすることである。
何に対して働くかの考える時、フローに対して課せられる税なのか、ストックに課せられる税なのかによっても税制の在り方、考え方が違う。
法人税を例にとると、法人税は、収益と費用というフローに対して課せられる税なのか、それとも、純資産というストックに対して課せられる税なのかである。これは、会計制度と税制の根本的な違いである。税は、未実現利益、即ち、実現していない利益にまで課せられるのか。その根拠は何かが、現行の税制度では、曖昧なのである。税制度は、基本的に収支を重視している。現実の資金の流れである。それに対し、会計制度は、投資家や債権者に対し、損益を開示することを目的としている。そこに会計制度と、税会計の本質的な違いがある。本質が違うのに、確定決算主義によって、中途半端に連携させてしまったため、制度に不自然な歪みが生じているのである。
何にたいしてというと、例えば、所得税というのは、収益と費用という差に対して課せられる税である。だから、格差の是正に効果がある。つまり、所得税は、所得の再分配効果が期待できるのである。ちなみに、法人税は、基本的に所得税の一種とみなされるべきものである。
消費税のように、消費や使用に課せられる税がある。これは、消費や使用という経済現象、通貨の流通局面(フロー)を捕捉することによってストック影響を及ぼさないで、経済実態を財政に反映する効果がある。
また、その他に、関税や通行税のように、流通に対して課せられる税がある。これは、流通に障壁を設け、産業保護に効果がある。反面、自由な交易を阻害し、産業の発展を阻害する危険性も伴う。楽市楽座は、この様な流通税をなくすことにより、自由な交易を保障する意味がある。
人頭税や物品税の様に、人や物、そのものに課せられる税がある。これは、会費的な効果がある。特定の地域や財にたいして均等の負担を強いる効果があるからである。
ただ、均等であることによって、格差を無視する結果になりやすい。イギリスのサッチャー政権が人頭税によって窮地に追い込まれたのが好例である。
固定資産税のように、所有に掛けられる税がある。同様に、贈与や相続と言った、所有権の移転にかけられる税がある。いずれも、不労所得を抑制する効果がある。
取引税の様に、経済的取引に対し課せられる税がある。特定の取引を財源にする場合にとられる。取引ではなく、特定の物品を対象とした場合は、物品税となる。つまり、課税対象では、物か、行為かが重要に要素になる。取引税には、従量税と、従価税がある。
権利、及び、それに伴う利益に対して課せられる税がある。受益者負担という考え方が根底にある。広義の意味で、所有を一つの権利とみなすと、固定資産税や贈与、相続税も含まれる。
環境税や、福祉税のように特定の目的をもって、それに関連した用役や財に課せられる税もある。石油関連税を道路の財源にするのも目的税の一種である。目的税は、既得権益化し、財政を硬直化させるという批判もある。
通常税制度というのは、複数の要素が重複している場合が多い。それ故に、効果も複合的なものになる。
また、税制度を設計する上で重要な要素の一つが、徴税コストである。
税は、本来合目的的な制度であるから、目的と効果を良く鑑み、幾つかの税を組み合わせて用いるものである。
誰に対してというのは、税の根拠にも関わる問題である。そして、それは、税から派生する権利と義務の問題にも関わるのである。つまり、税制度の根幹、前提となる要件なのである。また、税の使い道、財政を規定する要件でもある。突き詰めると税とは何か。財政とは何か。国民とは、国家とは何かと言う問題にまで至る。
何を根拠として、即ち、国民であることを根拠とする場合、その地域に在住することやその地域の経営主体と交易や取引をすることで、何らか利益を受けたと言う事実を根拠とする場合、また、公共財を使用したという事を根拠とする場合などが考えられる。各々、税の在り方の根幹を左右する前提条件なのである。
これは、通過地や経由地をどう考えるかが重要になる。通過と言う事は、パイプラインやケーブル、道路、鉄道、空港、港湾などもある。また、インターネットが発達すると無線の場合もあり得る。また、宇宙や航海、南極のような特定の国の管理下にない地域をどう扱うのかも重要となる。
また、誰に対してというのは、第一に、物か行為かと言う事がある。第二に、人か、何等かの機関、組織かと言う事がある。機関の場合は、法人化する必要があるか、否かである。そして、人か、物かでも範囲が重要になる。範囲を定義する場合、何等かの物理的な基準に基づくのか、また、要件定義に基づくのか、手続的な基準に基づくかのかが重要となる。
属地主義とは、物理的空間を範囲とする税である。属人主義とは、人的空間を範囲とする税である。それは国家の定義にも関わる問題である。
税は、当初は国家権力者、個人の所得を意味していた。つまり、国家権力の維持を目的とした経費という意味が濃厚であった。それが税に対する根強い偏見の基となっている。税というのは、御上のために、御上の力で、庶民が召し上げられる物、強制的に徴収される物という意識、認識である。
そこには、公の取り分という発想は生まれない。つまり、公がない。公の概念がないのである。公という概念、近代、つまり、国民国家が成立した以後の概念である。それまでの概念は、あくまでも、私的な概念に過ぎない。公とは、近代的国家概念が成立しないと成り立たないのである。
愛国心というのは、日本では、明治以降の概念である。それまでの概念は、忠臣であり、あくまでもその対象は、家か個人に向けられた忠誠心である。
この様な段階における税の目的は、何等かの家族か個人の家計の延長線上でしかない。即ち、官房学でしかない。財政学も本を正せば、官房学である。しかし、それでは、国民国家である近代国家本来の税の目的を達成することはできない。
国民国家における税制度は、公の目的から発生する合目的的なものでなければならない。つまり、税制度というのは、国家目的から必然的に導き出されるものである。ならば、国民国家における国家目的とは何かである。それは、国民の生命と財産を保全することである。そして、併せて、国民生活の福利を追求することである。この国家目的から、国民国家においては、国民の権利と義務が生じるのである。また、これらの事から、国民国家における税の働きも求められる。
税の徴収する目的には、第一に、社会的費用がある。社会的費用は、第一に、戸籍の管理である。第二に、教育である。第三に、国防である。第四に、国家の統制と治安の維持である。その為の法の制定と改廃、執行である。第五に、社会資本の整備と維持、管理である。第六に、景気の安定と産業保護がある。
税の働きの第二は、所得の再配分である。所得の再配分の働きは、税制度自体に組み込まれた制度的なものと税制度から独立した政策的なのものとがある。
税の働きの第三に、経済の安定化がある。税の働き、財政の働きに連動している。増税や減税は、金融政策と同様に景気、経済を安定化するための重要な施策の一つである。
財政と税収を連動させる必要があるのか。財政を税収の枠組みの中に押し込めなければならない必要性は何か。財政の本質は費用である。財政を税制に連動させる必要性は、財政の収益性にある。
税というのは、出資金のような働きをさせることもできる。公共事業でもパフォーマンスさえ合えば、資金を回収することが可能なのである。その為には、公共投資にも市場の原理を導入すべきなのである。
また、土木建設という特定の事業に公共事業が偏っているのが問題なのである。公共事業に必要なのは、国家百年の計である。根底は、国家構想である。国家は何世代もかけて構築するものなのである。
財の再分配機能が主たる働きである。財の再配分は、税制の本質的な機能の一つである。それは、税制自体が持つ機能の一つでもある。
所得税とは、差額に掛けられる税なのである。それは、市場経済が差によって成り立っていることに由来する。差に対して働きかけることが可能だから、所得税は、再分配に活用できるのである。
所得税の問題は、所得の再配分の問題である。つまり、所得税は、所得の垂直的均衡、公平性を維持するための制度でもあるのである。
また、固定資産税は、ストックにおける格差に効果がある。この様に所有に課せられる税は、ストックにおける格差の是正に効果がある反面、未実現利益を対象としているという側面を持ち、所得の少ない者は、過重な負担を課す危険性がある。バブルを引き起こした原因の一つが不動産や資産に対する課税である。この点を充分に考慮する必要がある。
税の問題は、財の分配の問題である。財の総数は、有限である。これが大前提である。結局、所得は、その取り分の問題なのである。個人の立ち場でいえば、所得は現金又は、現金同等物で支払われるために所得は、貨幣価値を積み上げているように見える。しかし、貨幣は、市場で財と交換する権利を表象した物にすぎず。交換価値は、市場における需要と供給によって決まり、財の総量が決まっているのであるから、結局、所得は、市場における取り分を決めているのにすぎないのである。これは、税として支払われる所得も同じである。つまり、税というのは、公の取り分を意味している。この様に、税金の問題の本質は、分配の問題に還元できるのである。
それを端的に示しているのが、法人税で、法人税とは、収益の中に占める公の取り分なのである。
一国の経済活動は、生産、支出、分配の三面から捉えることができ、これらが一致するというのが三面等価の原理である。そして、この三面は課税の場をも意味している。
所得は、収入であり、消費は、支出である。所得税は、直接税であり、消費は間接税である。所得は、成果に対して課せられ、消費は取引に対して課せられる。つまり、所得税は、所得の量に対して課せられる税であり、消費は、消費の量に対して課せられる税である。個人所得は、組織的に分配され、個人消費は、市場において為される。つまり、所得税は、組織的に課税される税であり、消費税は、市場的に課せられる税である。それが、所得税を直接税とし、消費税を間接税としている。
所得税は、組織的であるために、所得の質によって課税率を人的に設定するのに対して、消費税は、市場的であるが故に、消費の質を物的に設定する。消費税は、消費した分にのみ課税され、所得税は、消費とは無関係に課税される。その為に、消費税は、貯蓄に廻した部分には課税されない。
直接税は、納税者に直接課せられるために、負担感が強いが、間接税は、間接的に課税されるために、負担感が少ない。
日本のガソリン税のガソリンに占める率は、高率であるが、石油価格が暴騰し、ガソリン価格が高騰した際も、ガソリン税の税率を下げるような要求は、派生しなかった。国民にとってガソリン税は、ガソリン価格と一体となっていて負担感が少ないのである。
一時的に期限切れによって石油税が解除され、政治問題化したが、一ヶ月で元に戻され、一般財源化に焦点は移った。目的税は、既得権益化しやすい好例である。ただ、税というのは、無闇に徴収するものではなく。既得権化した財源は、財政の硬直化を招くと同時に、健全な経済体制や国家建設を阻む結果に陥りやすい。軍事費や権力者の濫費が、国家を破綻させた例が歴史上、枚挙がないのを見ても解るように、偏った財政の運用は、国家の破滅を招くものである。税とは、両刃の刃なのである。
税制、会計、商法が行動を制約する。社会制度は、人間の行動を規制する。その社会制度が相互に矛盾、整合性がなければ、その社会で生きている人間の行動も整合性がなくなり、混乱する。税法の会計に対する逆基準性の問題である。例えば、上場会社の人間は、利益を優先し、未上場会社の人間は、収入と資金調達を優先する。その為に、上場会社の人間は増収増益を求める。それに対して、未上場会社の経営者は、赤字は避けるが、利益を限りなくゼロに近づけようとする。制度的矛盾が、節税行為に走らせる。
2003年決算における赤字会社は、鹿野嘉昭氏の資産では3割強となっている。(「日本の中小企業」鹿野嘉昭著 東洋経済新報社)それに対して、税金を払っていない企業が、6〜7割が欠損企業となっている。この様な歪みは、金融機関の融資姿勢と税政との歪みから生じている。金融機関の融資姿勢の背後には金融庁の政策がある。税政と会計の歪みは、粉飾にちかい行為まで誘発する。制度上に齟齬ある以上、必然的帰結である。(「道具としてのアカウンティング」花野康成著 日本実業出版社)
意図しているかいないかは、別にして、日本の行政は、大企業優遇と市場の寡占化。同族会社、非公開会社、個人事業の淘汰。労働者の給与取得者化。金融資本主義。工業化。反財閥だと言える。その是非は別にして、これらは思想であるのに、あたかも神の摂理のごとく暗黙に作用しているという事である。最近は、これに、市場至上主義が加わろうとしている。一番問題なのは、これらに対する施策が、展望も計画もないまま行政が行われていることである。
税の働きには、意図したものとそうでないものとがある。税制度を合目的的な制度であるから、制度を制定する際には、意図した目的、即ち、機能が付与されなければならない。ところが、税制度は、制度自体が意図した機能以外の働きを複合的に持つために、制定する際には、意図していなかった作用が派生する。それが意図せざる機能である。なぜ、その様な機能が派生するのかといえば、税制度には、制度とする対象によって税制度固有の働きがあるからである。それを知るためには、税制度が対象とする物によって派生する働きを知る必要がある。
相続税や資産税は、資産価値に比例している。また、所得税は、所得に比例し、消費税は、消費に比例している。つまり、景気に資産や所得、消費が与える影響が、税の働きを生み出しているのである。
資産価値の動きが、相続税や資産税に影響を与えそれが景気を左右している。資産価値は、資金の源であり、負債、即ち、金利の動向を左右する。また、資産は、総じて流動性が低い。つまり、貨幣価値を持ちながら、流動性が低いのが資産の特徴である。資産価値が異常に高騰すると流動性を高くしなければ、資金が廻らなくなり、流動性を高めるために、負債を増加させることになる。それが社会全体では、過剰流動性を生み出す原因となる。
所得や消費は、基本的に現金を媒体としてされる。つまり、現金取引という実体を基本的に持つ。基本的にと言うのは、法人税は、収益に対して課せられる所得税で、収益の中には、取引実体を持たない収益があるからである。しかし、総じて所得税も、消費税も現金取引の裏付けを持つ。それに対し、資産に掛ける税というのは、取引実体がない、資産の持つ価値に対して課せられる税である。現金取引という実体を持つという事は流動性が高いことを意味する。流動性の高い、所得や消費に対して掛ける税と流動性の低い資産に掛ける税とでは、本質が違う。つまり、資産というのは、貨幣価値はあっても貨幣はないのである。貨幣は、貨幣取引が実現してはじめて現れる物である。
バブルと相続税、資産税の関係と言うのが意外に、又は、故意にか、見落とされている。
一般的な認識では、資産家というのは、通常金持ちを指す。しかし、異常に土地が値上がりした結果、資産家の貧乏人というねじた関係が生じたのである。昔から住んでいた土地が異常に値上がりしたために、資産家にはなったが、所得は少ないという層である。つまり、彼等の大多数は、売れない土地に多額の価値がいつの間にか生じてしまったのである。しかも、貨幣価値だけは、高いがいざ売るとなると土地の形や利便性から価値が下がってしまうと言う物件もある。また、売ればその為に費用もかかるし、税金もかかる。この様な土地に多額の相続税がかかると相続税を支払うために土地を売るしか選択肢はない。また、土地が売れなければ、相続を諦めるしかなくなる。
土地を売らずに相続税を支払うためには、土地を担保にして負債をすることによって、現金を手に入れ、資産価値を低めるしかない。つまり、資産には、流動性がないのである。しかし、ただ、借金をしただけでは返済が残る。そこ再投資をする。再投資先として不動産を選べば、また、土地が上がるという具合で、資産価値が相乗的に上がる。これがバブルを派生させた一因である。しかし、資産は、元々流動性が低いのである。実需から乖離すれば、自ずと土地の値上がりにも限界が生じる。また、土地は非貨幣性資産である。それに対し、負債は、貨幣性のものである。土地の価格、つまり貨幣価値が下落すれば、債務者主義的見地に立つと負債、即ち、貨幣価値だけが残ることになる。これが後々いろいろな悲劇を生む原因となる。
貨幣経済では、貨幣取引をするしか貨幣を手に入れることはできない。つまり、貨幣価値と貨幣とは、別物なのである。この事が一般には理解されていない。しかも貨幣価値が高いとされている固定資産(非貨幣性資産)は、総じて流動性が低いのである。
なぜ低金利政策をバブル崩壊後にとらざるを得なかったのか。それは、資産の貨幣価値が下落したのに、債務の元本の貨幣価値が変わらずに、その元本に対する金利負担が実体から乖離した状態で残ったである。実体経済が収縮したのに、債務だけは、膨張した時のままの状態におかれ、そこから派生する金利が必然的に高負担となった。しかも、資産価値の下落によって負債との額面金額にたいし担保不足が生じたから、債権者が、担保を補填するように要求した。これは、無茶苦茶な話である。
担保している資産価値は、変動的な価値であるのに対し、負債の額面金額は、一定である。資産価値が上昇している間は、担保不足は生じないが、下落した場合は、担保に不足が生じるのは必然的結果なのである。
その上、経営の基本として余力(内部留保等)の資産を持たないように仕向けられている。現在では、含み資産をもつ事は罪悪のようにすら言っている。しかし、流動性のない資産を担保して資金を調達すれば、担保した価値と負債の額面金額とが乖離するのは、必然的な結果なのである。資産価値が上昇している場合は、問題ないが、含み資産がなければ、資産価値が下降局面に転じた時、資金繰りに窮するのは、明白なのである。
追い貸しが悪いというのは、元本が減るどころか増えることである。担保している資産の価値と負債の元本の額面とが著しく乖離すると、担保している資産価値と負債との繋がりが薄れてしまう。そうなると負債だけが浮き上がってしまうからである。金利の上昇局面では、金利負担に収益が圧迫されてしまう。
この様な資産価値の下落と負債の名目的な価値との乖離によって生じた担保不足から不良債権が発生するのである。不良債権の解消は、貸し渋り、貸しはがしになるのは目に見えたことである。しかも貸し渋りや貸し剥がしが、資産を担保して金を貸した側の自己都合に基づくとしたら、それは、一種の犯罪行為である。しかも、それを国家が後押しをしたのである。これは国家的犯罪である。
バブル崩壊後、即ち、資産価値の大幅な下落現象が生じた後、金利負担を軽減するためには、低金利政策をとらざるを得ないかったという事である。しかし、いくら低金利政策をしても負債を担保する資産価値の下落と負債の元本の額面との差が埋まらないため、結局、資産と負債との間に生じた乖離は解消されないのである。つまり、担保不足は解消されない。その為に、担保価値を補填する穴埋めに利益が振り向けられて、投資に資金が廻らなくなったのである。つまりは、借金を返すために収益を上げざるを得ないのである。やっと得られた資金も、負債の返済に充てられ、結局金融機関に戻されるのである。それが不良債権の実体である。これでは、いくら流動性を高めても資金は、市場に回ってこない事になる。
不良債権の問題が終焉したのは、第三者機関に不良債権を売却することによって実質的に債務が解消して事によるのである。つまり、不良債権というのは、不良債務でもある。その点を錯覚している。不良債権というのを考える時、債権者からしか見て不良というだけでなく。債務者から見ても不良なのである。債務が解消するには、鏡である債権が、片づいたときなのである。
日本は、民法上債務者主義をとっているが、ローマ法以来、債権者主義が本来の融資の姿である。「利益の存するところに損失も帰すべき。」それがローマ法の精神なのである。担保を設定した時点で債権者の権利は保護されたとみなすのが自然である。さもないと、土地が下落すれば、ローンで買った家の担保価値が下がりその為に、担保の追加を請求され、あげくに家を取り上げられたうえ、借金だけが残るなどと言う不条理な事態は起こらずにすむ。
債権者主義においては、不良債権は、会社が倒産し、清算されないかぎり、表面化しない。つまり、債務価値の下落は、債権者が負担するために、債務者は、それを担保不足として表面化する必要がないのである。つまり、収益が上がっている限り、資産価値が下落しても経営は影響を受けないですむのである。
我々は、資産と財産を同一に認識する。しかし、一般で捉えられる財産というのは、その人の所有物全般、つまり、物的価値を指している場合が多い。単純に物的価値だけを考えたら、貨幣的価値は二義的となる。物を持つと言う事は、それに附帯する貨幣的価値は、付随的価値である。あの人は、土地持ちだと言ってもそれだけでは、どれだけの貨幣的価値を持っているかはわからない。貨幣的価値は、金利がつくことによって時間的価値が生じる。しかし、ただ者を持っているというだけでは、この金利的価値、時間的価値が認識できない。つまり、資産に時間的な価値が生じていることが理解できないのである。資産の貨幣的価値は、資産の持つキャピタルゲイン(相場的価値)に連動し、負債の時間的価値は名目的金利に連動している。実質的な金利は、資産の担保価値を負債と名目的金利で割る事で得られる。故に、名目的金利をいくら下げても実質的金利は高止まりしているのである。これでは低金利の効果は現れない。逆に低金利政策が、経済の時間的価値を低下させ、経済成長を妨げることになる。これらを解決するためには、債権者主義に立つ以外にない。つまり、債務は、資産を債権者が担保した時点で解消させるのである。
また、長い間、資産価値というのは、右肩上がりに上がっていくことを前提としてきた。その為に、資産価値の下落を前提した相続税というものを考慮してこなかった。その為に、資産価値が下落しているのに、高い時点の資産価値で相続税が課税され、資産を売却しても相続税が払えないという事態が生じた。
この様に、税の働きには、税制そのものの働きと税制が副次的に生み出す働きの二つがあり、経済や景気に与える影響は、副次的に生み出す作用の方が重要な場合が多い。
税法によって利益は歪められる傾向がある。それは、税務会計と商法会計、証券取締法が違う目的、基準に基づいているからである。しかも確定決算主義によって税法と会計が歪な形で結び付けられているからである。下手をすると税法が粉飾決算を誘発しかねない。逆基準性が生じかねないのである。(「道具としてのアカウンティング」花野康成著 日本実業出版社)
脱税は違法であるが、税をコストと考えれば、節税に努めるのは、必然である。それは、決して道徳的に責められる事ではない。しかし、それが決算を歪めてしまうとなるとそれは深刻な問題である。
現在の税制では、儲かっても借金の返済に充てられるわけではない。それは、減価償却の額が一方的に決められているからである。収入が上がってもそれを借金の返済に充てることができないで、結局、納税に振り向けなければならない仕組みになっている。
反面、金融機関は、対前年との比較から企業業績を判断する。上場会社ならば増収増益、未上場企業は、担保による。
いくら収入が増えても、借入金を減らせなければ、負債の重みから逃れられない。それならば、収入が増えた分、経費で落とせるものに振り向け、収益を平準化しようと言う動機が働く。それが90年代のバブルの遠因を作った。つまり、借金をしてでも土地の値上がりを期待して不動産投資をしたのである。
税制と会計の在り方が、企業経営者の行動を規制しているのである。
税というのは、何に働きかけるかを見極めて、その働きに準じて、その時々の政策目標を実現するように組み合わせて設計する必要がある。例えば、消費税は、フロー、即ち、市場に直接的に働きかける。市場の働きを色濃く反映する。物品税などの形をとると、消費行動に直接的に反映する。また、所得税は、所得、即ち、分配に直接的に働きかけるため、格差を是正する働きがある。取引税のような税は、取引に影響を及ぼすし、また、資産税は、ストックに作用する。つまり、資産格差の是正に効果的である。また、人頭税は、家族構成に影響を及ぼすし、間口税のような制度は、家の間取りや街の景観に重大な作用をおよぼす。だばこ税や酒税のような、懲罰的な税は、その税を回避するような働きをもたらす。
これらの作用に基づいて税制は設計されるべき制度なのである。また、税の働きは、その税の使い道との関係からも影響を受ける。目的税はその提携である。消費税は、確かに、ストック部分には影響が及びにくい。しかし、福利政策と組み合わせることで、再分配機能を働かせることも可能である。この様に、いろいろな角度から税制度は設計すべきものなのである。
財政赤字は、深刻な問題である。しかし、財政赤字は、貨幣的な現象であることも忘れてはならない。例えば、教育である。たとえ、財政が赤字で、立派な校舎が建てられなかったり、先生を雇う金がなくなったならば、自分達で校舎を補修し、子供を教育すればいいのである。問題は、金の問題ではなく。国民が教育を必要としているか、否かの問題なのである。
会計にせよ、税制度にせよ、思想なのである。発生主義、実現主義、現金主義、取得原価主義、時価主義、確定決算主義、判例主義といわれるように思想なのである。真理や摂理のような絶対的な原理ではない。思想なのである。
日本の税制は、同族会社や非公開会社は、悪だという前提に立って作られているように思われる。それは、同族会社の内部留保課税や相続税に顕著に現れている。また、税政や商法の根底に流れている。交際費や引当金に対する処理の方法は思想である。そこには、是非善悪の基準が示されているのである。だから思想なのである。婚姻に基づく控除項目は、家族制度に対する思想の現れである。資本や純資産に対する扱い方は、資本主義に対する思想に基づく。同族会社や相続に対する取り決めは、思想なのである。
その行政の在り方が、日本の中小企業の過小資本構造や低利益率構造の原因となっているのである。(「日本の中小企業」鹿野嘉昭著 東洋経済新報社)
この様な同族会社への圧力や相続の否定がバブルの原因ともなったのである。バブルの背景には、事業継承や相続税の負担から回避しようとした行為が、隠されているのは、衆知の事実である。しかし、それを大っぴらにできない風潮がある。だから、抜本的な対策がいまだに立てられないでいるのである。そうこうしているうちに、多くの中小企業が淘汰されるに至った。
また、税の運用にあたっては、通達が威力を発揮する。この様な通達は、立法行為に等しい。
問題なのは、行政が無自覚であることである。無自覚に実体的な思想を押し付けている。強制していることなのである。行政が経済の流れを作っていながら、その事実に対し無自覚であり、無責任であるという事である。典型的なのは、年金行政であり、教育である。
日本の行政当局は、同族会社や個人事業、相続、世襲を罪悪のように捉えている節がある。しかし、これは思想である。しかも、国民の合意に基づく思想でなければならない。官僚には、それを独断する権限はない。あるとしたら、国民の選挙によって選ばれ、権限を付託された政治家である。
民主主義は、制度的、手続的思想である。つまり、制度や手続によって表現される思想なのである。だからこそ、国家の目的、即ち、根本にある思想を確認しなければならない。それが日本で話されていないから理にかなった行動ができないでいるのである。
戦後の日本の政策を鑑みると、第一に、大企業優遇政策であり。その結果、大企業と中小企業に二分化してしまっている。更に今日では、大企業の多国籍化、無国籍化、コングロマリット化が進んでいる。また、金融資本の寡占化も進んでいる。
ただ大企業優遇と言っても財閥や同族会社、世襲的企業、家族主義には否定的である。民主主義とは、相反するという思想である。これは思想である。自然の真理ではない。
また、競争は善で、話し合いは悪だと言う事である。話し合いに基づく協定やカルテルは否定されなければならない。しかし、これも思想である。アメリカで、カルテルや独占が禁じられたのは、その弊害が明らかになったからである。しかし、それにしても民主的な手続を経ている。日本は、ただ法令だけを輸入したに過ぎない。それも観念的、倫理的な意味ででしかない。独占やカルテルにはどの様な働きがあり、そのどこが悪いのかを明確にしたわけではない。だから、談合のようなことが根絶できないのである。
労働政策で言えば、オールサラリーマン化と無力化である。労働政策によって国民各層を分断化し、勤労意欲を低下させることは、意図的に国力を削ぐことである。つまり、国際的競争力を失わせることである。さらに、必需品目の自給率を意図的に引き下げることは、国家の独立を阻害することであり、間接的な植民地主義である。
労働者の給与所得者化がさらに進み、経営の合理化、効率化と結びつくと、人件費の流動化に行き着く。人件費の流動化によって、労働者の差別化にまで発展していく。その根底は、者化の機能化、唯物主義化であり、無機質化であり、共同体の否定である。それは行き着くところ家族や地域コミュニティの崩壊をもたらす。
それが日本の国民とって幸せなことならば問題ない。また、国民的合意に基づくものであるならばである。そうでなく。一部の特権的階級、階層の人間の独断に基づくものであるならばそれは、国民を欺くことであり、重大な背信行為である。
この様な思想の背後には、戦前の財閥にたいする占領国の、懲罰的占領政策を引きずっているといえる。戦後の財閥解体とそれに伴う持株会社の扱いを見て取ればわかる。
また、多分に資本家階級と労働者階級、また、使用者と使用人と言った構図が見え隠れする。
同族会社が成立する背景がある。同族会社の成立には、創業の問題がある。つまり、事業は、必ずしも成功を約束されているものではないと言う事である。そうした、事業に取り組ませるための、動機付け、インセンティブの問題がある。それは、労働と報酬、労働と評価を洞結び付けるかの思想の問題でもあるのである。
企業は、公器である。故に、私物化することは許されない。しかし、企業のような組織体は、同時に、共同体、即ち、人間集団であることを忘れてはならない。人間の持つ感情的側面を無視しては成り立たない。更にこの問題の根底にあるのは、私的所有権の問題である。ただ、経営者や商人は、悪だという偏見・先入観だけで済ませるべきべき問題ではない。
そして、この様な思想に基づく施策が、大企業ではなく。専ら中小企業、弱い者イジメになっているという点である。
思想ならば、国民国家においては、民主的な手続に則り、国民的合意の下に行われるべきなのである。それが暗黙の了解事項のようにして処理されることが問題なのである。それこそ、陰謀と言えば言われて仕方がない事柄である。
戦国時代の楽市楽座の例を見ても解るように、税の在り方、一国の栄枯盛衰を左右するほどの大事である。疎かにしてはならない。
税は、国家建設のための資金ともなれば、国民生活の破綻、財政の破綻、内乱や、革命の原因、ひいては、国家の滅亡を招く元ともなるのである。アメリカ独立戦争や英国のマグナカルタ、フランス革命の例を見ても明らかなように、多くの国が税の在り方を巡って滅亡していったのである。
国民国家においては、その根本にある国民の意志が、税本来の目的なのである。
資料
表 D−4−1
平成18年度分の法人2,586,368社から、連結子法人(5,456社)を除いた2,586,368社の状況は、利益計上法人が867,347社、欠損法人が1,719,012社で、欠損法人の割合は、66.5%となっており、前年より0.6ポイント減少した。
このうち、連結法人(540社)は、利益計上法人が234社、欠損法人が306社で、欠損法人の割合は、56.7%となっていおり、前年より6.3ポイント減少した。
| 利益計上法人数・欠損法人数の推移 |
| 区分 |
法人数 |
欠損法人
割合
(A)/(B) |
| 利益計上法人 |
欠損法人
(A) |
合 計
(B) |
| 平成8年分 |
社 |
社 |
社 |
% |
| 859,639.0 |
1,576.110.0 |
2,435,749.0 |
64.7 |
| 平成9年分 |
867,184.0 |
1,598,163.0 |
2,465,347.0 |
64.8 |
| 平成10年分 |
820,302.0 |
1,688,550.0 |
2,508,852.0 |
67.3 |
| 平成11年分 |
760,1,87.0 |
1,757,037.0 |
2,527,224.0 |
69.9 |
| 平成12年分 |
802,4,34.0 |
1,734,444.0 |
2,536,878.0 |
68.4 |
| 平成13年分 |
806,867.0 |
1,742,136.0 |
2,549,003.0 |
68.3 |
| 平成14年分 |
792,626.0 |
1,757,461.0 |
2,550,087.0 |
68.9 |
平成15年分
内 連結法人 |
813,184.0 |
1,737,382.0 |
2,550,566.0 |
68.1 |
| 38.0 |
168.0 |
206.0 |
81.6 |
16
内 連結法人 |
846,630.0 |
1,722,023.0 |
2,568,653.0 |
67.0 |
| 75.0 |
219.0 |
294.0 |
74.5 |
17
内 連結法人 |
849,530.0 |
1,730,981.0 |
2,580,511.0 |
67.1 |
| 156.0 |
266.0 |
422.0 |
63.0 |
18
(構成比)
内 連結法人
(構成比) |
867,347.0 |
1,719,021.0 |
2,586,368.0 |
66.5 |
| (33.5) |
(66.5) |
(100.0) |
| 234.0 |
306.0 |
540.0 |
56.7 |
| (43.3) |
(56.7) |
(100.0) |
(国税庁 会社標本調査結果 表六)